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武田たけだ国信くにのぶ

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武田たけだ国信くにのぶ(たけだ くにのぶ)

  1. 室町むろまち時代ときよ後期こうきから戦国せんごく時代じだいにかけての武将ぶしょう若狭わかさこく丹後たんごこく守護しゅご安芸あきこくぶんぐん守護しゅご
  2. 戦国せんごく時代じだい武将ぶしょう因幡いなばこく鳥取とっとりじょうおも

武田たけだ国信くにのぶ若狭わかさ武田たけだ

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武田たけだ 国信くにのぶ
時代じだい 室町むろまち時代ときよ後期こうき - 戦国せんごく時代じだい
生誕せいたん えいとおる9ねん1437ねん
死没しぼつ 延徳えんとく2ねん6月21にち1490ねん7がつ8にち
改名かいめい 国信くにのぶそういさお法名ほうみょう
別名べつめい 通称つうしょう彦太郎ひこたろう
戒名かいみょう たまはないん殿どのこうりんそういさおだい居士こじ[1]
官位かんい 治部じぶしょう[1]大膳だいぜん大夫たいふ[1]
幕府ばくふ 室町むろまち幕府ばくふ 若狭わかさ[1]丹後たんご守護しゅご安芸あきぶんぐん守護しゅご[1]
氏族しぞく 若狭わかさ武田たけだ
父母ちちはは ちち武田たけだ信繁のぶしげ[1]
兄弟きょうだい 信栄しんえい[1]しんけん[1]国信くにのぶもとつな[1]
しんおや[1]元信もとのぶ
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武田たけだ 国信くにのぶ(たけだ くにのぶ)は、室町むろまち時代ときよ後期こうきから戦国せんごく時代じだいにかけての武将ぶしょう守護しゅご大名だいみょう安芸あき武田たけだ当主とうしゅ武田たけだ信繁のぶしげ三男さんなん若狭わかさこく丹後たんごこく守護しゅご安芸あきこくぶんぐん守護しゅご若狭わかさ武田たけだ3だい当主とうしゅ生年せいねん嘉吉よしきち2ねん1442ねん)ともされる。

生涯しょうがい

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元服げんぷく当時とうじ三男さんなん2人ふたりあにがまだ健在けんざいであったことから、若狭わかさ武田たけだ分家ぶんけこと想定そうていされていたとみられ、当時とうじ幕府ばくふ実力じつりょくしゃである畠山はたけやま持国もちくにからへんいみなてそのうしたてようとしたとおもわれる。また、仮名かめい彦太郎ひこたろうは、若狭わかさ安芸あき武田たけだ嫡男ちゃくなん(この場合ばあい長兄ちょうけい信栄しんえい)の通称つうしょう彦九郎ひこくろうであったことと関係かんけいあるとかんがえられる。家督かとく継承けいしょうまえ治部じぶしょう輔ににんじられて足利あしかが義政よしまさ御供ごくうしゅとなっていた[2]

応仁おうにんらんでは次兄じけいしんけん同様どうよう細川ほそかわ勝元かつもとひがしぐんぞくして、土岐ときしげるよりゆきらの西にしぐんたたかうなど奮戦ふんせんしている。しかし、文明ぶんめい3ねん1471ねん)におとうともとつな離反りはんにもうなど苦戦くせんいられている。同年どうねんあに死後しご家督かとくぐととも大膳だいぜん大夫たいふにんぜられた。しんけん嫡子ちゃくしはいたが幼少ようしょうであったため、国信くにのぶ家督かとくぐこととなる。この嫡子ちゃくし文明ぶんめい11ねん1479ねん)に15さいくなったとされるが、蠣崎かきざき信広のぶひろとする伝承でんしょうもある。ただし、信広のぶひろについては国信くにのぶとする伝承でんしょうもあり、若狭わかさ武田たけだ出自しゅつじとするせつ後世こうせい仮託かたく可能かのうせいたかい。

文明ぶんめい6ねん1474ねん)4がつ山名やまなまさしゆたか細川ほそかわまさしもと和睦わぼく仲介ちゅうかいやくつとめる。しかしこのとき和睦わぼく条件じょうけんの1つとして、武田たけだ応仁おうにんらん最中さいちゅう一色いっしき義直よしなおたたかってうばった丹後たんご所領しょりょう返還へんかんせよという条件じょうけんがあった。丹後たんござい陣中じんちゅう武田たけだ被官ひかんじんはこれに不満ふまん所領しょりょう返還へんかんこばんだが、和睦わぼく参加さんかした国信くにのぶ援軍えんぐん丹後たんごおくることができなかった。丹後たんご武田たけだぜい独力どくりょく一色いっしきたたかわざるをず、9月に主将しゅしょう逸見いつみ真正しんしょう自害じがい武田たけだぐんやぶれて壊滅かいめつしてしまった。国信くにのぶ落胆らくたんして出家しゅっけし、そういさおごうしたという。

文明ぶんめい13ねん1481ねん)にもとつな和解わかい文明ぶんめい15ねん1483ねん)には山城やましろ守護しゅごにんぜられるが辞退じたいしている[3]ちょうとおる元年がんねん1487ねん)に9だい将軍しょうぐん足利あしかが義尚よしなお六角ろっかく高頼たかより討伐とうばつちょうとおる延徳えんとくらん)にしたがって出陣しゅつじんしたが、延徳えんとく元年がんねん1489ねん)に義尚よしなおくなると遺骸いがいって京都きょうともどったのち若狭わかさ帰国きこくよく2ねん(1490ねん)6がつ21にち小浜おばま病死びょうしした。享年きょうねん54。嫡子ちゃくししんおやには文明ぶんめい17ねん1485ねん)に先立さきだたれていたので、もう1人ひとり元信もとのぶあといだ。菩提寺ぼだいじたまはないん

国信くにのぶ文化ぶんかじんとしてすぐれており、和歌わか連歌れんがかいをたびたびひらいたという。

武田たけだ国信くにのぶ因幡いなば武田たけだ

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武田たけだ 国信くにのぶ
時代じだい 戦国せんごく時代じだい
生誕せいたん 不明ふめい
死没しぼつ 天文てんもん14ねん1545ねん
官位かんい 山城やましろまもる
主君しゅくん 山名やまなまことどおり
氏族しぞく 因幡いなば武田たけだ
高信たかのぶまた三郎さぶろう
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武田たけだ 国信くにのぶ(たけだ くにのぶ)は、戦国せんごく時代じだい武将ぶしょう因幡いなばこく守護しゅご山名やまな家臣かしん若狭わかさ武田たけだ傍流ぼうりゅう一族いちぞく

略歴りゃくれき

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山名やまなまことどおり家臣かしん天文てんもん14ねん1545ねん)に久松ひさまつ山城やましろ鳥取とっとりじょう)を改築かいちくしたが、あまりに堅固けんごぎたため、主君しゅくんより謀叛むほん疑念ぎねん謀殺ぼうさつされた。のち高信たかのぶ山名やまなたいして叛旗はんきひるがえし、一時いちじ因幡いなば制圧せいあつすることになる。

天文てんもん15ねん1546ねん)10がつ伯耆ほうきこく南条なんじょう宗勝むねかつたすけて橋津はしづがわたたか尼子あまこたたかった因幡いなば山名やまな重臣じゅうしんとして「武田たけだゆたかぜんまもり常信つねのぶ」の記録きろくのこるが、国信くにのぶどう一人物いちじんぶつだったかは不明ふめいどう一人物いちじんぶつせつ存在そんざいする)。鳥取とっとり在住ざいじゅう中世ちゅうせい研究けんきゅう高橋たかはし正弘まさひろによると、武田たけだゆたかぜんもり鳥取とっとりじょうにあって但馬たじまこく山名やまなゆうゆたか呼応こおうして山名やまなまことどおり殺害さつがい一役ひとやくったとされる(高橋たかはし正弘まさひろ山陰さんいん戦国せんごくしょ問題もんだいうえ』1993ねん)。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c d e f g h i j 今井いまいたかしほかへん 1984, p. 324.
  2. ^ 木下きのした、2016ねん、P22
  3. ^ 大乗だいじょういん寺社じしゃ雑事ざつじ文明ぶんめい15ねん正月しょうがつ24にちじょう

参考さんこう文献ぶんけん

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武田たけだ国信くにのぶ若狭わかさ武田たけだ
  • 今井いまいたかしほかへん日本にっぽん総覧そうらん』 3(中世ちゅうせい 2)、児玉こだまみゆき小西こにし四郎しろう竹内たけうちさん監修かんしゅう新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、1984ねん3がつASIN B000J78OVQISBN 4404012403NCID BN00172373OCLC 11260668全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:84023599 
  • 木下きのしたさとし編著へんちょ若狭わかさ武田たけだ研究けんきゅうとその系譜けいふ動向どうこう」『若狭わかさ武田たけだえびすひかりさち出版しゅっぱん〈シリーズ・中世ちゅうせい西国さいこく武士ぶし研究けんきゅう ; 4〉、2016ねん9がつISBN 9784864031929NCID BB22008040OCLC 960432943全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:22791261 
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