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伊地知いじち正治しょうじ

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伊地知いじち 正治しょうじ
伊地知いじち正治しょうじ
時代じだい 江戸えど時代じだい末期まっき幕末ばくまつ) - 明治めいじ時代じだい中期ちゅうき
生誕せいたん 文政ぶんせい11ねん6月27にち1828ねん8がつ7にち[1]
死没しぼつ 明治めいじ19ねん1886ねん5月23にち
改名かいめい 幼名ようみょう:りゅうこまいみな:やすし
別名べつめい 通称つうしょう:りゅうみぎ衛門えもん正治しょうじごう:一柳いちりゅう
墓所はかしょ 青山あおやま霊園れいえん
幕府ばくふ 江戸えど幕府ばくふ
はん 薩摩さつまはん
氏族しぞく 伊地知いじち庶流伊地知いじち
父母ちちはは ちち伊地知いじちひらたはは黒田くろだ
つま 舍利しゃり秩父ちちぶみぎすすむ長女ちょうじょ
正一郎しょういちろうせい
テンプレートを表示ひょうじ

伊地知いじち 正治しょうじ(いじち まさはる / しょうじ)は、日本にっぽん武士ぶし薩摩さつま藩士はんし)、官僚かんりょう政治せいじ華族かぞくいみなやすし通称つうしょうりゅうみぎ衛門えもんのち正治しょうじせいさん勲一等くんいっとう伯爵はくしゃく家紋かもんたからむすび。

戊辰戦争ぼしんせんそう白河しらかわこうたたかでは、わずか700のへいで、4ばいじゃくにあたる2500めい幕府ばくふぐん撃破げきはしたことなどにより、「るいいまれな軍略ぐんりゃく」などという異名いみょうがある。[2]また、かたかたあし不自由ふじゆうがなのにもかかわらずしん政府せいふぐん参謀さんぼうとして活躍かつやくしたことにより、「薩摩さつま山本やまもと勘助かんすけ 」などという異名いみょうもある。[3]

生涯しょうがい

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薩摩さつま藩士はんし伊地知いじちひらた次男じなんとして鹿児島かごしまじょうしたせんせき馬場うまばまちまれる[4]幼名ようみょうりゅうこま。3さいとき文字もじんで「千石せんごく神童しんどう」とばれるが、おさなころ大病たいびょうわずらったために片目かため片足かたあし不自由ふじゆうとなる。

剣術けんじゅつ薬丸やくまるあらわりゅう薬丸やくまる兼義かねよしに、ごうでんりゅう兵学へいがくはじ伊敷いしきむら石沢いしざわ六郎ろくろうのち荒田あらだむらほう亢宇左衛門さえもんまなんで奥義おうぎきわめた。ごうでんりゅう弟子でし西郷さいごう従道つぐみち高崎たかさきろくふちぐんたいら三島みしま通庸みちつねがいる。池上いけがみ四郎しろう有馬ありま藤太とうた薫陶くんとうけている。のち藩校はんこうみやつこかん教授きょうじゅとなる。

安政あんせい6ねん1859ねん)にはせいちゅうぐみ参加さんか文久ぶんきゅう2ねん1862ねん)、島津しまつ久光ひさみつ上洛じょうらくしたがって京都きょうとのぼった功績こうせきによりぐん奉行ぶぎょうとなる。 文久ぶんきゅう3ねん(1863ねん)の薩英戦争せんそうでは大砲たいほうかたちょうとして参加さんかしたが、窮地きゅうちおちいったさい大砲たいほううえ直立ちょくりつして戦略せんりゃくてるという無鉄砲むてっぽう行動こうどうたため、てき味方みかたからあきれられたとのはなしのこ[5]

伊地知いじちるいまれ軍略ぐんりゃくであり、禁門きんもんへん戊辰戦争ぼしんせんそうおおきな功績こうせきげた。白河しらかわこうたたかではわずか700のへい白河しらかわじょうきゅう幕府ばくふぐん2,500に圧勝あっしょうし、また土佐とさはん板垣いたがき退助たいすけとも母成峠ぼなりとうげたたかきゅう幕府ばくふぐん大破たいはして会津若松あいづわかまつじょう開城かいじょうおおきく貢献こうけんした。伊地知いじち兵法ひょうほう特徴とくちょうは、徹底てっていした少数しょうすう精鋭せいえい主義しゅぎ薩摩さつまはんへいでは城下じょうか部隊ぶたい長州ちょうしゅうはんへいでは兵隊へいたいけい部隊ぶたい選抜せんばつしてひきいた)、ごうでんりゅう伝統でんとうである火力かりょく絶対ぜったい主義しゅぎ、そしてとき拙速せっそくともいえるそくせん主義しゅぎにあった。

維新いしん

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戦後せんご薩摩さつまはん藩政はんせい改革かいかくのぞんだが、中央ちゅうおう太政官だじょうかん政府せいふ海軍かいぐん予算よさん拠出きょしゅつめぐって対立たいりつ勝手かって帰郷ききょうするなど騒動そうどうこしてもいる。廃藩置県はいはんちけんこうは薩閥の有力ゆうりょくしゃとして太政官だじょうかん政府せいふはいった。

せいかんろんそうではせいかんがわにつく。板垣いたがきとともに派兵はへい計画けいかくてるが、明治めいじろくねん政変せいへんでは下野げやしなかった。対立たいりつしていたひだりいん議長ぎちょう後藤ごとう象二しょうじろう下野げやしたことで、どうふく議長ぎちょう伊地知いじちわって議長ぎちょう就任しゅうにんしたためである。のちに参議さんぎ兼任けんにんし、修史しゅうしかん総裁そうさい一等いっとう侍講じこう宮中きゅうちゅう顧問こもんかんなどを歴任れきにん西南せいなん戦争せんそうでは早々そうそうに薩軍の敗北はいぼく予見よけんしたが、戦後せんご帰郷ききょうして郷里きょうり復興ふっこう尽力じんりょく1884ねん明治めいじ17ねん)7がつ17にち伯爵はくしゃく叙爵じょしゃく明治めいじ19ねん(1886ねん)に59さい死去しきょ激烈げきれつ性格せいかく頭脳ずのうすぐれていたというが奇人きじんとしての逸話いつわおおい。

評価ひょうか

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  • かつ海舟かいしゅう伊地知いじちは、西郷さいごうについて、参謀さんぼうのようなことをしていた。おそろしい智者ちしゃであったが、また気違きちがいのようなおとこであった」[6]
  • 大隈おおくま重信しげのぶ
    • 「なかなかの学者がくしゃだった。しかし容貌ようぼう如何いかにもみにく陋、大体だいたい不具ふぐえるほど小男こおとこで、よくるもどくようがするひとであったが、これでも維新いしんになるとソロソロ派手はでになってた。みょうなものだて」[7]
    • 「したたかもので、さすがのだい西郷さいごうかれには一目いちもくいたくらいさ。我輩わがはいいち同僚どうりょうだったが、弁論べんろんもやる、すこぶるかぬおとこだった敗軍はいぐんになって味方みかたげるというときにも、天幕てんまくなかたかいびきをしてねむっている。鉄砲てっぽうのたたまがヒューヒューる。あわててこすと『ああ左様さようか』って調子ちょうし悠然ゆうぜんがって、ノッシノッシと出掛でかける。小男こおとこながら満身まんしんみなきもであった。それで荒武者あらむしゃどもせいたので。ひだりくて腕力わんりょくなどとなったら、子供こどもにもわけくねじせられたろうよ。がその胆力たんりょくさかんなことといったら、獅子ししいちほえして百獣ひゃくじゅう降服こうふくする。そんなようわけで、豪傑ごうけつれんがみなかれ畏敬いけいしてった」[8]
  • 西郷さいごう従道つぐみち先生せんせい少壮しょうそう尊王そんのう憂國ゆうこくこころざしなついてうえこくで、つちのえたつ王師おうしおこるや、帷幄いあく枢機すうき参加さんかしまた戦線せんせんおさむ城野じょうのじょうこう鮮少せんしょうならずであつた、その用兵ようへいじゅついては天才てんさいてき将軍しょうぐんはくしたひとである。またあまりらざるところなるが開拓かいたく興産こうさんみちくわしく、経国けいこくずみみんこころざしあつかったことは、驚嘆きょうたんあたいすべきである」[3]
  • 大山おおやまかしわ作戦さくせんじょうしめされた手腕しゅわんいたっては、そのおおくを羅列られつするよりも、白河しらかわ殲滅せんめつせんげれば、りてあまりがある。勿論もちろんひとたる以上いじょうぬかりも失策しっさくぞんずるけれども、一度いちど維新いしん戦史せんし大局たいきょくじょうからて、東山ひがしやま白河しらかわこう方面ほうめん作戦さくせんが、最初さいしょよりその兵力へいりょくにおいてすくないにもかかわらず、もっと順調じゅんちょう有効ゆうこうに、かつ迅速じんそく果敢かかん指導しどうせられ、つねぜん戦局せんきょく発展はってん枢軸すうじくをなし、ぜん作戦さくせんをリードしたてんは、ぼっからざる功績こうせきである。越後えちごこう方面ほうめんごときは、まんあまり大兵だいひょううごかし、悪戦苦闘あくせんくとうかさね、てはだい総督そうとく参謀さんぼう大西おおにしさとみずか直接ちょくせつどう方面ほうめん作戦さくせん指導しどうして、ようやく成果せいかおさめたのと対比たいひしてたなら、一目瞭然いちもくりょうぜんたるものがある」[3]
  • 大久おおひさ保利ほりたけし先生せんせいようにして學問がくもんこのはく和漢わかんしょみまた時務じむにもとお當時とうじ兵學へいがく大家たいかまなべひその奥義おうぎせいちゅうあいだには兵學へいがくしゃとし戦術せんじゅつだい一人ひとりしゃたりしはのうひとるところ藩政はんせい時代じだいより重要じゅうようなる問題もんだいにはかならまいり畵しつちのえたつやくける作戦さくせんけい畵は殆んど先生せんせい方寸ほうすんより戦術せんじゅつすべ先生せんせい赫々かくかくたる軍功ぐんこうてたるなり。山本やまもとはくかいかたりつていわつちのえたつやく先生せんせいえらいものであつた」[9]
  • 岡本おかもと柳之やなぎのすけこわろしくくちびるきつったおとこで、みなりなどあたまからかまわぬ。なにしろ薩摩さつま伊地知いじちといえば、とう時人じじん学者がくしゃたたかえ上手じょうず名士めいしであった。舌端ぜったんほとばし胸中きょうちゅうがくりょうには、すくなからず敬服けいふくした。伊地知いじちさんは薩摩さつまっての豪物えらぶつであった。薩摩さつま軍制ぐんせい改革かいかくしゃ胸底きょうてい縦横じゅうおう軍略ぐんりゃくのあるひとであった。当時とうじ伊地知いじちさんぐらい本当ほんとう戦争せんそう出来できひとはすくなかったのは武人ぶじん仲間なかま定評ていひょうである」[10]
  • 本多ほんだ辰次郎たつじろうしょうちょう將官しょうかんとう顯官けんかん就任しゅうにんせられなかつたのもまたもっ先生せんせいざい文武ぶんぶせいけんきょうで、社會しゃかい表面ひょうめんつをこのまれなかつたことるにたるのである。くのごと先生せんせい資性しせいけんきょうであつても、膽略たんりゃく機智きちんで、大事だいじ果斷かだんなるはとりせんとうつて、みなみしゅうおきなにんびながら、もっぱしょはん戰隊せんたい動靜どうせい巡視じゅんしするにりきめ、「薩軍の進退しんたい伊地知いじちるから大丈夫だいじょうぶである。」と一任いちにんして危惧きぐするところかつたといふにしるして、おう宏量こうりょう先生せんせいざいみきとを想望そうぼうすることが出来できる」[9]

栄典えいてん

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親族しんぞく

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  • 長男ちょうなん伊地知いじち正一郎しょういちろう - 伯爵はくしゃく
  • 次男じなん伊地知いじちただし輔 - 伯爵はくしゃく

系譜けいふ

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伊地知いじちは、桓武かんむ天皇てんのう7だい子孫しそんである秩父ちちぶ秩父ちちぶしょうつねたいらすすむつね)で、越前えちぜんこくげん福井ふくいけん勝山かちやま)をりょうしたことから伊地知いじちしょうした。はたつねより13だい子孫しそん伊地知いじちずい島津しまつ5だい貞久さだひさ同番どうばん足利尊氏あしかがたかうじうちしんであったが、たかしによって罪人ざいにんとされたのを貞久さだひさしによりゆるされ、その貞久さだひさゆるしを薩摩さつまこく下向げこうすると、その臣下しんかとなってとも下向げこう、そのさい下大しもおおすみ拝領はいりょうしたのが大隅おおすみこく土着どちゃくするはじめとなった[12][13]

1伊地知いじちひらたつつみ維長
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
2伊地知いじちはり3伊地知いじち正治しょうじつつみあきらちょう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
4伊地知いじち正一郎しょういちろう5伊地知いじちただし亀井かめい茲明
 
 
 
 
 
 
6伊地知いじちただしきょう亀井かめい茲常
 
 
 
 
 
 
操子みさこ
 
 
 
7伊地知いじち正勝まさかつ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
8伊地知いじち恭正やすまさ伊地知いじちあきらただし
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
9伊地知いじちひろしただし伊地知いじちつよしただし

関連かんれん作品さくひん

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伊地知いじち正治しょうじ登場とうじょうする作品さくひん

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 伊地知いじち正治しょうじ小伝しょうでん』(鹿児島かごしまけん教育きょういくかい、1936ねん)1ぺーじ
  2. ^ 幕末ばくまつガイド”. 2022ねん5がつ24にち閲覧えつらん
  3. ^ a b c 伊地知いじち正治しょうじ小伝しょうでん鹿児島かごしまけん教育きょういくかい 
  4. ^ 上田うえだただしあきらほか監修かんしゅう ちょ三省堂さんせいどう編修へんしゅうしょ へん『コンサイス日本人にっぽんじんめい事典じてん だい5はん三省堂さんせいどう、2009ねん、123ぺーじ 
  5. ^ 千田せんだみのる華族かぞく総覧そうらん講談社こうだんしゃ現代新書げんだいしんしょ、2009ねん7がつ、582ぺーじISBN 978-4-06-288001-5 
  6. ^ 海舟かいしゅう座談ざだん』p203
  7. ^ 早稲田わせだきよしばなし』P286
  8. ^ 早稲田わせだきよしばなし』P288
  9. ^ a b 伊地知いじち正治しょうじ小伝しょうでん鹿児島かごしまけん教育きょういくかい 
  10. ^ 風雲ふううん回想かいそうろく』p85
  11. ^ 官報かんぽうだい316ごう叙任じょにん及辞れい」1884ねん7がつ18にち
  12. ^ ほんはん人物じんぶつ鹿児島かごしまけん史料しりょうしゅう(13)(鹿児島かごしまけん史料しりょう刊行かんこう委員いいんかい
  13. ^ 『「さつま」歴史れきし人名じんめいしゅう稲葉いなば行雄ゆきおちょ高城たかぎ書房しょぼう出版しゅっぱんISBN 4-924752-28-2

関連かんれん項目こうもく

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公職こうしょく
先代せんだい
新設しんせつ
日本の旗 修史しゅうしかん総裁そうさい
1877ねん - 1879ねん
次代じだい
欠員けついん→)三条さんじょう実美みみ
先代せんだい
伊丹いたみ重賢しげかた(→欠員けついん
議長ぎちょう代理だいり
日本の旗 ひだりいん議長ぎちょう
1873ねん
次代じだい
廃止はいし
先代せんだい
江藤えとう新平しんぺい
日本の旗 ひだりいんふく議長ぎちょう
1872ねん - 1874ねん
次代じだい
欠員けついん→)佐々木ささき高行たかゆき
日本にっぽん爵位しゃくい
先代せんだい
叙爵じょしゃく
伯爵はくしゃく
伊地知いじち正治しょうじ初代しょだい
1884ねん - 1886ねん
次代じだい
伊地知いじち正一郎しょういちろう