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伏原家(ふしはらけ)は、広澄流清原氏の嫡流舟橋家の分家である公家・華族の家。公家としての家格は半家、華族としての家格は子爵家。
後水尾天皇の斡旋により、舟橋家の当主の従四位上式部少輔舟橋秀賢の次男従二位大蔵卿賢忠(かたただ、1637年 – 1705年)を分家させることとし、「伏原」の家名を名乗る。伏原家からは澤家が分かれ出た。
家業は明経道。歴代当主は正二位少納言・侍従・明経博士を極官とする。
江戸時代の家禄は230石[注釈 1]。
明治維新後の明治2年(1869年)6月17日の行政官達で公家と大名家が統合されて華族制度が誕生すると伏原家も公家として華族に列した。明治維新後に定められた家禄は、現米で303石5斗[注釈 2]。明治9年8月5日の金禄公債証書発行条例に基づき家禄と引き換えに支給された金禄公債の額は1万3748円2銭(華族受給者中298位)。
明治17年(1884年)7月7日の華族令の施行で華族が五爵制になると、同8日に大納言直任の例がない旧堂上家[注釈 3]として宣足が子爵に叙された。
宣足は宮内省に入り侍従や式部寮に出仕。貴族院の子爵議員にも当選して務めた。その孫宣義の代に伏原子爵家の邸宅は京都市上京区上御霊横寺町にあった。
- 実線は実子、点線(縦)は養子。
- ^ 国立歴史民俗博物館の『旧高旧領取調帳データベース』によれば幕末期の伏原家領は、伏原家領は山城国乙訓郡井之内村のうち30石5斗1升5合、山城国紀伊郡島村のうち40石2斗3升5合、山城国紀伊郡竹田村のうち29石2斗5升、山城国相楽郡吐師村のうち25石2斗2升、山城国相楽郡千童子村のうち104石7斗8升であり、合計5村・230石。
- ^ 明治3年12月10日に定められた堂上華族の家禄の計算方法は、本禄米に分賜米・方料米・救助米・臨時給与を合算して現高を出し、現米と草高の比率である四ッ物成で計算して草高を算出し、その二割五分を家禄とするものである。
- ^ 中納言からそのまま大納言になることを直任といい、中納言を一度辞してから大納言になるより格上の扱いと見なされていた。叙爵内規は歴代当主の中にこの大納言直任の例があるか否かで平堂上家を伯爵家か子爵家かに分けていた。
- ^ 田沼智恵入夫
- ^ 1895年8月20日廃嫡(『平成新修旧華族家系大成』下巻、454頁)