(Translated by https://www.hiragana.jp/)
藤原家隆 (従二位) - Wikipedia コンテンツにスキップ

藤原家隆ふじわらのいえたか (したがえ)

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
藤原ふじわら たかし
菊池きくち容斎ようさいかく明治めいじ時代じだい
時代じだい 鎌倉かまくら時代ときよ初期しょき
生誕せいたん もと3ねん1158ねん
死没しぼつ よしみただし3ねん4がつ9にち1237ねん5月5にち
改名かいめい あらわたかしいえたかし
別名べつめい 仏性ぶっしょう法名ほうみょう)、壬生みぶしたがえたかし
墓所はかしょ いえたかしづか大阪おおさか天王寺てんのうじ
官位かんい したがえ宮内卿くないきょう
主君しゅくん 高倉天皇たかくらてんのう安徳天皇あんとくてんのう後鳥羽ごとば天皇てんのう順徳天皇じゅんとくてんのう仲恭天皇ちゅうきょうてんのうこう堀河ほりかわ天皇てんのう四条しじょう天皇てんのう
氏族しぞく 藤原ふじわらきたりょう門流もんりゅう
父母ちちはは ちち藤原ふじわら光隆みつたかはは藤原ふじわらみのるけんむすめ
兄弟きょうだい まさたかしいえたかし ほか
つま 藤原ふじわら雅隆まさたかむすめ
りゅうゆう土御門つちみかどいんしょう宰相さいしょう ほか
テンプレートを表示ひょうじ

藤原ふじわら たかし(ふじわら の いえたか)は、鎌倉かまくら時代ときよ初期しょき公卿くぎょう歌人かじん有職ゆうしょくで「かりゅう」ともばれる。はつあらわたかし法名ほうみょう仏性ぶっしょう壬生かせいごうする。中納言ちゅうなごん藤原ふじわらけん末裔まつえいで、けん中納言ちゅうなごん藤原ふじわら光隆みつたかねこあいだ中納言ちゅうなごん)の次男じなん官位かんいしたがえ宮内卿くないきょう。『しん古今ここん和歌集わかしゅう』の撰者せんじゃ一人ひとり小倉おぐらひゃくにんいちしゅではしたがえたかしふうそよぐ なら小川おがわ夕暮ゆうぐれは みそぎなつの しるしなりける」。

経歴けいれき

[編集へんしゅう]

安元やすもと元年がんねん1175ねん叙爵じょしゃく安元やすもと3ねん1177ねん侍従じじゅう阿波あわかい越中えっちゅうまもり地方ちほうかん併任へいにんし、たてひさ4ねん1193ねん正月しょうがつ侍従じじゅう辞任じにんせい昇叙しょうじょ正治しょうじ3ねん1201ねん正月しょうがつしたがえよん元久もとひさ3ねん1206ねん宮内卿くないきょううけたまわひさし3ねん1220ねん)まで宮内卿くないきょうつとめ、辞任じにんののちにせいさんじょせられた。よしみただし元年がんねん1235ねんしたがえよしみただし2ねん12月(1237ねん1がつびょうて79さい出家しゅっけした。出家しゅっけ摂津せっつこく四天王寺してんのうじはいり、その西側にしがわに『夕陽ゆうひあん』(せきようあん)をもうけて浄土じょうどきょうおしえである「にちそうかん」をしゅうし、このよりえる「ちぬのうみ大阪おおさかわん)」にしず夕日ゆうひこのみ、その彼方かなたにある極楽浄土ごくらくじょうどくことをのぞんだ。後世こうせい、このは『夕陽ゆうひあん』にちなんで夕陽丘ゆうひがおかばれるようになった。現在げんざい大阪おおさか天王寺てんのうじ夕陽丘ゆうひがおかまち5にいえたかしづかでん藤原家隆ふじわらのいえたか)がある。

歌人かじん

[編集へんしゅう]
いえたかし歌碑かひ土佐とさうみ御船みふねかべて あそぶらし そら雪解ゆきげのどけき」(神社じんじゃ

和歌わか藤原ふじわら俊成としなりまなんだ。寂蓮じゃくれん婿むこだったというせつもある[1]歌人かじんとしては晩成ばんせいがたであったが、『ろくひゃくばん歌合うたあわせ』『正治しょうじねん初度しょどひゃくしゅ』などに参加さんかして、やがてどう時代じだい藤原ふじわら定家さだいえならしょうされる歌人かじんとして、御子みこひだり双璧そうへき評価ひょうかされるにいたった。

古今ここん著聞ちょぶんしゅう』によると後鳥羽上皇ごとばじょうこう和歌わかまなびはじめたころ、藤原良経ふじわらのよしつね京極きょうごく殿どの)に「和歌わかまなぼうとおもっているのだがだれとしたらよいだろうか」とたずね、りょうけいいえたかし推薦すいせんした。いん歌壇かだん中心ちゅうしんメンバーであり、後鳥羽ごとばいん承久じょうきゅうらん隠岐おきながされたのちも、遠所えんじょからだいたまわって和歌わかおくったりしている。うたふう平明へいめい幽寂ゆうじゃくおもむきと評価ひょうかされる。また、晩年ばんねんになってからも作歌さっか意欲いよくはいっこうにおとろえず、その多作たさくぶりは有名ゆうめいで、生涯しょうがいんだうたろくまんしゅもあったとわれている。

歌集かしゅうの『みずのえしゅう(みにしゅう)』はろく家集かしゅうひとつ。『千載せんざい和歌集わかしゅう』(5しゅ以下いか勅撰ちょくせん和歌集わかしゅうに281しゅ採録さいろくされており、『しん勅撰ちょくせん和歌集わかしゅう』には最多さいたの43しゅおさめられている[2]

息子むすこ藤原ふじわらたかしゆうむすめ土御門つちみかどいんうけたまわあかりもんいんしょう宰相さいしょう歌人かじん

系譜けいふ

[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ かえるしょう
  2. ^ 勅撰ちょくせん作者さくしゃ部類ぶるい
  3. ^ 公卿くぎょう補任ほにん
  4. ^ 尊卑そんぴ分脈ぶんみゃく