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藤原ふじわらなかみつる

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藤原ふじわらなかみつる
時代じだい 平安へいあん時代じだい初期しょき - 前期ぜんき
生誕せいたん ひろしひとし9ねん818ねん
死没しぼつ さだかん17ねん6月6にち875ねん7がつ12にち
別名べつめい なかゆかり
官位かんい せいよん参議さんぎ
主君しゅくん 淳和天皇じゅんなてんのう仁明天皇にんみょうてんのう文徳ふみのり天皇てんのう清和せいわ天皇てんのう
氏族しぞく 藤原ふじわらみなみ巨勢こせ麻呂まろながれ
父母ちちはは ちち藤原ふじわらさんもりははばん友子ゆうこばん長村おさむらむすめ
兄弟きょうだい ゆうすべなかみつるゆうかたゆうさだ貞子さだこ小野篁おののたかむらしつ
つま たちばなひさしつぎむすめ大中おおなかしんけんむすめ丹波たんばしたがえさと
高尚こうしょうこうのりこうよじこうさだ清和せいわ天皇てんのう更衣ころもがえ
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藤原ふじわら なかみつる(ふじわら の なかむね/なかのり)は、平安へいあん時代じだい初期しょきから前期ぜんきにかけての貴族きぞくなかゆかり(なかふち)ともしるされる[1]藤原ふじわらみなみ巨勢こせ麻呂まろながれ右大臣うだいじん藤原ふじわらさんもり次男じなん官位かんいせいよん参議さんぎ

経歴けいれき[編集へんしゅう]

てんちょう10ねん833ねん仁明天皇にんみょうてんのう即位そくいともな蔵人くろうどにんぜられ、うけたまわ2ねん835ねんしたがえうけたまわ4ねん837ねん侍従じじゅう叙任じょにんされる。のち、うけたまわ7ねん840ねんみぎ兵衛ひょうえうけたまわ13ねん846ねんひだり近衛このえ少将しょうしょうじん明朝みょうちょうなか以降いこう武官ぶかんつとめる一方いっぽう伊勢いせかいいで伊勢いせまもる伊勢いせ国司くにじねる。またこのあいだうけたまわ14ねん847ねんしたがえじょうじょせられている。

文徳ふみのりあさではつづひだり近衛このえ少将しょうしょうつとめながら、じん寿ことぶき3ねん853ねんせいひとし2ねん855ねんしたがえよん順調じゅんちょう昇進しょうしんする。文徳ふみのりちょうまつてんやす元年がんねん857ねん)9がつみん大輔だいすけに遷る。また、てんやす2ねん858ねん)8がつ文徳ふみのり天皇てんのう崩御ほうぎょにあたっては、装束しょうぞくつとめている。

同年どうねん清和せいわ天皇てんのう即位そくいすると兵部ひょうぶ大輔だいすけてんじる。清和せいわちょう前半ぜんはん兵部ひょうぶ大輔だいすけつとめ、このあいださだかん4ねん862ねん)にしたがえよんじょうじょせられている。さだかん12ねん870ねん蔵人くろうどあたまさだかん13ねん871ねん治部じぶきょう叙任じょにんされ、さだかん14ねん872ねん参議さんぎにんぜられて公卿くぎょうれつした。さだかん16ねん874ねんせいよん昇叙しょうじょされ、さだかん17ねん875ねん正月しょうがつみぎ兵衛ひょうえとくねるが、同年どうねん6がつ6にち卒去そっきょ一説いっせつではやまいいまま夜中よなかそつしたという[1]享年きょうねん58[2]最終さいしゅう官位かんい参議さんぎせいよんぎょうみぎ兵衛ひょうえとく

かんれき[編集へんしゅう]

注記ちゅうきのないものは『ろく国史こくし』による。

系譜けいふ[編集へんしゅう]

尊卑そんぴ分脈ぶんみゃく』による。

  • ちち藤原ふじわらさんもり
  • ははばん友子ゆうこ - ばん長村おさむらむすめ
  • つまたちばなひさしつぎむすめ
    • 男子だんし藤原ふじわら高尚こうしょう
  • つま大中おおなかしんけんむすめ
    • 男子だんし藤原ふじわらだかのり
  • つま丹波たんばしたがえさと
    • 男子だんし藤原ふじわらだかよじ(またはこうきょ
  • 生母せいぼ不明ふめい子女しじょ

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l 公卿くぎょう補任ほにん
  2. ^ 日本にっぽんさんだい実録じつろくさだかん16ねん6がつ6にちじょうによる。『公卿くぎょう補任ほにん』では57さいとする。

出典しゅってん[編集へんしゅう]