坊ぼう城じょう 俊昌としまさ(ぼうじょう としまさ)は、安土あづち桃山ももやま時代じだいから江戸えど時代じだいにかけての公家くげ(公卿くぎょう)。
堂上どうじょう家か(家格かかくは、名家めいか、藤原ふじわら北きた家か高藤たかとう流りゅう勧修寺かんしゅうじ庶流)である、坊ぼう城じょう家かの9代だい当主とうしゅ。
准じゅん大臣だいじん・勧修寺かんしゅうじ晴はれ豊ゆたかの四よん男なん。母ははは刑部おさかべ卿きょう兼けん陰陽いんよう頭あたま・土御門つちみかど有ゆう脩おさむの娘むすめ。室しつは豊後ぶんご守まもる・松倉まつくら重政しげまさの娘むすめ。兄弟きょうだいに権けん大納言だいなごん・勧修寺かんしゅうじ光こう豊ゆたか、蔵人くろうど頭あたま・甘露かんろ寺てら経けい遠とお、讃岐さぬき守もり・伊達だて源みなもと行こう、右みぎ京きょう亮あきら・阿部あべ致康、相国寺しょうこくじ95世せい・鳳おおとり林りん承うけたまわ章あきらなど。実子じっしに権けん大納言だいなごん・勧修寺かんしゅうじ経けい広ひろ、権けん大納言だいなごん・坊ぼう城じょう俊しゅん完かん(はじめ、権けん中納言ちゅうなごん・葉室はむろ頼宣よりのぶの養子ようし)、左ひだり馬ば助すけ・小堀こぼり正ただし春はる(遠とお州しゅう流りゅう)の室しつなど。
文ぶん禄ろく4年ねん(1595年ねん)、権けん中納言ちゅうなごん・坊ぼう城じょう俊しゅん名めいの没後ぼつご、55年ねんに渡わたり中絶ちゅうぜつしていた坊ぼう城じょう家かを再興さいこう。
慶長けいちょう14年ねん(1609年ねん)7月がつ19日にち、参議さんぎに叙じょ官かんされるが同年どうねんに没ぼつ。極きょく位いは、従したがえ四よん位い上じょう。
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