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但木ただき土佐とさ

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但木ただき 土佐とさ
時代じだい 江戸えど時代じだい後期こうき幕末ばくまつ)から明治めいじ時代じだい
生誕せいたん 文化ぶんか14ねん1817ねん
死没しぼつ 明治めいじ2ねん5月19にち1869ねん6月28にち
改名かいめい 成行しげゆき
別名べつめい 通称つうしょう土佐とさ
墓所はかしょ 東京とうきょうしば高輪たかなわ東禅寺とうぜんでら
官位かんい なし
主君しゅくん 伊達だてけいくに
はん 陸奥みちのくこく仙台せんだいはん
氏族しぞく たちばなぞく但木ただき
父母ちちはは ちち但木ただき直行なおゆき
但木ただき左近さこん
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但木ただき 土佐とさ(ただき とさ)は、幕末ばくまつ仙台せんだいはん奉行ぶぎょういみな成行しげゆき(なりゆき)で、土佐とさ通称つうしょう

家系かけい

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但木ただき本姓ほんせいたちばな遠祖えんそ伊賀いが守重もりしげしんはっし、下野げやこく足利あしかがぐん但木ただきに8,000せきりょうきょうめいとした。重信しげのぶ伊達だて初代しょだい伊達だて朝宗ともむねつかえたなど諸説しょせつがあり、いえれききわめてふるい。

せいむね時代じだいはい慶長けいちょうから慶安けいあん年間ねんかんまで58年間ねんかんにわたりしょくほうじた但木ただき重久しげひさ有名ゆうめいであるが、そのおとうと惣右衛門そううえもんひさせい分家ぶんけしたいえ但木ただき土佐とさ家系かけいである。正統せいとうけい重久しげひさからくだりひさへとつづき、召出として繁栄はんえいする。土佐とさけいとなるべつけいひさしきよしとし、しんとなるあたらしいけいで、ひさきよし但木ただき重信しげのぶ元禄げんろく7ねん1694ねん)にわかおい永代ながよ着座ちゃくざれっし、どう8ねん1695ねん)に奉行ぶぎょうしょく栄進えいしんして1,500せきりょうした。

土佐とさ死後しご子孫しそん幕府ばくふからはん鷹狩たかがりじょうとしてあたえられた現在げんざい埼玉さいたまけん久喜くき鷲宮わしみや地区ちくおおくが移住いじゅうし、現在げんざいいたる。そのなかには検事けんじ総長そうちょうつとめた但木ただき敬一けいいちがいる。そのほかにももと日野自動車ひのじどうしゃ取締役とりしまりやくなど埼玉さいたまけん久喜くきの「但木ただきせい土佐とさ末裔まつえいである。おい奥羽おううにちにち新聞しんぶん創立そうりつしゃのひとり但木ただき良次りょうじがいる[1]

経歴けいれき

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幕末ばくまつ危機ききにあたり奉行ぶぎょうげられて藩政はんせい執行しっこうし、軍事ぐんじそうかんした。土佐とさぜん奉行ぶぎょうしばみん放漫ほうまん財政ざいせい後始末あとしまつをするため倹約けんやくれい文久ぶんきゅう2ねん1862ねん)10がつには10まんせき分限ぶげん表高おもてだか62まんせき仙台せんだいはん運営うんえいすることを宣言せんげんし、緊縮きんしゅく財政ざいせい断行だんこう殖産しょくさん興業こうぎょう政策せいさくによりはん財政ざいせいなおしをはかる。

土佐とさは、佐幕さばく開国かいこく保守ほしゅ主義しゅぎ主張しゅちょうし、重臣じゅうしん三好みよしきよしぼう連携れんけいして、尊攘そんじょう重臣じゅうしん遠藤えんどうまことしん対立たいりつした。政争せいそう結果けっか土佐とさ軍配ぐんばいがり、遠藤えんどう閉門へいもん処分しょぶんとなった。その京都きょうと大政奉還たいせいほうかんおこなわれると、三好みよしきよしぼうとも仙台せんだいはん軍勢ぐんぜいひきいて上洛じょうらくし、やまい主君しゅくん伊達だてけいくにわり会議かいぎあずかった。

戊辰戦争ぼしんせんそうはじまると、朝廷ちょうていから仙台せんだいはん会津あいづ討伐とうばついのちくだったため、やむなく会津あいづとのはんさかいまでへいうごかした。しかし、それ以上いじょう行動こうどうらず、会津あいづはん接触せっしょくしてしん政府せいふへの謝罪しゃざい嘆願たんがんおこなうよう説得せっとくした。そして、会津あいづはん全面ぜんめんてき降伏ごうぶくすること同意どういたが、その数日すうじつ会津あいづはん降伏ごうぶく拒否きょひする内容ないよう嘆願たんがんしょ持参じさんしたため土佐とさ説得せっとく失敗しっぱいわった。

仙台せんだい進駐しんちゅうした奥州おうしゅう鎮撫ちんぶ総督そうとく九条くじょうみちこうにも会津あいづ赦免しゃめんもとめたが、降伏ごうぶく姿勢しせいせない会津あいづはん赦免しゃめんするはずもなく、ぎゃくしも参謀さんぼう世良せら修蔵しゅうぞうから不信ふしんかんたれた。その世良せら暗殺あんさつする計画けいかく若手わかて仙台せんだい藩士はんしからがり、土佐とさ世良せら暗殺あんさつ認可にんかもとめられた。世良せら反感はんかんいていた土佐とさめることなく「きょうとうこれけいレ」とめいじ、世良せら暗殺あんさつ許可きょかす。土佐とさ許可きょか仙台せんだい藩士はんしたちは、旅籠はたごにいた世良せらやみちして捕縛ほばく阿武隈川あぶくまがわ河原かわら処刑しょけいした。しん政府せいふしも参謀さんぼうった以上いじょう、もはやしん政府せいふとのたたかいはけられなくなり、九条くじょう総督そうとく醍醐だいご参謀さんぼうらえて仙台せんだいじょうした軟禁なんきんした。

奥羽おううえつ列藩れっぱん同盟どうめい結成けっせいされ、仙台せんだいはんしん政府せいふ交戦こうせんはじまると、主戦しゅせん重鎮じゅうちんとなる。その三好みよしきよしぼうが、抗戦こうせん無謀むぼうとしてしん政府せいふへの帰順きじゅんとなえたため裏切うらぎものとして三好みよし自害じがいさせた。 しかし、白河しらかわこうたたか列藩れっぱん同盟どうめいぐん敗北はいぼくし、要所ようしょである駒ヶ岳こまがだけ陥落かんらくすると、はんないでは降伏ごうぶくろんがるようになる。かつて土佐とさとの政争せいそうやぶれた遠藤えんどうまことしんが、藩主はんしゅなん降伏ごうぶくくなど、仙台せんだいはん統一とういつした意思いしくようになった。家中かちゅうではしばらく抗戦こうせん降伏ごうぶく論争ろんそうつづいていたが、はたまきとうげたたか敗北はいぼく決定けっていとなり、藩主はんしゅけいくに決断けつだんけて仙台せんだいはん降伏ごうぶくした。

降伏ごうぶく遠藤えんどうまことしん仙台せんだいはん家老がろうとなると、土佐とさ叛乱はんらん責任せきにんしゃとしてしん政府せいふわたされ、東京とうきょう拘禁こうきんされる。明治めいじ2ねん(1869ねん)5がつ19にち叛逆はんぎゃく首謀しゅぼうつみで、土佐とささかしゅうとも麻布まふ仙台せんだいはん下屋敷しもやしきげんみなと南麻布みなみあざぶ1丁目ちょうめ)においてけいしょされた。享年きょうねん53。しば高輪たかなわふつにちさん東禅寺とうぜんでらねむ[1]辞世じせいは「雲水うんすい行衛ゆくえ何処どこ武蔵野むさしのただふうにまかせたらなん」[1]

逸話いつわ

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  • 但木ただき土佐とさは、「ひとはなしをよくき、ふところのふかひとだった」といいつたえられている[2]
  • 慶応けいおう4ねん7がつ25にち明治めいじ元年がんねん9がつ17にち吉岡よしおか謹慎きんしんちゅう土佐とさ良次りょうじ(土佐とさおい処刑しょけいった)二人ふたり食事しょくじをしていたとき突然とつぜん良次りょうじすずりかみってい」とめいじて、良次りょうじすずりかみ用意よういしたところ、土佐とさが「わしにもひとえがけないこともないだろう」と「まつ」を一気いっきえがげた[3]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c 仙台せんだいはんつちのえたつ現代げんだいやく菅原すがわら政治郎まさじろう、2019ねん4がつ29にち
  2. ^ ぞくゆきこうくも 仙台せんだいはん宿老しゅくろう但木ただき土佐とさ家臣かしん末裔まつえい』14ぺーじ
  3. ^ ぞくゆきこうくも 仙台せんだいはん宿老しゅくろう但木ただき土佐とさ家臣かしん末裔まつえい』17ぺーじ

出典しゅってん

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  • 千葉ちばしげるぞくゆきこうくも 仙台せんだいはん宿老しゅくろう但木ただき土佐とさ家臣かしん末裔まつえい 金港きんこうどう出版しゅっぱん

関連かんれん項目こうもく

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