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瀬田の唐橋 - Wikipedia コンテンツにスキップ

瀬田せた唐橋からはし

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
瀬田せた唐橋からはし
瀬田唐橋せたのからはし大橋おおはし
基本きほん情報じょうほう
くに 日本の旗 日本にっぽん
所在地しょざいち 滋賀しがけん大津おおつ唐橋からはしまち-瀬田せた1丁目ちょうめ
交差こうさ物件ぶっけん 瀬田川せたがわ
用途ようと 道路どうろきょう
路線ろせんめい 滋賀しがけんどう2ごう大津おおつ能登川のとがわ長浜ながはません
着工ちゃっこう 1974ねん昭和しょうわ49ねん
竣工しゅんこう 1979ねん昭和しょうわ54ねん
座標ざひょう 北緯ほくい3458ふん23びょう 東経とうけい13554ふん22びょう / 北緯ほくい34.97306 東経とうけい135.90611 / 34.97306; 135.90611座標ざひょう: 北緯ほくい3458ふん23びょう 東経とうけい13554ふん22びょう / 北緯ほくい34.97306 東経とうけい135.90611 / 34.97306; 135.90611
構造こうぞうしょもと
全長ぜんちょう 223.7m
はば 12m
地図ちず
瀬田の唐橋の位置
瀬田の唐橋の位置
瀬田の唐橋の位置
瀬田の唐橋の位置
瀬田せた唐橋からはし位置いち
関連かんれん項目こうもく
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滋賀県道2号標識

瀬田せた唐橋からはし(せたのからはし、瀬田唐橋せたのからはし〈せたからはし〉[1])は、滋賀しがけん大津おおつ瀬田せた-唐橋からはしまち瀬田川せたがわかるはしである[2]全長ぜんちょう223.7メートル[3]大橋おおはしやく172 m、小橋こはしやく52 m[2])で、滋賀しがけんどう2ごう大津おおつ能登川のとがわ長浜ながはませんがこのはしわたる。2015ねん時点じてんでの調査ちょうさでは平日へいじつ1にちあたり1まん1955だい交通こうつうりょうがある[4]

京都きょうと宇治橋うじばし山崎やまざききょうとならんで日本にっぽんさん大橋おおはし[5]日本にっぽんさんめいきょう[6]日本にっぽんさん古橋ふるはし[7])の1つとされてきた。また、近江おうみ八景はっけいの1つ「瀬田せたゆうあきら勢田せたゆうあきら)」としてられる[8]1986ねん昭和しょうわ61ねん)8がつ10日とおかみちには、きゅう建設省けんせつしょうと「みち実行じっこう委員いいんかいにより制定せいていされた「日本にっぽんみち100せん」にもえらばれている[9]

名称めいしょう

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瀬田せた唐橋からはし歴史れきしじょう、さまざまに表記ひょうき呼称こしょうされてきた。瀬田せたきょう勢多せたきょう[2]勢多せた大橋おおはし[10]のほか、勢多せた唐橋からはしともしるされる。また、瀬田せた長橋ながはしともしょうされた[2]

かつてけられたはしは、丸木舟まるきぶねよこなんそうならべ、フジ利用りようし、そのづる(つる)からめたはしで「搦橋(からみばし)」ともしょうされた。この「からみきょう」から「からはし」に転訛てんかし、また、えられるなかで、中国ちゅうごく朝鮮半島ちょうせんはんとう様式ようしきした唐様からようれられたことにより、唐橋からはしのほかにからしきょうかんきょうともしるされた[11][12]からしきょうについては辛労しんろうして架橋かきょうしたせつもある[13]。そのほかにもヤナギのように流麗りゅうれいであったことから別名べつめいとして「青柳あおやぎきょう」ともばれた[2]

歴史れきし伝承でんしょう

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東海道とうかいどう東山ひがしやまみち中山道なかせんどう方面ほうめんから京都きょうとかうには、琵琶湖びわこわたるか南北なんぼくいずれかに迂回うかいしないかぎり、琵琶湖びわこからなが瀬田川せたがわわた必要ひつようがある。1889ねん明治めいじ22ねん)まで、瀬田川せたがわかる唯一ゆいいつはしであった瀬田せた唐橋からはしは、交通こうつう要衝ようしょうかつ京都きょうと防衛ぼうえいじょう重要じゅうようであり、古来こらい唐橋からはしせいするもの天下てんかせいす」といわれた[2][6]唐橋からはし舞台ぶたいとしてひろげられたみずのえさるらん寿ことぶきひさしらん承久じょうきゅうらんたてたけしらんなど、はしむかしからさまざまな戦乱せんらんめぐってきた[6]。そのため、なんおとされたとされるが、そのたび当時とうじ浅瀬あさせ位置いちはしけられた[14]。また、『日本書紀にほんしょき』などすうおおくの文献ぶんけんにこの登場とうじょうする[10]

古代こだい

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201ねん神功じんぐう皇后こうごう摂政せっしょう元年がんねん)、香坂こうさか皇子おうじにんぐま皇子おうじ反乱はんらんにんぐま皇子おうじ神功しんこう皇后こうごう応神天皇おうじんてんのうはは)の家来けらいである武内たけうち宿禰すくねぐんめられ、瀬田せたわたしで入水じゅすいして自害じがいしたという(『日本書紀にほんしょきまきだい9 長足ちょうそくひめたかし 神功じんぐう皇后こうごう)。このことから神功しんこう皇后こうごう時代じだいにはすで建造けんぞうされていたともいわれているるが[6]、この時代じだいはまだわたぶね瀬田川せたがわわたっていたともされる[15]

古代こだいはしけられた年代ねんだいしょうであるが、近江おうみ大津おおつみや遷都せんと667ねん天智天皇てんぢてんのう6ねん〉)の時代じだい架橋かきょうされたとかんがえられる[16]瀬田川せたがわ浚渫しゅんせつ事業じぎょうにより、1988ねん昭和しょうわ63ねん)、現在げんざいはしよりやく80メートルみなみ下流かりゅう)で橋脚きょうきゃく基礎きそ発見はっけんされた[17]はしはばは7-9メートル、ながさ250メートルと推定すいていされる[7][17]発見はっけんされた2橋脚きょうきゃく基礎きそ構造こうぞうは、舟形ふながたちょう六角形ろっかっけいをしており、韓国かんこく慶州けいしゅう発掘はっくつされたしん時代ときよつきせいきょう월정교)と構造こうぞうているため、参考さんこうにしたとするせつもある[18]。このはしは、当時とうじ朝廷ちょうてい威信いしんをかけて架設かせつしたものとされ、滋賀しがけん教育きょういく委員いいんかい滋賀しがけん文化財ぶんかざい保護ほご協会きょうかい当時とうじ技術ぎじゅつじょう有用ゆうようとしている[17]。また、橋脚きょうきゃく木材もくざい年輪ねんりん年代ねんだい測定そくていなどにより7世紀せいき中頃なかごろ-末期まっきとされ、大津おおつみや遷都せんとによりけられた[19]みずのえさるらん672ねん天武天皇てんむてんのう元年がんねん〉)のときはしであると推定すいていされる[20]

みずのえさるらんでは、大友皇子おおとものおうじ大海人皇子おおあまのおうじ最後さいご決戦けっせんじょうとなった。大友皇子おおとものおうじかたが、橋板はしいたはずして大海人皇子おおあまのおうじかたけたが、突破とっぱされてほろんだ(『日本書紀にほんしょきまきだい28 てん中原なかはら瀛真じん天皇てんのう 天武天皇てんむてんのう うえ)。これが瀬田せた唐橋からはし文献ぶんけんじょうはつである。周辺しゅうへんには御霊みたま神社じんじゃという神社じんじゃさんしゃあり、主祭しゅさいしん大友皇子おおとものおうじである。

藤原仲麻呂ふじわらのなかまろらん恵美押勝えみのおしかつらん)では、764ねん天平てんぴょうたから8ねん)、宇治うじから近江おうみろうとした恵美押勝えみのおしかつたいして、こうけん上皇じょうこうかた田原たはらみち関津せきのつ遺跡いせき)をとおって瀬田せたとうきょう先回さきまわりし、これをく。押勝は琵琶湖びわこ西岸せいがん高島たかしまぐん北上ほくじょうしたが、はいした(『ぞく日本にっぽんまきだい25 淳仁天皇じゅんにんてんのう)。

平安へいあん時代じだい

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鎌倉かまくら室町むろまち時代ときよ

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安土あづち桃山ももやま時代じだい

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唐橋からはし本格ほんかくてきわたしたのは織田おだ信長のぶながである[24]架橋かきょう奉行ぶぎょう木村きむら次郎左衛門じろうざえもん瀬田せたじょうおも山岡やまおかけいたかしで、若狭わかさ神宮寺じんぐうじさん近江おうみ朽木くつきさんから材木ざいもくせ、1575ねん天正てんしょう3ねん7がつ12にち)、ながやく324 m(180あいだあまり、はばやく7.2 m(4あいだ)、両側りょうがわ欄干らんかんそなえたはし完成かんせいさせた[21][24]。『信長のぶながこう』によると、この勢多せたきょうえは天下てんかのためというよりも旅人たびびと配慮はいりょしたものであるとしるしている[21][25]。また、この信長のぶなが架橋かきょうにおいて、はじめてどうせい擬宝珠ぎぼうしゅ欄干らんかんおやばしらけられた[24]

1582ねん天正てんしょう10ねん)、明智あけち光秀みつひで本能寺ほんのうじへん信長のぶながたおすと、光秀みつひで安土あづちめようとはしわたるのを阻止そしするため、けいたかし唐橋からはし瀬田せたじょういた[6](『フロイス日本にっぽん』によれば切断せつだんした)[21]光秀みつひでかりはしけるのに3にちかかっている。

中島なかじまはさんだ大橋おおはし小橋こはしかたちとなったのは織田おだ信長のぶなが架橋かきょう以降いこうかんがえられる[8]焼失しょうしつ唐橋からはしけたのは豊臣とよとみ秀吉ひでよしで、そのときはじめて現在げんざい位置いちに、大小だいしょう2きょうはしけたとされる[6]

江戸えど時代じだい

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近江おうみ八景はっけい』(歌川うたがわ広重ひろしげ
勢田せたゆうあきら」にえがかれた往時おうじはし

膳所ぜぜはん本多ほんだ)が管理かんり東海道とうかいどうがここをとおった。江戸えど幕府ばくふは、瀬田川せたがわ唐橋からはし以外いがいほかはしけることをきんじ、膳所ぜぜ城主じょうしゅ保護ほご監理かんり任務にんむした[6]1795ねん寛永かんえい7ねん)から1894ねん明治めいじ27ねん)までの100年間ねんかんで、18かいえの記録きろくのこっており、歌川うたがわ広重ひろしげ浮世絵うきよえ近江おうみ八景はっけい瀬田せたゆうあきら」は、往時おうじ唐橋からはし様子ようすをよくつたえている[6]

明治めいじ以降いこう

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瀬田せた唐橋からはし
1902ねん明治めいじ35ねんごろ

1875ねん明治めいじ8ねん)12月にくにが、1895ねん明治めいじ28ねん)3がつけんが、ともに木造もくぞうにてえている。

1919ねん大正たいしょう8ねん)に道路どうろ構造こうぞうれい公布こうふされたのをに、よく1922ねん大正たいしょう11ねん)4がつ事業じぎょう47まんえん当時とうじ)をかけて事業じぎょう着手ちゃくしゅ1922ねん大正たいしょう11ねん)7がつ着工ちゃっこう[26]1924ねん大正たいしょう13ねん)6がつに、これまで木造もくぞうであったはしが、はじめて鉄筋てっきんコンクリートせいはしえられた[27]高欄こうらんには木造もくぞう擬宝珠ぎぼうしゅはいされた[26]。このときけられたはし延長えんちょう大橋おおはしが94.5あいだ小橋こはしが28.5きょうであった[26]

1925ねん大正たいしょう14ねん)8がつ8にち琵琶湖びわこ観光かんこう協会きょうかいにより瀬田せたきょうゆう園地えんち完成かんせい。ボート整備せいびされた[28]

1933ねん昭和しょうわ8ねん)に国道こくどう2ごうとして指定していされ、1952ねん昭和しょうわ27ねん)にしん道路どうろほうもとづき国道こくどう1ごうとなる[29]。その北側きたがわ瀬田川せたがわ大橋おおはし架橋かきょうされ、国道こくどう1ごう指定していはずされた[30]。しかし、架橋かきょうから50ねん以上いじょう経過けいかし、さらに交通こうつうりょう増加ぞうか自動車じどうしゃ大型おおがたにより、はし老朽ろうきゅう補修ほしゅう工事こうじなどでは対応たいおうできない状態じょうたいになった[30]1973ねん昭和しょうわ48ねん9月には車両しゃりょう重量じゅうりょう制限せいげん実施じっしされている[30]1974ねん昭和しょうわ49ねん)に本格ほんかくてき架橋かきょう工事こうじおこなわれ、1979ねん昭和しょうわ54ねん)に現在げんざいはし竣工しゅんこうした[6]はし特徴とくちょうである擬宝珠ぎぼうしゅ歴代れきだいがれており、「文政ぶんせい」「明治めいじ」などのめいはいったものも現存げんそんする。1995ねん平成へいせい7ねん)、瀬田唐橋せたのからはししょうはし右折うせつレーン設置せっちのための工事こうじ着手ちゃくしゅされ、1997ねん平成へいせい9ねん)に終了しゅうりょうした[6]2012ねん平成へいせい24ねん)には、から茶色ちゃいろりかえられた。

現況げんきょうはし片側かたがわ1車線しゃせんであり、ひがしつめ交差点こうさてん右折うせつ専用せんようレーンがないため橋上はしかみ後続こうぞくしゃ滞留たいりゅうしていた[4]。そのため、とく通勤つうきん時間じかんたい週末しゅうまつ周辺しゅうへん道路どうろ渋滞じゅうたい発生はっせいしていた[4]。これを解消かいしょうすべく瀬田唐橋せたのからはし大橋おおはしで1レーンを新設しんせつする拡幅かくふく工事こうじおこなわれ、2022ねんれい4ねん)3がつ右折うせつレーンの設置せっち完了かんりょうした[31]

観光かんこう

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ふるくより交通こうつう要衝ようしょうであるだけでなく名所めいしょとしてられる。最寄もよりの鉄道てつどうえき唐橋前からはしまええき京阪けいはん石山坂本線いしやまさかもとせん)と命名めいめいされている。

はし付近ふきんながれる瀬田川せたがわ水量すいりょう豊富ほうふで、2018ねん平成へいせい30ねん)8がつには観光かんこう屋形船やかたぶね運航うんこうが11ねんぶりに再開さいかいされた[32]。また、地元じもと瀬田せた商工会しょうこうかい瀬田せた唐橋からはしから地域ちいき活性かっせいうなが目的もくてきちかくの唐橋からはし公園こうえんイルミネーションほどこしている[33]

逸話いつわ

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瀬田せた唐橋からはし
たわら藤太とうたムカデ退治たいじ伝説でんせつ案内あんないばん

平安へいあん時代じだい歌枕うたまくらとして瀬田せた唐橋からはしは「瀬田せた長橋ながはし」とばれ、ながいもののたとえになっていた[34]。そして、なが年月としつきこけむしてもけっしてこわれずにかる不変ふへんはしという印象いんしょうたれていた[35]

939ねんてんけい2ねん)の平将門たいらのまさかどらんでは、藤原ふじわらしげるきょうたわら藤太とうた)のはなった将門まさかど命中めいちゅうしたことで落馬らくばしたといわれる。これがだいムカデ退治たいじ伝説でんせつとなってつたわり[20]唐橋からはしよりみなみはしたもとをその舞台ぶたいとして、現在げんざいもゆかりの雲住寺うんじゅうじ龍王りゅうおうみやしげる郷社ごうしゃがある[36][37]

戦国せんごく時代じだい武将ぶしょうである武田たけだ信玄しんげんは、臨終りんじゅう1573ねんもとかめ4ねん4がつ12にちぼつ)のさいに「瀬田せたきょうわがはた風林火山ふうりんかざん)をてよ」といったとされ、やまえれば京都きょうと奈良ならつうずる唐橋からはしが、軍事ぐんじじょう要害ようがいとして重要じゅうよう位置いちしめしていたことがうかがれるエピソードの1つになっている[6]。ただし、この逸話いつわは『きのえようぐんかん』にしるされておらず、また『信長のぶながこう』によると、その当時とうじはしがあるとはいえない状態じょうたいであったことからうたがわしいともかんがえられる[24]

江戸えど時代じだい初期しょき安楽庵策伝あんらくあんさくでん醒睡わらいまき2では、連歌れんが宗長そうちょううた引用いんようし、「きゅうがばまわれ」のことわざ発祥はっしょうであると紹介しょうかいしている[38]

武士ぶし(もののふ)のやばせのわたりちかくともいそかはまはれ瀬田せたちょうはし — 宗長そうちょう、醒睡わらい[39]

ひがしから京都きょうとのぼるには草津くさつ矢橋やはし(やばせ)のみなとから大津おおつ石場いしばへの航路こうろもっとはやいとされていたが、反面はんめん天候てんこうわりやすく[40]比叡ひえいおろしの強風きょうふうにより船出ふなで船着ふなつきがおくれることもすくなくなかった。瀬田せたまで南下なんかすればふう影響えいきょうけずに唐橋からはしわたることができ、日程にっていみだれることもないとして[40]、これを「きゅうがばまわれ」とんだものであるという。

松尾まつお芭蕉ばしょうたび途上とじょうにてこのはし俳句はいくんでいる。

五月雨さみだれかくれぬものや瀬田せたはし — 芭蕉ばしょう
橋桁はしげたにんつき名残なごり哉 — 芭蕉ばしょう

千利休せんのりきゅうは、弟子でしたちあつまっているせきで「瀬田せた唐橋からはし擬宝珠ぎぼうしゅなか見事みごとかたちのものが2つあるが、見分みわけられるひとはいないものか?」とたずねた。すると一座いちざにいた古田ふるた織部おりべきゅうせきってどこかにき、夕方ゆうがたになってもどってきた。利休りきゅうなにをしていたのかたずねると「れい擬宝珠ぎぼうしゅ見分みわけてみようとおもいまして早馬はやうま瀬田せたまいりました。さて、2つの擬宝珠ぎぼうしゅひがし西にしのこれではありませんか?」とこたえた。利休りきゅうをはじめ一座いちざものは、織部おりべ執心しゅうしんすさまじさに感心かんしんした(ひさ須見すみうとやす茶話ちゃばなしゆびがつしゅう』)。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 大津おおつ歴史れきし舞台ぶたい - 瀬田せた”. びわ大津おおつ観光かんこう協会きょうかい. 2018ねん4がつ26にち閲覧えつらん
  2. ^ a b c d e f 滋賀しがけん歴史れきし散歩さんぽ編集へんしゅう委員いいんかい へん滋賀しがけん歴史れきし散歩さんぽ じょう - 大津おおつ湖南こなん甲賀こうが山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ歴史れきし散歩さんぽ25〉、2008ねん、89-91ぺーじISBN 978-4-634-24625-6 
  3. ^ 日本橋にほんばしはり建設けんせつ協会きょうかい監修かんしゅう へん日本にっぽんきょう 完全かんぜん名鑑めいかん廣済堂こうさいどう出版しゅっぱん廣済堂こうさいどうベストムック217ごう〉、2013ねん、92-93ぺーじISBN 978-4-331-80222-9 
  4. ^ a b c 山田やまだゆかりむつみ (2020ねん3がつ10日とおか). 滋賀しが瀬田唐橋せたのからはし付近ふきん道路どうろ拡張かくちょう大幅おおはばおくれか 入札にゅうさつ不調ふちょうで”. 朝日新聞あさひしんぶん. https://www.asahi.com/articles/ASN397791N36PTJB011.html?_requesturl=articles%2FASN397791N36PTJB011.html&pn=4 2020ねん4がつ7にち閲覧えつらん 
  5. ^ 滋賀しがけん内務ないむ土木どぼくへん瀬田せたきょう沿革えんかく』p. 1
  6. ^ a b c d e f g h i j k 日本にっぽんみち100せん研究けんきゅうかい 2002, pp. 124–125.
  7. ^ a b 田中たなか俊明としあき瀬田せた唐橋からはし」、『大学だいがくてき滋賀しがガイド』 (2011) 104-106ぺーじ
  8. ^ a b 近江おうみ八景はっけいうつ建造けんぞうよし - 瀬田せたゆうあきら”. 近江おうみ建物たてもの探訪たんぼう. びわこビジターズビューロー. 2018ねん5がつ13にち閲覧えつらん
  9. ^ 日本にっぽんみち100せん研究けんきゅうかい 2002, p. 10.
  10. ^ a b 琵琶湖びわこハンドブック編集へんしゅう委員いいんかい 2007, p. 108.
  11. ^ 朝鮮ちょうせん総督そうとく府中ふちゅうくるるいん調査ちょうさへん へん朝鮮ちょうせん國名こくめいちなめる名詞めいしこう』(復刻ふっこくばんだいいち書房しょぼうISBN 978-4804207193 
  12. ^ ていもり秀夫ひでお地名ちめいられる渡来とらいけい要素ようそ」、『大学だいがくてき滋賀しがガイド』 (2011) 90-91ぺーじ
  13. ^ 河村かわむら恊 1962, p. 145.
  14. ^ 大津おおつ瀬田唐橋せたのからはし ことなる工法こうほうで4かいえ、遺構いこう調査ちょうさ判明はんめい”. 毎日新聞まいにちしんぶん. (1990ねん11月21にち). 1990-11-21 
  15. ^ じゅうはたひろし日本にっぽんはし - その物語ものがたり意匠いしょう技術ぎじゅつミネルみねるァ書房ぁしょぼう、2016ねん、17-22ぺーじISBN 978-4-623-07890-5 
  16. ^ けんかん保明やすあき近江おうみ交通こうつう陸路りくろ水路すいろ」、『たび古代こだい』 (1999) 77-78・87-89ぺーじ
  17. ^ a b c 川底かわぞこから奈良なら時代じだい瀬田せたきょう遺構いこう出土しゅつど”. 毎日新聞まいにちしんぶん. (1988ねん7がつ14にち). 1988-07-14 
  18. ^ 小笠原おがさわら勢多せた唐橋からはし』 (1990)
  19. ^ けんかん保明やすあき近江おうみ交通こうつう陸路りくろ水路すいろ」、『たび古代こだい』 (1999) 87-89ぺーじ
  20. ^ a b 村瀬むらせたすく太美ふとみ日本にっぽんはしいしはし - 歴史れきしかたるふるさとのはし山海さんかいどう、1999ねん、50-53ぺーじISBN 4-381-01229-1 
  21. ^ a b c d e f g 勢多せた唐橋からはし関係かんけい資料しりょうへん」、『勢多せた唐橋からはし』 (1990) 282-318ぺーじ
  22. ^ 小笠原おがさわら好彦よしひこせん浮橋うきはし渡船とせん」、倉田くらたみのる久保田くぼた孝夫たかおへん へん王朝おうちょう文学ぶんがく交通こうつう竹林ちくりんしゃ平安へいあん文学ぶんがく隣接りんせつしょがく 7〉、2009ねんISBN 978-4-902084-87-0 
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  38. ^ 寛永かんえいばん駒沢大学こまざわだいがくぞう
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  40. ^ a b けんかん保明やすあき近江おうみ交通こうつう陸路りくろ水路すいろ」、『たび古代こだい』 (1999) 82ぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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