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山田やまだぶんみぎ衛門えもん

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山田やまだ ぶんみぎ衛門えもん(やまだ ぶんえもん)は、天明てんめい年間ねんかん能登のとこくから蝦夷えぞ進出しんしゅつした商人しょうにん。「ぶんみぎ衛門えもん」は当主とうしゅによってたびたび襲名しゅうめいされている。とくに10代目だいめは、本格ほんかくてき昆布こぶ養殖ようしょく創始そうししゃとして名高なだかい。

歴代れきだい[編集へんしゅう]

山田やまだはもともと能登のとこく羽咋はくいぐん神代かみしろ(かくみ)むら船主せんしゅ船頭せんどういとなんでいたといわれる[1]

6代目だいめまでは女子じょししかまれず、むすめ婿むこ養子ようしとして家督かとく相続そうぞくさせてきたが、7代目だいめから男子だんしまれるようになり、実子じっし相続そうぞくわった[2]

7代目だいめ山田やまだぶんみぎ衛門えもん
神代かくみむら漁師りょうしまたいち次男じなんとしてまれ、阿部あべむら村山むらやま甚右衛門えもん親元おやもととなる。天明てんめい年間ねんかん1781ねん - 1789ねん)に松前まさきはん福山ふくやまわた[1]
1787ねん天明てんめい7ねん)、6代目だいめ栖原すはらすみ兵衛ひょうえ場所ばしょ請負人うけおいにんとなっていた留萌るもい支配人しはいにんまかせられる。この両者りょうしゃ関係かんけいについて、山田やまだふね昆布こぶ輸送ゆそうがけていたことから、栖原すはらとのえんができていたのではないかといわれる[1]
8代目だいめ山田やまだぶんみぎ衛門えもんゆうさとし喜右衛門きうえもん
つま蠣崎かきざき出身しゅっしん。7代目だいめのちぎ、栖原すはらのもとで留萌るもい勇払ゆうふつ場所ばしょ支配人しはいにんつとめた[2]
1807ねん文化ぶんか4ねん)には、アイヌやとって留萌るもいからオシラリカ[ちゅう 1]までやく100キロメートルの道路どうろ整備せいびしている[3]
1821ねん文政ぶんせい4ねん)、蝦夷えぞ幕府ばくふ直轄ちょっかつともなって廃止はいしされていた場所ばしょ請負うけおいせい再開さいかいすると、栖原すはら保証ほしょう勇払ゆうふつ場所ばしょ請負人うけおいにんとなる[2]いで1822ねん文政ぶんせい5ねん)には沙流さる場所ばしょ[2]1828ねん文政ぶんせい11ねん)には厚岸あっけし場所ばしょった[3][ちゅう 2]
家督かとくを9代目だいめゆずったのち喜右衛門きうえもん名乗なのり、江戸えど深川ふかがわ隠居いんきょした[3]
1830ねん文政ぶんせい13ねん)、やまいのためはこかんにて死亡しぼう享年きょうねん66[3]
9代目だいめ山田やまだぶんみぎ衛門えもんちょう
もっぱら江戸えど活動かつどうしており、蝦夷えぞむことはなかった。享年きょうねん44[3]
10代目だいめ山田やまだぶんみぎ衛門えもん清富きよとみ
8代目だいめおとうと市郎いちろうみぎ衛門えもん次男じなん。9代目だいめ長男ちょうなんが11さい夭折ようせつしたため、9代目だいめ養子ようしとなって家督かとくいだ[4]
1856ねん安政あんせい3ねん)、千歳ちとせこめ300たわら備蓄びちくした功績こうせきにより、当時とうじ蝦夷えぞ直轄ちょっかつりょうとしていた幕府ばくふから苗字みょうじ帯刀たいとうゆるされる[4]
1857ねん安政あんせい4ねん)、はこかん奉行ぶぎょう依頼いらいによるぜにはこ - 千歳ちとせあいだ道路どうろ開削かいさく商人しょうにんらとともにけ、島松しままつ - 千歳ちとせあいだ担当たんとうした[5]
1858ねん安政あんせい5ねん)、樺太からふと漁場ぎょじょう開発かいはつ名乗なのりをげて差配さはい人並ひとなみにんじられ、私費しひとうじて東海岸ひがしかいがん栄浜さかえはますうしょ漁場ぎょじょうひらいた。しかし開発かいはつ中心ちゅうしんやくだった松川まつかわべんすけらの撤退てったいともない、1864ねん元治もとはる元年がんねん)のりょうえると、後任こうにん伊達だてりんみぎ衛門えもん栖原すはらはんなな漁場ぎょじょうゆずった[5]
昆布こぶ養殖ようしょくはじめたのは1860ねん万延まんえん元年がんねん)のことで、昆布こぶそだたないすなりゅううみに、した100いしをそれぞれなわしばってしずめ、昆布こぶ根付ねつくようにしたという。またべつ逸話いつわでは1862ねん文久ぶんきゅう2ねん)6がつ沙流さるのホロナイ海岸かいがん視察しさつちゅう陶器とうきへん根付ねついた昆布こぶて、天然てんねん岩場いわばでなくとも昆布こぶそだつことをったとつたえられる[6]
1863ねん文久ぶんきゅう3ねん)には本格ほんかくてき養殖ようしょく試験しけん開始かいしした。はこかんからせた石工せっこう12にんそれぞれにやとったアイヌ3にんずつをませ、沙流さる太川たがわ河口かこうちかくのやまから2まん7000いしし、沙流さるおきしずめた。このときのいしおおくが海底かいていすなうずもれてしまったが、埋没まいぼつまぬかれたいしには良質りょうしつ昆布こぶそだっていた。そこでつぎいしうずもれないように投入とうにゅう箇所かしょしぼったうえで、1866ねん慶応けいおう2ねん)までの3年間ねんかん毎年まいとし5まんいししずめた[7]
養殖ようしょく技術ぎじゅつ実用じつよう成功せいこうすると、10代目だいめぶんみぎ衛門えもん昆布こぶ事業じぎょうを3なん文治ぶんじまかせ、請負うけおい場所ばしょ親類しんるいさかきとみみぎ衛門えもんたくして、みずからは隠棲いんせいした[8]
1881ねん明治めいじ14ねん)、明治天皇めいじてんのう函館はこだて巡幸じゅんこうおり昆布こぶ養殖ようしょく功績こうせきとなえて賞状しょうじょうあたえられる[8]
1883ねん明治めいじ16ねん)、勇払ゆうふつむらにて死去しきょ享年きょうねん64[8]
11代目だいめ山田やまだ清次せいじ文治ぶんじ
ちちあといで、昆布こぶ養殖ようしょく事業じぎょうをさらに拡大かくだいした。

山田やまだ家系かけい[編集へんしゅう]

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
またいち
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
7代目だいめぶんみぎ衛門えもん
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
市郎いちろうみぎ衛門えもん
 
 
 
 
 
じんみぎ衛門えもん
 
8代目だいめぶんみぎ衛門えもん
 
蠣崎かきざきむすめ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
寿ことぶき兵衛ひょうえ
 
10代目だいめぶんみぎ衛門えもん
 
息子むすこ
 
2代目だいめじんみぎ衛門えもん
 
 
 
9代目だいめぶんみぎ衛門えもん
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
3代目だいめじんみぎ衛門えもん
 
 
 
息子むすこ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
文治ぶんじ
 
長女ちょうじょ前妻ぜんさい
すえむすめ後妻ごさい
 
 
 
4代目だいめじんみぎ衛門えもん
さかきとみみぎ衛門えもん
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
5代目だいめじんみぎ衛門えもん
 
 
 
 

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 樺戸かばとぐん雨竜うりゅうぐんさかい[3]
  2. ^ ぶんみぎ衛門えもん厚岸あっけし場所ばしょったのは1832ねん天保てんぽう3ねん)というせつもあり、判然はんぜんとしない[3]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c 伊藤いとう 2008, p. 242.
  2. ^ a b c d 伊藤いとう 2008, p. 243.
  3. ^ a b c d e f g 伊藤いとう 2008, p. 244.
  4. ^ a b 伊藤いとう 2008, p. 245.
  5. ^ a b 伊藤いとう 2008, p. 246.
  6. ^ 伊藤いとう 2008, p. 247.
  7. ^ 伊藤いとう 2008, p. 248.
  8. ^ a b c 伊藤いとう 2008, p. 249.

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 伊藤いとう孝博たかひろ北海道ほっかいどううみ」の人国記じんこくき無明むみょうしゃ出版しゅっぱん、2008ねん7がつ30にちISBN 978-4-89544-478-1