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相模(さがみ、生没年不詳:998年(長徳4年)頃 - 1061年(康平4年)以降か)は、平安時代後期の歌人である。中古三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人。実父は不詳で、摂津源氏但馬守頼光の養女。母は能登守慶滋保章[注釈 1]の娘。
初名は乙侍従(おとじじゅう)。十代の頃、橘則長[注釈 2]の妻となるが離別[1]、1020年(寛仁4年)以前に大江公資[注釈 3]の妻となり、「相模」の女房名で呼ばれるようになる。夫の任地相模国に随行したものの、結婚生活が破綻し、1025年(万寿2年)頃離別した。この頃、四条大納言藤原公任の息男であり、自身も歌人として名高い中納言藤原定頼との恋愛も知られている。やがて一条天皇の第1皇女(入道一品宮)脩子内親王に出仕[注釈 4]。1049年(永承4年)内親王薨去後は、さらに後朱雀天皇の皇女祐子内親王[注釈 5]に仕えた。この間、数々の歌合に名をつらね、後朱雀・後冷泉朝の歌壇で活躍した。彼女は和歌六人党(藤原範永・平棟仲・藤原経衡・源頼実・源頼家・源兼長)の歌道の指導的立場にあったばかりでなく、能因法師・和泉式部・源経信などとの交流もそれぞれの家集から窺える。『後拾遺和歌集』では和泉式部についで第二位の入集歌数を誇る他、以降の勅撰集、家集等に多数作品を残している。
- 帰京後に恋愛関係が表面化する藤原定頼とは、任国下向以前から何らかの交流があり、好意を抱いていた。大江公資に強引に妻にされ、任国下向させられたのは、彼女にとって不本意[注釈 6]なことだった。しかも、夫公資はやがて現地の女性と懇ろになり--といった悩みを、1024年(治安4年)正月、百首の歌に詠んで伊豆走湯権現の社頭に埋めた。すると、4月になって、権現からの返歌だと称する百首の歌が社僧からもたらされた。彼女は、それに対して更に百首の返歌を詠んだ。家集にはそれらが収められているが、権現作と称する百首を詠んだのが誰なのかは未だに不明である[1]。その中に、夫が愛人を作ったことを訴える歌、
わかくさをこめてしめたるはるのゝに われよりほかのすみれつますな
— 流布本 『相模集』 230
- 権現(夫本人ではないかとも言われる)がなだめるつもりで、
なにか思なにをかなげくはるのゝに きみよりほかにすみれつませじ
— 流布本 『相模集』 329
- ところが、ごまかしても無駄だと火に油、
もえまさるやけのゝのべのつぼすみれ つむひとたえずありとこそきけ
— 流布本 『相模集』 433
- 「焼け野の野辺の坪菫」という表現に、浮気相手の田舎女に対する敵意と蔑視が感じられる。別の歌では女を「そほづ」(案山子)[1]にも例えている。
- 勅撰集
- 定数歌・歌合
名称 |
時期 |
作者名表記 |
備考
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賀陽院水閣歌合 |
1035年(長元8年) |
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関白左大臣藤原頼通の主催
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一品宮歌合 |
1038年(長暦2年) |
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源大納言師房家歌合 |
1038年(長暦2年) |
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弘徽殿女御生子歌合 |
1041年(長久2年) |
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六条斎院(禖子内親王)歌合 |
1048年(永承3年) |
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内裏歌合 |
1049年(永承4年) |
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前麗景殿女御延子歌絵合 |
1050年(永承5年) |
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祐子内親王歌合 |
1050年(永承5年) |
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内裏歌合 |
1051年(永承6年)5月5日 |
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皇后宮寛子春秋歌合 |
1056年(天喜4年) |
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- 私家集
- 『相模集』(一名『玉藻集』『思女集』):4系統の伝本が知られている。
- 流布本『相模集』(浅野家本)
- 異本『相模集』
- 『思女集』
- 『針切相模集』
- 自撰の『物思ふ女の集』という家集があったとされるが、現存『相模集』諸本との関係は不明。
永承六年内裏歌合に
うらみ侘ほさぬ袖たにある物を 恋にくちなん名こそおしけれ
— 『後拾遺和歌集』 第十四 恋四
- ^ a b c 犬養(参考文献)
- ^ 『和歌色葉』 上 名誉歌仙
- ^ 『走湯百首』序
- ^ 『八雲御抄』 巻第六 用意部
- ^ 『後拾遺和歌集』 第十四 恋四 00815