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やぶ

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やぶ
高倉たかくら
家紋
まるいだあんずまるにだきぎょうよう
本姓ほんせい 藤原ふじわらみなみ高倉たかくらりゅう
藤原ふじわらきた閑院りゅう四辻よつつじ支流しりゅう
いえ 藤原ふじわらはん
種別しゅべつ 公家くげ羽林はばやし
華族かぞく子爵ししゃく
出身しゅっしん 山城やましろこく
おも根拠地こんきょち 山城やましろこく
東京とうきょう
東京とうきょう
著名ちょめい人物じんぶつ 高倉たかくら篤麿あつまろ
高倉たかくらこうとも
支流しりゅう分家ぶんけ 中園なかその羽林はばやし
高丘たかおか羽林はばやし
凡例はんれい / Category:日本にっぽん氏族しぞく

やぶ(やぶけ)(または、高倉たかくら(たかくらけ))は、日本にっぽん公家くげ華族かぞく公家くげとしての家格かかく羽林はばやし華族かぞくとしての家格かかく子爵ししゃくいえ[1]藤原ふじわらみなみ武智たけち麻呂まろりゅう家系かけいであったが、江戸えど時代じだいには藤原ふじわらきた閑院りゅう四辻よつつじ支流しりゅうしょうした。

歴史れきし[編集へんしゅう]

藤原ふじわらみなみ藤原ふじわら武智たけち麻呂まろ子孫しそんである藤原ふじわらはんとする。はんは、こう白河しらかわいん近臣きんしんで、むすめ範子のりこ順徳天皇じゅんとくてんのう生母せいぼとなり、おく左大臣さだいじん高倉たかくらごうした。

家格かかく羽林はばやし家業かぎょう神楽かぐら江戸えど時代じだい石高こくだかはじめ180せきのちに150せき[2][注釈ちゅうしゃく 1]

戦国せんごく時代じだい天文てんもん15ねん1546ねん)に参議さんぎ範久のりひさとき中絶ちゅうぜつする。以後いご複雑ふくざつ経緯けいい辿たどる。まずしも冷泉れいせんためゆたか次男じなんはんしんじ甘露かんろてらけいもと)が当主とうしゅとなるが勅命ちょくめい甘露かんろ寺家じけい継承けいしょうしたために中絶ちゅうぜつつぎ勧修寺かんしゅうじはれしげる次男じなんはんしょう当主とうしゅになるも出奔しゅっぽんして動向どうこう不明ふめいとなり、えいろく8ねん1565ねん)に高倉たかくらせいもと中御門なかみかどせんしょう東坊城ひがしぼうじょうちょう)が高倉たかくら継承けいしょうめいじられるも同年どうねん11がつ急死きゅうしして中絶ちゅうぜつ柳原やなぎはらあつしこうはんこくはいるが天正てんしょう12ねん1584ねん)にぞく殺害さつがいされてまたも中絶ちゅうぜつ四辻よつつじこうとお三男さんなんはんとおまましいだがのち山科やましな継承けいしょうする。しかし、おとうとにあたるおおやけとおなん嗣良がようやく再興さいこうたした[3]

その、嗣良は家名かめいを「高倉たかくら」から「やぶ」と改名かいめいする。その背景はいけいとしてぜん当主とうしゅであったはんとお朝廷ちょうていない事情じじょう山科やましな当主とうしゅわれて「猪熊いのくまきょう」と改名かいめいしたのち猪熊いのくま事件じけんこして処刑しょけいされたことをはばかったこと、くわえて藤原ふじわらみなみりゅう参議さんぎ事実じじつじょう極官きょっかんとする高倉たかくら放棄ほうきして、藤原ふじわらきた閑院りゅう四辻よつつじ支流しりゅうけん大納言だいなごん極官きょっかんとする四辻よつつじの庶流になることで家格かかく上昇じょうしょうはかったものであったとみられる(「やぶ」は元々もともと四辻よつつじ別名べつめいの1つであったとわれる)。これによって、朝廷ちょうていでは藤原ふじわらみなみ旧家きゅうか高倉たかくら断絶だんぜつして、閑院りゅう新家しんややぶ創設そうせつされたとみなされた。だが、寛延かんえい3ねん1750ねん)にさくらまち上皇じょうこう一条いちじょうけんこう制定せいていした官位かんいじょう旧家きゅうか新家しんや家格かかく昇進しょうしん基準きじゅんとして導入どうにゅうされ、けん大納言だいなごんまでのぼやぶ一転いってんして寛永かんえい創設そうせつ新家しんやとしてさんへの昇進しょうしん事実じじつじょう不可能ふかのうとされたのである[4]

明治維新めいじいしん明治めいじ2ねん(1869ねん)6がつ17にち行政ぎょうせいかんたち公家くげ大名だいみょういえ統合とうごうされて華族かぞく制度せいど誕生たんじょうするとやぶ公家くげとして華族かぞくれつした[5][6]明治めいじ9ねん(1876ねん)にはじまった華族かぞく宗族そうぞくせいにおいては分家ぶんけ中園なかその高丘たかおかとともにだい43るい内大臣ないだいじんかまあしまご左大臣さだいじん武智たけち麻呂まろ裔として、藤原ふじわらみなみ一族いちぞくとしてあつかわれている[7]明治めいじ17ねん(1884ねん)7がつ7にち華族かぞくれい施行しこう華族かぞく爵制になると、どう8にち大納言だいなごんちょくにんれいがないきゅう堂上どうじょう[注釈ちゅうしゃく 2]として篤麿あつまろ子爵ししゃくじょされた[9]侍従じじゅう貴族きぞくいん議員ぎいんつとめた。昭和しょうわ11ねん1936ねん家名かめいもと高倉たかくら改名かいめいしている[10]戦後せんごは、伊勢神宮いせじんぐう大宮おおみやつかさつとめた[11]

篤麿あつまろつま 篤子あつことのあいだ男子だんしがなかったために河鰭かわはたみのるえい三男さんなん こうともと、さんしつ出身しゅっしん陰陽いんよう 安倍晴明あべのせいめいの裔である土御門つちみかど継承けいしょうしていた土御門つちみかどはれよし土御門つちみかど家継いえつぐ承前しょうぜんさん室戸むろと善光ぜんこう)の まことこうさんしつまことこう)を範忠のりただ改名かいめいさせて養子ようしとしていたが、範忠のりただあにであり、ちち はれよしより土御門つちみかど継承けいしょうしていた土御門つちみかど凞光急死きゅうしすると、高倉たかくら範忠のりただ急遽きゅうきょあに 凞光の養子ようしとなって土御門つちみかど継承けいしょう土御門つちみかど当主とうしゅとして戦後せんご復興ふっこうした土御門つちみかど神道しんとう管長かんちょう就任しゅうにんした(1994ねん逝去せいきょ)。高倉たかくら当主とうしゅ地位ちいおおやけとも継承けいしょうした。

おおやけともは、河鰭かわはたみのるえい三男さんなん医師いし医学いがく博士はかせせんもん脳神経のうしんけい外科げかがく東京大学とうきょうだいがく名誉めいよ教授きょうじゅ東京女子医科大学とうきょうじょしいかだいがく名誉めいよ教授きょうじゅ同学どうがく学長がくちょうひとしつとめた[12]

系図けいず[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 国立こくりつ歴史れきし民俗みんぞく博物館はくぶつかんの『きゅうこう旧領きゅうりょう取調とりしらべちょうデータベース』によれば幕末ばくまつやぶりょうは、山城やましろこく愛宕あたごぐん一乗寺いちじょうじむらのうち60せき山城やましろこく葛野かずらのぐん郡村こおりむらのうち64せき山城やましろこく葛野かずらのぐん西八条にしはちじょうむらのうち18せき68しょう2ごう山城やましろこく葛野かずらのぐん東寺とうじまわりのうち2せき43しょう5ごう山城やましろこく紀伊きいぐん吉祥院きっしょういんむらのうち5せきであり、合計ごうけい5むら・150せき11しょう7ごう
  2. ^ 中納言ちゅうなごんからそのまま大納言だいなごんになることをちょくにんといい、中納言ちゅうなごん一度いちどしてから大納言だいなごんになるよりかくじょうあつかいとなされていた。叙爵じょしゃく内規ないき歴代れきだい当主とうしゅなかにこの大納言だいなごんちょくにんれいがあるかかでひら堂上どうじょう伯爵はくしゃく子爵ししゃくかにけていた[8]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 小田部おたべ雄次ゆうじ 2006, p. 334.
  2. ^ 公卿くぎょう類別るいべつ公家くげ歴史れきしやぶ
  3. ^ はやし大樹だいき堂上どうじょう公家くげ猪熊いのくまきょう兄弟きょうだい経歴けいれき家伝かでんいえ」(あさまく研究けんきゅうかいへん論集ろんしゅう 近世きんせい天皇てんのう朝廷ちょうてい岩田いわた書院しょいん、2019ねん、P220-221.
  4. ^ はやし大樹だいき堂上どうじょう公家くげ猪熊いのくまきょう兄弟きょうだい経歴けいれき家伝かでんいえ」(あさまく研究けんきゅうかいへん論集ろんしゅう 近世きんせい天皇てんのう朝廷ちょうてい岩田いわた書院しょいん、2019ねん、P230.
  5. ^ 浅見あさみ雅男まさお 1994, p. 24.
  6. ^ 小田部おたべ雄次ゆうじ 2006, p. 13-14.
  7. ^ 華族かぞく類別るいべつろく
  8. ^ 浅見あさみ雅男まさお 1994, p. 118.
  9. ^ 小田部おたべ雄次ゆうじ 2006, p. 338.
  10. ^ やぶ羽林はばやし
  11. ^ 高倉たかくら篤麿あつまろやぶ篤麿あつまろ
  12. ^ 医師いし紹介しょうかい高倉たかくら こうとも東京とうきょう脳神経のうしんけいセンター 日本語にほんご
  13. ^ 四辻よつつじけいよんなん
  14. ^ 冷泉れいせんためゆたか次男じなん
  15. ^ 柳原やなぎはらあつしこう次男じなん
  16. ^ 四辻よつつじこうとお三男さんなん
  17. ^ 四辻よつつじこうとおなん先代せんだいはんとおおとうと
  18. ^ 清水谷しみずだにみやび三男さんなん
  19. ^ 正親町おおぎまち公明こうめいよんなん
  20. ^ 勘解由小路かげゆこうじこうちゅう長男ちょうなん
  21. ^ 河鰭かわはたみのるえい三男さんなん

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  • 橋本はしもとまさしせんへん公家くげ事典じてん吉川弘文館よしかわこうぶんかん2010ねん
  • かすみ会館かいかん華族かぞく家系かけい大成たいせい編輯へんしゅう委員いいんかい平成へいせいしんおさむきゅう華族かぞく家系かけい大成たいせい下巻げかんかすみ会館かいかん1996ねん
  • 近藤こんどうさとしたかしへん宮廷きゅうてい公家くげ系図けいずしゅうらん東京とうきょうどう出版しゅっぱん1994ねん
  • 小田部おたべ雄次ゆうじ華族かぞく 近代きんだい日本にっぽん貴族きぞく虚像きょぞう実像じつぞう中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ中公新書ちゅうこうしんしょ1836〉、2006ねん平成へいせい18ねん)。ISBN 978-4121018366 

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]