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さかい根原ねばら合戦かっせん

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さかい根原ねばら合戦かっせん
戦争せんそう戦国せんごく時代じだい戦闘せんとう
年月日ねんがっぴ1479ねん1がつ2にち
場所ばしょ下総しもうさこく
結果けっか扇谷おうぎや上杉うえすぎぐん勝利しょうり
交戦こうせん勢力せいりょく
上杉うえすぎ定正さだまさ 千葉ちばたかしたね
指導しどうしゃ指揮しきかん
太田おおた道灌どうかん
千葉ちばたね
千葉ちばたかしたね
戦力せんりょく
不明ふめい 不明ふめい
損害そんがい
不明ふめい 不明ふめい

さかい根原ねばら合戦かっせん(さかいねはらかっせん)とは、文明ぶんめい10ねん12月10にち1479ねん1がつ2にち)、下総しもうさこく境根さかいねばらげん千葉ちばけんかしわ酒井根さかいね)にておこなわれた合戦かっせん上杉うえすぎ定正さだまさ重臣じゅうしん太田おおた道灌どうかんが、下総しもうさ土豪どごう千葉ちば内紛ないふんからかたちはじまった。

経緯けいい

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長尾ながお景春かげはるらん

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康正こうせい元年がんねん1455ねん)、前年ぜんねん勃発ぼっぱつした古河ふるかわ公方くぼう足利あしかが成氏しげうじ山内やまうち上杉うえすぎ扇谷おうぎや上杉うえすぎ室町むろまち幕府ばくふ鎌倉かまくら公方くぼう堀越ほりこし公方くぼう足利あしかが政知まさとも対立たいりつによる騒乱そうらんとおるとくらん)で下総しもうさ千葉ちば内紛ないふん勃発ぼっぱつする。宗家そうけ・14だい千葉ちばかいたねじきたねせん父子ふし一族いちぞくうまじょうおもうまかんたね重臣じゅうしんしょうゆみじょうあるじはらたねぼうらに居城きょじょう亥鼻いのはなじょう急襲きゅうしゅうされしろ陥落かんらく千葉ちばたねちょく父子ふし志摩しまじょう古城こじょうにて自刃じじんし、ぞくせんよう宗家そうけ滅亡めつぼうした。よく康正こうせい2ねん1456ねん)、たねじきおとうとたねけんじつたねたね兄弟きょうだい東常縁とうのじょうえん援軍えんぐん国府台こうのだいじょうもったが、奮戦ふんせんむなしくやぶれて武蔵むさし石浜いしはましろ武蔵むさし赤塚あかつかじょうのがれ、扇谷おうぎや上杉うえすぎ家重いえしげしん太田おおた道灌どうかん庇護ひごされた。

20ねん文明ぶんめい8ねん1476ねん)12月、長尾ながお景春かげはる山内やまうち上杉うえすぎいえおさむしょく後嗣こうしめぐって上杉うえすぎ顕定あきさだそむ鉢形はちがたじょう挙兵きょへい長尾ながお景春かげはるらんがおきる。景春かげはるよく文明ぶんめい9(1477ねん正月しょうがつ五十子いかごじん上杉うえすぎ本陣ほんじん襲撃しゅうげき落城らくじょう上杉うえすぎ上野うえののがれた。扇谷おうぎだに上杉うえすぎいえおさむ太田おおた道灌どうかん景春かげはる帰服きふくびかけるが景春かげはる拒否きょひする。5月に用土ようどばらたたかおこなわれ、道灌どうかん上杉うえすぎぐん景春かげはるやぶった。景春かげはるやぶれて鉢形はちがたじょうもり、再起さいきはかる。上杉うえすぎ鉢形はちがたじょう包囲ほういし、降伏ごうぶく勧告かんこく再三さいさんおこなう。景春かげはる不利ふり挽回ばんかいしようと、古河ふるかわ公方くぼう足利あしかがしげる支援しえん要請ようせいした。7月にはしげる結城ゆうき宇都宮うつのみや那須なす佐々木ささき横瀬よこせといった関東かんとう各地かくち土豪どごうらをれて上野うえのたきまで進軍しんぐんする。上杉うえすぎ顕定あきさだ上杉うえすぎ定正さだまさらは鉢形はちがたじょう包囲ほういいて上野うえの防衛ぼうえいかためた。文明ぶんめい10ねん(1478ねん正月しょうがつ上杉うえすぎ足利あしかがしげるあいだ和議わぎなり、景春かげはるしげる説得せっとく鉢形はちがたじょう帰還きかんした。

しかし、千葉ちばたかしたね停戦ていせんしたがわず、長尾ながお景春かげはるむすんで上杉うえすぎ対抗たいこうした。これを討伐とうばつするため、太田おおた道灌どうかん千葉ちばたね国府台こうのだいじょう着陣ちゃくじん。これにより両者りょうしゃ戦闘せんとうけられない事態じたいとなり、境根さかいねげん合戦かっせんはじまる。

本戦ほんせん

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太田おおた道灌どうかん

さかい根原ねばら合戦かっせんについて、太田おおた道灌どうかん上杉うえすぎ定正さだまさ側近そっきん高瀬たかせみんしょうてた長文ちょうぶん書状しょじょう太田おおた道灌どうかんじょう」には、合戦かっせん理由りゆうについて「千葉介孝胤御退治事、古河ふるかわさまこうさるなりたねため合力ごうりょくこうかれこく千葉ちばこうたね退治たいじすることを、古河ふるかわ公方くぼう足利あしかが成氏しげうじさまもうたねちからわせ、かのくに下総しもうさ)へ出向でむいた)」「関東かんとう無為むいしゃ関東かんとう無為むいのため)」などとかれている。しかし戦況せんきょうについては「十二月じゅうにがつ十日於下総境根原令合戦得勝利十二月じゅうにがつじゅうにち下総しもうさ境根さかいねばらいて合戦かっせんをして勝利しょうりたり)」としかいておらず、勝利しょうりした事実じじつのみをべている。

しかし、「鎌倉かまくら大草おおくさ」では、道灌どうかん進軍しんぐんたいこうたね境根さかいねばら出張でばったため、道灌どうかんかい、10日とおかまるいちにちたたからし、こうたねけて撤退てったいした、とある。そしてこうたね重臣じゅうしん一族いちぞく木内きうちはらなどに死者ししゃした(具体ぐたいてきだれなのかはわかっていない)。また、この地域ちいき死者ししゃしる本土ほんどてらの「本土ほんどてら過去かこちょう」では「さかい根原ねばら合戦かっせん」にいて匝瑳そうさかんかいよし(そうさかげゆ)、野嶋のじま入道にゅうどう今泉いまいずみ入道にゅうどう布良めら左京さきょうあきらみょうこうなどが戦死せんししたとかれる[1]匝瑳そうさ高田たかだ豪族ごうぞく野嶋のじま我孫子あびこ豪族ごうぞくであり、戦争せんそうおおきさをつたえる。

その

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やぶれたこうたね臼井うすいしろこもった。道灌どうかんおい太田おおたちゅう千葉ちばたねにつけ、ちょうむくろ臼井うすいじょう攻撃こうげきした。よく文明ぶんめい11ねん1479ねん)1がつ臼井うすいじょう陥落かんらくする。しかしこうたねらの決死けっし逆襲ぎゃくしゅうちゅう戦死せんしたね撤退てったいした。そして、こうたね混乱こんらんにまぎれて逃走とうそうし、戦役せんえき終了しゅうりょうした。こののちたねふたた下総しもふさへの侵攻しんこうかんがえたが、下総しもふさこうたね支持しじする勢力せいりょくおおく、侵攻しんこうをあきらめた。これにより、下総しもふさでの一連いちれんせん集結しゅうけつし、こうたね子孫しそん千葉ちば宗家そうけ継承けいしょうすることになる。

文明ぶんめい14ねん1482ねん)、幕府ばくふ古河ふるかわ公方くぼうあいだ和議わぎなってとおるとくらん終結しゅうけつ。よって千葉ちば内乱ないらん小規模しょうきぼする。

現在げんざい

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さかい根原ねばら合戦かっせん戦跡せんせき千葉ちばけんかしわひかりおか団地だんち

かしわ酒井根さかいねには「合戦かっせんじょう」としょうする箇所かしょ多数たすうあり、またかつてはせんまんともいうかずづかがあり、はら木内きうちなど千葉ちばこうたねぐん将兵しょうへいはかであるとつたえられていた[1][2]ひかりおか開発かいはつなどでこれらのづかめられてしまったが、現在げんざい団地だんち隙間すきまなど一部いちぶ箇所かしょづかのこっている。

また、かしわ中央ちゅうおう図書館としょかん正門せいもんまえにあるかしわ地図ちずなかに、「境根さかいねげん合戦かっせん古戦場こせんじょう」とかれてある。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b かしわ
  2. ^ 下総しもうさきゅうことこう

参考さんこう文献ぶんけん

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  • かしわ教育きょういく委員いいんかい編纂へんさんかしわ 原始げんし古代こだい中世ちゅうせいへん
  • かしわ風土記ふどきどう委員いいんかい
  • しんかしわ風土記ふどきどう委員いいんかい
  • 下総しもうさきゅうことこう 資料しりょうへん2』
  • 鎌倉かまくら大草おおくさ
  • 神奈川かながわけん編纂へんさん神奈川かながわけん通史つうしへん
  • 新編しんぺん埼玉さいたまけん資料しりょうへん
  • 本土ほんどてら過去かこちょう

関連かんれん項目こうもく

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