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桒原家(桑原家、くわはらけ[1])は、菅原氏の流れを汲む五条家庶流の公家・華族・平民だった家。公家としての家格は半家、華族としての家格は子爵。
江戸時代前期の公卿・五条為庸(正二位・権大納言)(1619年 - 1677年)の四男である桒原長義(正二位・権中納言・式部大輔)(1661年 - 1737年)を祖とする(ちなみに従二位・参議・式部権大輔・清岡長時は桒原長義の弟に当たる)。極官は桒原長義が得た権中納言・式部大輔。家業は紀伝道。
江戸時代の家禄は30石しかなかったため、江戸期の公家の中でも最も困窮していた家の一つとして知られ、当主がたった一人の従者と揉め事を起こし、口論の挙句、屋敷内で殺害してしまう事件を起こすなど、家運は振るわなかった。
明治2年(1869年)に公家と大名家が統合されて華族制度が誕生すると桒原家も公家として華族に列し、明治17年(1884年)7月7日の華族令施行で華族が五爵制になると、大納言直任の例がない旧堂上家[注釈 1]として輔長が子爵に叙位された。しかし家計は引き続き窮乏し、品位保持も困難を極めた。大正8年(1919年)には当主桒原孝長が人妻を射殺する事件を起こし、ついに爵位を返上。孝長には無期懲役の判決が下され、服役中の昭和2年(1927年)3月30日に獄死した[4]。
- 実線は実子、点線(縦)は養子。
- ^ 中納言からそのまま大納言になることを直任といい、中納言を一度辞してから大納言になるより格上の扱いと見なされていた。叙爵内規は歴代当主の中にこの大納言直任の例があるか否かで平堂上家を伯爵家か子爵家かに分けていた。