(Translated by https://www.hiragana.jp/)
内藤頼卿 - Wikipedia コンテンツにスキップ

内藤ないとうよりゆききょう

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
内藤ないとうよりゆききょう
時代じだい 江戸えど時代じだい中期ちゅうき
生誕せいたん 元禄げんろく10ねん1697ねん
死没しぼつ とおる20ねん2がつ27にち1735ねん3月21にち
改名かいめい よし十郎じゅうろう弥三郎やさぶろう幼名ようみょう)、きよしぼうはつ)→よりゆききょう
戒名かいみょう 真如しんにょいん殿どのとくほまれじゅんじんせいうみだい居士こじ
墓所はかしょ 東京とうきょう新宿しんじゅく新宿しんじゅく太宗寺たいそうじ
官位かんい したがえ伊賀いがまもる
幕府ばくふ 江戸えど幕府ばくふ
主君しゅくん 徳川とくがわ家継いえつぐよしはじめ
はん 信濃しなの高遠こうえんはんあるじ
氏族しぞく 内藤ないとう
父母ちちはは ちち内藤ないとうきよしまい
兄弟きょうだい よりゆききょういぬいりょういん高木たかぎただし正室せいしつ
やしなえ兄弟きょうだいちょうよりゆき清行きよゆき
つま 正室せいしつ松平まつだいらきんただしむすめ
養子ようしよりゆきゆかり
テンプレートを表示ひょうじ

内藤ないとう よりゆききょう(ないとう よりのり)は、江戸えど時代じだい中期ちゅうき大名だいみょう信濃しなのこく高遠こうえんはん2だい藩主はんしゅ高遠こうえんはん内藤ないとう7だい官位かんいしたがえ伊賀いがまもる

生涯しょうがい

[編集へんしゅう]

元禄げんろく10ねん1697ねん)、初代しょだい藩主はんしゅ内藤ないとうきよしまい長男ちょうなんとして江戸えど[1]まれる(生年せいねん元禄げんろく14ねん1701ねん)10がつ6にちせつもある)。ちちきよしまいにとっては50さいえてようやくまれた息子むすこであったが、きよしまい跡継あとつぎを心配しんぱいしてすで養子ようしちょうよりゆき清行きよゆきむかえていた。しかしちょうよりゆきは、やがて養子ようし縁組えんぐみ解消かいしょうされて実家じっか安部あべもどった。このため清行きよゆき後継こうけいしゃとなり、よりゆききょう正徳まさのり3ねん1713ねん)にその養子ようしになっていたが[1]清行きよゆき早世そうせいしたため、よりゆききょうちち世子せいし指名しめいされ、正徳しょうとく4ねん1714ねん)にちち死去しきょすると家督かとくいだ。

しかし病弱びょうじゃくだったといわれ、はん財政ざいせい再建さいけんのために藩政はんせい改革かいかくおこなったが失敗しっぱいしている。とおる9ねん1724ねん)3がつからとおる13ねん1728ねん)8がつまで奏者そうしゃばんつとめた。ほかにも江戸城えどじょう桜田さくらだ和田わだくら門番もんばん増上寺ぞうじょうじ警備けいび朝鮮ちょうせん通信使つうしんし来日らいにち東海道とうかいどう御用ごよう公卿くぎょう接待せったいやく浅草あさくさ御門みかどより小石川こいしかわ御門みかどぼうやく日光にっこうしゃさん御用ごようなど多数たすう公務こうむおこなっている[1]

とおる20ねん1735ねん)2がつ27にち死去しきょ享年きょうねん39。よりゆききょうまえ遺言ゆいごんのこしているが、その内容ないようみずからを謙遜けんそんして病弱びょうじゃくのためにおもうような藩政はんせいができなかったことをい、家中いえじゅう一統いっとう繁栄はんえい存続そんぞくねがったものであった[1]

実子じっしかったため、養子ようしよりゆきゆかり永井ながいただしけいろくなん)があといだ。

系譜けいふ

[編集へんしゅう]

父母ちちはは

正室せいしつ

養子ようし

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ a b c d 長谷川はせがわ正次まさつぐ高遠こうえんはん現代書館げんだいしょかん〈シリーズはん物語ものがたり〉、2005ねん11月、61ぺーじISBN 476847103X