宗谷そうやぐん

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北海道ほっかいどう宗谷そうやぐん位置いちみどり猿払さるふつむら 明治めいじ

宗谷そうやぐん(そうやぐん)は、北海道ほっかいどう北見きたみこく宗谷そうや総合そうごう振興しんこうきょくぐん

人口じんこう2,622にん面積めんせき589.99km²、人口じんこう密度みつど4.44にん/km²。(2024ねん3がつ31にち住民じゅうみん基本きほん台帳だいちょう人口じんこう

以下いかの1むらふくむ。

ぐんいき[編集へんしゅう]

1879ねん明治めいじ12ねん)に行政ぎょうせい区画くかくとして発足ほっそくした当時とうじぐんいきは、上記じょうき1むら稚内わっかないてんきょうあけぼののぞく)をくわえた区域くいきにあたる。

歴史れきし[編集へんしゅう]

ぐん発足ほっそくまでの沿革えんかく[編集へんしゅう]

江戸えど時代じだい宗谷そうやぐんいき西にし蝦夷えぞぞくし、慶長けいちょう8ねん松前まさきはんによって宗谷そうや利尻りしり礼文れぶん樺太からふとつかささどる役宅やくたくかれたのち貞享ていきょう2ねん以降いこうソウヤ場所ばしょひらかれていた。交易こうえき拠点きょてんはん出先でさき機関きかんでもある運上うんじょうでは住民じゅうみん撫育ぶいく政策せいさくであるオムシャおこなわれた。漁場ぎょじょう状況じょうきょうについては北海道ほっかいどうにおけるニシンりょう参照さんしょうされたい。天明てんめい2ねんよりもまえ樺太からふとだいはくにも分社ぶんしゃがあった厳島いつくしま神社じんじゃが、天明てんめい5ねんには宗谷そうや大神宮だいじんぐう北門きたもん神社じんじゃ)が創建そうけんされている。

江戸えど時代じだい後期こうきになると、とおる3ねん1803ねん)には間宮まみや林蔵りんぞう西にし蝦夷えぞ測量そくりょうおこなった。間宮まみや文化ぶんか5ねんどう6ねん樺太からふと踏査とうささいにも宗谷そうやおとずれた。また南下なんか政策せいさく強力きょうりょくすすめるロシアの脅威きょういそな文化ぶんか4ねん宗谷そうやぐんいき天領てんりょうとされた。このとき会津あいづはん警固けいごをおこなった。文化ぶんか6ねん以降いこう津軽つがるはんがソウヤに出張しゅっちょう陣屋じんやきず警固けいごたった。文政ぶんせい4ねんには一旦いったん松前まさきはんりょうふくしたものの、安政あんせい2ねんふたた天領てんりょうとなり今度こんど秋田あきたはん出張しゅっちょう陣屋じんやきず警固けいごをおこなった。どう3ねんには、有珠うす善光よしみつてら住職じゅうしょくせいほまれせんかい宗谷そうや場所ばしょ請負人うけおいにん藤野ふじの宗谷そうや支配人しはいにん粂屋八右衛門はちえもんらによってやすし平山ひらやま松寿しょうじゅいん護国寺ごこくじ宗谷そうや護国寺ごこくじ)が開山かいさんされている。どう6ねん以降いこう宗谷岬そうやみさき周辺しゅうへん珊内さんない、サンナイ)がつづはこかん奉行ぶぎょうあずかしょ」(秋田あきたはん警固けいご)、その秋田あきたはんりょう[1]となっていた(6はんぶんりょう)。松浦まつうら武四郎たけしろうひろし3ねんのほか、向山むかいやまはじめ太夫たゆう同行どうこうした安政あんせい3ねんどう5ねんにも宗谷そうやっている。戊辰戦争ぼしんせんそうはこかん戦争せんそう終結しゅうけつ直後ちょくご1869ねん大宝たいほう律令りつりょうくにぐんさとせい踏襲とうしゅうして宗谷そうやぐんかれた。

ぐん発足ほっそく以降いこう沿革えんかく[編集へんしゅう]

北海道ほっかいどういちきゅう町村ちょうそんせい施行しこう宗谷そうやぐん町村ちょうそん(2.稚内わっかないむら 3.そう谷村たにむら むらさき稚内わっかない 水色みずいろ分立ぶんりつして現存げんそんする町村ちょうそん 23.猿払さるふつむら
明治めいじ9ねんだい
  • だい28だい
    • 2しょう

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  1. ^ 平成へいせい18年度ねんど 秋田あきたけん公文書こうぶんしょかん企画きかくてん 秋田あきたはん海防かいぼう警備けいび

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]