上杉うえすぎぼうじょう

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上杉うえすぎぼうじょう
時代じだい 室町むろまち時代ときよ中期ちゅうき - 戦国せんごく時代じだい
生誕せいたん えいとおる3ねん11月14にち1431ねん12月18にち
死没しぼつ あかりおう3ねん10月17にち1494ねん11月14にち
改名かいめい ぼうじょうつねやすしごう
戒名かいみょう 長松ながまついん殿どのけいいずみつねやすし
官位かんい ひだりすけみん大輔だいすけしたがえよん相模さがみもり[注釈ちゅうしゃく 1]
幕府ばくふ 室町むろまち幕府ばくふ 越後えちご信濃しなの守護しゅご
主君しゅくん 足利あしかが義政よしまさ義尚よしなおざい
氏族しぞく 上条かみじょう上杉うえすぎ越後えちご上杉うえすぎ
父母ちちはは ちち上杉うえすぎ清方きよかた養父ようふ上杉うえすぎぼうあさ
兄弟きょうだい ていあらわぼうじょうぼう
つま あおかげ庵月山あんげつざんみょうあきら禅定ぜんじょうあま[注釈ちゅうしゃく 2]芳賀はがぼうむすめ[注釈ちゅうしゃく 3]
ていあきら顕定あきさだ房能ふさよしあしめいもりだか正室せいしつ
畠山はたけやま義元よしもとしつ?
養子ようしせきみどりいん伊達だてしょうむね正室せいしつ[4]
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上杉うえすぎ ぼうじょう(うえすぎ ふささだ)は、室町むろまち時代ときよ中期ちゅうきから戦国せんごく時代じだいにかけての守護しゅご大名だいみょう越後えちごこく信濃しなのこく守護しゅご[注釈ちゅうしゃく 4]越後えちご上杉うえすぎ6だい当主とうしゅ

15世紀せいき後半こうはんやく46ねんというながきにわたって越後えちご支配しはいし、関東かんとうとおるとくらんちょうとおるらんたたか過程かてい守護しゅご領国りょうごく完成かんせいさせた[5]

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

越後えちご守護しゅご就任しゅうにん国内こくない掌握しょうあく[編集へんしゅう]

えいとおる3ねん1431ねん)、上条かみじょう上杉うえすぎ上杉うえすぎ清方きよかたとして誕生たんじょう

たからいさお元年がんねん1449ねん)2がつ従兄じゅうけい越後えちご守護しゅご上杉うえすぎぼうあさ急死きゅうしするとぼうあさ側近そっきんである長尾ながおよりゆきけいらに後継こうけいとして擁立ようりつされた。

宝徳ほうとく2ねん1450ねん)12月にぼうじょうきょうから越後えちご下向げこうよりゆきけい伯父おじ守護しゅごだい長尾ながおくにけい実景じっけい父子ふしめ、くにけい自害じがいし、実景じっけい信濃しなののがれた。この事件じけんあげきた国人くにびと中条ちゅうじょうは「いちこく動揺どうよう」としるしている。くにけい父子ふし室町むろまち幕府ばくふ鎌倉かまくら政治せいじてき軍事ぐんじてき緊張きんちょうなかちからばしたが、鎌倉かまくら滅亡めつぼういで嘉吉よしきちらんの6だい将軍しょうぐん足利あしかが義教よしのり暗殺あんさつによって政治せいじてき地位ちい低下ていかさせ、京都きょうとちからかえした守護しゅご対抗たいこうできなかった[6]府内ふないでの政権せいけん掌握しょうあく成功せいこうしたぼうじょう京都きょうともどることなくみずか越後えちご支配しはいした。

たからいさお3ねん1451ねん)3がつ下郡しもごおり国人くにびとたいする示威じい行動こうどうのように弥彦やひこ神社じんじゃ参拝さんぱいした。同年どうねん5がつには信濃しなの復帰ふっき運動うんどうつづける実景じっけいへの合力ごうりょくきんじる御教書みぎょうしょ越後えちご国人くにびと発給はっきゅうされた[7]

鎌倉かまくら再興さいこう[編集へんしゅう]

将軍しょうぐん義教よしのり死後しご幕府ばくふでは鎌倉かまくら復興ふっこう沙汰ざたされるようになり、ぶんやす4ねん1447ねん)には万寿まんす王丸おうまる足利あしかが成氏しげうじ)の関東かんとう実現じつげんした。『鎌倉かまくら大草おおくさ』には「越後えちご守護しゅごじん上杉うえすぎ相模さがみもりぼうじょう」がえいとおるらん関東かんとう地方ちほう混乱こんらん鎮圧ちんあつのために、まえ鎌倉かまくら公方くぼう足利あしかが持氏もちうじ遺子いし永寿えいじゅ王丸おうまる関東かんとう復帰ふっき長年ながねんにわたって幕府ばくふ嘆願たんがんし、これを実現じつげんさせたとしるされている(ただ当時とうじ越後えちご守護しゅごぼうあさである)。

とおるとくらん勃発ぼっぱつ展開てんかい[編集へんしゅう]

しげる上杉うえすぎたからいさお2ねん1450ねん)4がつにははやくも対立たいりつ表面ひょうめんし、とおるとく3ねん1454ねん)12月にしげるぼうじょう従兄じゅうけい山内やまうち上杉うえすぎ関東かんとう管領かんりょう上杉うえすぎ憲忠のりただ暗殺あんさつしたことをきっかけにとおるとくらん勃発ぼっぱつする。幕府ばくふぼうじょうにもしげる追討ついとうめいじ、幕府ばくふからせいくだされたぼうじょうは、上野うえのこく憲忠のりただあといだおとうと上杉うえすぎ房顕ふさあきいきおい合流ごうりゅうし、康正こうせい元年がんねん1455ねん)6がつ5にちには上野うえのさん宮原みやはら[8]、7がつ25にちには穂積ほづみばらしげるぐんたたかって下野げやこく足利あしかがまで進出しんしゅつしたが、12月には撤退てったいした。その古河ふるかわしろのがれて「古河ふるかわ公方くぼう」と名乗なのったしげる対抗たいこうするために、上杉うえすぎかたじゅう本拠地ほんきょちとしてじんかまえ(五十子いかごじん)、ぼうじょう以後いご16ねんにわたって関東かんとう滞在たいざいして各地かくちしげるかたしょしょうとのたたかいについやすこととなる。

長禄ちょうろく3ねん1459ねん)10がつ上杉うえすぎぐんだい規模きぼ軍事ぐんじ攻勢こうせいをかけ、武蔵むさしこく太田おおたそう海老瀬えびせこうはねつぎばら相次あいついでしげるぐんたたかった(じゅうたたか)。このときぼうじょうへい700ひき利根川とねがわわたしげるぐんめ、しげるぐんは2000にん死傷ししょうしゃして潰走かいそうしたというが[9]、『こうぞういん珎祐記録きろく』などからこの一連いちれん合戦かっせん上杉うえすぎかた敗北はいぼくしたとられている。以後いご戦況せんきょう膠着こうちゃく状態じょうたいとなった。

ひろしただし4ねん1464ねん)12月、ぼうじょう上杉うえすぎみぎ馬頭めず大将たいしょうとして派遣はけん信濃しなの高梨たかなしまさしだかめた。この侵攻しんこうみぎ馬頭めず討死うちじにするが、しげる越後えちごぜい敗走はいそうよろこんでいることから高梨たかなしまさしだか村上むらかみまさしきよしらとともしげるかたであったとみられる。この敗戦はいせんけ、ひろしせい6ねん1465ねん)6がつに8だい将軍しょうぐん足利あしかが義政よしまさ信濃しなの守護しゅご小笠原おがさわら光康みつやすたいし、ぼうじょう協力きょうりょくして村上むらかみ高梨たかなし退治たいじするようめいじた。

顕定あきさだ山内やまうち上杉うえすぎ相続そうぞく都鄙とひ和睦わぼく[編集へんしゅう]

文正ふみまさ元年がんねん1466ねん)2がつ房顕ふさあき子供こどものこさずに陣没じんぼつした。長尾ながお景信かげのぶぼうじょう後継こうけいしゃに吹挙したものの、山内やまうち上杉うえすぎ家中かちゅうにこのこと反対はんたいする勢力せいりょくとの深刻しんこく対立たいりつがあり、ぼうじょうはなかなか承諾しょうだくしなかった。しかし結局けっきょくは8だい将軍しょうぐん足利あしかが義政よしまさ強硬きょうこう後押あとおしで、次男じなんりゅうわか顕定あきさだ)を養子ようしすことを承諾しょうだくし、関東かんとう管領かんりょう就任しゅうにんさせている。岩松いわまつじゅん説得せっとくもあったという(『松陰まつかげ私語しご』)。顕定あきさだ養子ようしれたことで、ぼうじょう上杉うえすぎ諸家しょか長老ちょうろうとなった。関東かんとうへの影響えいきょうりょくし、実質じっしつてき越後えちご上杉うえすぎとおるとくらんにおける上杉うえすぎかたそう大将たいしょうとなった[10]

文明ぶんめい元年がんねん1469ねん)に守護しゅごだいとして留守るすまもつづけた長尾ながおよりゆきけいぼっし、守護しゅごだいじゅうけいまましいだが、越後えちご国内こくない不安ふあんおぼえたため、文明ぶんめい3ねん1471ねん)までに嫡男ちゃくなんていあきら上野うえの白井しらいしろめて自身じしん越後えちご帰還きかんした。同年どうねん4がつから上杉うえすぎかたしげるかた攻勢こうせいをかけており、義政よしまさなんぼうじょう好機こうきのがさず関東かんとう出陣しゅつじんするよう要請ようせいしたが、ぼうじょう信濃しなの越後えちご国内こくない政情せいじょう不安ふあん理由りゆうになかなかおうじなかった[注釈ちゅうしゃく 5]。6月には越前えちぜんこく朝倉あさくらたかしけいへの合力ごうりょくもとめられている。

その長尾ながお景春かげはるらんとそれにじょうじたしげる攻勢こうせいめられたりょう上杉うえすぎは、文明ぶんめい10ねん1478ねん正月しょうがつしげるむすんだ。

文明ぶんめい12ねん1480ねんごろから本格ほんかくてき上杉うえすぎ幕府ばくふ古河ふるかわ公方くぼうとの和睦わぼく交渉こうしょうはじまるが、ぼうじょうはこの交渉こうしょうにおいて決定的けっていてき役割やくわりたし、文明ぶんめい14ねん1482ねん)に「都鄙とひ和睦わぼく」を成立せいりつさせた[11]

ちょうとおるらん嫡男ちゃくなん[編集へんしゅう]

ぼうじょう奔走ほんそう甲斐かいあってやく30ねんおよんだとおるとくらん終結しゅうけつしたが、今度こんど顕定あきさだ扇谷おうぎや上杉うえすぎ当主とうしゅ上杉うえすぎ定正さだまさとのあいだ対立たいりつしょうじた。原因げんいん定正さだまさ越後えちご山内やまうち上杉うえすぎ主導しゅどうおこなわれた都鄙とひ和睦わぼく不満ふまんいていたことや、顕定あきさだ長尾ながお景春かげはるらん過程かていおおきく勢力せいりょくばした扇谷おうぎや上杉うえすぎ危機ききかんいたことがげられている[12]。やがて定正さだまさ文明ぶんめい18ねん1486ねん)に太田おおた道灌どうかん暗殺あんさつしたことを契機けいきとして、よくちょうとおる元年がんねん1487ねん)にりょう上杉うえすぎあいだちょうとおるらんはじまった。

ぼうじょう白井しろいじょうはいした嫡男ちゃくなんていあきらつうじて顕定あきさだ支援しえんしていたが、ていあきらちょうとおる2ねん1488ねん)3がつ白井しろいじょう自害じがいしてしまった。これをけてぼうじょうみずか関東かんとう出陣しゅつじんし、6がつ武蔵むさし須賀すか谷原たにはら、11月には高見原たかみはら扇谷おうぎやかたたたかった。合戦かっせんはいずれも扇谷おうぎやかた優勢ゆうせいすすんだが、不利ふり情勢じょうせい顕定あきさだちこたえること出来できたのはちちぼうじょうによる支援しえん存在そんざいしたからであり、これが定正さだまさ顕定あきさだ反攻はんこうにつながることになった。

きょうとの交流こうりゅう府中ふちゅう文化ぶんか[編集へんしゅう]

とおるとくらん都鄙とひ和睦わぼく交渉こうしょう過程かてい京都きょうととの関係かんけいふかまり、将軍家しょうぐんけ在京ざいきょう公家くげとの交流こうりゅうさかんになった。文明ぶんめい18ねん1486ねん)3がつぼうじょういちこく守護しゅごとしては破格はかく待遇たいぐうであるしたがえよん相模さがみもりにんじられたが、この官位かんいるために近衛このえまさし接触せっしょくして吉田よしだ神社じんじゃ造営ぞうえいおくり、足利あしかが義政よしまさ関係かんけいしゃにも莫大ばくだい金品きんぴんおくっている[13]幕府ばくふとおして朝鮮ちょうせんから高麗こうらいばん大蔵経だいぞうきょう輸入ゆにゅうし、越後えちご安国寺あんこくじおさめることにも成功せいこうしている。

応仁おうにんらん荒廃こうはいした京都きょうとからは飛鳥井あすかい雅康まさやす聖護院しょうごいんみちきょうといった一流いちりゅう教養きょうようじんとしてられた公家くげ僧侶そうりょ越後えちご下向げこうするようになった。連歌れんが宗祇そうぎ歌人かじんたかしめぐみ太田おおた道灌どうかん扇谷おうぎや上杉うえすぎのもとからはなれた万里ばんりしゅうきゅう越後えちごおとずれた。ぼうじょうはこれをよく保護ほごしたため、越後えちご文化ぶんか発展はってんにも貢献こうけんするところとなった。当時とうじ越後えちご府中ふちゅうぼうじょう側近そっきんたち様子ようすは『梅花ばいか無尽蔵むじんぞう』などにしるされている。

越後えちご支配しはい晩年ばんねん[編集へんしゅう]

ぼうじょう時代じだい越後えちご国内こくない長尾ちょうび実景じっけい没落ぼつらくにはおおきな戦乱せんらんきることもなく比較的ひかくてき安定あんていしていた。信濃しなのはんこく守護しゅごにも任命にんめいされ[注釈ちゅうしゃく 6]文明ぶんめい15ねん1483ねん)から19ねん1487ねん)にかけておこなわれた検地けんちではばい以上いじょう増分ぞうぶん検出けんしゅつするなど国内こくない領主りょうしゅへの統制とうせいつよめた。あげきたしゅ本庄ほんじょうぼうちょうちょうとおる3ねん1489ねん)・あかりおう2ねん1493ねん)のにわたって反乱はんらんこしたが、鎮圧ちんあつぐんとして派遣はけんされた守護しゅごだい長尾ながお能景よしかげ伊達だて上杉うえすぎかたへの合力ごうりょくによって鎮圧ちんあつされた[4]ちょうとおる元年がんねん1487ねん)に出家しゅっけつねたいごうした。

延徳えんとく3ねん1491ねん)、管領かんりょう細川ほそかわまさしもと歌人かじん冷泉れいせんためひろ越後えちご訪問ほうもんした。表向おもてむきは奥州おうしゅう修験しゅげんどう修行しゅぎょうくというせいもとぼうじょう説得せっとくして京都きょうとかえらせたことになっているが、近年きんねんでは10代将軍しょうぐん足利あしかがよしざい廃立はいりつ計画けいかくについてぼうじょう顕定あきさだ父子ふし協力きょうりょくもとめにたのではないかともわれている[16]

あかりおう3ねん(1494ねん)10がつ17にち死去しきょ享年きょうねん64。家督かとく末子まっし房能ふさよし継承けいしょうした。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 江戸えど時代じだい以降いこう作成さくせいされた上杉うえすぎ系図けいずでは越後えちごもり補任ほにんされたとする記述きじゅつがみられるが、越後えちご支配しはいしゃである上杉うえすぎ強調きょうちょうする目的もくてき江戸えど時代じだい創作そうさくされたとみられている[1]
  2. ^ 顕定あきさだはは顕定あきさだぶんかめ2ねん1502ねん)8がつ上野うえのこく板鼻いたはな海龍かいりゅうてらほろびははあおかげ庵月山あんげつざんみょうあきら仏事ぶつじおこなっている。この女性じょせい実母じつぼではなく、養母ようぼ上杉うえすぎ房顕ふさあきつま推測すいそくするせつ[2]もあるが、森田もりた真一しんいちは「たまかげ和尚おしょう語録ごろく」「春日山かすがやま林泉りんせんくもりえい禅師ぜんじ語録ごろく」の記事きじより、あおかげ庵月山あんげつざんみょうあきら顕定あきさだ実母じつぼぼうていつまとし、従来じゅうらい13回忌かいきとされていたぶんかめ2ねん仏事ぶつじは、3回忌かいきあやまりであると指摘してきしている[3]
  3. ^ 芳賀はが大方おおがた房能ふさよしははか。えいただし元年がんねん1504ねん)、芳賀はが大方おおがたいのちにより長尾ながお能景よしかげ長尾ちょうびしょう法師丸ほしまる長尾ながおぼうけい)に、普済寺ふさいじりょう栖吉すよし安堵あんどじょう普済寺ふさいじ修復しゅうふくめいじる書状しょじょうしている。
  4. ^ 信濃しなのはんこく守護しゅご
  5. ^ 5月に越後えちご国人くにびと安田やすだぼうあさ反乱はんらんこし、ぼうじょういのちけたおいおもひろたれている。
  6. ^ 大乗だいじょういん寺社じしゃ雑事ざつじ文明ぶんめい9ねん12月じょうおよび『長野ながのだい2かん長野ながの、740-741ぺーじ。これにたい矢田やた俊文としふみは、『大乗だいじょういん寺社じしゃ雑事ざつじ』の記事きじ守護しゅごではないいえ寺院じいんしるされていることから、ぼうじょう信濃しなの守護しゅごではなく、信濃しなの小笠原おがさわら同等どうとう権限けんげんゆうする「公権力こうけんりょく」としている[14]。また、田中たなか慶治けいじも『大乗だいじょういん寺社じしゃ雑事ざつじ』の当該とうがい記事きじには筆者ひっしゃである興福寺こうふくじ大乗だいじょういんひろみこと願望がんぼうによる作為さくいふくまれており、これのみを出典しゅってんとすることの危険きけんせい指摘してきしている[15]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 木下きのしたさとし ちょ上杉うえすぎ官途かんとについて」、黒田くろだ基樹もとき へん関東かんとう管領かんりょう上杉うえすぎ』戒光さち出版しゅっぱん〈シリーズ・中世ちゅうせい関東かんとう武士ぶし研究けんきゅう だいいちいちかん〉、2013ねんISBN 978-4-86403-084-7 
  2. ^ 久保田くぼた順一じゅんいち室町むろまち時代じだい安中あんなか地域ちいき」『安中あんなか だいかん通史つうしへんだいいちへんだいろくしょうだいよんせつ、2003ねん
  3. ^ 森田もりた真一しんいち山内やまうち上杉うえすぎ拠点きょてんについて」『群馬ぐんま県立けんりつ歴史れきし博物館はくぶつかん紀要きよう』29ごう、2008ねん
  4. ^ a b 長谷川はせがわしんみなみ奥羽おうう地域ちいきにおける守護しゅご国人くにびと同盟どうめい関係かんけい」『地方ちほう研究けんきゅうだい254ごう、1994ねん
  5. ^ 羽下はねした徳彦とくひこ越後えちごにおける守護しゅご領国りょうごく形成けいせい」『史学しがく雑誌ざっし』68へん8ごう、1959ねん /所収しょしゅう:羽下はねした徳彦とくひこ中世ちゅうせい日本にっぽん政治せいじ史料しりょう吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1995ねん 
  6. ^ 佐藤さとう博信ひろのぶ越後えちごおうなが内乱ないらん長尾ながおくにけい」『新潟にいがた史学しがく』9ごう、1976ねん。『新潟にいがたけん 通史つうしへん2 中世ちゅうせい』など。
  7. ^ 室町むろまち将軍家しょうぐんけ御教書みぎょうしょうつし (『新潟にいがたけん 資料しりょうへん中世ちゅうせい』No.2036)
  8. ^ 上杉うえすぎぼうてい感状かんじょう米沢よねざわ上杉うえすぎ博物館はくぶつかん蔵上くらのうえすぎ文書ぶんしょ)(群馬ぐんま県立けんりつ歴史れきし博物館はくぶつかん 2011, p. 38(写真しゃしん掲載けいさい))
  9. ^ あおやまろく同年どうねん11がつ15にちじょう
  10. ^ 佐藤さとう博信ひろのぶ 1989, pp. 72–73.
  11. ^ 佐藤さとう博信ひろのぶ 1989, p. 78.
  12. ^ 新編しんぺん埼玉さいたまけん 通史つうしへん2 中世ちゅうせい』、438-439ぺーじ
  13. ^ 新潟にいがたけん 通史つうしへん2 中世ちゅうせい』、232ぺーじ
  14. ^ 矢田やた俊文としふみ上杉うえすぎぼうじょう政治せいじ」『上越じょうえつ 通史つうしへん2 中世ちゅうせい』、237ぺーじ 
  15. ^ 田中たなか慶治けいじ室町むろまち大和やまとこく守護しゅごかんするいち考察こうさつ -幕府ばくふ発給はっきゅう文書ぶんしょ中心ちゅうしんに-」『中世ちゅうせい後期こうき畿内きない近国きんごく権力けんりょく構造こうぞう清文せいぶんどう出版しゅっぱん、2013ねん、53-56ぺーじ 
  16. ^ 家永いえなが遵嗣「あきらおうねん政変せいへん伊勢いせはじめはし北条早雲ほうじょうそううん)の人脈じんみゃく」 『成城大学せいじょうだいがく短期大学たんきだいがく 紀要きようだい27ごう、1996ねん。など。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  • 佐藤さとう博信ひろのぶ古河ふるかわ公方くぼう足利あしかが研究けんきゅう校倉あぜくら書房しょぼう、1989ねん 
  • 上越じょうえつ 通史つうしへん2 中世ちゅうせい上越じょうえつ2004ねん
  • 新編しんぺん埼玉さいたまけん 通史つうしへん2 中世ちゅうせい埼玉さいたまけん1988ねん
  • 新潟にいがたけん 通史つうしへん2 中世ちゅうせい新潟にいがたけん1987ねん
  • 群馬ぐんま県立けんりつ歴史れきし博物館はくぶつかん へん関東かんとう戦国せんごく大乱たいらん:とおるとくらん東国とうごくの30ねん戦争せんそう(だい92かい企画きかくてん)』群馬ぐんま県立けんりつ歴史れきし博物館はくぶつかん、2011ねん 

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]