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畠山はたけやま義英よしひで

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畠山はたけやま 義英よしひで
時代じだい 戦国せんごく時代じだい前期ぜんき
生誕せいたん ちょうとおる元年がんねん1487ねん)/ちょうとおる2ねん1488ねん[ちゅう 1]
死没しぼつ だいひさし2ねん4がつ30にち1522ねん5月25にち)?
改名かいめい さとしかちまる幼名ようみょう)→義英よしひで
別名べつめい 次郎じろう通称つうしょう
官位かんい 上総かずさかい
氏族しぞく 畠山はたけやま
父母ちちはは ちちよしゆたかもと
ざいかちおう畠山はたけやま尚順ひさのぶ猶子ゆうし
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畠山はたけやま 義英よしひで(はたけやま よしひで)は、戦国せんごく時代じだい武将ぶしょう畠山はたけやま義就よしなりとする畠山はたけやまそうしゅうの4だい当主とうしゅ義就よしなりまごたる。通称つうしょう次郎じろう上総かずさかい

生涯しょうがい

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よしゆたかはつめいもと[1]嫡子ちゃくし

あかりおう3ねん1494ねん)、8さい元服げんぷくはや元服げんぷくちち同族どうぞくしゅう畠山はたけやま政長まさながとする)の畠山はたけやま尚順ひさのぶ対立たいりつしていて、まんいち場合ばあいそなえてった処置しょちられる。

あかりおう8ねん1499ねん)、ちちなおじゅんやぶれて自刃じじんした[1]。これにより家督かとく継承けいしょう領国りょうごく河内かわちから出奔しゅっぽんしたが、もなく庇護ひごしゃ細川ほそかわまさしもと尚順ひさのぶやぶったため、河内かわちもどった。

最初さいしょせいもと傀儡かいらいとしてごしていたが、えいただし元年がんねん1504ねんごろから赤沢あかざわちょうけい薬師寺やくしじ元一げんいち謀反むほんなど細川ほそかわ内訌ないこうこりはげしくなると、義英よしひでせいもとからの独立どくりつ模索もさくした。同年どうねん12がつ18にち尚順ひさのぶ和睦わぼくし、義英よしひで誉田ほんだじょう尚順ひさのぶ高屋たかやしろ城主じょうしゅとなり、河内かわちこくはんこくずつりょうすることになった[2]。また、息子むすこ畠山はたけやままさるおうをその猶子ゆうしとさせた。

義英よしひで尚順ひさのぶ和睦わぼくにより、義英よしひで細川ほそかわまさしもと関係かんけい悪化あっかした[3]えいただし2ねん1505ねん)11月、せいもとから赦免しゃめんされた赤沢あかざわちょうけいにより、誉田ほんだしろめられた[3]義英よしひでは、周防すおうこくにいた足利あしかがよしいん義稙よしたね書状しょじょうおくり、よしいん上洛じょうらくけて畠山はたけやま尚順ひさのぶとも尽力じんりょくすることをちかい、よしいんから感状かんじょうあたえられた(『多門院たもんいん日記にっき』)[3]

えいただし4ねん1507ねん)6がつ23にち細川ほそかわまさしもと暗殺あんさつされる(えいただし錯乱さくらん[4]。このじょうじて、義英よしひでぶんくに回復かいふくした[4]

しかし、えいただし元年がんねん(1504ねん以来いらい畠山はたけやま尚順ひさのぶとの講和こうわやぶれ、えいただし4ねん(1507ねん)12月4にち義英よしひでたけ山城やましろ籠城ろうじょうした[5]えいただし5ねん1508ねん)1がつ尚順ひさのぶ細川ほそかわだかこくにより、岳山たけやまじょう陥落かんらくしたが、細川ほそかわきよしもと部将ぶしょう赤沢あかざわちょうけい尚順ひさのぶらに無断むだん脱出だっしゅつさせた[6][7]。これは、畠山はたけやま一本いっぽん強大きょうだいけるための措置そちだった[6]

その河内かわうちうばった畠山はたけやま尚順ひさのぶが、細川ほそかわきよしもとから将軍しょうぐん義稙よしたね細川ほそかわだかこく大内おおうち義興よしおき一派いっぱ鞍替くらがえすると、義英よしひで足利あしかが義澄よしずみ細川ほそかわきよしもとらとむすんでなおじゅんとのたたかいを継続けいぞくした。

えいただし8ねん1511ねん)、一時いちじ河内かわうちうばかえすが、足利あしかが義澄よしずみ急死きゅうしや、細川ほそかわきよしもとふね岡山おかやま合戦かっせん細川ほそかわだかこくらに敗北はいぼくすると旗色はたいろわるくなり、河内かわうちなおじゅんふたたうばわれた。えいただし10ねん1513ねん)、なおじゅん敗北はいぼくしてからは逼塞ひっそくした。

細川ほそかわきよしもと細川ほそかわだかこく対立たいりつつづなかはんこうこくだった義英よしひでは、大和やまとこく越智おちぜんらとともに、こうこく畠山はたけやま稙長たねなが尚順ひさのぶ嫡男ちゃくなん)がもる高屋たかやじょうめた[8]えいただし17ねん1520ねん)3がつ16にちどうしろ落城らくじょうしたが、河内かわちこく義英よしひで統一とういつされることをきらった越智おちぜんは、稙長たねなが遊佐ゆさじゅんもりらをひそかに脱出だっしゅつさせた[9]

えいただし17ねん(1520ねん)5がつ5にち細川ほそかわだかこく軍勢ぐんぜいは、等持寺とうじじ京都きょうと中京ちゅうきょうあね小路しょうじ東洞とうどういん付近ふきん)で三好みよし長方おさかたやぶった(等持寺とうじじたたかい)[10]河内かわちこく八尾やおざいじんしていた義英よしひでは、このほう吉野よしの逐電ちくでんし、同月どうげつ10にち高屋たかやじょう稙長たねながうばかえされた[10]

だいひさし元年がんねん1521ねん)10がつこうこく対立たいりつして出奔しゅっぽんした義稙よしたね擁立ようりつした尚順ひさのぶ再度さいど和睦わぼくしたが、11月に稙長たねなが敗北はいぼくした記録きろくのこっている。

以後いご徴証ちょうしょうれないが、興福寺こうふくじ大乗だいじょういん門跡もんぜき日記にっきだいなが2ねん(1522ねん4がつ30にちじょうに「畠山はたけやましゅう他界たかい」という記録きろくがあり、だいなが3ねん1523ねん)3がつにもう一人ひとり息子むすこ嫡子ちゃくし)の堯が観心寺かんしんじはんぶつ発給はっきゅうしていることから、このだいなが2ねんぼっした畠山はたけやましゅう義英よしひでではないかとされている[11]

義英よしひで政権せいけんでは、守護しゅご奉行ぶぎょうしょ守護しゅごだい奉行ぶぎょうしょ創設そうせつされ、畠山はたけやまそうしゅう領国りょうごく経営けいえい基盤きばん整備せいびされた。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ こうほうきょういん』と『こう慈眼じげんいん殿御とのご』にかれたあきらおう3ねん1494ねん)の記事きじで、それぞれ8さい・7さい年齢ねんれい記載きさいされている。ゆみくら、P289。

出典しゅってん

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参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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先代せんだい
畠山はたけやまよしゆたか
河内かわうち畠山はたけやま (そうしゅう)
畠山はたけやま義英よしひで
次代じだい
畠山はたけやまよし