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内藤ないとうよりゆきただし

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内藤ないとうよりゆきただし
時代じだい 江戸えど時代じだい末期まっき
生誕せいたん 天保てんぽう11ねん10月27にち1840ねん11月20にち
死没しぼつ 明治めいじ12ねん1879ねん8がつ17にち
改名かいめい 孝吉こうきち幼名ようみょう)、よりゆきただし
墓所はかしょ 東京とうきょう新宿しんじゅく新宿しんじゅく太宗寺たいそうじ
官位かんい したがえ左京さきょうあきら大和やまともり駿河するがもり
若狭わかさもり
幕府ばくふ 江戸えど幕府ばくふ
はん 信濃しなのこく高遠こうえんはんあるじ
氏族しぞく 内藤ないとう
父母ちちはは ちち内藤ないとう頼寧よりやす
兄弟きょうだい よりゆきあいよりゆきただしよりゆきそん松平まつだいら信敏のぶとし忠告ちゅうこく
つま 正室せいしつ戸田とだ忠温ただよしむすめ
弥三郎やさぶろう長男ちょうなん)、よりゆき次男じなん
テンプレートを表示ひょうじ

内藤ないとう よりゆきただし(ないとう よりなお)は、幕末ばくまつ大名だいみょう信濃しなの高遠こうえんはんだい8だい最後さいご)の藩主はんしゅ高遠こうえんはん内藤ないとう13だい

略歴りゃくれき[編集へんしゅう]

天保てんぽう11ねん(1840ねん)、だい7だい藩主はんしゅ内藤ないとう頼寧よりやすななおとことしてまれる。あによりゆきあい早世そうせいしたため世子せいしとなり、安政あんせい6ねん1859ねん)にちち隠居いんきょにより家督かとく相続そうぞくすると、よく万延まんえん元年がんねん1860ねん)、藩校はんこう進徳しんとくかん開闢かいびゃくした。

文久ぶんきゅう元年がんねん1861ねん)の和宮かずのみや下向げこうさいにはその負担ふたんつとめた[1]文久ぶんきゅう2ねん1862ねん)の生麦なまむぎ事件じけんでは幕命ばくめいによりまんいちそなえてはんぐんうごかした[2]天狗てんぐとうらんでははん要人ようじん無難ぶなんなくおさめた[3]。また幕府ばくふ長州ちょうしゅう征伐せいばつにも参加さんかしている[4]

慶応けいおう4ねん1868ねん)の戊辰戦争ぼしんせんそうでは官軍かんぐんにつき、戦功せんこうしょうてんきん2000りょう下賜かしされている。はんぐん北越ほくえつ会津あいづ戦争せんそう出動しゅつどうして西園寺さいおんじ公望きんもちたすけるなど活躍かつやくした[5]明治めいじ2ねん1869ねん)、版籍はんせき奉還ほうかん高遠こうえんはん知事ちじとなり、明治めいじ3ねん1870ねん)にはんせいあらたにさだめている[6]

明治めいじ4ねん1871ねん)7がつ14にち廃藩置県はいはんちけん免官めんかんとなった[6]明治めいじ12ねん(1879ねん)にぼっした。

系譜けいふ[編集へんしゅう]

父母ちちはは

正室せいしつ

子女しじょ

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 阿部あべたけし; 西村にしむら圭子けいこ へん戦国せんごく人名じんめい事典じてん』(コンパクト)新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、1990ねん9がつISBN 4-404-01752-9 
  • 長谷川はせがわ正次まさつぐ高遠こうえんはん現代書館げんだいしょかん〈シリーズはん物語ものがたり〉、2005ねん11月。ISBN 4-7684-7103-X