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承久之亂 - 维基百科,自由的百科全书 とべ转到内容ないよう

うけたまわ久之ひさゆきらん

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うけたまわ久之ひさゆきらん
にちうけたまわひさし3ねん(1221ねん)6がつ
地点ちてん
结果 幕府ばくふぐん壓勝あっしょう
まいり战方
鎌倉かまくら幕府ばくふ 朝廷ちょうてい
ゆび挥官あずか领导しゃ
北條ほうじょうよしとき
北條ほうじょうやすしとき
北條ほうじょうぼうにち北条ほうじょうぼう
北條ほうじょうちょうにち北条ほうじょうちょう
武田たけだ信光のぶみつ
三浦みうらよしむら
後鳥羽上皇ごとばじょうこう
藤原ふじわら秀康ひでやすにち藤原ふじわら秀康ひでやす
大内おおうち惟信いしんにち大内おおうち惟信いしん
三浦みうらたねよしにち三浦みうらたねよし
山田やまだ重忠しげただにち山田やまだ重忠しげただ
兵力へいりょく
やく19まん吾妻あづまきょう やく19,000(諸説しょせつ

うけたまわ久之ひさゆきらんにち语:承久じょうきゅうらんじょうきゅうのらん),也稱さくうけたまわ久之ひさゆきへんうけたまわひさし合戰かっせん日本にっぽん鎌倉かまくら時代ときようけたまわひさし3ねん(1221)後鳥羽上皇ごとばじょうこうため打倒だとう鎌倉かまくら幕府ばくふ执权北条ほうじょうよしとき發動はつどうてき一場いちじょう戰爭せんそう

雖然よし天皇てんのうおや宣旨せんじ討伐とうばつただしよし北条ほうじょうよし及其姊北条ほうじょう政子まさこ成功せいこうはたむね轉化てんかためたい東國とうごく御家人ごけにん全體ぜんたいてき攻擊こうげきはん而得いた御家人ごけにん們的きょうじょ反攻はんこう朝廷ちょうてい最終さいしゅう朝廷ちょうてい失敗しっぱい事件じけん定義ていぎ謀反むほん」,後鳥羽上皇ごとばじょうこう謀反むほん罪名ざいめい配流はいる隱岐おき,其他皇族こうぞく也多ながれあるやめ[1]。此役これ鎌倉かまくら幕府ばくふ取得しゅとくりょう絕對ぜったい權勢けんせい朝廷ちょうてい權力けんりょくつくり落,而幕府ばくふまた京都きょうと設置せっち監視かんし朝廷ちょうていてきろく探題たんだい,甚至ようゆう決定けってい继承顺位ひとしてき影響えいきょうりょく

ざい鎌倉かまくら幕府ばくふ滅亡めつぼうきさきじょりょう南北なんぼくあさ時代じだい期間きかん武家ぶけ政權せいけん室町むろまち幕府ばくふ織田おだ政權せいけん豐臣とよとみ政權せいけん江戶えど幕府ばくふひとし)仍然保持ほじたい朝廷ちょうていてき壓倒あっとうせいひかえせい影響えいきょうりょくちょくいた600多年たねんてき大政奉還たいせいほうかんためとめ[1]

背景はいけい[编辑]

源平げんぺい合戰かっせん期間きかん平家ひらか攜帶さん神器じんぎ逃離京都きょうとさん神器じんぎいちてきてん叢雲むらくもけん遺失いしつ壇之浦だんのうらこれせんなか後鳥羽上皇ごとばじょうこう在位ざいい期間きかんよる御殿ごてんにちよる御殿ごてん並無ならびな神劍しんけんけんれき2ねん(1212),後鳥羽上皇ごとばじょうこう派遣はけん人手ひとでいたり九州きゅうしゅうさがせひろ神劍しんけん最終さいしゅうこう而返。當代とうだいそうじん慈圓じえん表示ひょうじ神劍しんけん所以ゆえんかい遺失いしつかかりいん武士ぶし作為さくい保衛やすえ朝廷ちょうていてき軍事ぐんじ力量りきりょう出現しゅつげん幕府ばくふ代替だいたい神劍しんけんあさ廷與幕府ばくふおうひとししんかたのう治國ちこく

たてひさし元年がんねん(1206)前後ぜんこう後鳥羽上皇ごとばじょうこう御所ごしょ西にしめん增設ぞうせつ直屬ちょくぞくいんてき武士ぶし(西にしめん武士ぶし),其中構成こうせい要員よういんだいため幕府ばくふてき在京ざいきょう御家人ごけにんにち在京ざいきょう御家人ごけにんこれいくねん後鳥羽上皇ごとばじょうこうつぎ出動しゅつどう西にしめん武士ぶし鎮壓ちんあつ寺院じいんてき強訴ごうそ

たてたもつ7ねん(1219)1がつ27にち鎌倉かまくら幕府ばくふさんだい將軍しょうぐん源實朝みなもとのさねとも遭到暗殺あんさつほろび。雖然於建6ねん(1218),幕府ばくふあずか朝廷ちょうていやめ約定やくじょうよしまさしげる親王しんのうあるよりゆきじん親王しんのうにちよりゆきじん親王しんのう作為さくい源實朝みなもとのさねともてき後繼こうけいしゃ東下ひがししも鎌倉かまくらしか後鳥羽上皇ごとばじょうこう突然とつぜんはん悔,拒絕きょぜつ親王しんのう下向げこうなみ要求ようきゅう撤銷攝津せっつこく長江ながえそうあずかむくきょうそうてき地頭じとうしょくたい此,幕府ばくふ派遣はけん北條ほうじょうぼうにち北条ほうじょうぼうりつりょう1000上京じょうきょう表示ひょうじ拒絕きょぜつ撤銷上述じょうじゅつりょうしょ地頭じとうなみ請求せいきゅう親王しんのう東下ひがししも最終さいしゅうあさ廷與幕府ばくふ達成たっせい妥協だきょうゆかりすんでゆう藤原ふじわらきたきゅうじょうりゅう血統けっとうまた鎌倉かまくら幕府ばくふ初代しょだい將軍しょうぐんみなもと賴朝よりともとおおやてきさんとら(これてきよんだい將軍しょうぐん藤原ふじわらよりゆきけい)下向げこう鐮倉。

うけたまわひさし元年がんねん(1219)7がつ後鳥羽上皇ごとばじょうこういのち在京ざいきょう御家人ごけにんあずか西にしめん武士ぶし追討ついとう大内おおうち守護しゅごみなもとよりゆきしげるにちみなもとよりゆきしげる,此事件じけん造成ぞうせい許多きょた內裏殿舍でんしゃ遭到しょう毀。後鳥羽上皇ごとばじょうこう追討ついとうみなもとよりゆきしげるてき原因げんいん眾說まがえ紜,《吾妻あづまきょうみとめためみなもとよりゆきしげる之子ゆきこみなもとよりゆき違背いはい後鳥羽上皇ごとばじょうこうてきむね仁和寺にんなじうけたまわ久三きゅうぞうよんねん日次にちじみとめためみなもとよりゆきしげるゆう謀反ぼうほんしん;《かんしょうみとめためみなもとよりゆきしげ覬覦征夷大將軍せいいたいしょうぐんくらい活字かつじほんうけたまわひさにちうけたまわひさ#しょほんのり表示ひょうじみなもとよりゆきしげため源氏げんじ一門いちもん,此為後鳥羽上皇ごとばじょうこう倒幕とうばくてき第一步だいいっぽ後鳥羽上皇ごとばじょうこうれいこう全國ぜんこく徵收ちょうしゅうじゅうけん宮殿きゅうでんてき費用ひようただしぶん國司こくし領家りょうけにち領家りょうけ地頭じとう各地かくちみな出現しゅつげん拒絕きょぜつ繳稅じょうがた

上皇じょうこう舉兵[编辑]

うけたまわひさし3ねん(1221)4がつ20日はつか順德天皇じゅんとくてんのう讓位じょういふところなり親王しんのう(これてき仲恭天皇ちゅうきょうてんのう)。4月28にち後鳥羽上皇ごとばじょうこう召集しょうしゅう畿內近國きんごく武士ぶし1000於院御所ごしょこういんにちこういん (邸宅ていたく)。5月14にち後鳥羽上皇ごとばじょうこうかそけきんおやまく公卿くぎょう西園寺さいおんじこうけいみのるにち西園寺さいおんじみのる父子ふし(西園寺さいおんじこうけいため幕府ばくふ四代將軍藤原賴經的祖父)。而為りょうためしさがせ幕府ばくふ京都きょうとてき勢力せいりょく後鳥羽上皇ごとばじょうこう召見伊賀いがひかりにち伊賀いがひかり大江おおえちかしひろにち大江おおえちかしひろりょう京都きょうと守護しゅごにち京都きょうと守護しゅご伊賀いがひかり理會りかい大江おおえちかし廣則ひろのりおう情事じょうじしょせり加入かにゅう後鳥羽上皇ごとばじょうこう陣營じんえい。5月15にち三浦みうらたねよしにち三浦みうらたねよし佐佐木ささきひろつなにち佐々木ささきひろつなとう800襲擊しゅうげき伊賀いがひかり住所じゅうしょ將之まさゆき誅殺ちゅうさつ

うけたまわひさし3ねん(1221)5がつ15にち後鳥羽上皇ごとばじょうこうむかい三浦みうら武田たけだ小山こやまにち小山こやまとう幕府ばくふ有力ゆうりょく御家人ごけにん發布はっぷ追討ついとう幕府ばくふ執權しっけん北條ほうじょうよしときてき院宣いんぜんにち院宣いんぜん[2]なみむこう畿七どう御家人ごけにん守護しゅご地頭じとうとう發布はっぷ追討ついとう北條ほうじょうよしてきかん宣旨せんじにちかん宣旨せんじ院宣いんぜん及官宣旨せんじてきはつたくづけ後鳥羽上皇ごとばじょうこうてき下部かぶ押松にち松丸まつまる,其於5がつ16にちとらはなれひらき京都きょうと同樣どうよう5がつ15にち,三浦胤義派遣使者至其兄三浦みうらよしむらしょ勸誘かんゆう其倒ほこ伊賀いがひかり西園寺さいおんじこうけいてき使者ししゃ也先趕赴鐮倉,報告ほうこく京都きょうとてき消息しょうそく。5月19にち,三浦義村接見完其弟的使者後,たてそくぜん北條ほうじょうよししょ提議ていぎ逮捕たいほ押松。爾後じご幕府ばくふつめ押松,成功せいこう阻斷院宣いんぜん及官宣旨せんじてき傳播でんぱ

うけたまわひさし3ねん(1221)5がつ19にち御家人ごけにんぐん聚於北條ほうじょう政子まさこたくてい北條ほうじょう政子まさこ成功せいこうはた朝廷ちょうてい追討ついとう北條ほうじょうよしいちにん轉換てんかん概念がいねん轉變てんぺんためたい幕府ばくふてき攻擊こうげきせつふく御家人ごけにん團結だんけつ

せんごと經過けいか[编辑]

幕府ばくふ應對おうたい[编辑]

吾妻あづまきょううけたまわひさし3ねん(1221)5がつ19にちじょう記載きさい幕府ばくふ就如なん應對おうたい追討ついとう一事いちじ展開てんかい評議ひょうぎはらさき,眾人決定けってい固守こしゅ東海道とうかいどう箱根はこね足柄あしがらにち金時山きんときざん#足柄峠あしがらとうげルートただし幕府ばくふ元老げんろう大江廣元おおえのひろもと表示ひょうじおうつきそく出兵しゅっぺい京都きょうと,以免せんごとひしげちょう使東國とうごく武士ぶし內部立場たちば分裂ぶんれつ北條ほうじょう政子まさこ同意どうい率先そっせん出擊しゅつげき北條ほうじょうよしいのち東海道とうかいどう東山ひがしやまみちてき御家人ごけにんさくこうだしせん準備じゅんびなみ派遣はけん北條ほうじょうちょうにち北条ほうじょうちょうぜん往北りくどう

うけたまわひさし3ねん(1221)5がつ21にち一條いちじょうよりゆきにち一条いちじょうよりゆき(みなもと賴朝よりともいもうと婿むこ一條いちじょうのうにち一条いちじょうのうこれまご)ぜん鎌倉かまくらこう幕府ばくふ告知こくち京都きょうとてき消息しょうそく御家人ごけにん此時また出現しゅつげん動搖どうようてき聲音こわね表示ひょうじおう該貿しか出擊しゅつげきただし大江廣元おおえのひろもとみとめためため避免夜長よながゆめおう繼續けいぞく拖延そく便びんただゆう北條ほうじょうやすしとき一人ひとり,也要りつそく出擊しゅつげき,另一幕府ばくふ元老げんろう三善みよし康信やすのぶにち三善みよし康信やすのぶ也持しょうどう觀點かんてん。5月22にち北條ほうじょうやすしとう18率先そっせん出征しゅっせい北條ほうじょうぼう足利あしかがよし、三浦義村等人陸續出征;北條ほうじょうよしとうじんのり留守るす鐮倉,於鶴岡つるおか八幡宮はちまんぐう等地とうちいのりぶくせんことじゅん。《吾妻あづまきょううけたまわひさし3ねん(1221)5がつ25にちじょう記載きさい東國とうごく武士ぶしひびきおう幕府ばくふごう召,軍隊ぐんたい總數そうすうあしゆう19まん

吾妻あづまきょううけたまわひさし3ねん(1221)5がつ25にちじょう記載きさい幕府ばくふ軍陣ぐんじん

尾張おわりがわたたかえ[编辑]

うけたまわひさし3ねん(1221)5がつ26にち朝廷ちょうていおさむいた幕府ばくふぐんこう京都きょうと襲來しゅうらいてきぐんほう。6月1にち,押松かえしかい京都きょうとなみ報告ほうこく歸途きとちゅう所見しょけんいたすうてき東國とうごく武士ぶし聽聞ちょうもん朝廷ちょうてい人人ひとびと危。6月3にち朝廷ちょうてい決定けってい藤原ふじわら秀康ひでやすにち藤原ふじわら秀康ひでやすためそう大將たいしょうりつりょういん近臣きんしんにちいん近臣きんしん武士ぶし在京ざいきょう御家人ごけにん西にしめん武士ぶし美濃みの尾張おわり武士ぶし,於美濃みのこく抵禦幕府ばくふ東海道とうかいどうぐん及東山道さんどうぐん朝廷ちょうていなみ派遣はけん糟屋かすや有久ありひさにち糟屋かすや有久ありひさ宮崎みやざきじょうはんにち宮崎みやざきじょうはん仁科にしな盛遠もりとおにち仁科にしな盛遠もりとおとうひとりつりょうやく7000まえ往北りくどう抵禦幕府ばくふぐん藤原ふじわら秀康ひでやす決定けっていはた手中しゅちゅうやく1まん2000騎兵きへいぶん12しょ,扼守墨俣すのまたにち墨俣すのまたまちめんにち草井くさい渡船とせんひとし木曾きそがわ長良川ながらがわ揖斐川いびがわうえてき渡口とぐち慈光寺じこうじほんうけたまわひさにちうけたまわひさ#しょほん記載きさい山田やまだ重忠しげただにち山田やまだ重忠しげただむかい藤原ふじわら秀康ひでやす兄弟きょうだい藤原ふじわらしげるきよしにち藤原ふじわらしげるきよし建議けんぎおう集中しゅうちゅう全部ぜんぶ兵力へいりょく墨俣すのまたなみ主動しゅどう出擊しゅつげきさき擊破げきは北條きたじょうぼう北條ほうじょうやすしさいこう鐮倉進發しんぱつ追討ついとう北條ほうじょうよししか藤原ふじわらしげるきよしいん擔心遭東海道とうかいどうぐんあずか東山ひがしやまどうぐん夾擊きょうげき拒絕きょぜつ建議けんぎ。6月5にち幕府ばくふ東海道とうかいどうぐんあずか東山ひがしやまどうぐん於尾はりこく一宮いちのみや會合かいごうしょう作戰さくせん對策たいさく

うけたまわひさし3ねん(1221)6がつ5にち東山ひがしやまみちぐん擊破げきは固守こしゅ大井戶おおいどわたりてき大内おおうち惟信いしんにち大内おおうち惟信いしんとうひとなみこうしたゆう鵜沼うぬまわたる進軍しんぐん朝廷ちょうていぐんちゅうもりてき渡口とぐち陸續りくぞく幕府ばくふぐんおさむおちい防禦ぼうぎょ主戰しゅせんじょうめんてき藤原ふじわら秀康ひでやす、三浦胤義等見情勢不利,也向撤退てったい。雖然山田やまだ重忠しげただみなもとしょうかがみひさつなにちかがみひさつなとうひと奮勇ころせてきただしつぎ朝廷ちょうていぐんぼうせん全面ぜんめん崩潰ほうかい固守こしゅ墨俣すのまたてき藤原ふじわらしげるきよし也撤ぐん尾張おわりがわたたかえ朝廷ちょうていぐん大敗たいはいおさむじょう

北陸ほくりくどう方面ほうめんうけたまわひさし3ねん(1221)6がつ8にち幕府ばくふぐんあずか朝廷ちょうていぐんえつ中國ちゅうごく般若はんにゃそう交鋒,幕府ばくふぐん勝利しょうり

宇治うじ瀬田せた攻防こうぼう[编辑]

うけたまわひさし3ねん(1221)6がつ8にち藤原ふじわら秀康ひでやすかえしかい京都きょうと報告ほうこく戰敗せんぱい消息しょうそくとうてんはたばん後鳥羽上皇ごとばじょうこうおや比叡山ひえいざんよくひしげ延曆寺えんりゃくじ派遣はけん僧兵そうへいため其效りょくただし延曆寺えんりゃくじ於隔拒絕きょぜつただゆう少數しょうすう惡僧あくそう加入かにゅう朝廷ちょうていぐん。6月10にち後鳥羽上皇ごとばじょうこう解除かいじょたい西園寺さいおんじこうけいみのる父子ふしてきかそけきん朝廷ちょうていぐん趕赴京都きょうと周邊しゅうへんてき宇治うじ瀬田せたとう布陣ふじん坊門ぼうもん忠信ちゅうしんにち坊門ぼうもん忠信ちゅうしん一條いちじょうしんのうにち一条いちじょうしんのうとう公家くげ熊野くまの奈良ならてき惡僧あくそう參戰さんせんそう兵力へいりょくやく2まん。而幕府ばくふぐん也兵ぶん北條ほうじょうぼう出兵しゅっぺい瀬田せた北條ほうじょうやすし出兵しゅっぺい宇治うじ毛利もうりこう出兵しゅっぺいいもあらい三浦みうらよしむら出兵しゅっぺいよどみわたり

うけたまわひさし3ねん(1221)6がつ12にち北條ほうじょうぼうこう瀬田せた進軍しんぐんしか遭到山田やまだ重忠しげただあずか延曆寺えんりゃくじ惡僧あくそう頑強がんきょう抵抗ていこうただとく暫時ざんじ停止ていし進攻しんこう。6月13にち足利あしかがよしとう御家人ごけにんざいぼつゆう告知こくち北條ほうじょうやすしてき情況じょうきょう,突襲宇治うじ,遭到朝廷ちょうていぐんてき阻擊,北條ほうじょうやすし時下じかれい暫時ざんじ撤軍。6月14にち幕府ばくふぐん於宇やぶくち藤原ふじわらちょうしゅんにち藤原ふじわらちょうしゅん八田はったともなおにち八田はったともなお小野おのしげるときにち小野おのしげるときとうひとためしじゅうしん建立こんりゅうぼうせんただし先後せんご戰死せんし,其他せん幕府ばくふぐん也都傳來でんらい捷報しょうほう藤原ふじわら秀康ひでやす小野おのもりつなにち小野おのもりつなとう朝廷ちょうていぐん武士ぶし紛紛ふんぷん棄陣往京都きょうと撤退てったい幕府ばくふぐん也向京都きょうと進軍しんぐん

吾妻あづまきょううけたまわひさし3ねん(1221)6がつ15にちじょう記載きさい藤原ふじわら秀康ひでやす、三浦胤義等人向後鳥羽上皇報告戰敗的結果。慈光寺じこうじほんうけたまわひさ記載きさい,6がつ14にち半夜はんや三浦みうらたねよし山田やまだ重忠しげただみなもとしょうとう人參にんじん後鳥羽上皇ごとばじょうこう,三浦胤義表示其會固守院御所,さく最後さいごいちせんしか後鳥羽上皇ごとばじょうこう竟回くつがえせつ三浦胤義等人固守於此只會使東國武士攻擊此處,いのち其離;三浦胤義聽聞後大吃一驚,なみたい自己じこ後鳥羽上皇ごとばじょうこう勸誘かんゆう加入かにゅう陣營じんえい一事いちじ後悔こうかいやめ,三浦胤義前去尋找其兄三浦義村,よく藉其しゅ終結しゅうけつ自身じしんせいいのち雙方そうほうざい東寺とうじそうかい,三浦胤義不敵三浦義村旗下武士,敗走はいそうあずか自盡じじんほろび山田やまだ重忠しげただみなもとしょうとうじん展開てんかい最後さいごてき奮鬥,あずかすすむきょうてき東國とうごく武士ぶし廝殺,不敵ふてき紛紛ふんぷん自殺じさつほろび

戰後せんご[编辑]

幕府ばくふぐんしんきょう[编辑]

うけたまわひさし3ねん(1221)6がつ15にち北條ほうじょうぼう北條ほうじょうやすしとうじんすすむきょう。《吾妻あづまきょううけたまわひさし3ねん(1221)6がつ15にちじょう記載きさい小槻おおづくこくむねにち小槻おおづくこくむね作為さくい後鳥羽上皇ごとばじょうこうてき勅使ちょくしたてまつ院宣いんぜんあずか北條ほうじょうやすしかいめん院宣いんぜん內容表示ひょうじ此次大亂たいらんなみ後鳥羽上皇ごとばじょうこうてき意志いし,而是よし企圖きと謀反ぼうほんてきはかりごとしんしょ發起ほっき後鳥羽上皇ごとばじょうこうそう藉此迴避其責任せきにんはたわざわいらん起因きいん轉嫁てんか他人たにん仁和寺にんなじうけたまわ久三きゅうぞうよんねん日次にちじ同日どうじつじょう記載きさい小槻おおづくこくむねあずか幕府ばくふかたかいめん宣布せんぷ包括ほうかつ撤回てっかいたい北條ほうじょうよし追討ついとうてき院宣いんぜん禁止きんしざい京都きょうとさくらんとう內容。北條ほうじょうぼう北條ほうじょうやすし、三浦義村等人進駐幕府於京都的據點ろく整頓せいとんらんてき京都きょうと進行しんこうたい朝廷ちょうていぐん殘黨ざんとうてきつめ東國とうごく武士ぶしこうくんてき判定はんてい朝廷ちょうてい人事じんじてき異動いどうとう工作こうさく

敗戰はいせんしゃ處置しょち[编辑]

支持しじ後鳥羽上皇ごとばじょうこう追討ついとう北條ほうじょうよしため合戰かっせん張本ちょうほん公卿くぎょうてき葉室はむろこうおやみなもとゆうみやびにちみなもとゆうみやび葉室はむろ宗行むねゆきにち葉室はむろ宗行むねゆき高倉たかくらはんしげるにち藤原ふじわらはんしげる坊門ぼうもん忠信ちゅうしん、一條信能等人則分別於承久3ねん(1221)6がつ24にち及25にち移送いそういたりろくかんかんずい幕府ばくふしょう上述じょうじゅつ公卿くぎょう護送ごそういたり關東かんとうしか而多すう公卿くぎょうみなざいぜん關東かんとうてき路上ろじょう斬首ざんしゅ坊門ぼうもん忠信ちゅうしんそくいん其為幕府ばくふさんだい將軍しょうぐん源實朝みなもとのさねとも正妻せいさい坊門ぼうもん信子のぶここれけい而改しょ以流けい。7月1にちすんでため御家人ごけにんまた西にしめん武士ぶしてき後藤ごとうはじめきよしにち後藤ごとうはじめきよし五條ごじょうゆうはんにち五条ごじょうゆうはん佐佐木ささきひろつな大江おおえのうはん幕府ばくふ梟首きょうしゅ

うけたまわひさし3ねん(1221)7がつ8にち後鳥羽上皇ごとばじょうこう同母どうぼけいまもりさだ親王しんのう作為さくいてんきみ開始かいし院政いんせい隔日かくじつ朝廷ちょうてい舉行仲恭天皇ちゅうきょうてんのう讓位じょういもりさだ親王しんのう之子ゆきこしげるじん親王しんのう(後來こうらいてき堀河ほりかわ天皇てんのう)てき儀式ぎしき。7月13にち後鳥羽上皇ごとばじょうこうながれいたり隱岐島おきのしま。7がつ20日はつか支持しじ後鳥羽上皇ごとばじょうこう追討ついとう北條ほうじょうよしてき順德じゅんとく上皇じょうこうながれいたり佐渡さどとう。7月24にちまさしげる親王しんのうながれいたり但馬たじまこく。7月25にちよりゆきじん親王しんのうながれいたり備前びぜんこく土御門つちみかど上皇じょうこうなみ參與さんよ後鳥羽上皇ごとばじょうこうてき計畫けいかくしか其於うるう10がつ10日とおかながれいたり土佐とさこくこうあらためためはなれ京都きょうと較近てき阿波あわこく;《吾妻あづまきょううけたまわひさし3ねん(1221)うるう10がつ10日とおかじょう記載きさい土御門つちみかど上皇じょうこうねがいながれうけたまわ久之ひさゆきらんてんきみ幕府ばくふしょ流刑りゅうけい天皇てんのういんてき人事じんじけん幕府ばくふてのひらひかえ

攝關せっかん九條くじょう道家どうか雖為幕府ばくふ四代將軍藤原賴經之父,且在うけたまわ久之ひさゆきらんちゅう保持ほじ中立ちゅうりつしか其與後鳥羽上皇ごとばじょうこうてき關係かんけい較為親近しんきん故由ゆえよし近衛このえにち近衛このえ代替だいたい其出にん攝政せっしょう西園寺さいおんじこうけいそくざい幕府ばくふてき支持しじ,於承ひさ3ねん(1221)うるう10がつにん大臣だいじんせめあさ幕間まくあいてき交涉こうしょう後鳥羽上皇ごとばじょうこう,以院近臣きんしん身分みぶん而崛おこりてき一条いちじょう (中御門なかみかどりゅう)にち一条いちじょう (中御門なかみかどりゅう)坊門ぼうもんにち坊門ぼうもん高倉たかくらにちやぶ也因後鳥羽上皇ごとばじょうこう遭到りゅう而跟ちょしつぜい

敗戰はいせん武士ぶし方面ほうめん藤原ふじわら秀康ひでやすしゅうきよし兄弟きょうだいとう逃亡とうぼういたりかわ內國,於承ひさ3ねん(1221)10がつ6にち幕府ばくふつめおくいたりろく斬首ざんしゅ大江おおえちかしこう於宇瀬田せた戰後せんご撤退てったいいたり逢坂おうさかせき東部とうぶてきせきてらにちせきてらどきぎょう不明ふめいゆう一說認為大江親廣逃亡至其於出羽でわこくてき所領しょりょう寒河江さがえそうにち寒河江さがえそう鎌倉かまくら幕府ばくふ源氏げんじ一門いちもん(門葉もんようにち門葉もんよう)ちゅうてき大内おおうち惟信いしん,於ひろし2ねん(1230)12月ざい比叡山ひえいざん幕府ばくふ逮捕たいほりゅういたり西國さいごく幕府ばくふ淡路あわじ阿波あわ守護しゅご佐佐木ささきけいだかにち佐々木ささきけいだか佐佐木ささき高重たかしげにち佐々木ささき高重たかしげ父子ふし於承久之ひさゆきらん加入かにゅう後鳥羽ごとば陣營じんえい前者ぜんしゃ於戰自盡じじん後者こうしゃそく幕府ばくふ誅殺ちゅうさつ。而原さきため幕府ばくふ御家人ごけにんしか於承久之ひさゆきらん加入かにゅう後鳥羽上皇ごとばじょうこう 陣營じんえいてき河野こうの通信つうしんにち河野こうの通信つうしん和田わだちょうもりにち和田わだちょうもりとうひと也相ままし逮補。

朝廷ちょうていぐんてきそう侶也遭受幕府ばくふ處分しょぶんいん近臣きんしん出羽いずはこく羽黑山はぐろさん總長そうちょうみことちょうにちみことちょうよしみ祿ろく3ねん(1227)6がつこう自盡じじん熊野くまの比叡山ひえいざん惡僧あくそう也相ままし

整頓せいとん西國さいこく[编辑]

うけたまわ久之ひさゆきらん北條ほうじょう常駐じょうちゅうろくこう衍伸ため幕府ばくふ指揮しき西國さいこく守護しゅご及御家人かじんてきちゅうそと機構きこう-ろく探題たんだい幕府ばくふ沒收ぼっしゅう在京ざいきょう御家人ごけにんてき西國さいこく守護しゅごしょくじゅうしん分配ぶんぱい東國とうごく御家人ごけにんれい如於宇治うじ瀬田せたたたかえ表現ひょうげん活躍かつやくてき佐佐木ささき信綱のぶつな(鎌倉かまくら時代じだい)にち佐々木ささき信綱のぶつな代替だいたい其兄ちょう佐佐木ささきひろ綱成つなしげため近江おうみ守護しゅご和泉いずみこくあずか紀伊きいこくてき守護しゅごしょくはらさきいんわたる及到後鳥羽上皇ごとばじょうこう熊野くまの參拜さんぱいてきひらき銷於うけたまわもと元年がんねん(1207)遭廢じょうけたまわ久之ひさゆきらんおもしん設立せつりつ支持しじ後鳥羽上皇ごとばじょうこう貴族きぞく武士ぶし所持しょじゆう3000あまりしょ土地とち也遭到幕府ばくふ沒收ぼっしゅう賞賜しょうし東國とうごく御家人ごけにんしん取得しゅとく土地とちてき地頭じとう(しん地頭じとう)與原よはらさききゅうゆう土地とちてき地頭じとう(ほん地頭じとう)實行じっこう不同ふどうてき收益しゅうえき原則げんそくしょうしんりつほうにち地頭じとう#発展はってん

史料しりょう[编辑]

歴史れきししょ[编辑]

軍記ぐんきぶつ[编辑]

歴史れきし物語ものがたり[编辑]


参考さんこう文献ぶんけん[编辑]

註釋ちゅうしゃく[编辑]

  1. ^ 1.0 1.1 後鳥羽上皇ごとばじょうこう倒幕とうばく目指めざさなかった」承久じょうきゅうらん800ねん しん解釈かいしゃく資料しりょう発見はっけん読売新聞よみうりしんぶん朝刊ちょうかん2021ねん5がつ13にち文化ぶんかめん
  2. ^ 慈光寺じこうじほんうけたまわひさにちうけたまわひさ#しょほんちゅう院宣いんぜんはつてき對象たいしょうため武田たけだ信光のぶみつ小笠原おがさわらちょうきよしにち小笠原おがさわらちょうきよし小山こやま朝政ともまさにち小山こやま朝政ともまさ宇都宮うつのみや頼綱よりつなにち宇都宮うつのみや頼綱よりつな長沼ながぬまそうまさしにち長沼ながぬまそうまさし足利あしかがよし(足利あしかが3代目だいめ當主とうしゅ)にち足利あしかがよし (足利あしかが3代目だいめ当主とうしゅ)北條ほうじょうぼうにち北条ほうじょうぼう三浦みうらよしむら