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上杉うえすぎ長貞ながさだ

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上杉うえすぎ 長貞ながさだ
時代じだい 江戸えど時代じだい前期ぜんき
生誕せいたん 元和がんわ9ねん1623ねん
死没しぼつ 寛文ひろふみ2ねん12月4にち1663ねん1がつ13にち
別名べつめい 通称つうしょう宮内みやうち
官位かんい したがえよん侍従じじゅう宮内みやうち大輔だいすけ
幕府ばくふ 江戸えど幕府ばくふ 高家こうか旗本はたもと
主君しゅくん 徳川とくがわ家光いえみつ家綱いえつな
氏族しぞく 上条かみじょう上杉うえすぎ
父母ちちはは ちち上杉うえすぎちょういんはは大友おおともよしじょうむすめ
兄弟きょうだい 長政ながまさ長貞ながさだ
つま 正室せいしつ近藤こんどうようよしむすめ
ながこれ武田たけだ信成のぶなり[注釈ちゅうしゃく 1]しつ織田おだしんもんしつ
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上杉うえすぎ 長貞ながさだ(うえすぎ ながさだ)は、江戸えど時代じだい前期ぜんき高家こうか旗本はたもとしたがえよん少将しょうしょう[1]宮内みやうち大輔だいすけ[1]

略歴りゃくれき

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元和がんわ9ねん1623ねん)、上杉うえすぎちょういん次男じなんとして誕生たんじょうした。寛永かんえい5ねん1628ねん)、あに長政ながまさ死去しきょにより家督かとく相続そうぞくした。

正保まさやす元年がんねん1644ねんだか就任しゅうにんした[1]。これ以降いこう上杉うえすぎ高家こうか旗本はたもとれっすることになった。

慶安けいあん3ねん1650ねん)9がつ3にち御側おそばだか転任てんにんした。うけたまわおう2ねん1653ねん)12月28にち侍従じじゅう任官にんかんした。寛文ひろふみ2ねん1662ねん)10がつ23にち明正めいせい上皇じょうこう仙洞せんとう御所ごしょ落成らくせい祝賀しゅくが使として上洛じょうらくする。

寛文ひろふみ2ねん(1662ねん)、12月4にち切腹せっぷくした[1]享年きょうねん40。

しょやく代々だいだい』には、長貞ながさだ上皇じょうこう院宣いんぜん紛失ふんしつしたため切腹せっぷくしたとしるされている。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 武田たけだ武田たけだみちやす次子じし幕府ばくふ医師いし明正めいせい天皇てんのう医師いし

出典しゅってん

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  1. ^ a b c d 東京大学とうきょうだいがく史料しりょう編纂へんさんしょ 1963, p. 42.

参考さんこう文献ぶんけん

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