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内藤ないとうきよしまい

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内藤ないとう きよしまい
時代じだい 江戸えど時代じだい初期しょき - 中期ちゅうき
生誕せいたん 正保まさやす2ねん8がつ6にち1645ねん9月25にち
死没しぼつ 正徳まさのり4ねん4がつ16にち1714ねん5月29にち
改名かいめい 内藤ないとうきよしちょうはつ)、きよしまい
別名べつめい はんみぎ衛門えもん通称つうしょう
戒名かいみょう まきまもるいん殿どのまいほまれこう閑静かんせいしつだい居士こじ
墓所はかしょ 東京とうきょう新宿しんじゅく新宿しんじゅく太宗寺たいそうじ
官位かんい したがえ丹後たんごもり駿河するがもり
幕府ばくふ 江戸えど幕府ばくふ 大坂おおさかばん奏者そうしゃばん
はん 信濃しなの高遠こうえんはんあるじ
氏族しぞく 水野みずの内藤ないとう
父母ちちはは ちち水野みずのまもるせいはは内藤ないとう正勝まさかつむすめ
養父ようふ内藤ないとう重頼しげより
よりゆききょうむすめ朽木くちきげんつな正室せいしつ)、むすめ高木たかぎただし正室せいしつ片桐かたぎりみつる継室けいしつ、のち松平まつだいらしんつぎしつ
養子ようしちょうよりゆき清行きよゆき
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内藤ないとう きよしまい(ないとう きよかず)は、江戸えど時代じだい初期しょきから中期ちゅうき旗本はたもと、のち大名だいみょう信濃しなの高遠こうえんはん初代しょだい藩主はんしゅ高遠こうえんはん内藤ないとうだい6だいだい7だいとするせつあり)。

生涯しょうがい

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正保まさやす2ねん1645ねん)8がつ6にち旗本はたもと水野みずのまもるせい次男じなんとしてまれる。元服げんぷくして水野みずのまもるきょう名乗なのり、旗本はたもととして寛文ひろふみ12ねん1672ねん)5がつ26にち書院しょいんばんれっし、幕臣ばくしんとしてつかえた。はは内藤ないとう重頼しげよりいもうとだったため、天和てんわ元年がんねん1681ねん)4がつ6にち重頼しげより養子ようしとなり、内藤ないとうきよしちょう改名かいめいする。元禄げんろく3ねん1690ねん)、重頼しげより死去しきょによりのこりょう3まん3000せきいだ。元禄げんろく4ねん1691ねん)2がつ9にち信濃しなのこく伊那いなぐん筑摩つかまぐんうつりふうされ、高遠こうえんはん内藤ないとう初代しょだい藩主はんしゅとなる。はんちょう高遠こうえんじょういた。

元禄げんろく4ねん(1691ねん)12月1にち自身じしんくにりに先立さきだち、きよしまい藩士はんしたいし「条目じょうもく」17かじょう発布はっぷした。くわえて同日どうじつづけ重臣じゅうしん連名れんめいによる「さとし」11かじょう制定せいていし、家中いえじゅう法度はっとととのえた。なお、はじめてのくにりは翌年よくねん9がつ21にちであった。

高遠こうえんへのうつりふうさいして幕府ばくふおこなった検地けんちでは、だかが3まん9000せきであるとされ、そのうち6000せき幕府ばくふりょうとされた。そのため財政ざいせいくるしく、新田にった開発かいはつ尽力じんりょくすることとなる。この新田しんでん開発かいはつだかをかなりげたが、その反面はんめん元禄げんろく7ねん1694ねん)と宝永ほうえい4ねん1707ねん)に大坂おおさかばん元禄げんろく8ねん1695ねん)12月から元禄げんろく10ねん1697ねん)8がつまで奏者そうしゃばんにんじられるなど、要職ようしょく歴任れきにんしたことから出費しゅっぴ増大ぞうだいし、はん財政ざいせいくるしめたという。

元禄げんろく9ねん1696ねん)、駒ヶ岳こまがたけ横断おうだんする権兵衛ごんべえ街道かいどう開設かいせつする。宝永ほうえい元年がんねん1704ねん)、しんちょうからきよしまいあらためた。

正徳まさのり4ねん1714ねん)4がつ16にち死去しきょした。享年きょうねん70。養子ようしとしてちょうよりゆき清行きよゆきがいたが、ちょうよりゆき不行跡ふぎょうせきにより養子ようし関係かんけい白紙はくしもどし、清行きよゆき早世そうせいしたため、実子じっしよりゆききょうあといだ。

その

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  • 元禄げんろく12ねん1699ねん)、江戸えど四谷よつや付近ふきん甲州こうしゅう街道かいどう宿場しゅくばとして内藤ないとう新宿しんじゅく開設かいせつされる。宿場しゅくば予定よてい一帯いったいには内藤ないとう江戸えど中屋敷なかやしきなどがあり、きよしまい開設かいせつ先立さきだ幕府ばくふ土地とち返上へんじょうしている。なお、内藤ないとう新宿しんじゅくはこのにあった「内藤ないとう宿やど」に由来ゆらいし、「内藤ないとう」をかんしたのは内藤ないとう拝領はいりょうであったことによる。
  • 正徳しょうとく4ねん(1714ねん)、江島えじま生島いくしま事件じけんこる。江戸城えどじょう大奥おおおく年寄としよりとう高遠こうえんはん配流はいるまり、4がつ1にち高遠こうえんじょう到着とうちゃくした。藩主はんしゅきよしまい当時とうじびょうであり、はんではれの準備じゅんび手間取てまどったという(きよしまいは16にち死去しきょ)。とうあつかいには細心さいしん注意ちゅういはらい、「とうが○○をしがったらわたしてもよいか」「藩主はんしゅ自身じしん時々ときどき様子ようするべきか」などこまかいてんまで幕府ばくふ指示しじあおいでいる。とうひろし元年がんねん1741ねん)に死去しきょするまで、高遠こうえんからることはなかった。
  • きよしまい仏画ぶつが花鳥かちょうこのんでえがいたとされ、高遠こうえんまち神社じんじゃ博物館はくぶつかん自筆じひつとされる掛軸かけじく絵馬えまなどがのこされている。

系譜けいふ

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父母ちちはは

子女しじょ

養子ようし

参考さんこう文献ぶんけん

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