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本多ほんだ忠紀ただのり

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本多ほんだ忠紀ただのり
本多ほんだ忠紀ただのり
時代じだい 江戸えど時代じだい後期こうき - 明治めいじ時代じだい
生誕せいたん 文政ぶんせい2ねん11月27にち1820ねん1がつ12にち
死没しぼつ 明治めいじ16ねん1883ねん2がつ16にち
改名かいめい あきら四郎しろう幼名ようみょう)、忠紀ただのり
別名べつめい 静翁せいおう
戒名かいみょう ゆたかとくいん殿どの静翁せいおうらくだい居士こじ
墓所はかしょ 東京とうきょう墨田すみだ向島むこうじまひろぶくてら
官位かんい したがえ能登のとまもる
幕府ばくふ 江戸えど幕府ばくふ寺社じしゃ奉行ぶぎょう奏者そうしゃばん若年寄わかどしより
主君しゅくん 徳川とくがわ家茂いえもち慶喜よしのぶ
はん 陸奥みちのくいずみはんあるじ
氏族しぞく 本多ほんだ平八郎へいはちろう
父母ちちはは ちち本多ほんだただしはは寺沢てらさわむすめ・おてる
養父ようふ本多ほんだ忠徳ただのり
兄弟きょうだい 忠徳ただのり忠紀ただのり佐多さた大久保おおくぼ忠邦ただくに正室せいしつ井上いのうえ正員せいいん正室せいしつ岡田おかだよしたから正室せいしつ仙石せんごくひさ正室せいしつ石川いしかわそうかい正室せいしつ小出こいでえいあきらしつ遠山とおやま景明かげあきしつ
つま 正室せいしつほりただしかくむすめ
継室けいしつ柳沢やなぎさわさとあらわむすめ
養子ようしちゅうしん
テンプレートを表示ひょうじ

本多ほんだ 忠紀ただのり(ほんだ ただとし)は、江戸えど時代じだい後期こうき大名だいみょう陸奥みちのくこくいずみはんだい6だい藩主はんしゅ官位かんいしたがえ能登のとまもるちゅう以系本多ほんだ9だい

経歴けいれき

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文政ぶんせい2ねん1819ねん)11月27にちだい4だいはんおも本多ほんだただしの4おとことして誕生たんじょう万延まんえん元年がんねん1860ねん)8がつ20日はつかあにで5だい藩主はんしゅ忠徳ただのり死去しきょしたさい、その養子ようしとしてかさねふうした。同年どうねん9がつ1にちだい14だい将軍しょうぐん徳川とくがわ家茂いえもち拝謁はいえつする。同年どうねん12がつ16にちしたがえ能登のともり叙任じょにんする。文久ぶんきゅう3ねん1863ねん)10がつ1にち寺社じしゃ奉行ぶぎょうにんじられる。同年どうねん10がつ22にち奏者そうしゃばんさいおけにより同職どうしょくやくされる。元治もとはる元年がんねん1864ねん)7がつ6にち若年寄わかどしより昇進しょうしんしたが、同年どうねん12がつ12にち罷免ひめんされ、みかどかんあいだつめとなった。慶応けいおう2ねん1866ねん)6がつ22にち若年寄わかどしより再任さいにんされるが、よく慶応けいおう3ねん1867ねん)4がつ27にちにはしょくしている。

慶応けいおう4ねん1868ねん)1がつ戊辰戦争ぼしんせんそうはじまると、当初とうしょしん政府せいふぐん恭順きょうじゅんとなえるが、仙台せんだいはん米沢よねざわはん要請ようせいおう奥羽おううえつ列藩れっぱん同盟どうめい加盟かめいする。その結果けっかしん政府せいふぐん攻撃こうげきけて同年どうねん6がつ28にちいずみ陣屋じんや陥落かんらくし、忠紀ただのり仙台せんだいはん避難ひなんした。9月24にち忠紀ただのりしん政府せいふぐんたい降伏ごうぶく謝罪しゃざいもうれ、9月27にちみとめられた。正式せいしき処分しょぶんくだるまでのあいだ謹慎きんしんめいじられた。同年どうねん11がつ5にち官位かんいめられた。忠紀ただのりしん政府せいふ敵対てきたいしたことにより、同年どうねん12がつ7にちに2000せきげんふうじ、および強制きょうせい隠居いんきょめいぜられ、家督かとく養子ようしちゅうしん本多ほんだ忠行ただゆき長男ちょうなん)がいだ。

明治めいじ2ねん1869ねん)10がつ13にちしたがえふくした。明治めいじ16ねん1883ねん)2がつ16にち死去しきょした。享年きょうねん65。

系譜けいふ

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父母ちちはは

正室せいしつ継室けいしつ

養子ようし