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小豆あずきざかたたか

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
愛知あいちけん岡崎おかざき戸崎とさきまちうしてんの「小豆あずきざか古戦場こせんじょうあと[1]
愛知あいちけん岡崎おかざき不吹ふぶきまちの「小豆あずきざか戦歿せんぼつしゃ英霊えいれい記念きねん」。篤志とくしが1941ねん建立こんりゅうした[2]

小豆あずきざかたたか(あずきざかのたたかい)は、岡崎おかざきしろちか三河みかわこく額田ぬかたぐん小豆あずきざか現在げんざい愛知あいちけん岡崎おかざき羽根はねまち小豆あずきざか同市どうし美合みあいまち小豆あずきざか)でおこなわれた戦国せんごく時代じだい合戦かっせん三河そうごがわ今川いまがわ松平まつだいら連合れんごうと、尾張おわりから侵攻しんこうしてきた織田おだあいだ天文てんもん11ねん1542ねん)と17ねん1548ねん)の2にわたってひろげられた。

発端ほったん松平まつだいらちゅう家督かとく相続そうぞくをめぐる対立たいりつだが、これに領地りょうち拡大かくだいはか織田おだ今川いまがわ介入かいにゅうし、事実じじつじょう松平まつだいら清康きよやす死後しご勢力せいりょくおとろえた松平まつだいらわる西にし三河そうご地方ちほう覇権はけんめぐって、織田おだ信秀のぶひで今川いまがわ義元よしもととのあいだしょうじたこうそうである。

合戦かっせんいた背景はいけい[編集へんしゅう]

岡崎おかざきしろしゅとして西にしさんかわ平野へいや支配しはいしていた松平まつだいらは、松平まつだいら清康きよやすだい三河みかわ全域ぜんいきをほぼ平定へいていしたが、天文てんもん4ねん1535ねん)のもり山崩やまくずによって清康きよやす不慮ふりょげてから一族いちぞくあいだ内紛ないふんこり、動揺どうようしていた。やがて清康きよやす嗣子ししこうちゅうが、ひがし駿河するがこく遠江とおとうみこく支配しはいする今川いまがわ義元よしもと後援こうえんけて岡崎おかざきじょうもど家督かとく相続そうぞくするものの、依然いぜんとして勢力せいりょく不安定ふあんていだった。

尾張おわり南部なんぶ勢力せいりょくひろげ、戦国せんごく大名だいみょうすすめていた織田おだ信秀のぶひで天文てんもん9ねん1540ねん)に松平まつだいら弱体じゃくたいじょうじて西にしさんかわ松平まつだいら重要じゅうよう拠点きょてんであるあんさちじょう愛知あいちけん安城あき)を手中しゅちゅうにし、松平まつだいら本拠ほんきょである岡崎おかざきじょう目前もくぜんである矢作川やはぎかわのすぐ西にしまでその勢力せいりょくばしていた。

だいいち合戦かっせん[編集へんしゅう]

だいいち小豆あずきざかたたか
戦争せんそう戦国せんごく時代じだい (日本にっぽん)
年月日ねんがっぴ天文てんもん11ねん8がつ10日とおか1542ねん9月19にち
場所ばしょ三河みかわこく額田ぬかたぐん小豆しょうずざか愛知あいちけん岡崎おかざき羽根はねまち小豆あずきざか同市どうし美合みあいまち小豆あずきざか
結果けっか織田おだぐん勝利しょうり
交戦こうせん勢力せいりょく
織田おだぐん 今川いまがわぐん
指導しどうしゃ指揮しきかん
織田おだ信秀のぶひで 今川いまがわ義元よしもと
戦力せんりょく
不明ふめい 不明ふめい
損害そんがい
不明ふめい 不明ふめい
今川いまがわ義元よしもとたたか

織田おだ信秀のぶひで西にし三河そうご平野ひらのへの進出しんしゅつたいし、松平まつだいら後援こうえんしつつひがしさんかわから西にしさんかわへと勢力せいりょくばしつつあった今川いまがわ義元よしもとは、西にしさんかわから織田おだ勢力せいりょく駆逐くちくすべく、天文てんもん11ねん1542ねん)8がつ一説いっせつに12月)、大兵だいひょうひきいて生田原いくたはらぐんすすめた。一方いっぽう織田おだ信秀のぶひでもこれにたいしてあんさちじょうはっし、矢作川やはぎかわわたって対岸たいがん上和田かみわだ布陣ふじん同月どうげつ10にち9月19にち)、りょうぐん岡崎おかざき城東じょうとうみなみ小豆あずきざかにおいて激突げきとつした。

このたたかいは、織田おだかた小豆あずきざかななほんやりをはじめとした将士しょうし奮戦ふんせんによって織田おだぐん勝利しょうりわったとされる。また、だいいち合戦かっせんこん川方かわかた大将たいしょうの「いはら」は庵原いおはらであり、ふとしはらゆきときのことである。

しかしながら、このだいいち合戦かっせんについては虚構きょこうであるというせつもある。それは今川いまがわひがしさんかわ進出しんしゅつ天文てんもん12ねん1543ねん以降いこうのことであることによる[3]。また、当時とうじ今川いまがわ本拠地ほんきょちである駿河するが国東くにさきでも北条ほうじょう衝突しょうとつかえしていたこと(河東かわとういちらん)にも留意りゅういする必要ひつようがある。

だい合戦かっせん[編集へんしゅう]

だい小豆あずきざかたたか
戦争せんそう戦国せんごく時代じだい (日本にっぽん)
年月日ねんがっぴ天文てんもん17ねん3がつ19にち1548ねん4がつ27にち
場所ばしょ三河そうごこく額田ぬかたぐん小豆しょうずざか愛知あいちけん岡崎おかざき羽根町小豆坂はねちょうあずきさか同市どうし美合みあいまち小豆しょうずざか
結果けっか織田おだぐん大敗たいはい
交戦こうせん勢力せいりょく
織田おだぐん 今川いまがわ松平まつだいら連合れんごうぐん
指導しどうしゃ指揮しきかん
織田おだ信秀のぶひで
織田おだ信広のぶひろ
松平まつだいらひろただし
ふとしはらゆきとき
朝比奈あさひなやすしのう
戦力せんりょく
やく4,000 松平まつだいらぐん 不明ふめい
今川いまがわぐん やく10,000
損害そんがい
壊滅かいめつ 不明ふめい
今川いまがわ義元よしもとたたか

小豆あずきざか最初さいしょ激突げきとつのち織田おだ尾張おわり三河みかわ国境こっきょう地帯ちたいたいする影響えいきょうりょくたかまり、天文てんもん13ねん1544ねん)には三河そうごこく碧海あおみぐん刈谷かりやしろ刈谷かりや)を中心ちゅうしん国境こっきょう地帯ちたい勢力せいりょく国人くにびと水野みずのしんもとが、岡崎おかざき城主じょうしゅ松平まつだいらひろちゅうつま於大おだいほうあにでありながら松平まつだいら絶縁ぜつえんし、今川いまがわ離反りはんして織田おだしたがった。また、おなごろ松平まつだいらひろちゅう叔父おじである信孝のぶたか阿部あべ大蔵たいぞう松平まつへい重臣じゅうしんとの権力けんりょくあらそいのすえ追放ついほうされているが[4]、そもそもこうちゅう於大おだい婚姻こんいんまとめたのは当時とうじこうちゅう後見こうけんやくであった信孝のぶたかであり、松平まつだいら水野みずのをつなぐ存在そんざいであった信孝のぶたか追放ついほうしたことが絶縁ぜつえん本当ほんとう理由りゆうであったとみられている[5]実際じっさい水野みずのしんもと松平まつだいら信孝のぶたか協力きょうりょく関係かんけいはそのつづき、松平まつだいらひろちゅう水野みずのしんもと敵対てきたいしていた田原たはらしろ愛知あいちけん田原たはら)の城主じょうしゅ戸田とだ康光やすみつむすめ真喜まきひめ再婚さいこんしている[5]

この情勢じょうせいけて、こうちゅう織田おだ対抗たいこう今川いまがわとの関係かんけいをさらに緊密きんみつにするため、嫡子ちゃくしたけせんだい徳川とくがわ家康いえやす)を人質ひとじちとして今川いまがわ本拠ほんきょ駿府すんぷおくることにした。しかし、天文てんもん16ねん1547ねん)、当時とうじ6さいたけせんだい身柄みがらは、護送ごそうにんにあたった戸田とだ康光やすみつ裏切うらぎりによって織田おだかたわたされてしまった。織田おだ信秀のぶひで人質ひとじちたけせんだい利用りようしてこうちゅうたい今川いまがわ離反りはんして織田おだ傘下さんかはいるよう説得せっとくしたものの、こうちゅう今川いまがわたよって織田おだへの徹底てってい抗戦こうせんかまえをくずすことはなかった。

おなごろ信秀のぶひで嫡男ちゃくなん信長のぶなが斎藤さいとう道三どうさんむすめ濃姫のうひめめとらせて、累年るいねんてきであった美濃みの斎藤さいとう和睦わぼく推進すいしんした。これによりきたうれいをなくした信秀のぶひであらためてひがしへとけ、奪取だっしゅしたあんさちじょう橋頭堡きょうとうほとして、岡崎おかざきじょう攻略こうりゃく企図きとするにいたる。

こうして天文てんもん17ねん1548ねん)3がつ信秀のぶひで岡崎おかざきじょう武力ぶりょく攻略こうりゃくすることをめざし、庶長子ちょうし信広のぶひろ先鋒せんぽうとし4,000あまりへいひきいてあんさちじょうから矢作川やはぎかわ渡河とか上和田かみわだ着陣ちゃくじんした。今川いまがわ義元よしもと松平まつだいら救援きゅうえんのためやく1まんへいふとしはらゆきとき大将たいしょう朝比奈あさひなやすしのう副将ふくしょうとして出陣しゅつじんさせ、同月どうげつ19にち4がつ27にち)に織田おだぐん先鋒せんぽう信広のぶひろ接触せっしょく小豆あずきざか合戦かっせんとなった。

このたたかいでは、はじめ今川いまがわぜいさか頂上ちょうじょう付近ふきん布陣ふじんしていたために優勢ゆうせいであったが、信広のぶひろたい劣勢れっせいさとって無理むりをせずにへい信秀のぶひで本隊ほんたいのあるぬすめ付近ふきんまでげ、本隊ほんたい合流ごうりゅうしていきおいをかえした織田おだかた奮戦ふんせんによって松平まつだいらたいくずされ、次第しだい今川いまがわかた敗色はいしょくくなりつつあった。ところがこのとき伏兵ふくへいとなっていた今川いまがわかた部隊ぶたい攻勢こうせいてんじ、織田おだほんぐん横槍よこやりれたことで織田おだぜい総崩そうくずれ、ふたた矢作川やはぎかわわたってあんさちしろまで敗走はいそうすることとなった。

ところで、「松平まつだいらひろちゅう岡崎おかざきじょう今川いまがわかたにある」ということは、だい合戦かっせん前提ぜんていとして、これまでまったうたがわれることがなかった。ところが、越後えちごこく本成寺ほんじょうじだいきゅうせいであるにちさとし尾張おわりこく出身しゅっしんで、今川いまがわ家臣かしん鵜殿うどのから帰依きえけていた)がのこした書状しょじょう[6]なかに、天文てんもん16ねん1547ねん)9がつ岡崎おかざきじょう織田おだぐんとされたという記述きじゅつがあることが判明はんめいしこれを事実じじつとするせつ村岡むらおか幹生みきおによってとなえられた[7]。この新説しんせつ研究けんきゅうしゃなかでも支持しじするうごきがあり、さらにこのせつ発展はってんさせて、松平まつだいらたけせんだい徳川とくがわ家康いえやす)は戸田とだ康光やすみつ裏切うらぎりではなく、こうちゅう自身じしん降伏ごうぶくあかしとして織田おだわたしたとするせつまでされるようになっている[8]

だい合戦かっせん岡崎おかざきしろ松平まつだいらひろちゅう織田おだかたであったとするせつ[編集へんしゅう]

前述ぜんじゅつのように、松平まつだいらひろちゅう岡崎おかざきじょうだい合戦かっせん半年はんとしまえ織田おだかた降伏ごうぶくしてしまったとした場合ばあい松平まつだいらひろちゅうはいつまで織田おだかたにいたのか(反対はんたいえば今川いまがわかた寝返ねがえったのか)によってだい合戦かっせん解釈かいしゃくまったちがうものになってくる。これについて、村岡むらおか幹生みきお岡崎おかざきじょう落城らくじょうしたとされる天文てんもん16ねん9がつ下旬げじゅん発生はっせいした渡河とかばらたたか段階だんかいこうちゅう岡崎おかざきじょう今川いまがわかた復帰ふっきしていた(織田おだぐん撤退てったいした直後ちょくご寝返ねがえった)可能かのうせい排除はいじょできないとする一方いっぽうで、だい合戦かっせん当時とうじこうちゅう岡崎おかざきしろとも織田おだかたで、どう合戦かっせんでの今川いまがわ勝利しょうり今川いまがわかた復帰ふっきした可能かのうせいつよいとした。その根拠こんきょとして、①『さんかわ物語ものがたり』には松平まつだいらぜい動向どうこうまったないこと。②『松平まつだいら』でも岡崎おかざきしゅうひきいているのは今川いまがわ家臣かしん朝比奈あさひなしんおけである。③この岡崎おかざきしゅう岡崎おかざきじょうから出陣しゅつじんしてひがしから今川いまがわぐん合流ごうりゅうしたとすると、西にしから矢作川やはぎかわわたってくる織田おだぐん岡崎おかざきじょう留守るすねらわれることになる。④反対はんたいこうちゅう部隊ぶたい岡崎おかざきじょうにいたとしても小豆あずきざかから岡崎おかざきじょうはたとおって矢作川やはぎかわわたって撤退てったいする織田おだぐん迎撃げいげき追撃ついげきした記録きろくがないのは不自然ふしぜんである。⑤以上いじょうてんからして、松平まつだいらひろちゅうおよ岡崎おかざきじょう今川いまがわかたであるとすると、織田おだぐん内通ないつうしたとうたがわれても仕方しかたがないレベルの背信はいしん行為こういおこなっている。として、だい合戦かっせんでの岡崎おかざきじょう松平まつだいらひろちゅう織田おだかたについており、今川いまがわ勝利しょうり今川いまがわかた復帰ふっきした可能かのうせいたかいとみている。なお、ここで問題もんだいになる今川いまがわぐんにいた「岡崎おかざきしゅう」の存在そんざいであるが、村岡むらおか織田おだぐんへの降伏ごうぶくを肯んじえずに今川いまがわたよって「ろうじん」となった松平まつだいら家臣かしんであろうと推測すいそくする。つまり、このせつもとづくと、当時とうじ松平まつだいらこうちゅうしたがって織田おだった家臣かしんとそれを拒否きょひして今川いまがわたよった家臣かしんれていたことになる[7]

ただ、村岡むらおか岡崎おかざきじょう攻略こうりゃく松平まつだいらひろちゅう織田おだかた降伏ごうぶくしたせつ支持しじする研究けんきゅうしゃでも小豆あずきざかたたか段階だんかいでは松平まつだいらひろちゅうすで今川いまがわかた復帰ふっきしていたとする見解けんかいもある。たとえば、しば裕之ひろゆきは『武家ぶけ伝記でんき』に天文てんもん17ねん斎藤さいとう利政としまさ道三どうさん説得せっとくによって織田おだ大和やまともり松平まつだいらひろちゅう挙兵きょへいしたことがしるされており、このときこうちゅう今川いまがわかた接近せっきんした結果けっかとして小豆あずきざかたたかいがきたとしている。このせつによれば、斎藤さいとう道三どうさん松平まつだいらひろちゅう同盟どうめい存在そんざいとともに、みちさんはたらきかけがだい合戦かっせん原因げんいんの1つであったことになる[9]

小豆あずきざかたたか織田おだ今川いまがわ[編集へんしゅう]

だい合戦かっせんにおいて今川いまがわ松平まつだいら連合れんごう勝利しょうりおさめはしたが、この合戦かっせんのあった天文てんもん17ねん(1548ねん)に松平まつだいらひろちゅう死亡しぼうしてしまい、松平まつだいら次期じき当主とうしゅであるたけせんだい織田おだのもとに人質ひとじちとしてある以上いじょう岡崎おかざきじょう無主むしゅ状態じょうたいになってしまった。そこでよく天文てんもん18ねん1549ねん)、ふとしはらゆきとき人質ひとじち交換こうかんによってたけせんだい身柄みがら今川いまがわ保護ほご奪還だっかんすることをねらい、11月8にち11月26にち)から9にち11月27にち)にかけて今川いまがわぐん松平まつだいらぐんひきいてあんさちじょう攻略こうりゃく信広のぶひろ捕虜ほりょとして、たけせんだい交換こうかんする交渉こうしょう成功せいこうした。今川いまがわはそのままたけせんだい駿府すんぷって松平まつだいら完全かんぜん保護ほごき、西にしさんかわ拠点きょてんとなる岡崎おかざきじょう今川いまがわ派遣はけんした代官だいかんいた。

一方いっぽうあんさちじょう失陥しっかんにより織田おだ三河みかわ進出しんしゅつ挫折ざせつわり、さらに天文てんもん20ねん1551ねん)には織田おだ信秀のぶひで病没びょうぼついだ信長のぶながとそのおとうと信勝のぶかつ織田おだ信行のぶゆきあいだ内紛ないふんこった。この結果けっか尾張おわり三河みかわ国境こっきょう地帯ちたいにおける織田おだ勢力せいりょく動揺どうようし、信秀のぶひで前後ぜんごして鳴海なるみじょう笠寺かさでらじょう(それぞれ名古屋なごやみどりみなみ)をまも山口やまぐち今川いまがわかた投降とうこうし、ぎゃく今川いまがわ勢力せいりょく尾張おわりがわむこととなった。

やがて、おとうととのあらそいをった織田おだ信長のぶなが尾張おわり統一とういつすすめてちからをつけ笠寺かさでら奪還だっかん、さらに鳴海なるみしろ周辺しゅうへんとりできずき、鳴海なるみじょうこもった今川いまがわかた武将ぶしょう岡部おかべ元信もとのぶ攻囲こういするにいたる。これにたいし、えいろく3ねん1560ねん)に今川いまがわ義元よしもと大軍たいぐんをもって尾張おわり侵攻しんこうした。鳴海なるみじょうをはじめ孤立こりつした今川いまがわかた勢力せいりょく救援きゅうえんし、国境こっきょう地帯ちたいあらそいを劣勢れっせいからかえそうとした。この戦役せんえきにおいて勃発ぼっぱつした合戦かっせんおけ狭間はざまたたかであり、主将しゅしょう義元よしもとうしなった今川いまがわぐん三河みかわから急速きゅうそく勢力せいりょく後退こうたいさせ、かわって松平まつだいら元康もとやす徳川とくがわ家康いえやす)にひきいられた松平まつだいら復興ふっこうすることになる。まもなく松平まつだいら織田おだ同盟どうめい清洲きよす同盟どうめい)をむすんだため、ながらくつづいた尾張おわり三河みかわ国境こっきょう地帯ちたいあらそいは沈静ちんせいしていった。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 指定してい史跡しせき 小豆あずきざか古戦場こせんじょうあと”. 岡崎おかざきホームページ (2020ねん9がつ8にち). 2022ねん2がつ17にち閲覧えつらん
  2. ^ 岡崎おかざきまちものがたり 14 小豆あずきざか学区がっく” (PDF). 岡崎おかざき 市制しせい100周年しゅうねん記念きねんサイト (2017ねん1がつ). 2020ねん7がつ26にち閲覧えつらん
  3. ^ 小和田こわだ哲男てつお駿河するが 今川いまがわ一族いちぞく新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、1983ねん、200-201ぺーじ 
  4. ^ 戦国せんごく研究けんきゅうかい 2020, pp. 131–135, 茶園ちゃえんひろしおのれ安城あき松平まつだいらにおける阿部あべ大蔵おおくら位置いち役割やくわり
  5. ^ a b 戦国せんごく研究けんきゅうかい 2020, pp. 166–168, 小川おがわつよし今川いまがわ三河みかわ尾張おわり経略けいりゃく水野みずの一族いちぞく
  6. ^ 本成寺ほんじょうじ文書ぶんしょ」『証文しょうもん』/『戦国せんごく遺文いぶん今川いまがわへんだい2かん965ごう
  7. ^ a b 村岡むらおか幹生みきお織田おだ信秀のぶひで岡崎おかざき攻落こうらく考証こうしょう」『中京大学ちゅうきょうだいがく文学ぶんがく論叢ろんそう』1ごう、2015ねん。/所収しょしゅう:大石おおいし泰史やすし へん今川いまがわ義元よしもとえびすひかりさち出版しゅっぱん〈シリーズ・中世ちゅうせい関東かんとう武士ぶし研究けんきゅう だいななかん〉、2019ねん、353-383ぺーじISBN 978-4-86403-325-1
  8. ^ しば裕之ひろゆき徳川とくがわ家康いえやす 境界きょうかい領主りょうしゅから天下てんかじんへ』、平凡社へいぼんしゃ中世ちゅうせいから近世きんせいへ〉、2017ねん6がつ、40-42ぺーじISBN 978-4-582-47731-3
  9. ^ しば裕之ひろゆき ちょ松平まつだいら元康もとやすとの関係かんけい」、黒田くろだ基樹もとき へん今川いまがわ義元よしもとえびすひかりさち出版しゅっぱん〈シリーズ・戦国せんごく大名だいみょうしん研究けんきゅう だい1かん〉、2019ねん6がつ、277ぺーじISBN 978-4-86403-322-0 

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 戦国せんごく研究けんきゅうかい へん論集ろんしゅう 戦国せんごく大名だいみょう今川いまがわ岩田いわた書院しょいん、2020ねんISBN 978-4-86602-098-3 

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]