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長谷川はせがわ正宣まさのぶ

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長谷川はせがわ 正宣まさのぶ
時代じだい 室町むろまち時代ときよ - 戦国せんごく時代じだい
生誕せいたん おうひさし34ねん1427ねん
死没しぼつ えいただし10ねん6月1にち1513ねん7がつ3にち
別名べつめい 次郎じろう左右さゆう衛門えもんほう永長ながおさしゃ
戒名かいみょう はやし叟院殿どのおうぎあんほう永大えいだい居士こじ
墓所はかしょ 静岡しずおかけん焼津やいづ坂本さかもとはやし叟院
氏族しぞく 長谷川はせがわ
長谷川はせがわ元長もとなが
テンプレートを表示ひょうじ

長谷川はせがわ正宣まさのぶ(はせがわ まさのぶ)[注釈ちゅうしゃく 1]は、戦国せんごく時代じだい有徳うとくじん有力ゆうりょくしゃ富豪ふごう)。小川おがわしろ城主じょうしゅ15世紀せいき後半こうはん-16世紀せいき前半ぜんはんにかけ現在げんざい静岡しずおかけん焼津やいづ小川おがわ(こがわ)地域ちいきにあたる駿河するがこく志太しだぐん小川おがわ勢力せいりょくり、「小川おがわほう永長ながおさしゃほうなが居士こじ)」とばれた[2]

経歴けいれき

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1427ねんおうひさし34ねん)に坂本さかもと焼津やいづ坂本さかもと)の地頭じとう加納かのう義久よしひさ次男じなんとしてまれ、長谷川はせがわよめ婿むことなった[3]

長谷川はせがわは、志太しだ平野へいやから駿河湾するがわんそそくろ石川いしかわ河口かこうにある小川おがわみなと物流ぶつりゅう交易こうえき掌握しょうあくすること繁栄はんえいした一族いちぞくかんがえられており、正宣まさのぶは『今川いまがわ』で「山西さんせい有徳うとくじん」(西にし駿河するが富豪ふごう)としるされている[1][4]

1476ねん文明ぶんめい8ねん)、駿河するがこく守護しゅご今川いまがわ当主とうしゅ今川いまがわ義忠よしただ遠江とおとうみこくへの遠征えんせい戦死せんしし、今川いまがわ家中かちゅう家督かとくあらそいがしょうじた(文明ぶんめい内訌ないこう)。義忠よしただ嫡男ちゃくなんでまだおさな龍王りゅうおうまるわり、義忠よしただ従弟じゅうていである小鹿こじかはんみつる家督かとく代行だいこうとして今川いまがわかんはいることとなったが、正宣まさのぶあらそいにやぶかんから退去たいきょした龍王りゅうおうまるとそのはは義忠よしただ正室せいしつ北川きたがわ殿どの自分じぶん屋敷やしきである小川おがわしろ保護ほごした。これ以降いこう今川いまがわ被官ひかんとなったとされる[1]

居館きょかん小川おがわ城跡じょうせきは、1979ねん昭和しょうわ54ねん)から発掘はっくつ調査ちょうさされ、ほりるいかこまれたしろかんうちから中国ちゅうごくさん輸入ゆにゅう陶磁器とうじきなど富裕ふゆうそう遺物いぶつ出土しゅつどし、長谷川はせがわ繁栄はんえい裏付うらづける調査ちょうさ結果けっかとなった[2][4]

1471ねん文明ぶんめい3ねん)に故郷こきょう坂本さかもとはやし叟院開基かいき自身じしん1513ねんえいただし10ねん)の死後しごどうてらほうむられた[2]

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ せいせん」とする資料しりょうもある[1]

出典しゅってん

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  1. ^ a b c 平井ひらいほか 1979 pp.127
  2. ^ a b c 小川おがわ城跡じょうせき”. 焼津やいづ (2021ねん7がつ20日はつか). 2022ねん1がつ22にち閲覧えつらん
  3. ^ 境内けいだい案内あんない”. はやし叟院. 2022ねん1がつ22にち閲覧えつらん
  4. ^ a b 河合かわい 2008 pp.99

参考さんこう文献ぶんけん

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