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勧修寺家(かじゅうじけ/かんじゅじけ)は、藤原北家勧修寺流支流の公家・華族である。公家としての家格は名家、華族としての家格は伯爵家。
藤原高藤の子孫の系統を「勧修寺流」と言うが、嫡流は勧修寺家ではなく、甘露寺家である。ただし、戦国時代から江戸時代初期に勧修寺家から2代の国母を輩出した事から、当時は勧修寺家を嫡流とみなす説もあり、それに基づいて書かれた文献もある(『諸家伝』)[2]。
南北朝時代の坊城定資の子・経顕(南北朝時代)を勧修寺家の祖とする。江戸時代の石高は726石[注釈 1]。家学は儒学。
明治維新後の明治2年(1869年)6月17日の行政官達で公家と大名家が統合されて華族制度が誕生すると勧修寺家も公家として華族に列し、明治14年(1884年)7月7日の華族令の施行で華族が五爵制になると大納言宣任の例多き旧堂上家[注釈 2]として顕允が伯爵位が授けられた。
顕允は陸軍軍人として日清日露に従軍して戦功をあげた。その後貴族院の伯爵議員にも当選。その息子の2代伯爵経雄も貴族院の伯爵議員に当選した。同志社女子専門学校や京都府立第一高等女学校の講師も務めた。3代伯爵末雄の代の昭和前期に勧修寺伯爵家の邸宅は東京市淀橋区上落合にあった。
勧修寺家
- 実線は実子、点線(縦)は養子、点線(横)は婚姻関係。
- ^ 国立歴史民俗博物館の『旧高旧領取調帳データベース』によれば幕末期の勧修寺家領は、 山城国葛野郡東梅津村のうち268石4斗2升、山城国乙訓郡東土川村のうち408石4斗5升3合、山城国乙訓郡大原野村のうち21石8斗8升、山城国紀伊郡吉祥院村のうち27石7斗であり、合計4村・726石4斗5升3合。
- ^ 勧修寺家の大納言直任(中納言からそのまま大納言になることを直任といい、直任される家は中納言を一度辞してから大納言になる家より格上と見なされていた)の回数は8回なので叙爵内規の伯爵の基準である「大納言まで宣任の例多き旧堂上」に該当。