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勧修寺徳子 - Wikipedia コンテンツにスキップ

勧修寺かんしゅうじ徳子とくこ

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勧修寺かんしゅうじ 徳子とくこ(かしゅうじ なりこ、天明てんめい8ねん11月3にち1788ねん11月30にち) - 明治めいじ11ねん1878ねん11月23にち)は、江戸えど時代じだい後期こうき明治めいじ初期しょきにかけての女官にょかん仁孝天皇にんこうてんのう典侍てんじ幼名ようみょうじき、みな。ごうは、細井ほそいけん典侍てんじとく典侍てんじしん中納言ちゅうなごん典侍てんじ新大しんおお典侍てんじふじ大納言だいなごん京極きょうごくけん大納言だいなごん勧修寺かんしゅうじけいいっむすめははいえ女房にょうぼう仁孝天皇にんこうてんのう生母せいぼ勧修寺かんしゅうじ婧子東京とうきょうきょくいん)はあねにあたる。

生涯しょうがい

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寛政かんせい12ねん1800ねん)、あねの婧子がもうかきみ(のちの仁孝天皇にんこうてんのう)をんだことから上臈じょうろうだいとしてされて宮中きゅうちゅうはいる。文化ぶんか6ねん1809ねんもうか君付くんづけ上臈じょうろうとなり、「細井ほそい」とごうする。

文化ぶんか14ねん1817ねん)に仁孝天皇にんこうてんのう践祚せんそとともにけん典侍てんじとなり、仁孝にんこう孝明たかあきりょう天皇てんのう信任しんにんあつく、りょう天皇てんのう皇子おうじ皇女おうじょ養育よういくにあたった(ただし、成長せいちょうしたのは和宮かずのみや親子おやこ内親王ないしんのうのみ)。安政あんせい4ねん1857ねん)に新大しんおお典侍てんじすすみ、いで文久ぶんきゅう2ねん1862ねん)に隠居いんきょをしたさいにはしたがえさんおよふじ大納言だいなごん称号しょうごうあたえられた。和宮かずのみや降嫁こうか問題もんだいきると、孝明天皇こうめいてんのう意向いこうけて、和宮かずのみや説得せっとくにあたり、世話せわかけとして江戸城えどじょうはいった。のち京都きょうともどり、慶応けいおう4ねん1868ねん)7がつ宮中きゅうちゅう退しりぞいた。明治めいじ10ねん1877ねん)、長年ながねん功績こうせきによってせいさんじょされた。

明治めいじ11ねん(1878ねん)、91さい薨去こうきょはか京都きょうと中京ちゅうきょう誓願寺せいがんじにある。

注釈ちゅうしゃく

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参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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