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武田たけだ元信もとのぶ

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武田たけだ元信もとのぶ
時代じだい 戦国せんごく時代じだい
生誕せいたん ひろしただし2ねん1461ねん異説いせつあり
死没しぼつ だいひさし元年がんねん12月3にち1521ねん12月31にち[1]
別名べつめい 若狭わかさらく通称つうしょう彦次郎ひこじろう[1]
戒名かいみょう 仏国寺ぶっこくでら殿どのあおこうろく大丈夫だいじょうぶ三品大雄紹公大禅定門
墓所はかしょ 福井ふくいけん小浜おばま佛國寺ぶっこくでら
官位かんい 治部じぶしょう[1]大膳だいぜん大夫たいふ[1]伊豆いずまもる[1]したがえさん
幕府ばくふ 室町むろまち幕府ばくふ 若狭わかさ丹後たんご守護しゅご安芸あきぶんぐん守護しゅご
主君しゅくん 足利あしかが義稙よしたね義澄よしずみ義晴よしはる
氏族しぞく 若狭わかさ武田たけだ
父母ちちはは ちち武田たけだ国信くにのぶ
兄弟きょうだい しんおや元信もとのぶ
つま 正室せいしつ?:伊勢いせ貞祐ていゆうむすめ[2]
じゅんはじめしゅうだまもとひかり[1]もと信孝のぶたか?、しんけん?、輝信てるのぶ五男いつお?)[3]山県やまがた秀政ひでまさ
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武田たけだ 元信もとのぶ(たけだ もとのぶ)は、戦国せんごく時代じだい守護しゅご大名だいみょう武田たけだ国信くにのぶ次男じなん若狭わかさこく丹後たんごこく守護しゅご安芸あきこくぶんぐん守護しゅご若狭わかさ武田たけだ5だい当主とうしゅ

生涯しょうがい

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家督かとく継承けいしょう

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ひろしただし2ねん1461ねん)、武田たけだ国信くにのぶ次男じなんとして誕生たんじょうしたとされる(『諸家しょか系図けいず纂』)が、佛國寺ぶっこくでら所蔵しょぞうの「武田たけだ系図けいず」ではぶんやす3ねん1446ねんまれとされる[注釈ちゅうしゃく 1]若狭わかさ武田たけだ代々だいだい管領かんりょう細川ほそかわとの関係かんけいふかかったといわれ、元信もとのぶ文明ぶんめい3ねん1471ねん)に元服げんぷくして細川ほそかわ勝元かつもとけられた名前なまえ勝元かつもとの「もと」(管領かんりょう細川ほそかわつう)と武田たけだつうの「しん」から[注釈ちゅうしゃく 2]なお、「もと」のもとひかり曾孫そうそん義統よしむね義元よしもと使用しようしている。文明ぶんめい17ねん(1485ねんあにしんおや早世そうせい[1]延徳えんとく2ねん(1490ねん)にはちち国信くにのぶ死去しきょしたため、家督かとく継承けいしょうした。

あかりおう政変せいへん将軍しょうぐん足利あしかが義澄よしずみ信任しんにん

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あかりおう2ねん1493ねん)4がつ22にち、10代将軍しょうぐん足利あしかがよしざいはいされたあかりおう政変せいへんさいしては、11だい将軍しょうぐん足利あしかが義澄よしずみ擁立ようりつした管領かんりょう細川ほそかわまさしもと勝元かつもと)を支援しえんした。

このさい武田たけだ元信もとのぶあかりおう2ねんうるう4がつ3にち上洛じょうらくしている(『北野きたの社家しゃけ日記にっき』)が、その2にちまえ細川ほそかわきょうちょういえ対立たいりつ関係かんけいにあった大内おおうち政弘まさひろむすめ京都きょうと誘拐ゆうかいされる事件じけん発生はっせいしている。ところが、はやくから武田たけだ元信もとのぶさき政弘まさひろむすめとの婚約こんやく破棄はきされたことへの報復ほうふくうわさされていた(『大乗だいじょういん寺社じしゃ雑事ざつじ』)。一方いっぽうで、直後ちょくご細川ほそかわまさしもとさかい滞在たいざいしていた大内おおうち義興よしおき政弘まさひろさき誘拐ゆうかいされたむすめ実兄じっけい)を陣営じんえい勧誘かんゆうしており、大内おおうち政変せいへん反対はんたいしないようにせいもと元信もとのぶ人質ひとじち確保かくほするために誘拐ゆうかい事件じけんこしたとする見方みかたもある(藤井ふじいたかし大内おおうち義興よしおきえびすひかりさち出版しゅっぱん、2014ねん、P40-41)。

しかし、細川ほそかわまさしもとから恩賞おんしょうとして深草ふかくさもら約束やくそく反故ほごになったことから、11月に家臣かしんとも出奔しゅっぽんしてその若狭わかさ帰国きこくしてしまった[4]。ただし、もなく細川ほそかわまさしもと和解わかいしてえつ中国ちゅうごくのがれたぜん将軍しょうぐん足利あしかがよしざい上洛じょうらくそなえている[5]

あかりおう8ねん1499ねん)10がつ足利あしかがよしざい畠山はたけやま尚順ひさのぶ連携れんけいして上洛じょうらくせん開始かいしし、まず元信もとのぶ領国りょうごくである若狭わかさかった[6]。これは若狭わかさ国人くにびとたちを兵士へいしつのろうとしたとかんがえられる[7]。しかし、これは成功せいこうせず、足利あしかがよしざい近江おうみ海津かいづとおり、同年どうねん11がつ坂本さかもとまで進軍しんぐんした。在京ざいきょうしていた元信もとのぶ足利あしかが義澄よしずみ細川ほそかわまさしもと加勢かせいしてこう土御門天皇つちみかどてんのう警護けいごし、結果けっか足利あしかがよしざい上洛じょうらく退しりぞけた。足利あしかが義澄よしずみはこの功績こうせきからもとしん相伴しょうばんしゅにしようとしたところ[8]細川ほそかわまさしもと反対はんたいしたため[9][注釈ちゅうしゃく 3]わりに朝廷ちょうてい反対はんたいってぶんかめ元年がんねん1500ねん)にいま叙爵じょしゃくけていないもとしんしたがえよん叙位じょいさせた[10]。なお、朝廷ちょうていではくちせんあんすで叙位じょいけていたとする虚偽きょぎ内容ないようんでいる[11]

若狭わかさ武田たけだ繁栄はんえい

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元信もとのぶは、以降いこう軍事ぐんじ活動かつどうなどをつうじて室町むろまち幕府ばくふ将軍しょうぐん細川ほそかわきょうちょういえとのつながりをさらふかめ、若狭わかさ武田たけだ繁栄はんえいさせた[12]。しかし、丹後たんご一色いっしきとの対立たいりつ一進一退いっしんいったい状況じょうきょうつづき、えいただし3ねん1506ねん)には丹後たんご侵攻しんこうはかって失敗しっぱいし、一色いっしき若狭わかさ侵攻しんこうさいには越前えちぜんこく朝倉あさくら援軍えんぐんもあり、これを撃退げきたいしている[13]。また、領内りょうないきた一揆いっきなどにもくるしめられるなど[14]、その体制たいせいかならずしも順風じゅんぷうまんではなかったものの、武田たけだたいするだんぜにやくおっとこうまい免除めんじょ荘園しょうえんたいする押妨の停止ていしなどをめいずる室町むろまち幕府ばくふ奉行ぶぎょうじん奉書ほうしょ武田たけだ元信もとのぶだい目立めだってずくなくなり、幕府ばくふ支配しはいはなれ、若狭わかさ武田たけだ守護しゅご大名だいみょうから戦国せんごく大名だいみょうへと転身てんしん[15]させる基礎きそきずいた。

2政局せいきょく変転へんてん晩年ばんねん

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しかし、えいただし4ねん1507ねん)に細川ほそかわまさしもと暗殺あんさつされ、翌年よくねん大内おおうち義興よしおき細川ほそかわだかこくによって擁立ようりつされた足利あしかが義稙よしたねざい)が上洛じょうらくして将軍しょうぐん復帰ふっきする(えいただし錯乱さくらん)。はん大内おおうちであった元信もとのぶ政治せいじてきちからうしな若狭わかさ退しりぞき、えいただし16ねん1519ねん)に形式けいしきじょう家督かとくもとひかりゆず出家しゅっけする。

そのだいひさし元年がんねん1521ねん)3がつ細川ほそかわだかこく対立たいりつした足利あしかが義稙よしたね出奔しゅっぽんして、7がつ義澄よしずみ義晴よしはるしん将軍しょうぐんになると、こうこく和解わかいした元信もとのぶは8がつふたた上洛じょうらくして復権ふっけんたした。

10月4にち禁裏きんり御所ごしょ修理しゅうり5000疋を朝廷ちょうてい献上けんじょうし、功労こうろうにより同月どうげつ22にち守護しゅごとしては異例いれいしたがえさん昇叙しょうじょした。同年どうねん12がつ3にち死去しきょ法名ほうみょう仏国寺ぶっこくでら殿どのあおこうろく大丈夫だいじょうぶ三品大雄紹公大禅定門。墓所はかしょ福井ふくいけん小浜おばま佛國寺ぶっこくでら

文化ぶんか再興さいこう

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和歌わか故実こじつなどの公家くげ文化ぶんかつうじ、戦乱せんらんにより衰退すいたいしていた芸能げいのう文化ぶんかめん再興さいこうおおきく貢献こうけんした[16]家臣かしん粟屋あわやともども、京都きょうと貴紳きしん三条西さんじょうにし実隆さねたかとの親密しんみつ交流こうりゅうられる。くに重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定していされた『実隆さねたかおおやけ』には、元信もとのぶ藤原ふじわら定家さだいえ自筆じひつの『伊勢物語いせものがたり』を所持しょじしていたことがしるされている。また元信もとのぶ自身じしんも、定家さだいえの『伊勢物語いせものがたり』や家集かしゅう書写しょしゃしたとつたわる。

系譜けいふ

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 前者ぜんしゃせつではあに武田たけだしんおやよりも年長ねんちょうになってしまい、それより年長ねんちょうである後者こうしゃせつではちち国信くにのぶ10さいになってしまう。これにたいして大原おおはら陸路りくろ康正こうせい元年がんねん(1455ねんせつとなえた(山本やまもとまさる小和田こわだ哲男てつお戦国せんごく大名だいみょう系譜けいふ人名じんめい事典じてん 西国さいこくへん』(新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、1985ねん) P97)が、のち出典しゅってん解釈かいしゃくあやまりを指摘してきされたため成立せいりつしないと判断はんだんされ、元信もとのぶ生涯しょうがい解説かいせつした木下きのしたさとしひろしせいまつねんから文明ぶんめい初年しょねんまれと推定すいていする(木下きのしたさとし若狭わかさ武田たけだ』P24)
  2. ^ 木下きのしたは、細川ほそかわまさしもとへんいみな解説かいせつする木下きのしたさとし若狭わかさ武田たけだ』P24。
  3. ^ せいもと反対はんたいしたのはさん管領かんりょうよんしょく家格かかくてきには相伴しょうばんしゅ位置いちしており、若狭わかさ武田たけだ細川ほそかわきょうちょういえ同格どうかくになることへの抵抗ていこうかんがあったとみられる(木下きのしたさとし若狭わかさ武田たけだ』P26)。

出典しゅってん

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  1. ^ a b c d e f g 高野たかのけん彦 『安芸あき若狭わかさ武田たけだ一族いちぞく』p.114-122,162-163
  2. ^ 木下きのしたさとし若狭わかさ武田たけだ』P30
  3. ^ a b 甲斐かい信濃しなのはじめ綱要こうよう
  4. ^ 大乗だいじょういん寺社じしゃ雑事ざつじあきらおう2ねん11月16にち・18にちじょう
  5. ^ 木下きのしたさとし若狭わかさ武田たけだ』P25
  6. ^ 大乗だいじょういん寺社じしゃ雑事ざつじあきらおう8ねん10がつ22にちじょう
  7. ^ 山田やまだ康弘やすひろ足利あしかが義稙よしたね戦国せんごくきた不屈ふくつ大将軍だいしょうぐんだい1 だい3しょう
  8. ^ 鹿しかえんろくあきらおう9ねん正月しょうがつ17にちじょう
  9. ^ こうほうきょういんぶんかめ8がつ6にち・7にちじょう
  10. ^ ちょうきょうあきらおう10ねん正月しょうがつ14にちじょう
  11. ^ 木下きのしたさとし若狭わかさ武田たけだ』P.26-27
  12. ^ 福井ふくいけん 通史つうしへん2』領国りょうごく経営けいえいまり[1]
  13. ^ 福井ふくいけん 通史つうしへん2』武田たけだ元信もとのぶ丹後たんご出兵しゅっぺい[2]
  14. ^ 福井ふくいけん 通史つうしへん2』いちこく徳政とくせい[3]
  15. ^ 福井ふくいけん 通史つうしへん2』守護しゅご大名だいみょうから戦国せんごく大名だいみょう[4]
  16. ^ 福井ふくいけん 通史つうしへん2』多芸たげい多才たさい武田たけだ元信もとのぶ[5]

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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