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犬鳴山いぬなきやま (大阪おおさか)

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犬鳴山いぬなきやま(いぬなきさん)は、大阪おおさか泉佐野いずみさの大木たいぼく犬鳴いぬなき犬鳴川いぬなきがわ渓谷けいこく中心ちゅうしんとして、そこへなが燈明とうみょうだけ標高ひょうこう558m、西にし燈明とうみょうだけともいう)とうやまいき全体ぜんたい総称そうしょう。「犬鳴山いぬなきやま」という名称めいしょうやまがあるわけではない。

概要がいよう

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名勝めいしょう金剛こんごう生駒いこまおさむいずみ国定こくてい公園こうえん指定していけるなどゆたかな自然しぜんつ。七宝しっぽう瀧寺たきでら参道さんどうとしての犬鳴川いぬなきがわち、けっしてたかやまいきではないにもかかわらず、渓流けいりゅう沿いの山岳さんがく景観けいかんは「大阪おおさか みどりひゃくせん」にもえらばれ、地元じもとふかあいされている。

関西国際空港かんさいこくさいくうこう開港かいこうしてからは、どう空港くうこうからもっともちか温泉おんせん犬鳴山いぬなきやま温泉おんせん」がある場所ばしょとして名前なまえひろがった。

山中さんちゅうには、なな飛瀑ひばくりょうさかいたきとうたき弁天べんてんたき布引びきのたき古津ふるつたき千寿せんじゅたき行者ぎょうじゃたき)をはじめ大小だいしょう48のたきがある。このうち行者ぎょうじゃたきたきたれる修験しゅげんじょうとしてられている。一般いっぱんいちにち体験たいけん可能かのうであり、女性じょせいでも参加さんかできる[1]。(有料ゆうりょうよう予約よやく

犬鳴山いぬなきやま」のかたについては、地元じもとでは通常つうじょう「いぬなきさん」とぶ。これは次節じせつべているように「犬鳴いぬなき」が寺院じいん山号さんごう由来ゆらいしているためである。そのため地元じもとで「いぬなきさんにく」とえば、犬鳴川いぬなきがわ渓流けいりゅう沿いの参道さんどうさかのぼって七宝しっぽう瀧寺たきでらくことをすのであって、けっして山歩やまあるきにこうとっているわけではない。これにたいし、参道さんどう渓流けいりゅうくち温泉郷おんせんきょうでは(いぬなきやま)とませて「犬鳴山いぬなきやま温泉おんせん」としょうしている。

地名ちめい由来ゆらい

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犬鳴山いぬなきやまという名前なまえは、七宝しっぽう瀧寺たきでら山号さんごうである「いぬなきさん」に由来ゆらいしたものである[2]

宇多天皇うだてんのう御代みよ紀州きしゅう猟師りょうしがこのやまいきりをしていたさい突然とつぜんれていたいぬはげしくきだし、結果けっか猟師りょうしようとしていた鹿しかげてしまった。おこった猟師りょうしいぬくびをはねたのだが、そのくびはそれでもね、いままさに猟師りょうしおそいかかろうとねらっていた大蛇おろちいた。いぬは、主人しゅじん大蛇おろちねらわれていることをっていていたのであった。愛犬あいけんすくわれたと気付きづいた猟師りょうしは、これをいて七宝しっぽう滝寺たきでらそうとなって愛犬あいけん供養くようした。 このことをいた天皇てんのうはいたく感動かんどうし、七宝しっぽう滝寺たきでらに『以後いご「いぬなきさん」とあらためよ』と勅号ちょくごうたまわったとつたえられている[2]

葛城かつらぎ修験しゅげんどう霊場れいじょう

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犬鳴山いぬなきやまには真言宗しんごんしゅう犬鳴いぬなき本山ほんざん七宝しっぽう瀧寺たきでら/七宝しっぽう滝寺たきでら(しっぽうりゅうじ)」があり、やく小角おがくが661ねん大峰山おおみねさん山上ヶ岳さんじょうがだけの6ねんまえ開山かいさんしたとつたわり、もと山上さんじょうばれている。ふるくは犬鳴山いぬなきやまふくきむつよし和泉いずみ山系さんけい全体ぜんたいを「葛城かつらぎ」とび、そのなかでも犬鳴山いぬなきやま西にし行場いきばひがし行場いきば葛城かつらぎ二十八宿にじゅうはっしゅく修験しゅげんどう根本こんぽん道場どうじょうとなっている、日本にっぽん霊山れいざんのひとつである。

近世きんせい初頭しょとうの「口上こうじょうさとし」によると、毎年まいとし5がつ高野山こうのやまから葛城かつらぎ巡行じゅんこうする先達せんだつたちは、犬鳴山いぬなきやまに7日間にちかんまりしばしょう護摩ごましゅうしたといい、「葛城かつらぎ山中さんちゅうなな日間にちかん逗留とうりゅうするのはここだけだ」とべられており、いかにこのやま地位ちいたかかったかをうかがわせるものとなっている。南北なんぼくあさろくぼう創建そうけんされ、室町むろまちにはじゅうぼうぼうしゃゆうし、本堂ほんどう修復しゅうふくおこなわれて隆盛りゅうせいむかえた。しかし豊臣とよとみ秀吉ひでよし根来ねごろによって本堂ほんどう以外いがい堂舎どうしゃはらわれ、田畑たばた山林さんりん没収ぼっしゅうされ、一時いちじ廃絶はいぜつ同然どうぜんとなった。のち岸和田きしわだ城主じょうしゅより寺領じりょうせき寄進きしんけ、ほぼ今日きょうられるまでに復興ふっこうしたものである[3]

脚註きゃくちゅう

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  1. ^ 修験しゅげん体験たいけん犬鳴山いぬなきやま七宝しっぽう瀧寺たきでらホームページ
  2. ^ a b 和泉いずみ名所めいしょ図会ずえちょ 秋里あきさとませしま 竹原たけはらはるあさとき 寛政かんせい8ねん(1796ねん発刊はっかん
  3. ^ 大阪おおさか史跡しせきたずねて2 中世ちゅうせいへん』(ナンバー出版しゅっぱん)「犬鳴山いぬなきやま 葛城かつらぎ修験しゅげんどう霊場れいじょう

関連かんれん項目こうもく

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