(Translated by https://www.hiragana.jp/)
白糠郡 - Wikipedia コンテンツにスキップ

白糠しらぬかぐん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
北海道ほっかいどう白糠しらぬかぐん位置いちみどり白糠しらぬかまち 明治めいじ

白糠しらぬかぐん(しらぬかぐん)は、北海道ほっかいどう釧路くしろこく釧路くしろ総合そうごう振興しんこうきょくぐん人口じんこう7,030にん面積めんせき773.13km²、人口じんこう密度みつど9.09にん/km²。(2024ねん8がつ31にち住民じゅうみん基本きほん台帳だいちょう人口じんこう

ぐんいき

[編集へんしゅう]

以下いかの1まちふくむ。

1879ねん明治めいじ12ねん)に行政ぎょうせい区画くかくとして発足ほっそくした当時とうじぐんいきは、上記じょうき1まち釧路くしろ一部いちぶ音別おんべつまちかくまち大楽毛おたのしけかくまちほしうらかくまち新野しんのかくまちおよび鶴野つるのかくまち音羽おとわ鳥取大通とっとりおおどおり鳥取北とっとりきた一部いちぶ)をくわえた区域くいきにあたる。

歴史れきし

[編集へんしゅう]

ぐん発足ほっそくまでの沿革えんかく

[編集へんしゅう]

江戸えど時代じだい白糠しらぬかぐんいきは、寛永かんえい年間ねんかん以来いらい松前まさきはんによってシラヌカ場所ばしょひらかれていた。江戸えど時代じだい以前いぜんから明治めいじ時代じだい初頭しょとう交通こうつうについて、陸上りくじょう交通こうつうは、沿岸えんがん沿いに渡島ととうこくはこかんからせん島国しまぐに方面ほうめんいたみち途上とじょうとなっており、寛政かんせい11ねんには通行つうこう駅逓えきてい)ができ、文化ぶんか2ねんには十勝とかちこく十勝とかちぐん大津おおつから釧路くしろぐんいたみち国道こくどう38ごう前身ぜんしん)が開削かいさくされている。また、文化ぶんか5ねんから文化ぶんか7ねんにかけて白糠しらぬかぐん庶路しょろから阿寒あかんぐん釧路くしろ北見きたみ国境こっきょうえ、北見きたみこく網走あばしりぐん方面ほうめんへの網走あばしりえつ国道こくどう240ごう前身ぜんしんなど)も白糠しらぬか在勤ざいきん幕吏ばくり大塚おおつかゆるがせ太郎たろうによって開削かいさくされた。

江戸えど時代じだい後期こうき白糠しらぬかぐんいきひがし蝦夷えぞぞくしていた。国防こくぼうのため寛政かんせい11ねん白糠しらぬかぐんいき天領てんりょうとされ、よく12ねんには八王子はちおうじせんにん同心どうしんはらはんひだり衝門以下いか50にん入地いりじとおる2ねんシラヌカ場所ばしょひがしとなりクスリ場所ばしょ吸収きゅうしゅうされた。また文化ぶんか年間ねんかんになると厳島いつくしま神社じんじゃ創建そうけんされている。文政ぶんせい4ねん白糠しらぬかぐんいき一旦いったん松前まさきはんりょうふくしたものの、安政あんせい2ねんふたた天領てんりょうとなり仙台せんだいはん警固けいごをおこなった。また開国かいこく直後ちょくご安政あんせい4ねん釧路くしろ炭田たんでん開発かいはつ開始かいしされている。戊辰戦争ぼしんせんそうはこかん戦争せんそう終結しゅうけつ直後ちょくご1869ねん大宝たいほう律令りつりょうくにぐんさとせい踏襲とうしゅうして白糠しらぬかぐんかれた。

ぐん発足ほっそく以降いこう沿革えんかく

[編集へんしゅう]
北海道ほっかいどういちきゅう町村ちょうそんせい施行しこう白糠しらぬかぐん町村ちょうそん(1.白糠しらぬかむら 2.尺別しゃくべつむら むらさき釧路くしろ あお区域くいき発足ほっそくおな町村ちょうそん
明治めいじ9ねんだい
  • だい24だい
    • 1しょう白糠しらぬかむら庶路しょろむら尺別しゃくべつむら

参考さんこう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク

[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく

[編集へんしゅう]