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古室こむろさん古墳こふん

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古室こむろさん古墳こふん

墳丘ふんきゅうみぎ前方ぜんぽうひだりおくこうえん
所属しょぞく 古市ふるいち古墳こふんぐん
所在地しょざいち 大阪おおさか藤井寺ふじいでら古室こむろ2丁目ちょうめ
位置いち 北緯ほくい3434ふん5.80びょう 東経とうけい13536ふん34.87びょう / 北緯ほくい34.5682778 東経とうけい135.6096861 / 34.5682778; 135.6096861座標ざひょう: 北緯ほくい3434ふん5.80びょう 東経とうけい13536ふん34.87びょう / 北緯ほくい34.5682778 東経とうけい135.6096861 / 34.5682778; 135.6096861
形状けいじょう 前方後円墳ぜんぽうこうえんふん
規模きぼ 墳丘ふんきゅうちょう150m
たかさ15m(こうえん
埋葬まいそう施設しせつ推定すいてい竪穴たてあなしき石槨せっかく
出土しゅつどひん 埴輪はにわへん
築造ちくぞう時期じき 4世紀せいきすえ-5世紀せいき初頭しょとう
史跡しせき くに史跡しせき古室こむろさん古墳こふん
(「古市ふるいち古墳こふんぐん」に包含ほうがん
地図ちず
古室山古墳の位置(大阪市内)
古室山古墳
古室こむろさん古墳こふん
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古室こむろさん古墳こふん(こむろやまこふん)は、大阪おおさか藤井寺ふじいでら古室こむろにある古墳こふん形状けいじょう前方後円墳ぜんぽうこうえんふん古市ふるいち古墳こふんぐん世界せかい文化ぶんか遺産いさん)を構成こうせいする古墳こふんの1つ。くに史跡しせき指定していされている(史跡しせき古市ふるいち古墳こふんぐん」のうち)。

概要がいよう[編集へんしゅう]

大阪おおさか東部とうぶ藤井寺ふじいでら羽曳野はびきの松原まつばらにまたがるだい古墳こふんぐんである古市ふるいち古墳こふんぐんのうち、中位ちゅうい段丘だんきゅう国府こくふ台地だいちじょう築造ちくぞうされた大型おおがた前方後円墳ぜんぽうこうえんふんである[1][2]1984-1985ねん昭和しょうわ59-60ねん)に藤井寺ふじいでら教育きょういく委員いいんかいによる調査ちょうさ実施じっしされている[3]

ふんがた前方後円ぜんぽうこうえんがたで、前方ぜんぽうきた東方とうほうける[1][2]墳丘ふんきゅうは3だんちくなり[4]墳丘ふんきゅうちょうは150メートルをはかり、古市ふるいち古墳こふんぐんでは中規模ちゅうきぼになる[2]墳丘ふんきゅう外表そとおもてでは葺石円筒えんとう埴輪はにわれつ形象けいしょう埴輪はにわいえがたたてがたうつぼがたぶたがたかぶとがた埴輪はにわ)が検出けんしゅつされているほか、墳丘ふんきゅう東側ひがしがわくびれにはみやつこ[1][4]。また墳丘ふんきゅう周囲しゅういにはしゅうほりしゅうつつみめぐらされ、堤内つつみうちがわ斜面しゃめんにおいても葺石がみとめられる[1]埋葬まいそう施設しせつあきらかでないが、こうえんふんいただきにおけるいたせき存在そんざいから竪穴たてあなしき石槨せっかく推定すいていされる[1][2][4]副葬品ふくそうひんつまびらかでない[1]

この古室こむろさん古墳こふんは、古墳こふん時代じだい中期ちゅうき4世紀せいきすえ-5世紀せいき初頭しょとうごろ築造ちくぞう推定すいていされる[2]古市ふるいち古墳こふんぐんでは最初さいしょ大王だいおうされる津堂つどう城山しろやま古墳こふん藤井寺ふじいでら津堂つどう)とどう時期じきとされ、巨大きょだい前方後円墳ぜんぽうこうえんふん大王だいおうはか)に大型おおがた前方後円墳ぜんぽうこうえんふんとして、当時とうじヤマト王権おうけん政治せいじ階層かいそうしめ古墳こふんになる[5][2]

古墳こふんいき1956ねん昭和しょうわ31ねん)にくに史跡しせき指定していされている[6]

遺跡いせきれき[編集へんしゅう]

  • 1900ねん明治めいじ33ねん)、濱田はまだ耕作こうさくによる踏査とうさ報告ほうこく[7]
  • 1934ねん昭和しょうわ9ねん)、梅原うめはら末治すえじによる報告ほうこく[7]
  • 1956ねん昭和しょうわ31ねん)9がつ22にち古墳こふん4わせて「古室こむろさん古墳こふんぐん」としてくに史跡しせき指定してい[6]
  • 1960ねん昭和しょうわ35ねん)、北野きたの耕平こうへいによる墳丘ふんきゅう測量そくりょう調査ちょうさ[7]
  • 1978ねん昭和しょうわ53年度ねんど)、遊歩道ゆうほどう植樹しょくじゅ整備せいび藤井寺ふじいでら[7]
  • 1980ねん昭和しょうわ55ねん)、墳丘ふんきゅう測量そくりょう調査ちょうさ藤井寺ふじいでら編纂へんさんしつ[7]
  • 1984ねん昭和しょうわ59ねん)、排水はいすいかん敷設ふせつ工事こうじともなのちえんふんはし確認かくにん調査ちょうさ藤井寺ふじいでら教育きょういく委員いいんかい[7]
  • 1985ねん昭和しょうわ60年度ねんど)、民家みんかえにともな地下ちか遺構いこう確認かくにん調査ちょうさ大阪おおさか教育きょういく委員いいんかい藤井寺ふじいでら教育きょういく委員いいんかい[7]
  • 2001ねん平成へいせい13ねん)1がつ29にち古室こむろさん古墳こふんぐん古墳こふんわせて、くに史跡しせき指定してい名称めいしょうを「古市ふるいち古墳こふんぐん」に変更へんこう[6]
  • 2015ねん平成へいせい27ねん)、航空こうくうレーザー測量そくりょう作成さくせい百舌鳥もず古市ふるいち古墳こふんぐん世界せかい文化ぶんか遺産いさん登録とうろく推進すいしん本部ほんぶ会議かいぎ[7]

墳丘ふんきゅう[編集へんしゅう]

こうえんふんいただき
背景はいけい大阪平野おおさかへいや

墳丘ふんきゅう規模きぼつぎとお[1]

  • 墳丘ふんきゅうちょう:150メートル
  • こうえん - 3だんちくなり
    • 直径ちょっけい:96メートル
    • たかさ:15メートル
  • 前方ぜんぽう - 3だんちくなり
    • はば:100メートル
    • たかさ:9メートル

文化財ぶんかざい[編集へんしゅう]

くに史跡しせき[編集へんしゅう]

  • 古室こむろさん古墳こふん史跡しせき古市ふるいち古墳こふんぐん」のうち)
    1956ねん昭和しょうわ31ねん)9がつ22にち古室こむろさん古墳こふん赤面山あかづらやま古墳こふんだい鳥塚とりつか古墳こふんじょ太山たいざん古墳こふんなべづか古墳こふん包括ほうかつする「古室こむろさん古墳こふんぐん」としてくに史跡しせき指定してい[6]
    2001ねん平成へいせい13ねん)1がつ29にち古室こむろさん古墳こふんぐん古墳こふんとう6統合とうごう青山あおやま古墳こふんしげるしょやま古墳こふん追加ついか指定していして、指定してい名称めいしょうを「古市ふるいち古墳こふんぐん」に変更へんこう[6]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 史跡しせき説明せつめいばん藤井寺ふじいでら、2016ねん設置せっち
  • 古室こむろさん古墳こふん」『日本にっぽん歴史れきし地名ちめい大系たいけい 28 大阪おおさか地名ちめい平凡社へいぼんしゃ、1986ねんISBN 458249028X 
  • 天野あまのまつ古室こむろさん古墳こふん」『日本にっぽん古墳こふんだい辞典じてん東京とうきょうどう出版しゅっぱん、1989ねんISBN 4490102607 
  • 古室こむろさんだい鳥塚とりつか古墳こふん -つけあきら おおかみづか古墳こふん-(藤井寺ふじいでら文化財ぶんかざい報告ほうこく だい41しゅう -古市ふるいち古墳こふんぐん調査ちょうさ研究けんきゅう報告ほうこくVI-)』藤井寺ふじいでら教育きょういく委員いいんかい事務じむきょく、2017ねん 

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]