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ふつ向寺むかいでら

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ふつ向寺むかいでらぶっこうじ
本堂
本堂ほんどう
所在地しょざいち 山形やまがたけん天童てんどう小路こうじいち丁目ちょうめ8-16
位置いち 北緯ほくい3821ふん13.5びょう 東経とうけい14022ふん22.6びょう / 北緯ほくい38.353750 東経とうけい140.372944 / 38.353750; 140.372944座標ざひょう: 北緯ほくい3821ふん13.5びょう 東経とうけい14022ふん22.6びょう / 北緯ほくい38.353750 東経とうけい140.372944 / 38.353750; 140.372944
山号さんごう たからいつきさん
宗旨しゅうし 時宗じしゅう浄土宗じょうどしゅう
宗派しゅうは 時宗じしゅう一向ひたぶる天童てんどう)→浄土宗じょうどしゅう鎮西ちんぜい
寺格じかく きゅう時宗じしゅう一向ひたぶるちゅう本山ほんざん天童てんどう本山ほんざん
本尊ほんぞん 阿弥陀如来あみだにょらい
創建そうけんねん 弘安ひろやす10ねん
開基かいき 一向いっこうしゅんきよし
中興ちゅうこうねん 明治めいじ年間ねんかん
中興ちゅうこう まことおもね
正式せいしきめい たからいつきさん稱名しょうみょういん佛向ぶっこうてら
札所ふだしょとう 最上さいじょうよんじゅうはち地蔵じぞう尊霊そんれいじょうだい一番いちばん(あたごのじぞう)だいじゅうばん浄土宗じょうどしゅうむねほう誤記ごき愛宕あたご神社じんじゃ別当寺べつとうじにあったもの。
文化財ぶんかざい ふつ向寺むかいでら一向上人開山忌踊躍念仏(きゅう山形やまがたけん指定してい無形むけい民俗みんぞく文化財ぶんかざい伝承でんしょうしゃ川越かわごえゆうけん死亡しぼうにより、登録とうろく解除かいじょとなった。
法人ほうじん番号ばんごう 1390005002258 ウィキデータを編集
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ふつ向寺むかいでら(ぶっこうじ)は、山形やまがたけん天童てんどうにある浄土宗じょうどしゅう寺院じいん昭和しょうわ17ねん1942ねん)までは、時宗じしゅうなか本寺ほんじ(時宗じしゅうそうけんなみ宗規しゅうきおよ時宗じしゅう寺院じいん名鑑めいかん)山号さんごうたからいつきさん本尊ほんぞん阿弥陀如来あみだにょらい正式せいしき名称めいしょうは、たからいつきさん稱名しょうみょういん佛向ぶっこうてらしょうする。

歴史れきし

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開山かいさん

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佛向ぶっこうてら天童てんどうだい清水しみず二階堂にかいどう弘安ひろやす10ねん1287ねん)に一向いっこうしゅんきよしによって創建そうけんされたとつたえられる[1]。ただし、番場ばんば蓮華寺れんげじ正統せいとうとする立場たちばからかれたとみられる『いち向上こうじょう人伝ひとづて』にはその記述きじゅつはなく、その弟子でしくだりはちすによる開山かいさんかんがえられている。宇都宮うつのみや一向いっこうてら阿弥陀如来あみだにょらいぞうくだりはちすめいがあることから、関東かんとうまでていたことは間違まちがいないとおもわれる。また、「いち向上こうじょうじん脉譜」(近江おうみ番場ばんば蓮華寺れんげじぞう)によれば、くだりはす下野げや宇都宮うつのみや一向いっこうてらはねしゅうじょう最上さいじょうふつ向寺むかいでら開山かいさんしたという[2]

二階堂にかいどうおよび里見さとみもと勢力せいりょく拡大かくだいした佛向ぶっこうてら村山むらやま置賜おきたま地方ちほうささえてら末寺まつじ建立こんりゅう村山むらやま地方ちほうでは24ヶてらのぼった[2]

南北なんぼくあさ時代じだいから戦国せんごく時代じだい

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南北なんぼくあさ時代じだいになり成生なりゅう佛向ぶっこうてら開基かいきした里見さとみ斯波しば兼頼かねより最上もがみ)の係累けいるい養子ようしとしてはいると、本拠地ほんきょち成生なりゅうから天童てんどううつし、それにともなって佛向ぶっこうてら天童てんどううつった。佛向ぶっこうてら天童てんどうじょう西にしまもりとして機能きのうし、僧兵そうへいっていた。やがて、戦国せんごく時代じだいとなり天童てんどう最上もがみから自立じりつすると天童てんどうがわって最上もがみあらそうことになる。

天正てんしょう12ねん1584ねん最上もがみ義光よしみつ天童てんどう居城きょじょう天童てんどうじょうとしたさい堂宇どうう焼失しょうしつしている。

江戸えど時代じだい

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江戸えど時代じだいに、番場ばんば蓮華れんげてら本山もとやまあらそいの結果けっかとうてらちゅう本山ほんざん蓮華寺れんげじ大本山だいほんざんとなった。『時宗じしゅう要略ようりゃく』によれば、佛向ぶっこうてら時宗じしゅうじゅうひとつである天童てんどう形成けいせいしたとされているが、ふつ向寺むかいでら周辺しゅうへん一向ひたぶるもしくは番場ばんば名乗なのり、天童てんどうもちいなかった。 文化ぶんか年間ねんかん失火しっかにより、堂宇どうう焼失しょうしつした。現在げんざい堂宇どうう文政ぶんせい年間ねんかん文政ぶんせい5ねん〜14ねん)の再建さいけんにかかるものである。

一向ひたぶる独立どくりつ運動うんどう

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斎藤さいとう茂吉しげよし薫陶くんとうけた佐原さはら窿応活躍かつやくし『大本山だいほんざん蓮華寺れんげじほう』が、制定せいていされ、一向ひたぶる地位ちい大幅おおはば向上こうじょうした。佐原さはら窿応が、まことおもねである。浄土宗じょうどしゅう帰属きぞくしたのは、昭和しょうわ17ねん(1942ねん)である。

おどりおど念仏ねんぶつ

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おどりおど(ゆやく)念仏ねんぶつは、僧侶そうりょ儀式ぎしきとして実行じっこうするおどり念仏ねんぶつ一種いっしゅ一向いっこうしのんで、毎年まいとし11月17にち開山かいさんおこなわれる。きゅう山形やまがたけん指定してい無形むけい民俗みんぞく文化財ぶんかざい浄土宗じょうどしゅうむねたからにも指定していされている。

佛向ぶっこう寺跡てらあと

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佛向ぶっこう寺跡てらあとについて、めいなどから成生なりゅうそう地頭じとう二階堂にかいどうかんあととのせつもあるが、その近辺きんぺんからは念仏ねんぶつかね出土しゅつどしている。また、その近辺きんぺん高野たかのぼう遺跡いせきからは、おうちょう元年がんねん1311ねん一向いっこうしゅんひじりじゅうなな回忌かいきつとめたというつぶて石経いしきょう出土しゅつどしている[3]。そのほか、成生なりゅう街道かいどう沿いには下馬げばめのけやきがあったという[4]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ たからいつきさん稱名しょうみょういんふつ向寺むかいでら縁起えんぎ』によると鎌倉かまくらみなもとよりゆきじき一向いっこう要請ようせいし、出羽いずはこく下向げこうしたという(『寒河江さがえ 上巻じょうかん』p.900
  2. ^ a b 寒河江さがえ 上巻じょうかん』p.901
  3. ^ 高野たかのぼう遺跡いせき発掘はっくつ調査ちょうさ報告ほうこくしょ』p.38
  4. ^ 奥山おくやま幸重ゆきしげ成生なりゅう歴史れきし雑考ざっこう」、『高野たかのぼう遺跡いせき発掘はっくつ調査ちょうさ報告ほうこくしょ』p.4

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 寒河江さがえへんさん委員いいんかい 『寒河江さがえ 上巻じょうかん』、1996
  • 天童てんどう教育きょういく委員いいんかい 『高野たかのぼう遺跡いせき発掘はっくつ調査ちょうさ報告ほうこくしょ』、1997(天童てんどう埋蔵まいぞう文化財ぶんかざい発掘はっくつ調査ちょうさ報告ほうこくしょだい16しゅう

外部がいぶリンク

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