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懇話こんわかい

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懇話こんわかい(こんわかい、きゅう字体じたい懇話こんわかい)とは、大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽうしたにおける貴族きぞくいんにおける院内いんない会派かいは名称めいしょう通称つうしょう勤倹きんけん尚武しょうぶれん(きんけんしょうぶれん、きゅう字体じたいつとむ󠄁儉尙武連むれ󠄀)。のちかのえかい(こうしかい、明治めいじ33ねん1900ねん3月3にち -)と改称かいしょうしながら、明治めいじ34ねん1901ねん12月7にちまでつづいた。

歴史れきし

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前史ぜんし

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明確めいかく時期じき不明ふめいだが、帝国ていこく議会ぎかい設置せっちされた明治めいじ23ねん1890ねん)11月からほどなくたに干城かんじょう曾我そがゆうじゅん鳥尾とりお小弥太こやた山川やまかわひろし島津しまつただしずみらによって結成けっせいされたとされ、50にんゆうして研究けんきゅうかいさん曜会とともに初期しょき議会ぎかい代表だいひょうする会派かいはとなった。よく24ねん1891ねん3月18にち近衛このえ篤麿あつまろ二条にじょう基弘もとひろらが財政ざいせい問題もんだい調査ちょうさ目的もくてきとした月曜げつようかい設立せつりつすると、たに懇話こんわ会員かいいん貴族きぞくいん議員ぎいんとも参加さんかしたが、やがて懇話こんわかい研究けんきゅうかいさん曜会が活動かつどう開始かいしすると月曜げつようかい会合かいごうひらかれなくなり、明治めいじ25ねん1892ねん)3がつ以後いご事実じじつじょう解散かいさんとなった[1]

明治めいじ24ねん12月14にちたにだい1松方まつかた内閣ないかく提出ていしゅつしたせい節減せつげん同様どうよう主張しゅちょうかかげたみんとうちがい、節減せつげん捻出ひねりだした財源ざいげん地租ちそ軽減けいげんではなく国防こくぼう充実じゅうじつけることを主張しゅちょうしていた)・政府せいふへの批判ひはんめた「勤倹きんけん尚武しょうぶ建議けんぎあん」にちなみかれふくむグループは勤倹きんけん尚武しょうぶれんばれた(建議けんぎあんおや政府せいふだった研究けんきゅうかい抵抗ていこう否決ひけつ)。懇話こんわかい正式せいしき発足ほっそくした時期じきあきらかでないが、おそくとも明治めいじ25ねん6がつごろ推定すいていされている。ただし、『華族かぞく会館かいかん』によると同年どうねん1がつからすで懇話こんわかい名称めいしょうていること、建議けんぎあん提出ていしゅつ直後ちょくごたに島津しまづ懇話こんわかい中心ちゅうしん人物じんぶつ議員ぎいん30にん協議きょうぎした記録きろくのこされていることから、発足ほっそく明治めいじ24ねん12がつごろとする見方みかたもある[2][3]

この会派かいは陸軍りくぐん右派うはとして排除はいじょされた「よん将軍しょうぐん」のうちたに曾我そが鳥尾とりおそろった(のこりの三浦みうら梧楼ごろうさん曜会にぞくした)こと代表だいひょうされるように国粋こくすい主義しゅぎいろつよ右派うはおおく、藩閥はんばつ政府せいふ――とく伊藤いとう博文ひろぶみたいしては国家こっか混乱こんらんまねいた人物じんぶつとして敵対てきたい意識いしきつよく、山縣やまがた有朋ありともけい会派かいは移行いこうした研究けんきゅうかい方針ほうしん不満ふまんいて懇話こんわかい結成けっせい参加さんかしたものもおり、この両者りょうしゃたいする反発はんぱつ根強ねづよかった。その一方いっぽうで、超然ちょうぜん主義しゅぎ支持しじする会派かいはとはちがい、自由じゆう民権みんけん運動うんどうけい政党せいとうへの敵意てきいよわく、大隈おおくま重信しげのぶ板垣いたがき退助たいすけ進歩しんぽとう自由党じゆうとう合流ごうりゅうした憲政けんせいとう樹立じゅりつしただい1大隈おおくま内閣ないかくたいしては好意こういてき中立ちゅうりつ維持いじした。たに中心ちゅうしんとした懇話こんわかい政治せいじ主義しゅぎ明治天皇めいじてんのうへの忠誠ちゅうせい衆議院しゅうぎいん政党せいとう)と内閣ないかく藩閥はんばつ)からの独立どくりつかん中立ちゅうりつ政策せいさく吟味ぎんみ重視じゅうしする是々非々ぜぜひひ主義しゅぎっており、さん曜会を組織そしきした近衛このえ篤麿あつまろらと主張しゅちょうおなじなため、彼等かれらんだ強硬きょうこう姿勢しせい藩閥はんばつ障害しょうがいとしてちはだかった[2][4]

だが、懇話こんわかいには弱点じゃくてんがあった。それは少数しょうすう精鋭せいえいであるてんであり、たにらの経歴けいれき貴族きぞくいんでもぐんいていたが、賛成さんせい反対はんたい関係かんけいなく意見いけん表明ひょうめいすることを目的もくてきとしていた。メンバーがそれぞれの自己じこ主張しゅちょうとお態度たいどわざわいし、個人こじんあいだ連携れんけいれていなかった。こうした特徴とくちょうから、懇話こんわかいえば一騎当千いっきとうせん大物おおものそろっていたが、わるえばまとまりがよわく、やがて多数たすうかずちから団結だんけつ重視じゅうしする研究けんきゅうかい圧倒あっとうされていった[5]

貴族きぞくいん有力ゆうりょく会派かいは

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明治めいじ25ねん5がつたにだい1松方まつかた内閣ないかく選挙せんきょ干渉かんしょうへの抗議こうぎいた建議けんぎあん提出ていしゅつ貴族きぞくいん可決かけつおなじく干渉かんしょう非難ひなんした衆議院しゅうぎいん問責もんせき決議けつぎあん可決かけつあいまって内閣ないかくだい打撃だげきあたえた。民法みんぽう商法しょうほう施行しこう延期えんき実現じつげんさせ、政府せいふ衆議院しゅうぎいん対等たいとう地位ちいった。懇話こんわかいつづだい2伊藤いとう内閣ないかくとは外交がいこう問題もんだい対立たいりつ対外たいがいかたとな大隈おおくま重信しげのぶひきいる立憲りっけんあらためしんとう賛成さんせい以後いご大隈おおくま政党せいとう立憲りっけんあらためしんとう進歩しんぽとう憲政けんせいとう憲政けんせいほんとう)に好意こういてき反面はんめん伊藤いとうとの対立たいりつ姿勢しせい継続けいぞくにちしん戦争せんそう戦後せんご財政ざいせい軍拡ぐんかく反対はんたい立場たちばからさん曜会ととも反対はんたいした。明治めいじ29ねん1896ねん)にだい2伊藤いとう内閣ないかくそう辞職じしょく成立せいりつした大隈おおくま松方まつかた正義まさよし連立れんりつ政権せいけんだい2松方まつかた内閣ないかく)は支持しじまわり、たに貴族きぞくいん予算よさん委員いいんくわわり貴族きぞくいん議長ぎちょう就任しゅうにんした近衛このえなら政権せいけんささえ、軍拡ぐんかく志向しこうする政府せいふ予算よさん対立たいりつはあったが新聞紙しんぶんし条例じょうれい緩和かんわ尽力じんりょく懇話こんわかいさん曜会ととも貴族きぞくいん有力ゆうりょく会派かいはとなった。このときが、懇話こんわかい最盛さいせいだった[2][6]

ところが、このころから懇話こんわかい衰退すいたいはじまる。当初とうしょ弱小じゃくしょう会派かいはだった研究けんきゅうかいおおくの議員ぎいんれる工作こうさく展開てんかい明治めいじ25ねん発足ほっそくした選挙せんきょ団体だんたいなおともかい拠点きょてん選挙せんきょ組織そしきひょうあつめ、会員かいいん統制とうせいつうじて組織そしき体制たいせいかため、積極せっきょくてき会員かいいん勧誘かんゆうきゅう成長せいちょうしていったのである。明治めいじ30ねん1897ねん)に貴族きぞくいんゆう互選ごせん議員ぎいんそう改選かいせんおこなわれると、懇話こんわかいさん曜会わせても18にんしか当選とうせん出来できず、反対はんたい研究けんきゅうかいは46にん当選とうせんさせ、懇話こんわかいさん曜会が研究けんきゅうかい惨敗ざんぱいする結果けっかとなっただけでなく、ゆう議員ぎいんをほとんどなおともかいられそこからのきが出来できなくなったこともあきらかになり、りょう会派かいは一転いってんしてのこりを模索もさくする立場たちばいやられてしまった[7]

衰退すいたいしん会派かいは結成けっせい

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明治めいじ32ねん1899ねん)には最大さいだい68にんゆうしたが、山縣やまがた側近そっきん平田東ひらたひがしすけしん政府せいふ茶話ちゃばなしかい活動かつどうしつつ無所属むしょぞくだんだいいち無所属むしょぞく)の結成けっせい無所属むしょぞくだん茶話ちゃばなしかい大半たいはんれたこう倶楽部くらぶ(70にん)の誕生たんじょうによる政府せいふ与党よとう結成けっせい尽力じんりょくした結果けっか貴族きぞくいん研究けんきゅうかいこう倶楽部くらぶ勢力せいりょく拡大かくだい平田ひらたおなじく山縣やまがた側近そっきん清浦きようら奎吾研究けんきゅうかいひきいてこう倶楽部くらぶ提携ていけい政府せいふ与党よとう貴族きぞくいん大半たいはんめた。のみならず、山縣やまがた部下ぶかかつら太郎たろう首相しゅしょうだった時期じきみことのりせん議員ぎいん続々ぞくぞく無所属むしょぞくだん茶話ちゃばなしかい入会にゅうかいさせた。こうなると、懇話こんわかいさん曜会はみことのりせん議員ぎいんからのきも出来できなくなり、ますます衰退すいたい加速かそくする事態じたいおちいった[2][8][9]

よく33ねん(1900ねん)には内紛ないふんから離脱りだつしゃ相次あいつぎ、たに主流しゅりゅう40めいは「かのえかい」と名乗なのる。だが、研究けんきゅうかい台頭たいとうたいして衰退すいたいつづけたために、同年どうねん発足ほっそくしただい4伊藤いとう内閣ないかく予算よさんあん反対はんたいしたさいたに研究けんきゅうかい協力きょうりょくいて感謝かんしゃしたことがつたえられるなど(山口やまぐちひろしたち子爵ししゃく証言しょうげん)、もはやかのえかい貴族きぞくいん主流しゅりゅうからはずれ、存続そんぞくあやぶまれていった。予算よさん問題もんだい伊藤いとう工作こうさくによる天皇てんのう詔書しょうしょ貴族きぞくいんくだされるとかのえかいふく貴族きぞくいん政府せいふとの妥協だきょう余儀よぎなくされ、以後いご貴族きぞくいん目立めだったうごきをひかえた。そして、かのえかい明治めいじ34ねん(1901ねん)にさん曜会の後継こうけい会派かいはである朝日あさひ倶楽部くらぶ合併がっぺいしてしん会派かいは土曜会どようかい結成けっせいした[2][8][10]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 佐々木ささき、P37 - P38、山本やまもと、P55 - P57。
  2. ^ a b c d e 国史こくしだい辞典じてん、P113。
  3. ^ 佐々木ささき、P38 - P39、内藤ないとう、P58 - P62、小林こばやし、P163 - P164。
  4. ^ 内藤ないとう、P32 - P37、小林こばやし、P157 - P158。
  5. ^ 内藤ないとう、P62。
  6. ^ 酒田さかた、P170 - P174、内藤ないとう、P63 - P69、小林こばやし、P168 - P169、P175 - P183、P195 - P200。
  7. ^ 酒田さかた、P175、内藤ないとう、P70 - P73。
  8. ^ a b 酒田さかた、P176。
  9. ^ 内藤ないとう、P80 - P89。
  10. ^ 内藤ないとう、P89 - P98。

参考さんこう文献ぶんけん

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