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上杉うえすぎ定実さだざね

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上杉うえすぎ 定実さだざね
時代じだい 戦国せんごく時代じだい
生誕せいたん 不明ふめい
死没しぼつ 天文てんもん19ねん2がつ26にち[1]1550ねん3月14にち
改名かいめい 定実さだざねげんきよしごう
戒名かいみょう えいいさおいん殿どの[1]
幕府ばくふ 室町むろまち幕府ばくふ 越後えちご守護しゅご
氏族しぞく 上条かみじょう上杉うえすぎ越後えちご上杉うえすぎ
父母ちちはは ちち上杉うえすぎぼう[注釈ちゅうしゃく 1]
養父ようふ上杉うえすぎ房能ふさよし
兄弟きょうだい せきみどりいん[注釈ちゅうしゃく 2]伊達だてしょうむね正室せいしつ)、定実さだざね上条かみじょう定憲さだのり定明さだあき
つま 正室せいしつ上杉うえすぎ房能ふさよしむすめ
継室けいしつ長尾ながお能景よしかげむすめ[注釈ちゅうしゃく 3]
長尾ながおはるけい正室せいしつあしめいしつ[よう出典しゅってん]
猶子ゆうし[注釈ちゅうしゃく 4][注釈ちゅうしゃく 5]伊達だてみのるもと(※養子ようしになる予定よていだったがのち中止ちゅうし
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上杉うえすぎ 定実さだざね(うえすぎ さだざね)は、戦国せんごく時代じだい守護しゅご大名だいみょう越後えちごこく守護しゅご越後えちご上杉うえすぎ8だい最後さいごの)当主とうしゅ上杉うえすぎ房能ふさよし従弟じゅうていで、養子ようしとされるが確証かくしょうはない[よう出典しゅってん]上杉うえすぎ謙信けんしんはつめい長尾ながお景虎かげとら)は義理ぎりおいにあたる。

生涯しょうがい

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上条かみじょう上杉うえすぎまれ、ぶんかめ3ねん1503ねん6がつ越後えちごこく守護しゅご上杉うえすぎ房能ふさよしむすめ正室せいしつむかえて、その婿むことなる[5]。そのさいに「定実さだざね」と名乗なのっていたことからすで成人せいじんしていたとかんがえられるが、生年せいねん不明ふめいであり、これ以前いぜん定実さだざねについては上条かみじょう上杉うえすぎ出自しゅつじであること以外いがいくわしい資料しりょうがない。実際じっさい養子ようしとなったかは不明ふめいだが、もし定実さだざねちちぼうなら、上杉うえすぎ房能ふさよし従弟じゅうていであることになる(房能ふさよしちち上杉うえすぎぼうじょうであり、ぼうじつぼうじょうおとうとにあたる)。

えいただし4ねん1507ねん)8がつ越後えちごこく守護しゅごだい長尾ながお為景ためかげかつがれて房能ふさよしたおすと[6]えいただし5ねん1508ねん11月6にち正式せいしき守護しゅごとなった[7]。ただ、実質じっしつてきには為景ためかげ傀儡かいらいぎず、そのさい為景ためかげいもうとめとったとされ(正室せいしつであった房能ふさよし息女そくじょはこの時点じてん死去しきょしていた可能かのうせいたか[よう出典しゅってん])、宇佐美うさみぼうただしから名刀めいとう宇佐美うさみ貞光さだみつ」を献上けんじょうされている。

この当主とうしゅ交代こうたい報復ほうふくのため、房能ふさよし実兄じっけい関東かんとう管領かんりょう上杉うえすぎ顕定あきさだ侵攻しんこうすると、えいただし6ねん1509ねん)に長尾ながお為景ためかげともえつ中国ちゅうごく敗走はいそうする[8]えいただし7ねん1510ねん)、越後えちごしょしょう掌握しょうあくできていない顕定あきさだぐん内情ないじょうて、4がつ20日はつか定実さだざね為景ためかげ軍勢ぐんぜい越中えっちゅうから佐渡さどこく経由けいゆして蒲原かんばら上陸じょうりくする[9]佐渡さど軍勢ぐんぜいくわえて勢力せいりょくかえ越後えちご各地かくちあらわ定方さだかた軍勢ぐんぜいやぶり、長森ながもりげんたたか顕定あきさだはいさせた[10]

ところが次第しだい為景ためかげ傀儡かいらいであることに不満ふまんいだき、えいただし10ねん1513ねん)、守護しゅご家臣かしんすじ宇佐美うさみぼうただし定満さだみつ父子ふし実家じっか上条かみじょう上条かみじょう定憲さだのりおとうと、あるいはおい)、あげきたしゅ諸氏しょし勢力せいりょくなどを糾合きゅうごうして春日かすが山城やましろ占拠せんきょして断続だんぞくてき抵抗ていこうつづけたが失敗しっぱい一時いちじ幽閉ゆうへいされるなど権威けんいはますます失墜しっついした[11]。その上条かみじょう定憲さだのりらがふたたはん為景ためかげ勢力せいりょく結集けっしゅう[12]天文てんもん5ねん1536ねん8がつ3にち為景ためかげ隠居いんきょんだが[13]定実さだざね実権じっけんにぎるまではできなかった。それでも為景ためかげあといだ長尾ながおはるけい求心力きゅうしんりょくけていたため、定実さだざね権力けんりょく一応いちおう回復かいふくせた。

天文てんもん7ねん1538ねんごろ定実さだざね養子ようしはなしがる。定実さだざねには男子だんしがいなかったため、縁戚えんせき定実さだざねおい)である陸奥みちのくこく大名だいみょう伊達だて稙宗である時宗じしゅうまる(のちへんいみなによってもと名乗なのる)との養子ようし縁組えんぐみ中条ちゅうじょうふじじつもとははふじいもうと)らと推進すいしんする。長尾ながお為景ためかげもこのにゅう嗣を積極せっきょくてき支援しえんし、その費用ひよう捻出ねんしゅつするため10月24にちには頸城ぐんないだんぜにしている[14]。そのようななかで、天文てんもん8ねん1539ねん)9がつにゅう反対はんたいであった阿賀北あがきた小泉こいずみそう本庄ほんじょうぼうちょうりょう伊達だて軍勢ぐんぜい侵入しんにゅうし、越後えちご北部ほくぶ出羽でわこくでの上杉うえすぎ傘下さんか国人くにびと領主りょうしゅ同士どうし対立たいりつまねいた[15]天文てんもん11ねん1542ねん4がつ定実さだざね長尾ながおはるけいたいしてみずからの出家しゅっけ希望きぼうする起請文きしょうもんおくにゅう嗣の進展しんてんせま[16]。ただし、この起請文きしょうもんはれけいからの政治せいじてき圧力あつりょく(すなわち、クーデター)の結果けっか強要きょうようされたものであるとするせつもある[17]6がつはれけい伊達だてもと重臣じゅうしん直江なおえ平子ひらこ使つかいにおくり、定実さだざねいみなである「」の時宗じしゅうまるあたえること、上杉うえすぎ重代じゅうだい腰刀こしがたな長光ちょうこう」と「たけすずめ」の家紋かもんおくること、6月23にち時宗じしゅうまる越後えちご出発しゅっぱつすることがまった[16]。だが6がつ20日はつか伊達だてにおける内訌ないこう天文てんもんらん)が発生はっせいしたため縁組えんぐみ中止ちゅうしされ、定実さだざねのもくろみは頓挫とんざした[18]

天文てんもん年間ねんかん末期まっきには黒田くろだ秀忠ひでただ反乱はんらんきて越後えちご動揺どうようするが、これをはれけいおとうと長尾ながお景虎かげとら上杉うえすぎ謙信けんしん)が鎮圧ちんあつしたことで[19]周囲しゅういはおろか定実さだざね自身じしん景虎かげとら一目いちもくくことになった。天文てんもん17ねん1548ねん)、はれけい景虎かげとらあらそいがこるとこれを仲介ちゅうかいし、景虎かげとら擁立ようりつ尽力じんりょくした[20]。なお、定実さだざねたんなる仲介ちゅうかいしゃではなく、対立たいりつしたはれけい排除はいじょするために景虎かげとら擁立ようりつ画策かくさくした中心ちゅうしん人物じんぶつ1人ひとりとする見方みかたもある[17]

晩年ばんねん出家しゅっけしてげんきよし名乗なのり、天文てんもん19ねん1550ねん)に病死びょうし定実さだざね死後しご跡継あとつぎがない越後えちご守護しゅご断絶だんぜつすることとなり[注釈ちゅうしゃく 6]室町むろまち幕府ばくふ13だい将軍しょうぐん足利あしかが義輝よしてる命令めいれい景虎かげとら越後えちご守護しゅご代行だいこうした[1]

へんいみなけた人物じんぶつ

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 山吉やまよし伝記でんきうつし」では上杉うえすぎ掃部もりていしゅん定実さだざね実父じっぷであるとしている。森田もりた真一しんいちは、山吉やまよしや「上杉うえすぎ文書ぶんしょ」にのこていしゅん発給はっきゅう文書ぶんしょより、ていしゅん蒲原かまはらぐん本拠地ほんきょちとする上条じょうじょう上杉うえすぎの庶流と推定すいていしている[2]
  2. ^ 仙台せんだいはん史料しりょうでは定実さだざねせきみどりいんちちとするが、せきみどりいん長男ちょうなん稙宗んだのはちょうとおる2ねん1488ねん)であり、年代ねんだいてきにはまった整合せいごうせいがとれない。このため実際じっさいには、せきみどりいん定実さだざね実姉じっし(15さい以上いじょう年長ねんちょうか)とかんがえられている[3]
  3. ^ 長尾ちょうび系譜けいふ」「上杉うえすぎ系図けいず長尾ちょうび系図けいず」(米沢よねざわ市立しりつ中央ちゅうおう図書館としょかん蔵上くらのうえすぎ文書ぶんしょ)では為景ためかげむすめ一人ひとり定実さだざね夫人ふじんとされ、検討けんとう必要ひつようとされている[4]
  4. ^ 日本にっぽん随筆ずいひつ大成たいせい」に所収しょしゅうされている江戸えど時代じだい中期ちゅうき神沢かみさわもりこう随筆ずいひつ翁草おきなぐさ」には、定実さだざね為景ためかげ姉妹しまいめとったさいに、為景ためかげ嫡子ちゃくし六郎ろくろう(のちのはれけいか)を猶子ゆうしとする約定やくじょうわしたかれているが、どう時代じだい史料しりょうでは確認かくにんできない[よう出典しゅってん]
  5. ^ 豊田とよだたけしへん 1965には長尾ながおはるけいつま定実さだざねむすめかれているが、出典しゅってん不明ふめいであり史料しりょう確認かくにんできない[よう出典しゅってん]
  6. ^ 片桐かたぎり昭彦あきひこは、定実さだざね死去しきょした当時とうじ越後えちご国内こくないには越後えちご上杉うえすぎ分家ぶんけである上条かみじょう山浦やまうら山本やまもとてら存在そんざいしており、かれらのなかからつぎ越後えちご守護しゅご選択せんたくする方法ほうほうもあったが、その方法ほうほうはこれらの分家ぶんけ立場たちばつよめて守護しゅごだい長尾ながお上杉うえすぎ一門いちもん対立たいりつ再燃さいねんするきっかけになる可能かのうせいがあったために回避かいひしたのではないかとしている[21]

出典しゅってん

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  1. ^ a b c いけ & 矢田やた 2007, p. 81.
  2. ^ 森田もりた真一しんいち 2001, pp. 1–27.
  3. ^ 長谷川はせがわしん 1995, pp. 5–23.
  4. ^ 前嶋まえじまさとし 2008, pp. 807–819.
  5. ^ いけ & 矢田やた 2007, p. 17.
  6. ^ いけ & 矢田やた 2007, p. 19.
  7. ^ いけ & 矢田やた 2007, p. 21.
  8. ^ いけ & 矢田やた 2007, p. 22.
  9. ^ いけ & 矢田やた 2007, p. 23.
  10. ^ いけ & 矢田やた 2007, p. 24.
  11. ^ いけ & 矢田やた 2007, pp. 32–34.
  12. ^ いけ & 矢田やた 2007, pp. 56–61.
  13. ^ いけ & 矢田やた 2007, p. 61.
  14. ^ いけ & 矢田やた 2007, p. 64.
  15. ^ いけ & 矢田やた 2007, pp. 64–72.
  16. ^ a b いけ & 矢田やた 2007, p. 72.
  17. ^ a b 福原ふくはら圭一けいいち上杉うえすぎ謙信けんしん五味ごみ文彦ふみひこ 監修かんしゅう歴史れきし文化ぶんか遺産いさん 戦国せんごく大名だいみょう山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、2018ねん、P49-51.
  18. ^ いけ & 矢田やた 2007, p. 73.
  19. ^ いけ & 矢田やた 2007, pp. 76–78.
  20. ^ いけ & 矢田やた 2007, p. 79.
  21. ^ 片桐かたぎり昭彦あきひこ上杉うえすぎ謙信けんしん家督かとく継承けいしょう家格かかく秩序ちつじょ創出そうしゅつ」『上越じょうえつ研究けんきゅう』10ごう、2004ねん /所収しょしゅう:前嶋まえじまさとし へん上杉うえすぎ謙信けんしん』戒光さち出版しゅっぱん中世ちゅうせい関東かんとう武士ぶし研究けんきゅう だいさんろくかん〉、2024ねん、139-140ぺーじISBN 978-4-86403-499-9 

参考さんこう文献ぶんけん

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