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武田たけだ信孝のぶたか

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武田たけだ信孝のぶたか
時代じだい 戦国せんごく時代じだい
生誕せいたん 不明ふめい
死没しぼつ 不明ふめい
氏族しぞく 若狭わかさ武田たけだ
父母ちちはは ちち武田たけだ元信もとのぶまたは武田たけだもと
兄弟きょうだい じゅんはじめしゅうだまもとひかりもと信孝のぶたか?、
山県やまがた秀政ひでまさ
光徳みつのりいん
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武田たけだ 信孝のぶたか(たけだ のぶたか)は、戦国せんごく時代じだい武将ぶしょう武田たけだ元信もとのぶ。ただし、近年きんねん研究けんきゅうでは元信もとのぶまごとするせつされている(後述こうじゅつ)。

略歴りゃくれき[編集へんしゅう]

天文てんもん7ねん1538ねん)、謀叛ぼうほんこした若狭わかさ武田たけだ重臣じゅうしん粟屋あわやもとたかしようされ、おいしんじゆたか家督かとくあらそうも、若狭わかさこく遠敷おにゅうぐんたたかいで敗北はいぼく朝倉あさくらたかしけい朝倉あさくら10代当主とうしゅ)をたより、越前えちぜんこく逃亡とうぼうする。

天文てんもん21ねん1552ねん)、粟屋あわやみぎうままこと共同きょうどうでの若狭わかさ乱入らんにゅうくわだてたが、朝倉あさくら幕府ばくふから若狭わかさへの乱入らんにゅう制止せいし要請ようせいされ中止ちゅうし。その消息しょうそく不明ふめい

近年きんねん若狭わかさ武田たけだ系図けいず整理せいりした木下きのしたさとし元信もとのぶ実子じっし名前なまえもと[1]まさしく、信孝のぶたかはその息子むすこである(つまり、もとひかり伯父おじしんゆたか従兄じゅうけいにあたる)こと、しんゆたかおとうととされるしんだかじつ信重のぶしげただしく、しんだか信孝のぶたか別名べつめい両者りょうしゃ事績じせき混同こんどうされているを指摘してきしている。木下きのしたぶんかめ2ねん1502ねん)に戦死せんしした武田たけだ中務なかつかさ大輔だいすけ名跡みょうせきもと継承けいしょうし、以降いこう信孝のぶたかしんだか)・信重のぶしげしんじかた継承けいしょうされた「宮川みやがわ武田たけだ」を存在そんざい想定そうていしている[2]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 小浜おばま龍泉寺りゅうせんじもと天正てんしょう3ねん2がつ献上けんじょうしたすずり現存げんそんしている。
  2. ^ 木下きのしたさとし若狭わかさ武田たけだ研究けんきゅうとその系譜けいふ動向どうこう木下きのした へん『シリーズ・中世ちゅうせい西国さいこく武士ぶし研究けんきゅう だいよんかん 若狭わかさ武田たけだ』(えびすひかりさち出版しゅっぱん、2016ねんISBN 978-4-86403-192-9

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]