教育きょういくせきスル勅語ちょくご

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教育きょういく勅語ちょくごから転送てんそう
教育きょういくせきスル勅語ちょくご教育きょういく勅語ちょくご
文部省もんぶしょうしょ学校がっこう交付こうふした勅語ちょくご謄本とうほん
作成さくせい1890ねん明治めいじ23ねん)10がつ30にち[1]
作成さくせいしゃ井上いのうえあつし[1]
元田もとだえいまこと[1]
署名しょめいしゃ明治天皇めいじてんのう
目的もくてき国民こくみん道徳どうとく基本きほん教育きょういく根本こんぽん理念りねんしめ[1]

教育きょういくせきスル勅語ちょくご(きょういくにかんするちょくご、きゅう字体じたい敎育きょういくせきスル敕語)または教育きょういく勅語ちょくご(きょういくちょくご、きゅう字体じたい敎育きょういく敕語)は、明治天皇めいじてんのう近代きんだい日本にっぽん教育きょういく基本きほん方針ほうしんとしてくだした勅語ちょくご

1890ねん明治めいじ23ねん10月30にちくだされ、1948ねん昭和しょうわ23ねん6月19にち国会こっかいによって排除はいじょまたは失効しっこう確認かくにんされた[1]

概要がいよう[編集へんしゅう]

教育きょういくせきスル勅語ちょくご」(教育きょういく勅語ちょくご)は、教育きょういく基本きほん方針ほうしんしめ明治天皇めいじてんのう勅語ちょくごである。1890ねん明治めいじ23ねん)10がつ30にちくだされ、よく31にちづけ官報かんぽうなどで公表こうひょうされた[2]公式こうしき文書ぶんしょにおいては「教育きょういくせきスル勅語ちょくご」と表現ひょうげんするが、一般いっぱんてきには「教育きょういく勅語ちょくご」と表現ひょうげんされる。全文ぜんぶん315[1]

勅語ちょくご」として明治天皇めいじてんのう御名ぎょめいのもとに頒布はんぷされたが、実際じっさいは1890ねん2がつ開催かいさいされた地方ちほうかん会議かいぎにおいて、当時とうじだい1やま縣内けんないかくたいして徳育とくいく原則げんそく確立かくりつせま建議けんぎおこなわれたのが直接ちょくせつ契機けいきとなり[1]法制ほうせい局長きょくちょう井上いのうえあつし枢密すうみつ顧問こもんかん元田もとだえいまことらが中心ちゅうしんとなって起草きそうした[1]前身ぜんしんてきものとして、自由じゆう民権みんけん運動うんどう欧化おうか政策せいさくへの反発はんぱつなかで1879ねん明治めいじ12ねん)に起草きそうされた「教学きょうがく聖旨せいし」や、1882ねん明治めいじ15ねん)に頒布はんぷされた「ようがく綱要こうよう」などがあり[1]、この思想しそう政策せいさくいだものが教育きょういく勅語ちょくごである[3]国民こくみん道徳どうとく基本きほん教育きょういく根本こんぽん理念りねん明示めいじするために発布はっぷされた[1]

その内容ないようかんしては、頒布はんぷ当初とうしょから難解なんかいであり、多数たすう解釈かいしゃく存在そんざいする。現代げんだいにおける解釈かいしゃくいちれいとして2006ねん刊行かんこうの『精選せいせんばん 日本にっぽん国語こくごだい辞典じてん』のものをげると、古来こらい天皇てんのうとくをもって統治とうちしてきたことをべ、つづいて国民こくみんまもるべき「徳目とくもく」をかかげ、もって皇室こうしつ扶翼ふよくすべきとしている[1]。「徳目とくもく」の具体ぐたいてき内容ないようかんしても多数たすう解釈かいしゃく存在そんざいし、戦前せんぜん注釈ちゅうしゃくしょでは9から16くらいの徳目とくもく分類ぶんるいするのが主流しゅりゅうであるが(そもそも徳目とくもくかかげているのかいないのかというてんにも諸説しょせつある)、現代げんだいにおいては1973ねん明治めいじ神宮じんぐう社務しゃむしょより刊行かんこうされた『だいしん 明治天皇めいじてんのう御製ぎょせい 教育きょういく勅語ちょくご 謹解』の解釈かいしゃくひろ普及ふきゅうしており[4]著作ちょさくけん不明ふめい(おそらく未了みりょう)のため具体ぐたいてきしるすことはできないが、「12の徳目とくもく」にまとめている[5]。「現代げんだいやく」にかんしては、「勅語ちょくご」(天皇てんのうおことば)を自分じぶん言葉ことばいかえることは「不敬ふけい」であるため、ほとんど存在そんざいしないが(大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽうしたでは不敬ふけいざいわれる可能かのうせいがある)、1940ねん文部省もんぶしょう図書としょきょく制作せいさくした「教育きょういくかんする勅語ちょくごぜん文通ぶんつうしゃく」(通称つうしょうぜん文通ぶんつうしゃく」)がよくられている。たとえば解釈かいしゃくむずかしい「一旦いったんなる󠄁きゅう󠄁アレハ義勇ぎゆう󠄁おおやけ󠄁ニたてまつシ」の部分ぶぶんは、太平洋戦争たいへいようせんそうちゅう国民こくみん学校がっこう4年生ねんせいけの教科書きょうかしょ初等しょとう修身しゅうしん よん』(1941ねん通称つうしょうだい修身しゅうしんしょ」)では「いのちをささげて」と解釈かいしゃくされるなど、教育きょういく勅語ちょくごは、頒布はんぷ当初とうしょから時代じだいわせて恣意しいてき解釈かいしゃくおこなわれてきた歴史れきしがあり、1948ねん国会こっかい決議けつぎ失効しっこう確認かくにんされたのち現代げんだいにいたるまで、明治天皇めいじてんのう御名ぎょめいりた個々人ここじんによって恣意しいてき解釈かいしゃくおこなわれつづけている(教育きょういくせきスル勅語ちょくご#解釈かいしゃく歴史れきし参照さんしょう)。

1946ねん昭和しょうわ21ねん11月3にち明治天皇めいじてんのうまごである昭和しょうわ天皇てんのうによって日本国にっぽんこく憲法けんぽう公布こうふされ、よく1947ねん昭和しょうわ22ねん5月3にち施行しこうされた。日本国にっぽんこく憲法けんぽう98じょう1こうには「この憲法けんぽうは、くに最高さいこう法規ほうきであつて、その条規じょうきはんする法律ほうりつ命令めいれい詔勅しょうちょくおよ国務こくむかんするその行為こうい全部ぜんぶまた一部いちぶは、その効力こうりょくゆうしない」と、いわゆる「憲法けんぽう最高さいこう法規ほうきせい」が明記めいきされていた。また、1946ねん開催かいさいだい90かい帝国ていこく議会ぎかいにおけるしん憲法けんぽう教育きょういくかんする規定きてい議論ぎろん[6]日本国にっぽんこく憲法けんぽう施行しこう先行せんこうするかたちで、おなじく明治天皇めいじてんのうまごである昭和しょうわ天皇てんのうによって、1947ねん3月31にち教育きょういく基本きほんほう公布こうふ施行しこうされた。にもかかわらず、教育きょういく基本きほんほう施行しこうも「教育きょういく勅語ちょくご」が存置そんちされていたことから、1948ねん6がつ19にち衆議院しゅうぎいんにおいて、「神話しんわてき国体こくたいかん」「主権しゅけんざいくん」を標榜ひょうぼうする教育きょういく勅語ちょくごは「民主みんしゅ平和へいわ国家こっか」「主権しゅけん在民ざいみん」を標榜ひょうぼうする日本国にっぽんこく憲法けんぽう違反いはんしているとされ、憲法けんぽう最高さいこう法規ほうきせい規定きていした日本国にっぽんこく憲法けんぽうだい98じょうもとづいて「教育きょういく勅語ちょくごとう排除はいじょかんする決議けつぎ」がおこなわれ[7]、「教育きょういく勅語ちょくご」は「陸海りくかいぐん軍人ぐんじんたまものはりたる敕諭」、「つちのえさる詔書しょうしょ」、「青少年せいしょうねん学徒がくとたまわりたる勅語ちょくご」などの「教育きょういくかんするしょ詔勅しょうちょく」と同時どうじ排除はいじょされた。また同日どうじつ参議院さんぎいんにおいても、日本国にっぽんこく憲法けんぽう人類じんるい普遍ふへん原理げんりのっと教育きょういく基本きほんほう施行しこうされた結果けっかとして、「教育きょういく勅語ちょくごとうしょ詔勅しょうちょくすで廃止はいしされてその効力こうりょくうしなっている事実じじつ明確めいかくにされ、ぜん国民こくみん一致いっちして教育きょういく基本きほんほう明示めいじするしん教育きょういく理念りねん普及ふきゅう徹底てってい努力どりょくをいたすべきことをする「教育きょういく勅語ちょくごとう失効しっこう確認かくにんかんする決議けつぎ」がおこなわれた[8]。これらの国会こっかい決議けつぎより、日本にっぽんこくにおいて教育きょういく勅語ちょくごすで失効しっこうしていることが確認かくにんされ、教育きょういく勅語ちょくご日本にっぽんこくから排除はいじょされた[7][8]

その日本国にっぽんこく憲法けんぽう日本にっぽんこくにおいては、国民こくみん国家こっか法規ほうきとして日本国にっぽんこく憲法けんぽう自体じたい最高さいこう法規ほうきとなり(だい98じょう憲法けんぽう最高さいこう法規ほうきせい)、これに違反いはんする「詔勅しょうちょく」は失効しっこうした。また前記ぜんきの「教育きょういくかんするしょ詔勅しょうちょく」にわって、日本国にっぽんこく憲法けんぽう沿った「教育きょういく基本きほんほう」などの各種かくしゅ法令ほうれい国民こくみん道徳どうとく指導原理しどうげんりとして日本国にっぽんこく政府せいふ推進すいしんするようになった。

しかしその文部もんぶ大臣だいじん天野あまの貞祐ていゆう教育きょういく勅語ちょくご擁護ようご発言はつげん(1950ねん)や首相しゅしょう田中たなか角栄かくえい勅語ちょくご徳目とくもく普遍ふへんせい発言はつげん(1974ねん)など、教育きょういく勅語ちょくご擁護ようごろん根強ねづよく、憲法けんぽう改正かいせい戦後せんご天皇てんのうせい再検さいけん討論とうろんとも並行へいこうして教育きょういく勅語ちょくごさい評価ひょうかうごきもおお[1]。2017ねん現在げんざい日本国にっぽんこく政府せいふ公式こうしき見解けんかいとしては、「現行げんこう憲法けんぽう教育きょういく基本きほんほう趣旨しゅしには教育きょういく勅語ちょくご合致がっちしない」という1983ねん5がつ参院さんいん決算けっさん委員いいんかいける瀬戸山せとやま三男みつお文部もんぶ大臣だいじん見解けんかい踏襲とうしゅうしており、「教育きょういく勅語ちょくごくに教育きょういく唯一ゆいいつ根本こんぽんとするような指導しどうおこなうことは不適切ふてきせつ」であるが、「憲法けんぽう教育きょういく基本きほんほうとうはんしないようなかたち教育きょういく勅語ちょくご教材きょうざいとしてもちいることまでは否定ひていされることではない」との立場たちばである[9]

なお1947ねん施行しこうの「教育きょういく基本きほんほう」(きゅう教育きょういく基本きほんほう)は、教育きょういく勅語ちょくごえるかたち制定せいていされたという性質せいしつじょう、「教育きょういく勅語ちょくご」の復活ふっかつどころか「教育きょういく基本きほんほう」の改正かいせい論議ろんぎ自体じたいながらく慎重しんちょうあつかわれ、教育きょういく勅語ちょくご運用うんよう年数ねんすう上回うわまわる50ねん以上いじょうにわたっておなじものが運用うんようされてきたが、中央ちゅうおう教育きょういく審議しんぎかい答申とうしんあたらしい時代じだいにふさわしい教育きょういく基本きほんほう教育きょういく振興しんこう基本きほん計画けいかくかたについて」(2003ねん3がつ)をけ、2006ねんに「改正かいせい教育きょういく基本きほんほう」が成立せいりつした。これが現行げんこう教育きょういくほうである。

なお、勅語ちょくご自体じたい名前なまえがついているわけではない。「教育きょういくせきスル勅語ちょくご」とは様々さまざま勅語ちょくごなかから区別くべつしやすいように名前なまえけられているのであって、正式せいしき名称めいしょうではなく通称つうしょうである。

歴史れきし[編集へんしゅう]

発表はっぴょうまでの経緯けいい[編集へんしゅう]

前史ぜんしには教学きょうがく聖旨せいし起草きそう1879ねん)やようがく綱要こうよう頒布はんぷ1882ねんとう自由じゆう民権みんけん運動うんどう欧化おうか政策せいさく反対はんたいする天皇てんのう側近そっきんらの伝統でんとう主義しゅぎてき儒教じゅきょう主義しゅぎてき徳育とくいく強化きょうか運動うんどうがある[1]

発布はっぷまでには様々さまざま教育きょういくかん対立たいりつした。学制がくせい公布こうふ1872ねん当初とうしょ文明開化ぶんめいかいかけ、個人こじんの「立身りっしん治産ちさんあきらぎょう」のための知識ちしき技術ぎじゅつ習得しゅうとく重視じゅうしされたが、政府せいふ自由じゆう民権みんけん運動うんどう危険きけん直接ちょくせつ弾圧だんあつし、また自由じゆう民権みんけん思想しそう再起さいきせぬよう学校がっこう教育きょういく統制とうせいうごき、天皇てんのう1879ねんの「教学きょうがく聖旨せいし」で仁義じんぎただしこうかくとした徳育とくいく根本こんぽん重要じゅうようせいいた[1]。もっとも、教学きょうがく聖旨せいしは、儒教じゅきょう算盤そろばんはしらとするあまりにもぜん近代きんだいてき内容ないようであったためかえりみられることはなかった[10]

教育きょういく勅語ちょくご下賜かし安宅あたか安五郎やすごろう

1890ねん10月30にち発表はっぴょうされた教育きょういく勅語ちょくごは、やま縣内けんないかくした起草きそうされた。その直接ちょくせつ契機けいきは、内閣ないかく総理そうり大臣だいじん山縣やまがた有朋ありとも影響えいきょうにある地方ちほう長官ちょうかん会議かいぎが、同年どうねん2がつ26にちに「徳育とくいく涵養かんようづけ建議けんぎ」を決議けつぎし、知識ちしき伝授でんじゅかたよ従来じゅうらい学校がっこう教育きょういく修正しゅうせいして、道徳心どうとくしん育成いくせい重視じゅうしするようにもとめたことによる[1]。また、明治天皇めいじてんのう以前いぜんから道徳どうとく教育きょういくおおきな関心かんしんせていたこともあり、文部もんぶ大臣だいじん榎本えのもと武揚ぶようたいして道徳どうとく教育きょういく基本きほん方針ほうしんてるようめいじた。ところが、榎本えのもとはこれを推進すいしんしなかったため更迭こうてつされ、後任こうにん文部もんぶ大臣だいじんとして山縣やまがた腹心ふくしん芳川よしかわ顕正けんせい推薦すいせんした。これにたいして、明治天皇めいじてんのう難色なんしょくしめしたが、山縣やまがたみずか芳川よしかわ指導しどうすることを条件じょうけん天皇てんのう説得せっとく了承りょうしょうさせた[10]文部もんぶ大臣だいじん就任しゅうにんした芳川よしかわは、天皇てんのうから箴言しんげん編集へんしゅういのちけた。編集へんしゅう作業さぎょうはじ中村なかむら正直まさなお委嘱いしょくされ、法制ほうせいきょく長官ちょうかん井上いのうえあつしうつり、枢密すうみつ顧問こもんかん元田もとだえいまこと協力きょうりょくするかたち進行しんこうした[1]

中村なかむら原案げんあんについて、山縣やまがた井上いのうえあつし内閣ないかく法制ほうせいきょく長官ちょうかんしめして意見いけんもとめたところ、井上いのうえ中村なかむら原案げんあん宗教しゅうきょうしょく哲学てつがくしょく理由りゆうもう反対はんたいした。山縣やまがたは、政府せいふ知恵袋ちえぶくろとされていた井上いのうえ意見いけんおもんじ、中村なかむらえて井上いのうえ起草きそう依頼いらいした。井上いのうえは、中村なかむら原案げんあんまった破棄はきし、「立憲りっけん主義しゅぎしたがえば君主くんしゅ国民こくみん良心りょうしん自由じゆう干渉かんしょうしない」ことを前提ぜんていとして、宗教しゅうきょうしょくはいすることを企図きとして原案げんあん作成さくせいした。井上いのうえ自身じしん原案げんあん提出ていしゅつしたのちいち教育きょういく勅語ちょくご構想こうそうそのものに反対はんたいしたが、山縣やまがた教育きょういく勅語ちょくご制定せいてい意思いしわらないことをり、みずか教育きょういく勅語ちょくご起草きそうかかわるようになった。この井上いのうえ原案げんあん段階だんかいで、教育きょういく勅語ちょくご内容ないようはほぼかたまっている[10]

一方いっぽう天皇てんのう側近そっきん儒学じゅがくしゃである元田もとだえいまことは、以前いぜんから儒教じゅきょうもとづく道徳どうとく教育きょういく必要ひつようせい明治天皇めいじてんのう進言しんげんしており、1879ねん明治めいじ12ねん)には儒教じゅきょうしょく色濃いろこ教学きょうがく聖旨せいし起草きそうして、政府せいふ幹部かんぶ勅語ちょくごかたちしめしていた。元田もとだは、あらたに道徳どうとく教育きょういくかんする勅語ちょくご起草きそうするにさいしても、儒教じゅきょうもとづく独自どくじあん作成さくせいしていたが、井上いのうえ原案げんあんせっするとこれに同調どうちょうした。井上いのうえ元田もとだ相談そうだんしながら語句ごく構成こうせいり、最終さいしゅうあん完成かんせいした[10]内容ないようは3だんからなり、だい1だんでは天皇てんのう有徳うとく臣民しんみん忠誠ちゅうせいが「国体こくたい精華せいか」にして「教育きょういく淵源えんげん」であるとし、だい2だんでは「父母ちちははこうニ」から「天壌無窮てんじょうむきゅうすめらぎうん扶翼ふよくスヘシ」にいたる14の徳目とくもくしめし、だい3だんではこれらのとくが「皇祖こうそ皇宗こうそう遺訓いくん」にはっ永遠えいえん遵守じゅんしゅされるべき普遍ふへん妥当だとうせいつとする[1]

1890ねん明治めいじ23ねん10月30にち発表はっぴょうされた「教育きょういくせきスル勅語ちょくご」は、国務こくむかかわる法令ほうれい文書ぶんしょではなく、天皇てんのう自身じしん言葉ことばとしてあつかわれたため、天皇てんのう自身じしん署名しょめいだけがしるされ、国務大臣こくむだいじん署名しょめい副署ふくしょされなかった。井上いのうえあつし明治天皇めいじてんのう直接ちょくせつ下賜かしする形式けいしき主張しゅちょうしたがれられず、文部もんぶ大臣だいじんかいして下賜かしするかたちがとられた[10]政治せいじうえ一般いっぱん詔勅しょうちょく区別くべつするため大臣だいじん副署ふくしょ[1]

発表はっぴょう[編集へんしゅう]

発布はっぷ、10月31にち文部省もんぶしょう謄本とうほんつくり、全国ぜんこく学校がっこう頒布はんぷし、その趣旨しゅし貫徹かんてつつとめるよう訓令くんれいした。12月25にち直轄ちょっかつ学校がっこうにたいし天皇てんのう親署しんしょ勅語ちょくご下付かふした(訓令くんれい)。学校がっこう儀式ぎしきなどでたてまつ読され、国民こくみん道徳どうとく絶対ぜったいてき基準きじゅん教育きょういく活動かつどう最高さいこう原理げんりとして圧倒的あっとうてき権威けんいがあり、これが修身しゅうしんをはじめもろ教科きょうか規制きせいした[1]。1890ねん11月3にち帝国ていこく大学だいがく奉読ほうどくしきがおこなわれ、東京とうきょう工業こうぎょう学校がっこう東京とうきょう尋常じんじょう師範しはん学校がっこう東京とうきょう尋常じんじょう中学校ちゅうがっこうなどでもおこなわれた[11]

教育きょういく勅語ちょくご発表はっぴょうされた翌年よくねん1891ねん明治めいじ24ねん)には、だいいち高等こうとう中学校ちゅうがっこう嘱託しょくたく教員きょういんであった内村うちむら鑑三かんぞう教育きょういく勅語ちょくご最敬礼さいけいれいをしなかったことへの批判ひはん内村うちむら鑑三かんぞう不敬ふけい事件じけん)をきっかけに、各校かくこう配布はいふされた教育きょういく勅語ちょくごうつしを丁重ていちょうあつかうようめいじるむね訓令くんれいはっせられた。また、同年どうねんさだめられた小学校しょうがっこう祝日しゅくじつ大祭たいさい儀式ぎしき規定きてい明治めいじ24ねん文部省もんぶしょうれいだい4ごう)や、1900ねん明治めいじ33ねん)にさだめられた小学校しょうがっこうれい施行しこう規則きそく明治めいじ33ねん文部省もんぶしょうれいだい14ごう)などにより、祝祭日しゅくさいじつ学校がっこうおこなわれる儀式ぎしきでは教育きょういく勅語ちょくご奉読ほうどく朗読ろうどく)することなどがさだめられた。これ以後いご教育きょういく勅語ちょくご教育きょういくだいいち目標もくひょうとされるようになった。紀元節きげんせつ(2がつ11にち)、天長節てんちょうせつ天皇誕生日てんのうたんじょうび)、明治めいじぶし(11月3にち)および1がつ1にち元日がんじつ四方しほうぶし)の四大しだいぶしばれた祝祭日しゅくさいじつには、学校がっこう儀式ぎしきおこなわれ、全校ぜんこう生徒せいとけて校長こうちょう教育きょういく勅語ちょくご厳粛げんしゅくげ、そのうつしは御真影ごしんえい天皇てんのう皇后こうごう写真しゃしん)とともに奉安ほうあん殿どのおさめられて、丁重ていちょうあつかわれた[10]。その趣旨しゅしは、明治維新めいじいしん以後いご大日本帝国だいにっぽんていこく[よう出典しゅってん]修身しゅうしん道徳どうとく教育きょういく根本こんぽん規範きはんとらえられた。

文部省もんぶしょう英語えいご翻訳ほんやくし、そのほかの言語げんごにも続々ぞくぞく翻訳ほんやくした[12]外地がいち植民しょくみん)で施行しこうされた朝鮮ちょうせん教育きょういくれい台湾たいわん教育きょういくれいでは、教育きょういく全般ぜんぱん規範きはんともされた[13]

その一方いっぽうで、文部もんぶ大臣だいじん西園寺さいおんじ公望きんもちは、教育きょういく勅語ちょくごあまりにも国家こっか中心ちゅうしん主義しゅぎかたよぎて「国際こくさい社会しゃかいにおける日本にっぽん国民こくみん役割やくわり」などにれていないというてんなどをあやぶみ、いわゆるだい教育きょういく勅語ちょくご起草きそうした(草稿そうこう現在げんざい立命館大学りつめいかんだいがく所蔵しょぞう)。もっとも、この構想こうそう西園寺さいおんじ文部もんぶ大臣だいじん退任たいにんにより実現じつげんしなかった[14]

だい世界せかい大戦たいせんちゅう[編集へんしゅう]

勅語ちょくご発布はっぷ50周年しゅうねん記念きねん切手きって。1940ねん発行はっこう

いわゆる戦争せんそうには極端きょくたんかみきよしされたといわれる[1]治安ちあん維持いじほう体制たいせいの1930年代ねんだいはいると、教育きょういく勅語ちょくご国民こくみん教育きょういく思想しそうてき基礎きそとして神聖しんせいされた。教育きょういく勅語ちょくごうつしは、ほとんどの学校がっこうで「御真影ごしんえい」(天皇てんのう皇后こうごう写真しゃしん)とともに奉安ほうあん殿どの奉安ほうあんなどとばれる特別とくべつ場所ばしょ保管ほかんされた。また、生徒せいとたいしては教育きょういく勅語ちょくご全文ぜんぶん暗誦あんしょうすることもつよもとめられた[15]とく戦争せんそう激化げきかなかにあって、1938ねん昭和しょうわ13ねん)に国家こっか総動員そうどういんほう昭和しょうわ13ねん法律ほうりつだい55ごう)が制定せいてい施行しこうされると、その体制たいせい正当せいとうするために利用りようされた。そのため、教育きょういく勅語ちょくご本来ほんらい趣旨しゅしから乖離かいりするかたち軍国ぐんこく主義しゅぎ教典きょうてんとして利用りようされるにいたった。

だい世界せかい大戦たいせん[編集へんしゅう]

終戦しゅうせんの8がつ15にち太田おおた耕造こうぞう文相ぶんしょう文部省もんぶしょう訓令くんれいだい5ごう国体こくたい護持ごじ意識いしきした教育きょういくをすることをげた。また9がつ15にち前田まえだ多門たもん文相ぶんしょうのもとで「新日本建設しんにほんけんせつ教育きょういく方針ほうしん」がされ、「教育きょういくえき国体こくたい護持ごじつとむムル」[16]。とした。 国体こくたい護持ごじうた状況じょうきょうにGHQおよびCIEは危惧きぐしていたものの、当初とうしょ教育きょういく勅語ちょくご廃止はいしについては肯定こうていせず、日本にっぽん国内こくないきていたしん教育きょういく勅語ちょくご渙発かんぱつろん肯定こうていてき見方みかたをしていた[17]。 またアメリカたいにち教育きょういく使節しせつだん(1)は非公式ひこうしきしん勅語ちょくご相当そうとうするものを国会こっかいからすことをすすめた[10]

しん教育きょういく勅語ちょくごあんとして有賀ありが鐡太ろう起草きそうしたとされる[18]京都きょうと勅語ちょくごあん」がある。

文部省もんぶしょう1946ねん昭和しょうわ21ねん)10がつに「勅語ちょくごおよ詔書しょうしょとう取扱とりあつかいについて」とだいする次官じかん通牒つうちょうにより、教育きょういく勅語ちょくご教育きょういく根本こんぽん規範きはんとみなすことをやめ[19]、さらに国民こくみん学校がっこうれい施行しこう規則きそく改正かいせいして、国民こくみん学校がっこう小学校しょうがっこう)で四大しだいぶし儀式ぎしき教育きょういく勅語ちょくごげる規定きてい廃止はいしした[20]四大しだいぶし儀式ぎしきおこなうこと自体じたい廃止はいしされず、たんに「祝賀しゅくが」することがさだめられた。なお、どうれい施行しこうはじめておこなわれた明治めいじぶし(11月3にち)の儀式ぎしきは、同日どうじつ日本国にっぽんこく憲法けんぽう公布こうふでもあったことから、しん憲法けんぽう公布こうふ祝賀しゅくがする意義いぎくわえられた。奉読ほうどく神格しんかくまとあつかいが禁止きんしされた。

その政府せいふ憲法けんぽう改正かいせい国内こくない世論せろん影響えいきょうされ、しん勅語ちょくご渙発かんぱつろん次第しだい衰退すいたいし、教育きょういく法規ほうき法律ほうりつさだめる意向いこう転換てんかんした。またこれにともない、制定せいてい作業さぎょうおこなわれていた学校がっこう教育きょういくほうとはべつに、教育きょういく基本きほんほう制定せいていされることとなったことでそのうごきは加速かそくした。

1947ねん昭和しょうわ22ねん)に教育きょういく基本きほんほうきゅう教育きょういく基本きほんほう)が公布こうふ施行しこうされると、当初とうしょ日本国にっぽんこく政府せいふ国会こっかい教育きょういく勅語ちょくごを『教育きょういく基本きほんほう基礎きそ』として位置付いちづけようとしたが、この方針ほうしんはGHQのみとめるところとはならなかった。

国民こくみん子弟してい普通ふつう教育きょういくほどこ義務ぎむ義務ぎむ教育きょういく)、児童じどう教育きょういくける権利けんり(それも個々ここ状態じょうたいわせ適切てきせつであること)にかんする基本きほん規定きてい制定せいていされたのは日本国にっぽんこく憲法けんぽう出来できてからのことである。

1948ねん昭和しょうわ23ねん6月19にち衆議院しゅうぎいんで「教育きょういく勅語ちょくごとう排除はいじょかんする決議けつぎ」、参議院さんぎいんで「教育きょういく勅語ちょくごとう失効しっこう確認かくにんかんする決議けつぎ」がそれぞれ決議けつぎされて、教育きょういく勅語ちょくご学校がっこう教育きょういくから排除はいじょあるいは失効しっこう確認かくにんされ、謄本とうほん回収かいしゅう処分しょぶんされた。

1950ねん11月16にちおこなわれた文教ぶんきょう審議しんぎかい委員いいん吉田よしだしげる首相しゅしょうほか)では、教育きょういく基準きじゅんとして教育きょういく勅語ちょくごわる道徳どうとく綱領こうりょう必要ひつようせい議論ぎろんされたが、つく必要ひつようはないとする意見いけん多数たすうめた[21]

廃止はいし[編集へんしゅう]

教育きょういく勅語ちょくごはその軍人ぐんじん規律きりつ軍人ぐんじんみことのりさとし同列どうれつにおくことで軍事ぐんじ教育きょういく軍国ぐんこく主義しゅぎ彷彿ほうふつとさせる傾向けいこうがあるとされ、戦後せんご日本にっぽんにおいてはおおやけ教育きょういく勅語ちょくごくことはほぼ皆無かいむとなっている。時折ときおりなんらかのかたち注目ちゅうもくされて教育きょういく基本きほんほう存在そんざいまえた議論ぎろんこるときもある(稲田いなだ朋美ともみ西田にしだ昌司しょうじ発言はつげんなど)。

その当時とうじ文部もんぶ大臣だいじん天野あまの貞祐ていゆう教育きょういく勅語ちょくご擁護ようご発言はつげん1950ねん)、首相しゅしょう田中たなか角栄かくえい勅語ちょくご徳目とくもく普遍ふへんせい発言はつげん1974ねんとう教育きょういく勅語ちょくご擁護ようご根強ねづよく、憲法けんぽう改正かいせいふく戦後せんご天皇てんのうせいさい検討けんとうとの関連かんれんで、一部いちぶ政界せいかい財界ざいかいひと学者がくしゃ文化ぶんかじん神社じんじゃ関係かんけいしゃとうで、さい評価ひょうかつづいている[1]

現在げんざい[編集へんしゅう]

文部省もんぶしょう文部もんぶ科学かがくしょう中央ちゅうおう教育きょういく審議しんぎかい市区しく町村ちょうそんにおける教育きょういく関連かんれん研究けんきゅうかい勉強べんきょうかいなどでは、教育きょういく勅語ちょくごみことのりれいではなく法令ほうれいとしての性質せいしつたなかったこと、教育きょういく基本きほんほう教育きょういく勅語ちょくご形骸けいがいするものとなった一方いっぽう法令ほうれいであること、教育きょういく勅語ちょくご過去かこ国会こっかい排除はいじょ失効しっこう確認かくにんされていること、教育きょういく勅語ちょくご内容ないよう道徳どうとくてき記述きじゅつがなされているにぎないこと、等々とうとうをふまえ、教育きょういく基本きほんほうろんじるさいには比較ひかく参考さんこう資料しりょうとすることもあり、一部いちぶでは部分ぶぶんてき復活ふっかつについての話題わだいることもある。「教育きょういく勅語ちょくごについて、排除はいじょ失効しっこう決議けつぎ関係かんけいなく、副読本ふくどくほん学校がっこう現場げんば活用かつようできるとおもうがどうか」という質問しつもんについて、文部もんぶ科学かがくしょう初等しょとう中等ちゅうとう教育きょういくきょくちょうは「教育きょういく勅語ちょくごくに教育きょういく唯一ゆいいつ根本こんぽん理念りねんであるとするような指導しどうおこなうことは不適切ふてきせつであるというふうにかんがえますが、教育きょういく勅語ちょくごなかには今日きょうでも通用つうようするような内容ないようふくまれておりまして、これらのてん着目ちゃくもくして学校がっこう活用かつようするということはかんがえられる」と答弁とうべんしている[22]教育きょういく勅語ちょくご教育きょういく理念りねんなかれ、生徒せいと暗唱あんしょうさせている私立しりつ学校がっこうもある[23]

本文ほんぶん[編集へんしゅう]

原文げんぶんは「―顕彰けんしょうスルニあしラン」までと日付ひづけ署名しょめい捺印なついんのみがけられすべてつながっている)

ちん󠄂チンおもんみオモフニわがすめらぎクワウすめらぎクワウそうソウくにクニはじめ󠄁ハジムルコトひろしクワウとお󠄁ヱンとくトクツルコトふかシンあつコウナリわがしんシンみんミンかつただしチユウかつこうカウおくオクちょうテウしんコヽロいちイツニシテよしすみセルハわがくにコクからだタイせい󠄀セイはなクワニシテきょうケウいくイクふちエンみなもとゲンまたマタジツコヽそんソンなんじナンヂしんシンみんミンちち󠄁ははこうカウあにケイおとうとテイともイウおっとフウ󠄁そうアヒとも󠄁ホウともイウそうアヒしんシンきょうキヨウケンおのれオノレヲもちひろし󠄁ハクあいアイしゅう󠄁シユウ及󠄁オヨホシがくガクおさむヲサごうゲフ習󠄁ナラモツさとしのうノウけい󠄁ケイはつハツとくトクうつわ󠄁しげる󠄁ジヤウジユすすむ󠄁スヽンおおやけ󠄁コウえき󠄁エキひろヒロセイつとむひらくヒラつねツネくにコクけん󠄁ケンおもオモンくにコクほうハフ遵󠄁シタガいちイツだんタンなる󠄁クワンきゅう󠄁キフアレハよしいさむ󠄁ユウおおやけ󠄁コウたてまつホウモツてんテンジヤウきゅう󠄁キユウすめらぎクワウうん󠄁ウンつばさ󠄂ヨクスヘシこれカクゴトキハどくヒトちん󠄂チンただしチユウりょうリヤウしんシンみんミンタルノミナラスまた󠄂マタモツなんじナンヂさきセンのこ󠄁ふうフウあらわケンあきらシヤウスルニあしラン
みち󠄁ミチジツわがすめらぎクワウすめらぎクワウそうソウのこ󠄁くんクンニシテまごソンしんシンみんミントモ遵󠄁ジユンもりシュスヘキところ󠄁トコロこれコレふるいまコンつう󠄁ツウシテアヤマラスこれコレなかチユウそとグワイほどこせホドコシテもとモトラスちん󠄂チンなんじナンヂしんシンみんミントモこぶし󠄁ケンこぶし󠄁ケンふく󠄁フクヨウシテミナソノとくトクいちイツニセンコトヲ庶󠄂コヒいくネガ

あきら󠄁じゅうさんねんじゅうがつ󠄁さんじゅうにち
御名ぎょめい御璽ぎょじ

現代げんだいやく[編集へんしゅう]

おおくのわけがあるが、公的こうてき根拠こんきょわけとしては昭和しょうわ15ねん(1940ねん文部省もんぶしょうない設置せっちされた「ひじりさとしじゅつせきスル協議きょうぎかい」の報告ほうこく文部省もんぶしょう図書としょきょくがした「教育きょういくかんする勅語ちょくごぜん文通ぶんつうしゃく」がある。研究けんきゅうしゃあいだでは「ぜん文通ぶんつうしゃく」とばれる[よう出典しゅってん]。(仮名遣かなづかい,ルビ,段落だんらくなど原文げんぶんのまま。)

 教育きょういくかんする勅語ちょくごぜん文通ぶんつうしゃく

ちんがおもふに、祖先そせん方々かたがたくにをおはじめはじめになったことはきわめてひろとおであり、とくをおてになったことはきわめてふかあつくあらせられ、また臣民しんみんはよくちゅうにはげみよくこうをつくし、国中くになかのすべてのものみなしんいちにして代々だいだい美風びふうをつくりあげてた。これは国柄くにがら精髄せいずいであって、教育きょういくもとづくところもまたじつにこゝにある。なんじ臣民しんみんは、父母ちちはは孝行こうこうをつくし、兄弟きょうだい姉妹しまいなかよくし、夫婦ふうふかたみあつしむつい、朋友ほうゆうかたみ信義しんぎを以ってまじり、へりくだって気随きずいきずいきまま振舞ふるまいをせず、人々ひとびとたいして慈愛じあいおよぼすやうにし、学問がくもんおさ業務ぎょうむを習つて知識ちしき才能さいのうやしなえひ、善良ぜんりょう有為ゆうい人物じんぶつとなり、すすんで公共こうきょう利益りえきひろのためになる仕事しごとをおこし、つね皇室こうしつ典範てんぱんならびに憲法けんぽうはじ諸々もろもろ法令ほうれい尊重そんちょう遵守じゅんしゅし、まんいち危急ききゅう大事だいじつたならば、大義たいぎもとづいて勇気ゆうきをふるひ一身いっしんささげて皇室こうしつ国家こっかためにつくせ。かくしてかみみことのりのまに々々天地てんちともきわまりなき宝祚ほうそあまつひつぎさかえをたすけたてまつれ。かやうにすることは、たゝにちんたいして忠良ただよし臣民しんみんであるばかりでなく、それがとりもなほさず、なんじらの祖先そせんののこした美風びふうをはつきりあらはすことになる。

 ここにしめしたみちは、じつ祖先そせんのおのこしになったくんであって、皇祖こうそ皇宗こうそう子孫しそんたるものおよ臣民しんみんたるもの共々ともどもにしたがひまもるべきところである。このみち古今ここんつらぬけぬいて永久えいきゅう間違まちがえがなく、またくにはもとより外国がいこくでとりようひてもただしいみちである。ちんなんじ臣民しんみん一緒いっしょにこのみち大切たいせつまもって、みなこのみち体得たいとく実践じっせんすることをせつのぞむ。

解説かいせつ[編集へんしゅう]

難解なんかいであるため、解釈かいしゃくするひとによって、複数ふくすう解釈かいしゃく存在そんざいする。公式こうしき解釈かいしゃくとしては、明治天皇めいじてんのう上覧じょうらんた「かんてい解釈かいしゃく」と研究けんきゅうしゃばれる井上いのうえ哲次郎てつじろうの『勅語ちょくご衍義(えんぎ)』(1891ねん)のほか、戦前せんぜん文部省もんぶしょう折々おりおり時局じきょくわせて布告ふこくしたもの、とく明治めいじ末期まっき以降いこう戦前せんぜんすべての小学生しょうがくせいまなんだ国定くにさだ修身しゅうしんしょ解釈かいしゃく相当そうとうするとされるが、それらにおいてすら解釈かいしゃく若干じゃっかんのぶれが存在そんざいする。

たとえば、文部省もんぶしょう発行はっこう修身しゅうしん国定こくてい教科書きょうかしょにおける「教育きょういく勅語ちょくご」の解釈かいしゃくは、「だい修身しゅうしんしょ」(1910ねん-)から「だい修身しゅうしんしょ」(-1945ねん)においてはどの年度ねんどでもだいたいおなじだが、「だいよん修身しゅうしんしょ」では「一身いっしんをさゝげて」と解釈かいしゃくされている「一旦いったんなる󠄁きゅう󠄁アレハ義勇ぎゆう󠄁おおやけ󠄁ニたてまつシ」の部分ぶぶんが、「だい修身しゅうしんしょ」(『初等しょとう修身しゅうしん』)では「いのちをささげて」と解釈かいしゃくされているなど、時局じきょくによっては小学生しょうがくせい相手あいてにダイレクトな表現ひょうげん使つかったりするようなこまかいちがいがある。なお、この部分ぶぶんは『勅語ちょくご衍義』においては「国家こっかためめにするより愉快ゆかいなることなかるべきなり」とさらにダイレクトに解釈かいしゃくされている。

尋常じんじょう小学しょうがく修身しゅうしんしょ まきろく』による解説かいせつ[編集へんしゅう]

国定こくてい教科書きょうかしょによる解釈かいしゃくしめすため、1939ねん発行はっこうされた『尋常じんじょう小学しょうがく修身しゅうしんしょ まきろく』の内容ないよう以下いか引用いんようする[24]本書ほんしょでは、「臣民しんみん」の一人ひとりである教科書きょうかしょ執筆しっぴつしゃが、おなじく「臣民しんみん」の一人ひとりである小学校しょうがっこう6年生ねんせい読者どくしゃかたける形式けいしきをとり、かつて勅語ちょくご発布はっぷ時点じてんでは「皇祖こうそ皇宗こうそう」(皇室こうしつ祖先そせん)の「子孫しそん」であるところの「天皇てんのう」であったが、本書ほんしょ発行はっこう時点じてんではすで崩御ほうぎょして「皇祖こうそ皇宗こうそう」のいちはしらとなっている「ちん」こと明治天皇めいじてんのう言葉ことば逐語ちくごてき解説かいせつしている。

教育きょういくかんする勅語ちょくごは、明治めいじじゅうさんねんじゅうがつさんじゅうにち明治天皇めいじてんのうわがとう臣民しんみんのしたがいまもるべき道徳どうとく大綱たいこうをおしめしになるためにくだたまわったものであります。

勅語ちょくごさんだんけてうかがいまつりますと、そのだいいちだんには、

ちん󠄁おもんみフニわが皇祖こうそ皇宗こうそうこくはじめ󠄁ムルコト宏遠こうえん󠄁ニとくツルコト深厚しんこうナリわが臣民しんみんかつちゅうかつこうおくちょうしんいちニシテ世世せぜ厥ノすみセルハ此レわが国体こくたい精華せいかニシテ教育きょういく淵源えんげんまたじつニ此ニそん

おおせられてあります。

この一段いちだんには、まず皇室こうしつ祖先そせんくにをおはじめになるにあたって、その規模きぼがまことに広大こうだいで、かついつまでもうごかないようになされたこと、祖先そせんはまた御身おんみをおおさめになり、臣民しんみんをおいつくしみになって、万世ばんせいわたって御手本おてほんをおのこしになったことをおおせられ、つぎに、臣民しんみんきみちゅうくしおやこうつくすことを心掛こころがけ、臣民しんみんすべてがみなしんひとつにして、代々だいだい忠孝ちゅうこう美風びふうまっとうしてたことをおおせられてあります。つい以上いじょうのことが国体こくたい純美じゅんびなところであり、くに教育きょういくもとづくところもまたここにあることをおおせられてあります。 — 文部省もんぶしょう尋常じんじょう小学しょうがく修身しゅうしんしょ まきろく だいじゅう
勅語ちょくごだいだんには、

しか臣民しんみん父母ちちははこう兄弟きょうだいとも夫婦ふうふ󠄁あい朋友ほうゆうしょうしん恭倹きょうけんおのれレヲはく󠄁あいしゅニ及󠄁ホシがくおさむぎょうヲ習󠄁ヒ以テ智能ちのうけい󠄁はつとく成就じょうじゅすすむ󠄁テこう󠄁えきこうつとむひらけつね国憲こっけんじゅう国法こくほうニ遵󠄁ヒ一旦いったんなる󠄁きゅう󠄁アレハ義勇ぎゆう󠄁おおやけ󠄁ニたてまつシ以テ天壤無窮てんじょうむきゅう󠄁ノすめらぎうん󠄁ヲ扶翼ふよく󠄂スヘシノ如キハどくちん󠄁カ忠良ただよし臣民しんみんタルノミナラスまた󠄂以テなんじ祖先そせんのこ󠄁ふう顕彰けんしょうスルニあしラン

おおせられてあります。

この一段いちだんには、はじめ天皇てんのうわがとう臣民しんみんたいしてしか臣民しんみんしたしくおびかけになり、とうつねまもるべきみちをおさとしになってります。

その趣旨しゅしによると、わがとう臣民しんみんたるものは父母ちちはは孝行こうこうくし、兄弟きょうだい姉妹しまいなかよくし、夫婦ふうふかたみぶんまもってむつまじくし、朋友ほうゆうには信義しんぎをもってまじわらなければならなりません。だれたいしてもつつしんで無礼ぶれい挙動きょどうなく、つね自分じぶんきしめてままにせず、しかもひろし世間せけんひと仁愛じんあいおよぼすことが大切たいせつであります。また学問がくもんおさ業務ぎょうむならって、知識ちしき才能さいのうすすめ、とくある有為ゆういひととなり、すすんでこの智徳ちとく活用かつようして、公共こうきょう利益りえき増進ぞうしんし、世間せけん有用ゆうよう業務ぎょうむおこすことが大切たいせつであります。またつね皇室こうしつ典範てんぱん大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽうおもんじ、その法令ほうれいまもり、もしくに事変じへんこったら、勇気ゆうきふる一身いっしんをささげて、君国くんこくのためにくさなければならなりません。かようにして天地てんちともきわまりない皇位こうい盛運せいうんをおたすもうげるのが、わがとう臣民しんみんつとむであります。

なお以上いじょうみちをよく実行じっこうするものは、陛下へいか忠良ただよし臣民しんみんであるばかりでなく、とう祖先そせんがのこした美風びふうあらわものであることをおさとしになってります。 — 文部省もんぶしょう尋常じんじょう小学しょうがく修身しゅうしんしょ まきろく だいじゅうろく
勅語ちょくごだいさんだんには、

斯ノみち󠄁ハじつわが皇祖こうそ皇宗こうそうのこ󠄁くんニシテ子孫しそん臣民しんみんノ俱ニ遵󠄁まもりスヘキしょ󠄁これ古今ここんどおり󠄁シテ謬ラス中外ちゅうがいほどこせシテもとラスちん󠄁しか臣民しんみんト俱ニけん󠄁々ふく󠄁膺シテ咸其とくいちニセンコトヲ庶󠄂いく󠄁フ

おおせられてあります。

この一段いちだんには、まえだいだんにおさとしになったみちは、明治天皇めいじてんのうあらたにおきめになったものではなく、じつ皇祖こうそ皇宗こうそうがおのこしになった教訓きょうくんであって、皇祖こうそ皇宗こうそう子孫しそん一般いっぱん臣民しんみんともまもるべきものであること、またこのみちはいにしえもいまかわりがなく、かつくに内外ないがいわずどこでもおこなわれるものであることをおおせられてあります。最後さいごに、かしこくも天皇てんのうみづからわがとう臣民しんみんともにこの遺訓いくんをおりになり、それを実行じっこうになって、みなとくおなじくしようとおおせられてあります。

以上いじょう明治天皇めいじてんのうのおおろしになった教育きょういくかんする勅語ちょくご大意たいいであります。この勅語ちょくごにおしめしになっているみちは、わがとう臣民しんみん永遠えいえんまもるべきものであります。とう至誠しせいもって、日夜にちやこの勅語ちょくご趣意しゅいたてまつたいしなければなりません。 — 文部省もんぶしょう尋常じんじょう小学しょうがく修身しゅうしんしょ まきろく だいじゅうなな

解釈かいしゃく歴史れきし[編集へんしゅう]

発布はっぷ当時とうじ東京とうきょう高等こうとう師範しはん学校がっこう校長こうちょうにして「東洋とうようちち」とばれる高名こうみょう学者がくしゃ那珂なか通世みちよをして「ひじりさとし懇到こんとうなるに感泣かんきゅうするのみ。あに敢て妄にいちさんすることをんや」とわしめるなど[25]発布はっぷ当時とうじから一言ひとこといち神聖しんせいされた教育きょういく勅語ちょくごだが、実際じっさい問題もんだいとしてわかりにくい箇所かしょおおいため、発表はっぴょう直後ちょくごより学者がくしゃによる学術がくじゅつてき解釈かいしゃく文部省もんぶしょう衆参しゅうさん議院ぎいんなど政府せいふ機関きかんによる公式こうしきはん公式こうしき解説かいせつしょ多数たすう制作せいさくされている[1]那珂なか通世みちよ自身じしんも、なんさつ解説かいせつしょしている)。また「教育きょういく勅語ちょくご公式こうしき解釈かいしゃく解釈かいしゃく」なども制作せいさくされた。 1940(昭和しょうわ15)ねん文部省もんぶしょうない設置せっちされたひじりさとしじゅつせきスル協議きょうぎかい報告ほうこくひじりさとしじゅつせきスル協議きょうぎかい報告ほうこく」のなかの「附録ふろくいち教育きょういく勅語ちょくご衍義しょ目録もくろく」によれば,1890(明治めいじ23) ねんから1939(昭和しょうわ14)ねんまでのあいだ刊行かんこうされた「衍義しょ」として306さつげられている。

近代きんだい国家こっかとして成立せいりつしたばかりの大日本帝国だいにっぽんていこく」を前提ぜんていに1890ねん発布はっぷされた教育きょういく勅語ちょくごは、日本にっぽん列強れっきょう仲間入なかまいりをたしたにちしん戦争せんそう(1894ねんくらいからすで時代じだいわなくなりはじめたため、だい3伊藤いとう内閣ないかく(1898ねん-)時代じだい文相ぶんしょう西園寺さいおんじ公望きんもちによって列強れっきょうこく国民こくみんとしての社会しゃかい道徳どうとくいた『だい教育きょういく勅語ちょくご』の起草きそうおこなわれたが、教育きょういく勅語ちょくご一言ひとこといち神聖しんせいされていたため、「教育きょういく勅語ちょくご改訂かいてい」という作業さぎょうおこなえなかった。そのため、「つちのえさる詔書しょうしょ」(1908ねん)や「青少年せいしょうねん学徒がくとたまものハリタル勅語ちょくご」(1939ねん)などのあらたな勅語ちょくご発布はっぷ教育きょういく勅語ちょくごおぎなうとともに、「教育きょういく勅語ちょくごさい解釈かいしゃくおぎなう」という方式ほうしきられ、時局じきょくわせて教育きょういく勅語ちょくごさい解釈かいしゃくされた。これらの解釈かいしゃくは、社会しゃかい情勢じょうせい時局じきょく推移すいいによってかなりちがい、とく太平洋戦争たいへいようせんそうには、きわめて戦時せんじしょくつよ解釈かいしゃくおこなわれている。これらはすべて廃止はいしされる1948ねんいたるまで、教育きょういく基本きほん方針ほうしんとして使つかつづけられた。

そのほか時代じだいにより、公的こうてき根拠こんきょ学問がくもんてき背景はいけいのない一般人いっぱんじんによる独自どくじ解釈かいしゃく存在そんざいする。たとえば「きて虜囚りょしゅうはずかしめをけず」の『戦陣せんじんくん』の執筆しっぴつしゃ中柴なかしばまつじゅん陸軍りくぐん少将しょうしょうの『すめらぎどう世界せかいかん』(1942ねん)など大戦たいせんちゅう狂信きょうしんてき解釈かいしゃく[ちゅう 1]戦後せんご社会しゃかい合致がっちさせようと独自どくじ解釈かいしゃくした「国民こくみん道徳どうとく協会きょうかいやく[ちゅう 2]などがある。そしてこれらの素人しろうと解釈かいしゃくでも、執筆しっぴつしゃ地位ちい発行はっこう母体ぼたいによってはひろられている場合ばあいもある。

なお、勅語ちょくご御製ぎょせいなどの天皇てんのう言葉ことばは、いわゆる現代げんだいやくはおろか、なんらかのいいかえをすることすら戦前せんぜん不敬ふけいとみなされかねないため、基本きほんてき教育きょういく勅語ちょくご解説かいせつした書物しょもつは、まず勅語ちょくご全文ぜんぶん掲載けいさいしたのち勅語ちょくご一部分いちぶぶんごとに区切くぎってして、その意味いみつつしんで解釈かいしゃくする「謹解」という形式けいしきをとる。

勅語ちょくご衍義(1891ねん
解説かいせつしょなかでも、井上いのうえ哲次郎てつじろうの『勅語ちょくご衍義(えんぎ)』(1891ねん9がつ)は、勅語ちょくご起草きそうしゃ一人ひとりである中村なかむら正直まさなお自身じしんがこれをえっし、また勅語ちょくご発布はっぷした文部もんぶ大臣だいじん芳川よしかわ顕正けんせい巻頭かんとうさん寄稿きこうしているため、たん一人ひとり学者がくしゃによる著作ちょさくではなく、政府せいふによるはん公式こうしき解釈かいしゃくともいうべきものであり、「かんてい解釈かいしゃく」と研究けんきゅうしゃあいだばれる。本書ほんしょ刊行かんこう明治天皇めいじてんのう自身じしん上覧じょうらんきょうされた。
1899ねんにはぞうていばんの『ぞうてい勅語ちょくご衍義』が刊行かんこうされている。井上いのうえは1926ねん不敬ふけい事件じけんこして公職こうしょく追放ついほうされ、この時点じてん井上いのうえおよび『勅語ちょくご衍義』の解釈かいしゃく政治せいじてき影響えいきょうりょくうしなった。
本書ほんしょ序文じょぶんにおいて、井上いのうえは、勅語ちょくご趣旨しゅしを「孝悌こうてい忠信ちゅうしん共同きょうどう愛国あいこく」すなわち「孝悌こうてい忠信ちゅうしん徳行とっこうおさむメ、共同きょうどう愛国あいこく義心ぎしん培養ばいようセザルベカラザル所以ゆえん」をべたものだとはしてきしるしている。
昭和しょうわ時代じだいには『勅語ちょくご衍義』も絶版ぜっぱんとなり、教育きょういく勅語ちょくごや『勅語ちょくご衍義』が成立せいりつした時代じだい背景はいけいわすれられていたため、1942ねん昭和しょうわ17ねん)には井上いのうえ米寿べいじゅ記念きねんとして、『勅語ちょくご衍義』の復刻ふっこくばんとともに当時とうじ時代じだい背景はいけい解説かいせつなどを付録ふろくした『釈明しゃくめい 教育きょういく勅語ちょくご衍義』が刊行かんこうされている。井上いのうえ哲次郎てつじろうは、民主みんしゅ主義しゅぎ国家こっかとしての日本にっぽんこく成立せいりつることなく、終戦しゅうせんすうげつまえくなった。
かんえいふつどく教育きょういく勅語ちょくごやく纂(1907ねん
1907ねん文部省もんぶしょうによって中国ちゅうごく英語えいごフランス語ふらんすご・ドイツ翻訳ほんやくされた。このうち、菊池きくち大麓だいろく中心ちゅうしんとするメンバーによってやくされた英訳えいやくばん「The Imperial Rescript on Education」が、文語ぶんごたい日本語にほんごによる原文げんぶんでは明確めいかくにしていないものを明確めいかくにしている事実じじつじょう公式こうしき解説かいせつとしてられる。
この英訳えいやくばんでは文頭ぶんとう部分ぶぶんにおいて、大日本帝国だいにっぽんていこくにおける「ちん」と「臣民しんみん」の関係かんけいを「Know ye, Our subjects:」というかたちはしてき表現ひょうげんしている。
国定くにさだ修身しゅうしんしょ ろく(1907ねん
学校がっこう教育きょういくでは、1907ねんより設置せっちされた尋常じんじょう小学校しょうがっこう6ねん修身しゅうしん教育きょういく勅語ちょくごおしえられていた。そのため、文部省もんぶしょう編纂へんさんし1907ねんから使つかわれた国定こくてい教科書きょうかしょ修身しゅうしんしょ」のだいろくかんに、教育きょういく勅語ちょくご解説かいせつっている。
明治天皇めいじてんのうわがとう臣民しんみんのしたがひまもるべき道徳どうとく大綱たいこうをおしめしになるためにくだたまわつたもの」であり、「わがとう臣民しんみん永遠えいえんまもるべきもの」などと解説かいせつされている。
ひじりさとしじゅつせきスル協議きょうぎかい報告ほうこく」(1940ねん
1940ねん教育きょういく勅語ちょくご渙發かんぱつじゅうねん記念きねんにあたるため、記念きねん式典しきてんおこなわれた。10がつ文部省もんぶしょうないひじりさとしじゅつせきスル協議きょうぎかい設置せっちされた。そのさい編纂へんさんされた文部省もんぶしょう図書としょきょくひじりさとしじゅつせきスル協議きょうぎかい報告ほうこく」に、教育きょういく勅語ちょくご逐語ちくごやく現代げんだいやく)および解釈かいしゃくっている。ここにっている逐語ちくごやく教育きょういくかんする勅語ちょくごぜん文通ぶんつうしゃく」が、文部省もんぶしょうによる公式こうしき現代げんだいやくであり、研究けんきゅうしゃあいだでは通称つうしょうぜん文通ぶんつうしゃく」とばれる。
これは一般いっぱんけに公開こうかいされたものではない(逐語ちくごやく公開こうかいすると不敬ふけいざいわれるおそれがあり、文部もんぶ当局とうきょくといえども「不敬ふけいではないか」という攻撃こうげきにせねばならなかった)ため、当時とうじ一般人いっぱんじんにはられていないが、数少かずすくない公式こうしき現代げんだいやくであり、新字しんじしん仮名かめいにさえすれば2000年代ねんだいでもわりみやすいので学生がくせい一般人いっぱんじん説明せつめいするときに便利べんりであり、また太平洋戦争たいへいようせんそうにおける教育きょういく勅語ちょくごちょう国家こっか主義しゅぎてき解釈かいしゃくしめすものとして、後世こうせい研究けんきゅうしゃあいだではられる。
初等しょとう修身しゅうしん よん(1941ねん
文部省もんぶしょう編纂へんさんし、1941ねんより1945ねんまで使つかわれた国民こくみん学校がっこう4ねん修身しゅうしん教科書きょうかしょ教育きょういく勅語ちょくご解説かいせつっている。きわめて戦時せんじしょくつよい。終戦しゅうせん進駐軍しんちゅうぐんによってぼくりが指示しじされ(ぼく教科書きょうかしょ)、しばらく使つかわれたのち修身しゅうしん授業じゅぎょう自体じたい停止ていしされ、教科書きょうかしょ回収かいしゅうされて廃棄はいきされた。
小学生しょうがくせいには解釈かいしゃくむずかしい「一旦いったんなる󠄁きゅう󠄁アレハ義勇ぎゆうこうたてまつシ」の部分ぶぶんは、これまでの教科書きょうかしょでは「一身いっしんをさゝげて」などと解説かいせつされていたが、このはんでは「勇氣ゆうきをふるひおこして、いのちをささげ、君國くんこくのためにつくさなければなりません」と、「いのちをささげる」ということを意味いみすることが明確めいかく解説かいせつされている。
教育きょういく勅語ちょくごとう排除はいじょかんする決議けつぎ(1948ねん
1948ねん6がつ19にち衆議院しゅうぎいん全会ぜんかい一致いっち決議けつぎされたもの。「これらの詔勅しょうちょく根本こんぽんてき理念りねん主権しゅけんざいくんならびに神話しんわてき國体こくたいかんもとづいている事実じじつは、あかりかに基本きほんてき人権じんけんそこない、國際こくさい信義しんぎたいして疑点ぎてんのこすもととなる」と解釈かいしゃくされ、これをもって教育きょういく勅語ちょくご日本にっぽんこくから排除はいじょされた。
なお、あくまで1948ねん時点じてんでは、GHQ意向いこうさからって教育きょういく勅語ちょくご擁護ようごすると公職こうしょく追放ついほうひとし危険きけんがあったこともあり教育きょういく勅語ちょくご排除はいじょしゅうまいり全会ぜんかい一致いっちたが、時代じだいには「教育きょういく勅語ちょくご全面ぜんめんてき支持しじする」「かく部分ぶぶん支持しじできる」などと公言こうげんする議員ぎいん登場とうじょうしている。


文法ぶんぽう誤用ごようせつ[編集へんしゅう]

教育きょういく勅語ちょくご文法ぶんぽう誤用ごようがあるというせつがある。すなわち、原文げんぶん一旦いったん緩急かんきゅうアレバ義勇ぎゆうこうたてまつジ」部分ぶぶんの「アレバ」は、条件じょうけんぶしみちびくための仮定かてい条件じょうけんでなくてはならず、和文わぶん古典こてん文法ぶんぽうでは「未然みぜんがた+バ」、つまり「アラバ」がただしく、「アレバ」は誤用ごようである、とするせつである。

1910年代ねんだい中学生ちゅうがくせいだった大宅おおたく壮一そういち国語こくご授業じゅぎょうちゅう教育きょういく勅語ちょくご誤用ごようせつ主張しゅちょうしたところ教師きょうしさとされた、とのち回想かいそうしている[26]

なお、塚本つかもと邦雄くにお歌集かしゅう黄金おうごんりつ』114ページ[27]で「「アレバ」は「アラバ」のあやまりなれば」として「秋風あきかぜうつの顛頂かすめたり「一旦いったん緩急かんきゅうアレバ義勇ぎゆうこうたてまつジ」」のうたがある。

高島たかしま俊男としおは「文法ぶんぽうのまちがいである」としたうえで、「ただしこれは元田もとだえいまこと無学むがく無知むちによるもの、とばかりもれない。江戸えど時代じだい以来いらい漢文かんぶん先生せんせいは、国文法こくぶんぽうには一向いっこう無頓着むとんじゃくで、―そもそもかれらには漢文かんぶんたいする敬意けいいはあるが日本語にほんごたいする敬意けいいはないから当然とうぜんのこととして無頓着むとんじゃくであったのだ―」とべ、元田もとだ前述ぜんじゅつ漢文かんぶん訓読くんどく慣行かんこうしたがったもの、とする見解けんかいしめしている[28]

現場げんばにおける誤読ごどく問題もんだい[編集へんしゅう]

福岡ふくおかけんれいでは、中等ちゅうとう学校がっこう校長こうちょうが「世々せぜ」をセイセイ、「成就じょうじゅ」をセイシュウ、「あいし」をアイクヮシと発音はつおん生徒せいと保護ほごしゃから抗議こうぎこえがり、県庁けんちょうされて注意ちゅういあたえられている。また、ぐん教育きょういくちょうが「つとむ」をセム、「遵守じゅんしゅ」をソンシュ、「御名ぎょめい」をオンナと発音はつおん名誉めいよしょく辞退じたいするようまれた[29]

記念きねん[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 祭政さいせいきょう一致いっち君臣くんしん一致いっち忠孝ちゅうこう一本いっぽん至上しじょう原理げんりる」という。同書どうしょp.235
  2. ^ その結果けっか原文げんぶんとはかなり乖離かいりするものになっている。執筆しっぴつしゃもと自民党じみんとう衆議院しゅうぎいん議員ぎいん佐々木ささき盛雄もりおという。かつて靖国神社やすくにじんじゃゆう就館明治めいじ神宮じんぐう配布はいふされたが、現在げんざいではなくなっている

出典しゅってん[編集へんしゅう]

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  3. ^ ろく 教学きょうがく聖旨せいし文教ぶんきょう政策せいさく変化へんか 文部もんぶ科学かがくしょう
  4. ^ だい森友もりとも学園がくえんか?国有こくゆう売却ばいきゃく話題わだいのあの学校がっこうのイデオロギーを検証けんしょう辻田つじた しんけん 現代げんだいビジネス 講談社こうだんしゃ
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  7. ^ a b だい2かい国会こっかい衆議院しゅうぎいんほん会議かいぎだい67ごう昭和しょうわ23ねん6がつ19にち009松本まつもとあつしづくり
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  11. ^ 官報かんぽう
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  14. ^ 辻田つじたしんけん文部省もんぶしょう研究けんきゅう理想りそう日本人にっぽんじんぞう」をもとめたひゃくじゅうねん文春ぶんしゅん新書しんしょ、2017ねんISBN 978-4-16-661129-4OCLC 983777635https://www.worldcat.org/oclc/983777635 
  15. ^ 村上むらかみ義人よしひと手拭てぬぐいのはた あかつきふうひるがえる」より、著者ちょしゃ在学ざいがくしていた開成かいせい中学校ちゅうがっこうにおける実体験じつたいけん
  16. ^ 新日本建設しんにほんけんせつ教育きょういく方針ほうしん昭和しょうわじゅうねんきゅうがつじゅうにち)」、文部もんぶ科学かがくしょうHP、https://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317991.htm
  17. ^ CIE局長きょくちょうダイクと安倍あべ能成よしなり文部もんぶ大臣だいじん会談かいだん内容ないようなど。
  18. ^ 佐藤さとう秀夫ひでお鈴木すずき英一ひでかず敗戦はいせん直後ちょくご京都きょうとしん教育きょういく勅語ちょくご構想こうそう--有賀ありが鉄太郎てつたろうとシーフェリン」『季刊きかん教育きょういくほう』43ごう、1982ねん
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  23. ^ 開成かいせい幼稚園ようちえん 幼児ようじ教育きょういく学園がくえん (きゅう:南港なんこうさくら幼稚園ようちえん幼児ようじ教育きょういく学園がくえん” (2011ねん3がつ23にち). 2011ねん3がつ23にち閲覧えつらん
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  25. ^ 那珂なか通世みちよ秋山あきやま四郎しろう 共著きょうちょ教育きょういく勅語ちょくご衍義』 (共益きょうえき商社しょうしゃ、1891ねん) p.3
  26. ^ 大宅おおたく壮一そういち実録じつろく天皇てんのうます書房しょぼう、1952ねん  はしがき。大宅おおたく壮一そういち実録じつろく天皇てんのう大和やまと書房しょぼう〈だいわ文庫ぶんこ〉、2007ねん、343ぺーじISBN 978-4-479-30072-4  資料しりょういち
  27. ^ はな曜社黄金おうごんりつ』1991ねん4がつISBN 4-87346-077-8 
  28. ^ 高島たかしま俊男としお『お言葉ことばですが… だい11かん連合れんごう出版しゅっぱん、2006ねん11月、164ぺーじ 
  29. ^ 教育きょういく勅語ちょくご誤読ごどく中学ちゅうがく校長こうちょう注意ちゅうい福岡ふくおかにちにち新聞しんぶん昭和しょうわ10ねん7がつ26にち(『昭和しょうわニュース事典じてんだい5かん 昭和しょうわ10ねん-昭和しょうわ11ねん本編ほんぺんp654 昭和しょうわニュース事典じてん編纂へんさん委員いいんかい 毎日まいにちコミュニケーションズかん 1994ねん

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 梅渓ばいけいのぼり明治めいじ前期ぜんき政治せいじ研究けんきゅう : 明治めいじ軍隊ぐんたい成立せいりつ明治めいじ国家こっか完成かんせい未來社みらいしゃ、1963ねん2がつ / 1978ねん9がつ増補ぞうほばん
    • 梅渓ばいけいのぼり天皇てんのうせい国家こっかかん成立せいりつ 教育きょういく勅語ちょくご成立せいりつ青史せいし出版しゅっぱん、2000ねん8がつISBN 4-921145-07-5 
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  • 稲田いなだ正次まさつぐ教育きょういく勅語ちょくご成立せいりつ過程かてい研究けんきゅう講談社こうだんしゃ、1971ねん3がつ 
  • 山住やまずみせいおのれ教育きょういく勅語ちょくご朝日新聞社あさひしんぶんしゃ朝日あさひ選書せんしょ〉、1980ねん3がつISBN 4-02-259254-0 
    • 佐藤さとう広美ひろみ編集へんしゅう解説かいせつ へん山住やまずみせいおのれ著作ちょさくしゅう だい5かん まるきみ教育きょういく勅語ちょくご : いまなぜ、天皇てんのうせいうのか』学術がくじゅつ出版しゅっぱんかい学術がくじゅつ著作ちょさくしゅうライブラリー〉、2016ねん6がつISBN 978-4-284-10462-3 
  • 小山こやまつね天皇てんのう機関きかんせつ国民こくみん教育きょういく』アカデミア出版しゅっぱんかい、1989ねん2がつ 
  • 平田ひらたさとし教育きょういく勅語ちょくご国際こくさい関係かんけい研究けんきゅう : かんてい翻訳ほんやく教育きょういく勅語ちょくご中心ちゅうしんとして』風間かざま書房しょぼう、1997ねん3がつISBN 4-7599-1030-1 
  • 副田そえだ義也よしや教育きょういく勅語ちょくご社会しゃかい : ナショナリズムの創出そうしゅつ挫折ざせつ有信ありのぶどうだかぶんしゃ、1997ねん10がつISBN 4-8420-6550-8 
  • 伊藤いとう哲夫てつお教育きょういく勅語ちょくご真実しんじつ致知出版しゅっぱんしゃ、2011ねん1がつISBN 978-4-884-74939-2 
  • 三宅みやけまもるつね三条さんじょう教則きょうそく教育きょういく勅語ちょくご : 宗教しゅうきょうしゃ世俗せぞく倫理りんりへのアプローチ』弘文こうぶんどう、2015ねん6がつISBN 978-4-335-16080-6 

資料しりょう[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]