(Translated by https://www.hiragana.jp/)
源昇 - Wikipedia コンテンツにスキップ

みなもとのぼる

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
みなもとのぼる
時代じだい 平安へいあん時代じだい初期しょき中期ちゅうき
生誕せいたん よしみさち元年がんねん848ねん
死没しぼつ 延喜えんぎ18ねん6月29にち918ねん8がつ8にち
別名べつめい 河原かわはら大納言だいなごん
官位かんい せいさん大納言だいなごん
主君しゅくん 清和せいわ天皇てんのう陽成ようぜい天皇てんのう光孝みつたか天皇てんのう宇多天皇うだてんのう醍醐天皇だいごてんのう
氏族しぞく 嵯峨さがはじめとおるりゅう
父母ちちはは ちちみなもととおる
兄弟きょうだい じんとまりのぼりもちふく
つま 藤原ふじわらかどはじめむすめ
しげるてきつかまつ衆望しゅうぼう藤原ふじわらひらたしつ貞子さだこ醍醐天皇だいごてんのう更衣ころもがえ宮王みやおうしつ[1]
テンプレートを表示ひょうじ

みなもと のぼる(みなもと の のぼる)は、平安へいあん時代じだい初期しょきから中期ちゅうきにかけての公卿くぎょう嵯峨さがはじめ左大臣さだいじんみなもととおる次男じなん官位かんいせいさん大納言だいなごん河原かわはら大納言だいなごんごうす。

経歴けいれき

[編集へんしゅう]

清和せいわちょうさだかん17ねん875ねんしたがえ叙爵じょしゃくし、陽成ようぜいあさもとけい3ねん879ねんしたがえじょうじょせられる。土佐とさ権守ごんもりて、光孝みつたかあさ初頭しょとうもとけい8ねん884ねんみぎすけにんぜられると、もとけい9ねん885ねんひだり兵衛ひょうえ仁和にわ2ねん886ねん左衛門さえもんけんと、光孝みつたかちょうから宇多うたちょう初頭しょとうにかけて武官ぶかん歴任れきにんし、仁和にわ4ねん888ねんせい昇叙しょうじょされた。

寛平かんぺい3ねん891ねんみぎちゅうべんに遷ると、寛平かんぺい5ねん893ねんしたがえよん蔵人くろうどあたまけんひだりちゅうべん叙任じょにんされるなど、宇多うたちょうでは要職ようしょくつとめ、寛平かんぺい7ねん895ねん参議さんぎにんぜられ公卿くぎょうれつした。なお、参議さんぎ任官にんかんひだりちゅうべん兼帯けんたいした数少かずすくないれいとなっている。

政官せいかんかたわらで、ひだりちゅうべん侍従じじゅうかんかいよし長官ちょうかんなどを兼帯けんたいし、醍醐だいごあさ寛平かんぺい9ねん897ねんしたがえよんじょう延喜えんぎ4ねん904ねんせいよん昇叙しょうじょされた。

そのも、延喜えんぎ8ねん908ねんしたがえさん中納言ちゅうなごん延喜えんぎ14ねん914ねん大納言だいなごん昇進しょうしんかさね、延喜えんぎ16ねん916ねんせいさんいたる。延喜えんぎ18ねん918ねん)6がつ29にち薨去こうきょ享年きょうねん71。最終さいしゅう官位かんい大納言だいなごんせいさんけんみんきょう

かんれき

[編集へんしゅう]

公卿くぎょう補任ほにん』による。

系譜けいふ

[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ つづけぐんしょ類従るいじゅう信州しんしゅう滋野しげのさんいえ系図けいず”. 国立こくりつ公文書こうぶんしょかんデジタルアーカイブ. 2022ねん3がつ14にち閲覧えつらん
  2. ^ 尊卑そんぴ分脈ぶんみゃく』。『公卿くぎょう補任ほにん』ではみなもとじんむすめとする。
  3. ^ つづけぐんしょ類従るいじゅう信州しんしゅう滋野しげのさんいえ系図けいず”. 国立こくりつ公文書こうぶんしょかんデジタルアーカイブ. 2022ねん3がつ14にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]