教育 きょういく ニ関 せき スル勅語 ちょくご (きょういくにかんするちょくご、旧 きゅう 字体 じたい :敎育 きょういく ニ關 せき スル敕語 )または教育 きょういく 勅語 ちょくご (きょういくちょくご、旧 きゅう 字体 じたい :敎育 きょういく 敕語 )は、明治天皇 めいじてんのう が近代 きんだい 日本 にっぽん の教育 きょういく の基本 きほん 方針 ほうしん として下 くだ した勅語 ちょくご 。
1890年 ねん (明治 めいじ 23年 ねん )10月30日 にち に下 くだ され、1948年 ねん (昭和 しょうわ 23年 ねん )6月19日 にち に国会 こっかい によって排除 はいじょ または失効 しっこう 確認 かくにん された[1] 。
「教育 きょういく ニ関 せき スル勅語 ちょくご 」(教育 きょういく 勅語 ちょくご )は、教育 きょういく の基本 きほん 方針 ほうしん を示 しめ す明治天皇 めいじてんのう の勅語 ちょくご である。1890年 ねん (明治 めいじ 23年 ねん )10月 がつ 30日 にち に下 くだ され、翌 よく 31日 にち 付 づけ の官報 かんぽう などで公表 こうひょう された[2] 。公式 こうしき 文書 ぶんしょ においては「教育 きょういく ニ関 せき スル勅語 ちょくご 」と表現 ひょうげん するが、一般 いっぱん 的 てき には「教育 きょういく 勅語 ちょくご 」と表現 ひょうげん される。全文 ぜんぶん 315字 じ [1] 。
「勅語 ちょくご 」として明治天皇 めいじてんのう の御名 ぎょめい のもとに頒布 はんぷ されたが、実際 じっさい は1890年 ねん 2月 がつ に開催 かいさい された地方 ちほう 官 かん 会議 かいぎ において、当時 とうじ の第 だい 1次 じ 山 やま 縣内 けんない 閣 かく に対 たい して徳育 とくいく 原則 げんそく の確立 かくりつ を迫 せま る建議 けんぎ が行 おこな われたのが直接 ちょくせつ の契機 けいき となり[1] 、法制 ほうせい 局長 きょくちょう 井上 いのうえ 毅 あつし と枢密 すうみつ 顧問 こもん 官 かん 元田 もとだ 永 えい 孚 まこと らが中心 ちゅうしん となって起草 きそう した[1] 。前身 ぜんしん 的 てき な物 もの として、自由 じゆう 民権 みんけん 運動 うんどう や欧化 おうか 政策 せいさく への反発 はんぱつ の中 なか で1879年 ねん (明治 めいじ 12年 ねん )に起草 きそう された「教学 きょうがく 聖旨 せいし 」や、1882年 ねん (明治 めいじ 15年 ねん )に頒布 はんぷ された「幼 よう 学 がく 綱要 こうよう 」などがあり[1] 、この思想 しそう と政策 せいさく を引 ひ き継 つ いだものが教育 きょういく 勅語 ちょくご である[3] 。国民 こくみん 道徳 どうとく の基本 きほん と教育 きょういく の根本 こんぽん 理念 りねん を明示 めいじ するために発布 はっぷ された[1] 。
その内容 ないよう に関 かん しては、頒布 はんぷ 当初 とうしょ から難解 なんかい であり、多数 たすう の解釈 かいしゃく が存在 そんざい する。現代 げんだい における解釈 かいしゃく の一 いち 例 れい として2006年 ねん 刊行 かんこう の『精選 せいせん 版 ばん 日本 にっぽん 国語 こくご 大 だい 辞典 じてん 』のものを挙 あ げると、古来 こらい 天皇 てんのう は徳 とく をもって統治 とうち してきたことを述 の べ、つづいて国民 こくみん の守 まも るべき「徳目 とくもく 」を掲 かか げ、もって皇室 こうしつ を扶翼 ふよく すべきとしている[1] 。「徳目 とくもく 」の具体 ぐたい 的 てき な内容 ないよう に関 かん しても多数 たすう の解釈 かいしゃく が存在 そんざい し、戦前 せんぜん の注釈 ちゅうしゃく 書 しょ では9個 こ から16個 こ くらいの徳目 とくもく に分類 ぶんるい するのが主流 しゅりゅう であるが(そもそも徳目 とくもく を掲 かか げているのかいないのかという点 てん にも諸説 しょせつ ある)、現代 げんだい においては1973年 ねん に明治 めいじ 神宮 じんぐう 社務 しゃむ 所 しょ より刊行 かんこう された『大 だい 御 ご 心 しん 明治天皇 めいじてんのう 御製 ぎょせい 教育 きょういく 勅語 ちょくご 謹解』の解釈 かいしゃく が広 ひろ く普及 ふきゅう しており[4] 、著作 ちょさく 権 けん が不明 ふめい (おそらく未了 みりょう )のため具体 ぐたい 的 てき に記 しる すことはできないが、「12の徳目 とくもく 」にまとめている[5] 。「現代 げんだい 語 ご 訳 やく 」に関 かん しては、「勅語 ちょくご 」(天皇 てんのう のおことば )を自分 じぶん の言葉 ことば で言 い いかえることは「不敬 ふけい 」であるため、ほとんど存在 そんざい しないが(大日本帝国 だいにっぽんていこく 憲法 けんぽう 下 した では不敬 ふけい 罪 ざい に問 と われる可能 かのう 性 せい がある)、1940年 ねん に文部省 もんぶしょう 図書 としょ 局 きょく が制作 せいさく した「教育 きょういく に関 かん する勅語 ちょくご の全 ぜん 文通 ぶんつう 釈 しゃく 」(通称 つうしょう 「全 ぜん 文通 ぶんつう 釈 しゃく 」)がよく知 し られている。例 たと えば解釈 かいしゃく の難 むずか しい「一旦 いったん 緩 なる 󠄁急 きゅう 󠄁アレハ義勇 ぎゆう 󠄁公 おおやけ 󠄁ニ奉 たてまつ シ」の部分 ぶぶん は、太平洋戦争 たいへいようせんそう 中 ちゅう の国民 こくみん 学校 がっこう 4年生 ねんせい 向 む けの教科書 きょうかしょ 『初等 しょとう 科 か 修身 しゅうしん 四 よん 』(1941年 ねん 、通称 つうしょう 「第 だい 五 ご 期 き 修身 しゅうしん 書 しょ 」)では「命 いのち をささげて」と解釈 かいしゃく されるなど、教育 きょういく 勅語 ちょくご は、頒布 はんぷ 当初 とうしょ から時代 じだい に合 あ わせて恣意 しい 的 てき な解釈 かいしゃく が行 おこな われてきた歴史 れきし があり、1948年 ねん の国会 こっかい 決議 けつぎ で失効 しっこう が確認 かくにん された後 のち も現代 げんだい にいたるまで、明治天皇 めいじてんのう の御名 ぎょめい を借 か りた個々人 ここじん によって恣意 しい 的 てき な解釈 かいしゃく が行 おこな われ続 つづ けている(教育 きょういく ニ関 せき スル勅語 ちょくご #解釈 かいしゃく の歴史 れきし を参照 さんしょう )。
1946年 ねん (昭和 しょうわ 21年 ねん )11月3日 にち 、明治天皇 めいじてんのう の孫 まご である昭和 しょうわ 天皇 てんのう によって日本国 にっぽんこく 憲法 けんぽう が公布 こうふ され、翌 よく 1947年 ねん (昭和 しょうわ 22年 ねん )5月3日 にち に施行 しこう された。日本国 にっぽんこく 憲法 けんぽう 98条 じょう 1項 こう には「この憲法 けんぽう は、国 くに の最高 さいこう 法規 ほうき であつて、その条規 じょうき に反 はん する法律 ほうりつ 、命令 めいれい 、詔勅 しょうちょく 及 およ び国務 こくむ に関 かん するその他 た の行為 こうい の全部 ぜんぶ 又 また は一部 いちぶ は、その効力 こうりょく を有 ゆう しない」と、いわゆる「憲法 けんぽう の最高 さいこう 法規 ほうき 性 せい 」が明記 めいき されていた。また、1946年 ねん 開催 かいさい の第 だい 90回 かい 帝国 ていこく 議会 ぎかい における新 しん 憲法 けんぽう の教育 きょういく に関 かん する規定 きてい の議論 ぎろん を受 う け[6] 、日本国 にっぽんこく 憲法 けんぽう の施行 しこう に先行 せんこう する形 かたち で、同 おな じく明治天皇 めいじてんのう の孫 まご である昭和 しょうわ 天皇 てんのう によって、1947年 ねん 3月31日 にち に教育 きょういく 基本 きほん 法 ほう が公布 こうふ ・施行 しこう された。にもかかわらず、教育 きょういく 基本 きほん 法 ほう の施行 しこう 後 ご も「教育 きょういく 勅語 ちょくご 」が存置 そんち されていたことから、1948年 ねん 6月 がつ 19日 にち 、衆議院 しゅうぎいん において、「神話 しんわ 的 てき 国体 こくたい 観 かん 」「主権 しゅけん 在 ざい 君 くん 」を標榜 ひょうぼう する教育 きょういく 勅語 ちょくご は「民主 みんしゅ 平和 へいわ 国家 こっか 」「主権 しゅけん 在民 ざいみん 」を標榜 ひょうぼう する日本国 にっぽんこく 憲法 けんぽう に違反 いはん しているとされ、憲法 けんぽう の最高 さいこう 法規 ほうき 性 せい を規定 きてい した日本国 にっぽんこく 憲法 けんぽう 第 だい 98条 じょう に基 もと づいて「教育 きょういく 勅語 ちょくご 等 とう 排除 はいじょ に関 かん する決議 けつぎ 」が行 おこな われ[7] 、「教育 きょういく 勅語 ちょくご 」は「陸海 りくかい 軍 ぐん 軍人 ぐんじん に賜 たまもの はりたる敕諭 」、「戊 つちのえ 申 さる 詔書 しょうしょ 」、「青少年 せいしょうねん 学徒 がくと に賜 たまわ りたる勅語 ちょくご 」などの「教育 きょういく に関 かん する諸 しょ 詔勅 しょうちょく 」と同時 どうじ に排除 はいじょ された。また同日 どうじつ 、参議院 さんぎいん においても、日本国 にっぽんこく 憲法 けんぽう の人類 じんるい 普遍 ふへん の原理 げんり に則 のっと り教育 きょういく 基本 きほん 法 ほう が施行 しこう された結果 けっか として、「教育 きょういく 勅語 ちょくご 」等 とう の諸 しょ 詔勅 しょうちょく は既 すで に廃止 はいし されてその効力 こうりょく を失 うしな っている事実 じじつ が明確 めいかく にされ、全 ぜん 国民 こくみん が一致 いっち して教育 きょういく 基本 きほん 法 ほう の明示 めいじ する新 しん 教育 きょういく 理念 りねん の普及 ふきゅう 徹底 てってい に努力 どりょく をいたすべきことを期 き する「教育 きょういく 勅語 ちょくご 等 とう の失効 しっこう 確認 かくにん に関 かん する決議 けつぎ 」が行 おこな われた[8] 。これらの国会 こっかい 決議 けつぎ より、日本 にっぽん 国 こく において教育 きょういく 勅語 ちょくご は既 すで に失効 しっこう していることが確認 かくにん され、教育 きょういく 勅語 ちょくご は日本 にっぽん 国 こく から排除 はいじょ された[7] [8] 。
その後 ご の日本国 にっぽんこく 憲法 けんぽう 下 か の日本 にっぽん 国 こく においては、国民 こくみん 国家 こっか の法規 ほうき として日本国 にっぽんこく 憲法 けんぽう 自体 じたい が最高 さいこう 法規 ほうき となり(第 だい 98条 じょう :憲法 けんぽう の最高 さいこう 法規 ほうき 性 せい )、これに違反 いはん する「詔勅 しょうちょく 」は失効 しっこう した。また前記 ぜんき の「教育 きょういく に関 かん する諸 しょ 詔勅 しょうちょく 」に代 か わって、日本国 にっぽんこく 憲法 けんぽう に沿 そ った「教育 きょういく 基本 きほん 法 ほう 」などの各種 かくしゅ 法令 ほうれい を国民 こくみん 道徳 どうとく の指導原理 しどうげんり として日本国 にっぽんこく 政府 せいふ は推進 すいしん するようになった。
しかしその後 ご も文部 もんぶ 大臣 だいじん 天野 あまの 貞祐 ていゆう の教育 きょういく 勅語 ちょくご 擁護 ようご 発言 はつげん (1950年 ねん )や首相 しゅしょう 田中 たなか 角栄 かくえい の勅語 ちょくご 徳目 とくもく 普遍 ふへん 性 せい 発言 はつげん (1974年 ねん )など、教育 きょういく 勅語 ちょくご 擁護 ようご 論 ろん は根強 ねづよ く、憲法 けんぽう 改正 かいせい や戦後 せんご 天皇 てんのう 制 せい 再検 さいけん 討論 とうろん とも並行 へいこう して教育 きょういく 勅語 ちょくご 再 さい 評価 ひょうか の動 うご きも多 おお い[1] 。2017年 ねん 現在 げんざい の日本国 にっぽんこく 政府 せいふ の公式 こうしき の見解 けんかい としては、「現行 げんこう の憲法 けんぽう 、教育 きょういく 基本 きほん 法 ほう の趣旨 しゅし には教育 きょういく 勅語 ちょくご が合致 がっち しない」という1983年 ねん 5月 がつ の参院 さんいん 決算 けっさん 委員 いいん 会 かい に置 お ける瀬戸山 せとやま 三男 みつお 文部 もんぶ 大臣 だいじん の見解 けんかい を踏襲 とうしゅう しており、「教育 きょういく 勅語 ちょくご を我 わ が国 くに の教育 きょういく の唯一 ゆいいつ の根本 こんぽん とするような指導 しどう を行 おこな うことは不適切 ふてきせつ 」であるが、「憲法 けんぽう や教育 きょういく 基本 きほん 法 ほう 等 とう に反 はん しないような形 かたち で教育 きょういく 勅語 ちょくご を教材 きょうざい として用 もち いることまでは否定 ひてい されることではない」との立場 たちば である[9] 。
なお1947年 ねん 施行 しこう の「教育 きょういく 基本 きほん 法 ほう 」(旧 きゅう 教育 きょういく 基本 きほん 法 ほう )は、教育 きょういく 勅語 ちょくご を置 お き替 か える形 かたち で制定 せいてい されたという性質 せいしつ 上 じょう 、「教育 きょういく 勅語 ちょくご 」の復活 ふっかつ どころか「教育 きょういく 基本 きほん 法 ほう 」の改正 かいせい 論議 ろんぎ 自体 じたい が長 なが らく慎重 しんちょう に取 と り扱 あつか われ、教育 きょういく 勅語 ちょくご の運用 うんよう 年数 ねんすう を上回 うわまわ る50年 ねん 以上 いじょう にわたって同 おな じものが運用 うんよう されてきたが、中央 ちゅうおう 教育 きょういく 審議 しんぎ 会 かい の答申 とうしん 「新 あたら しい時代 じだい にふさわしい教育 きょういく 基本 きほん 法 ほう と教育 きょういく 振興 しんこう 基本 きほん 計画 けいかく の在 あ り方 かた について」(2003年 ねん 3月 がつ )を受 う け、2006年 ねん に「改正 かいせい 教育 きょういく 基本 きほん 法 ほう 」が成立 せいりつ した。これが現行 げんこう の教育 きょういく 法 ほう である。
なお、勅語 ちょくご 自体 じたい に名前 なまえ がついているわけではない。「教育 きょういく ニ関 せき スル勅語 ちょくご 」とは様々 さまざま な勅語 ちょくご の中 なか から区別 くべつ しやすいように名前 なまえ が付 つ けられているのであって、正式 せいしき 名称 めいしょう ではなく通称 つうしょう である。
発表 はっぴょう までの経緯 けいい [ 編集 へんしゅう ]
前史 ぜんし には教学 きょうがく 聖旨 せいし の起草 きそう (1879年 ねん )や幼 よう 学 がく 綱要 こうよう の頒布 はんぷ (1882年 ねん )等 とう 、自由 じゆう 民権 みんけん 運動 うんどう ・欧化 おうか 政策 せいさく に反対 はんたい する天皇 てんのう 側近 そっきん らの伝統 でんとう 主義 しゅぎ 的 てき ・儒教 じゅきょう 主義 しゅぎ 的 てき な徳育 とくいく 強化 きょうか 運動 うんどう がある[1] 。
発布 はっぷ までには様々 さまざま な教育 きょういく 観 かん が対立 たいりつ した。学制 がくせい 公布 こうふ (1872年 ねん )当初 とうしょ は文明開化 ぶんめいかいか に向 む け、個人 こじん の「立身 りっしん 治産 ちさん 昌 あきら 業 ぎょう 」のための知識 ちしき ・技術 ぎじゅつ 習得 しゅうとく が重視 じゅうし されたが、政府 せいふ は自由 じゆう 民権 みんけん 運動 うんどう を危険 きけん 視 し ・直接 ちょくせつ 弾圧 だんあつ し、また自由 じゆう 民権 みんけん 思想 しそう が再起 さいき せぬよう学校 がっこう 教育 きょういく の統制 とうせい に動 うご き、天皇 てんのう は1879年 ねん の「教学 きょうがく 聖旨 せいし 」で仁義 じんぎ 忠 ただし 孝 こう を核 かく とした徳育 とくいく の根本 こんぽん 化 か の重要 じゅうよう 性 せい を説 と いた[1] 。もっとも、教学 きょうがく 聖旨 せいし は、儒教 じゅきょう と読 よ み書 か き算盤 そろばん を柱 はしら とするあまりにも前 ぜん 近代 きんだい 的 てき な内容 ないよう であったため顧 かえり みられることはなかった[10] 。
教育 きょういく 勅語 ちょくご 御 ご 下賜 かし 之 の 図 ず (安宅 あたか 安五郎 やすごろう 画 が )1890年 ねん 10月30日 にち に発表 はっぴょう された教育 きょういく 勅語 ちょくご は、山 やま 縣内 けんない 閣 かく の下 した で起草 きそう された。その直接 ちょくせつ の契機 けいき は、内閣 ないかく 総理 そうり 大臣 だいじん 山縣 やまがた 有朋 ありとも の影響 えいきょう 下 か にある地方 ちほう 長官 ちょうかん 会議 かいぎ が、同年 どうねん 2月 がつ 26日 にち に「徳育 とくいく 涵養 かんよう の義 ぎ に付 づけ 建議 けんぎ 」を決議 けつぎ し、知識 ちしき の伝授 でんじゅ に偏 かたよ る従来 じゅうらい の学校 がっこう 教育 きょういく を修正 しゅうせい して、道徳心 どうとくしん の育成 いくせい も重視 じゅうし するように求 もと めたことによる[1] 。また、明治天皇 めいじてんのう が以前 いぜん から道徳 どうとく 教育 きょういく に大 おお きな関心 かんしん を寄 よ せていたこともあり、文部 もんぶ 大臣 だいじん の榎本 えのもと 武揚 ぶよう に対 たい して道徳 どうとく 教育 きょういく の基本 きほん 方針 ほうしん を立 た てるよう命 めい じた。ところが、榎本 えのもと はこれを推進 すいしん しなかったため更迭 こうてつ され、後任 こうにん の文部 もんぶ 大臣 だいじん として山縣 やまがた は腹心 ふくしん の芳川 よしかわ 顕正 けんせい を推薦 すいせん した。これに対 たい して、明治天皇 めいじてんのう は難色 なんしょく を示 しめ したが、山縣 やまがた が自 みずか ら芳川 よしかわ を指導 しどう することを条件 じょうけん に天皇 てんのう を説得 せっとく 、了承 りょうしょう させた[10] 。文部 もんぶ 大臣 だいじん に就任 しゅうにん した芳川 よしかわ は、天皇 てんのう から箴言 しんげん 編集 へんしゅう の命 いのち を請 う けた。編集 へんしゅう 作業 さぎょう は初 はじ め中村 なかむら 正直 まさなお に委嘱 いしょく され、法制 ほうせい 局 きょく 長官 ちょうかん 井上 いのうえ 毅 あつし に移 うつ り、枢密 すうみつ 顧問 こもん 官 かん 元田 もとだ 永 えい 孚 まこと が協力 きょうりょく する形 かたち で進行 しんこう した[1] 。
中村 なかむら 原案 げんあん について、山縣 やまがた が井上 いのうえ 毅 あつし ・内閣 ないかく 法制 ほうせい 局 きょく 長官 ちょうかん に示 しめ して意見 いけん を求 もと めたところ、井上 いのうえ は中村 なかむら 原案 げんあん の宗教 しゅうきょう 色 しょく ・哲学 てつがく 色 しょく を理由 りゆう に猛 もう 反対 はんたい した。山縣 やまがた は、政府 せいふ の知恵袋 ちえぶくろ とされていた井上 いのうえ の意見 いけん を重 おも んじ、中村 なかむら に代 か えて井上 いのうえ に起草 きそう を依頼 いらい した。井上 いのうえ は、中村 なかむら 原案 げんあん を全 まった く破棄 はき し、「立憲 りっけん 主義 しゅぎ に従 したが えば君主 くんしゅ は国民 こくみん の良心 りょうしん の自由 じゆう に干渉 かんしょう しない」ことを前提 ぜんてい として、宗教 しゅうきょう 色 しょく を排 はい することを企図 きと して原案 げんあん を作成 さくせい した。井上 いのうえ は自身 じしん の原案 げんあん を提出 ていしゅつ した後 のち 、一 いち 度 ど は教育 きょういく 勅語 ちょくご 構想 こうそう そのものに反対 はんたい したが、山縣 やまがた の教育 きょういく 勅語 ちょくご 制定 せいてい の意思 いし が変 か わらないことを知 し り、自 みずか ら教育 きょういく 勅語 ちょくご 起草 きそう に関 かか わるようになった。この井上 いのうえ 原案 げんあん の段階 だんかい で、後 ご の教育 きょういく 勅語 ちょくご の内容 ないよう はほぼ固 かた まっている[10] 。
一方 いっぽう 、天皇 てんのう 側近 そっきん の儒学 じゅがく 者 しゃ である元田 もとだ 永 えい 孚 まこと は、以前 いぜん から儒教 じゅきょう に基 もと づく道徳 どうとく 教育 きょういく の必要 ひつよう 性 せい を明治天皇 めいじてんのう に進言 しんげん しており、1879年 ねん (明治 めいじ 12年 ねん )には儒教 じゅきょう 色 しょく の色濃 いろこ い教学 きょうがく 聖旨 せいし を起草 きそう して、政府 せいふ 幹部 かんぶ に勅語 ちょくご の形 かたち で示 しめ していた。元田 もとだ は、新 あら たに道徳 どうとく 教育 きょういく に関 かん する勅語 ちょくご を起草 きそう するに際 さい しても、儒教 じゅきょう に基 もと づく独自 どくじ の案 あん を作成 さくせい していたが、井上 いのうえ 原案 げんあん に接 せっ するとこれに同調 どうちょう した。井上 いのうえ は元田 もとだ に相談 そうだん しながら語句 ごく や構成 こうせい を練 ね り、最終 さいしゅう 案 あん を完成 かんせい した[10] 。内容 ないよう は3段 だん からなり、第 だい 1段 だん では天皇 てんのう の有徳 うとく と臣民 しんみん の忠誠 ちゅうせい が「国体 こくたい ノ精華 せいか 」にして「教育 きょういく ノ淵源 えんげん 」であるとし、第 だい 2段 だん では「父母 ちちはは ニ孝 こう ニ」から「天壌無窮 てんじょうむきゅう ノ皇 すめらぎ 運 うん ヲ扶翼 ふよく スヘシ」に至 いた る14の徳目 とくもく を示 しめ し、第 だい 3段 だん ではこれらの徳 とく が「皇祖 こうそ 皇宗 こうそう ノ遺訓 いくん 」に発 はっ し永遠 えいえん に遵守 じゅんしゅ されるべき普遍 ふへん 妥当 だとう 性 せい を持 も つとする[1] 。
1890年 ねん (明治 めいじ 23年 ねん )10月30日 にち に発表 はっぴょう された「教育 きょういく ニ関 せき スル勅語 ちょくご 」は、国務 こくむ に関 かか わる法令 ほうれい ・文書 ぶんしょ ではなく、天皇 てんのう 自身 じしん の言葉 ことば として扱 あつか われたため、天皇 てんのう 自身 じしん の署名 しょめい だけが記 しる され、国務大臣 こくむだいじん の署名 しょめい は副署 ふくしょ されなかった。井上 いのうえ 毅 あつし は明治天皇 めいじてんのう が直接 ちょくせつ 下賜 かし する形式 けいしき を主張 しゅちょう したが容 い れられず、文部 もんぶ 大臣 だいじん を介 かい して下賜 かし する形 かたち がとられた[10] 。政治 せいじ 上 うえ の一般 いっぱん 詔勅 しょうちょく と区別 くべつ するため大臣 だいじん 副署 ふくしょ が無 な い[1] 。
発布 はっぷ 後 ご 、10月31日 にち 文部省 もんぶしょう が謄本 とうほん を作 つく り、全国 ぜんこく の学校 がっこう に頒布 はんぷ し、その趣旨 しゅし の貫徹 かんてつ に努 つと めるよう訓令 くんれい した。12月25日 にち 直轄 ちょっかつ 学校 がっこう にたいし天皇 てんのう 親署 しんしょ の勅語 ちょくご を下付 かふ した(訓令 くんれい )。学校 がっこう 儀式 ぎしき などで奉 たてまつ 読され、国民 こくみん 道徳 どうとく の絶対 ぜったい 的 てき 基準 きじゅん ・教育 きょういく 活動 かつどう の最高 さいこう 原理 げんり として圧倒的 あっとうてき 権威 けんい があり、これが修身 しゅうしん 科 か をはじめ諸 もろ 教科 きょうか を規制 きせい した[1] 。1890年 ねん 11月3日 にち 帝国 ていこく 大学 だいがく で奉読 ほうどく 式 しき がおこなわれ、東京 とうきょう 工業 こうぎょう 学校 がっこう ・東京 とうきょう 府 ふ 尋常 じんじょう 師範 しはん 学校 がっこう ・東京 とうきょう 府 ふ 尋常 じんじょう 中学校 ちゅうがっこう などでもおこなわれた[11] 。
教育 きょういく 勅語 ちょくご が発表 はっぴょう された翌年 よくねん の1891年 ねん (明治 めいじ 24年 ねん )には、第 だい 一 いち 高等 こうとう 中学校 ちゅうがっこう の嘱託 しょくたく 教員 きょういん であった内村 うちむら 鑑三 かんぞう が教育 きょういく 勅語 ちょくご に最敬礼 さいけいれい をしなかったことへの批判 ひはん (内村 うちむら 鑑三 かんぞう 不敬 ふけい 事件 じけん )をきっかけに、各校 かくこう に配布 はいふ された教育 きょういく 勅語 ちょくご の写 うつ しを丁重 ていちょう に取 と り扱 あつか うよう命 めい じる旨 むね の訓令 くんれい が発 はっ せられた。また、同年 どうねん に定 さだ められた小学校 しょうがっこう 祝日 しゅくじつ 大祭 たいさい 日 び 儀式 ぎしき 規定 きてい (明治 めいじ 24年 ねん 文部省 もんぶしょう 令 れい 第 だい 4号 ごう )や、1900年 ねん (明治 めいじ 33年 ねん )に定 さだ められた小学校 しょうがっこう 令 れい 施行 しこう 規則 きそく (明治 めいじ 33年 ねん 文部省 もんぶしょう 令 れい 第 だい 14号 ごう )などにより、祝祭日 しゅくさいじつ に学校 がっこう で行 おこな われる儀式 ぎしき では教育 きょういく 勅語 ちょくご を奉読 ほうどく (朗読 ろうどく )することなどが定 さだ められた。これ以後 いご 、教育 きょういく 勅語 ちょくご は教育 きょういく の第 だい 一 いち 目標 もくひょう とされるようになった。紀元節 きげんせつ (2月 がつ 11日 にち )、天長節 てんちょうせつ (天皇誕生日 てんのうたんじょうび )、明治 めいじ 節 ぶし (11月3日 にち )および1月 がつ 1日 にち (元日 がんじつ 、四方 しほう 節 ぶし )の四大 しだい 節 ぶし と呼 よ ばれた祝祭日 しゅくさいじつ には、学校 がっこう で儀式 ぎしき が行 おこな われ、全校 ぜんこう 生徒 せいと に向 む けて校長 こうちょう が教育 きょういく 勅語 ちょくご を厳粛 げんしゅく に読 よ み上 あ げ、その写 うつ しは御真影 ごしんえい (天皇 てんのう ・皇后 こうごう の写真 しゃしん )とともに奉安 ほうあん 殿 どの に納 おさ められて、丁重 ていちょう に扱 あつか われた[10] 。その趣旨 しゅし は、明治維新 めいじいしん 以後 いご の大日本帝国 だいにっぽんていこく で[要 よう 出典 しゅってん ] 、修身 しゅうしん ・道徳 どうとく 教育 きょういく の根本 こんぽん 規範 きはん と捉 とら えられた。
文部省 もんぶしょう が英語 えいご に翻訳 ほんやく し、そのほかの言語 げんご にも続々 ぞくぞく と翻訳 ほんやく した[12] 。外地 がいち (植民 しょくみん 地 ち )で施行 しこう された朝鮮 ちょうせん 教育 きょういく 令 れい や台湾 たいわん 教育 きょういく 令 れい では、教育 きょういく 全般 ぜんぱん の規範 きはん ともされた[13] 。
その一方 いっぽう で、文部 もんぶ 大臣 だいじん 西園寺 さいおんじ 公望 きんもち は、教育 きょういく 勅語 ちょくご が余 あま りにも国家 こっか 中心 ちゅうしん 主義 しゅぎ に偏 かたよ り過 す ぎて「国際 こくさい 社会 しゃかい における日本 にっぽん 国民 こくみん の役割 やくわり 」などに触 ふ れていないという点 てん などを危 あや ぶみ、いわゆる第 だい 二 に 教育 きょういく 勅語 ちょくご を起草 きそう した(草稿 そうこう は現在 げんざい 立命館大学 りつめいかんだいがく が所蔵 しょぞう )。もっとも、この構想 こうそう は西園寺 さいおんじ の文部 もんぶ 大臣 だいじん 退任 たいにん により実現 じつげん しなかった[14] 。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 中 ちゅう [ 編集 へんしゅう ]
勅語 ちょくご 発布 はっぷ 50周年 しゅうねん 記念 きねん 切手 きって 。1940年 ねん 発行 はっこう
いわゆる戦争 せんそう 期 き には極端 きょくたん に神 かみ 聖 きよし 化 か されたといわれる[1] 。治安 ちあん 維持 いじ 法 ほう 体制 たいせい 下 か の1930年代 ねんだい に入 はい ると、教育 きょういく 勅語 ちょくご は国民 こくみん 教育 きょういく の思想 しそう 的 てき 基礎 きそ として神聖 しんせい 化 か された。教育 きょういく 勅語 ちょくご の写 うつ しは、ほとんどの学校 がっこう で「御真影 ごしんえい 」(天皇 てんのう ・皇后 こうごう の写真 しゃしん )とともに奉安 ほうあん 殿 どの ・奉安 ほうあん 庫 こ などと呼 よ ばれる特別 とくべつ な場所 ばしょ に保管 ほかん された。また、生徒 せいと に対 たい しては教育 きょういく 勅語 ちょくご の全文 ぜんぶん を暗誦 あんしょう することも強 つよ く求 もと められた[15] 。特 とく に戦争 せんそう 激化 げきか の中 なか にあって、1938年 ねん (昭和 しょうわ 13年 ねん )に国家 こっか 総動員 そうどういん 法 ほう (昭和 しょうわ 13年 ねん 法律 ほうりつ 第 だい 55号 ごう )が制定 せいてい ・施行 しこう されると、その体制 たいせい を正当 せいとう 化 か するために利用 りよう された。そのため、教育 きょういく 勅語 ちょくご の本来 ほんらい の趣旨 しゅし から乖離 かいり する形 かたち で軍国 ぐんこく 主義 しゅぎ の教典 きょうてん として利用 りよう されるに至 いた った。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご [ 編集 へんしゅう ]
終戦 しゅうせん の8月 がつ 15日 にち 、太田 おおた 耕造 こうぞう 文相 ぶんしょう は文部省 もんぶしょう 訓令 くんれい 第 だい 5号 ごう で国体 こくたい 護持 ごじ を意識 いしき した教育 きょういく をすることを告 つ げた。また9月 がつ 15日 にち 、前田 まえだ 多門 たもん 文相 ぶんしょう のもとで「新日本建設 しんにほんけんせつ の教育 きょういく 方針 ほうしん 」が出 だ され、「教育 きょういく ハ益 えき 々国体 こくたい ノ護持 ごじ ニ努 つとむ ムル」[16] 。とした。
国体 こくたい 護持 ごじ を謳 うた う状況 じょうきょう にGHQ及 およ びCIEは危惧 きぐ していたものの、当初 とうしょ は教育 きょういく 勅語 ちょくご 廃止 はいし については肯定 こうてい せず、日本 にっぽん 国内 こくない で起 お きていた新 しん 教育 きょういく 勅語 ちょくご 渙発 かんぱつ 論 ろん に肯定 こうてい 的 てき な見方 みかた をしていた[17] 。
またアメリカ対 たい 日 にち 教育 きょういく 使節 しせつ 団 だん (1次 じ )は非公式 ひこうしき に新 しん 勅語 ちょくご に相当 そうとう するものを国会 こっかい から出 だ すことを勧 すす めた[10] 。
新 しん 教育 きょういく 勅語 ちょくご 案 あん として有賀 ありが 鐡太郎 ろう が起草 きそう したとされる[18] 「京都 きょうと 勅語 ちょくご 案 あん 」がある。
文部省 もんぶしょう は1946年 ねん (昭和 しょうわ 21年 ねん )10月 がつ に「勅語 ちょくご 及 およ び詔書 しょうしょ 等 とう の取扱 とりあつか いについて」と題 だい する次官 じかん 通牒 つうちょう により、教育 きょういく 勅語 ちょくご を教育 きょういく の根本 こんぽん 規範 きはん とみなすことをやめ[19] 、さらに国民 こくみん 学校 がっこう 令 れい 施行 しこう 規則 きそく を改正 かいせい して、国民 こくみん 学校 がっこう (小学校 しょうがっこう )で四大 しだい 節 ぶし の儀式 ぎしき で教育 きょういく 勅語 ちょくご を読 よ み上 あ げる規定 きてい を廃止 はいし した[20] 四大 しだい 節 ぶし に儀式 ぎしき を行 おこな うこと自体 じたい は廃止 はいし されず、単 たん に「祝賀 しゅくが 」することが定 さだ められた。なお、同 どう 令 れい 施行 しこう 後 ご に初 はじ めて行 おこな われた明治 めいじ 節 ぶし (11月3日 にち )の儀式 ぎしき は、同日 どうじつ が日本国 にっぽんこく 憲法 けんぽう の公布 こうふ 日 び でもあったことから、新 しん 憲法 けんぽう の公布 こうふ を祝賀 しゅくが する意義 いぎ も付 つ け加 くわ えられた。奉読 ほうどく と神格 しんかく 的 まと 扱 あつか いが禁止 きんし された。
その後 ご 、政府 せいふ は憲法 けんぽう 改正 かいせい や国内 こくない 世論 せろん に影響 えいきょう され、新 しん 勅語 ちょくご 渙発 かんぱつ 論 ろん は次第 しだい に衰退 すいたい し、教育 きょういく 法規 ほうき の法律 ほうりつ で定 さだ める意向 いこう に転換 てんかん した。またこれに伴 ともな い、制定 せいてい 作業 さぎょう が行 おこな われていた学校 がっこう 教育 きょういく 法 ほう とは別 べつ に、教育 きょういく 基本 きほん 法 ほう が制定 せいてい されることとなったことでその動 うご きは加速 かそく した。
1947年 ねん (昭和 しょうわ 22年 ねん )に教育 きょういく 基本 きほん 法 ほう (旧 きゅう 教育 きょういく 基本 きほん 法 ほう )が公布 こうふ ・施行 しこう されると、当初 とうしょ 日本国 にっぽんこく 政府 せいふ と国会 こっかい は教育 きょういく 勅語 ちょくご を『教育 きょういく 基本 きほん 法 ほう の基礎 きそ 』として位置付 いちづ けようとしたが、この方針 ほうしん はGHQの認 みと めるところとはならなかった。
国民 こくみん が子弟 してい に普通 ふつう 教育 きょういく を施 ほどこ す義務 ぎむ (義務 ぎむ 教育 きょういく )、児童 じどう が教育 きょういく を受 う ける権利 けんり (それも個々 ここ の状態 じょうたい に合 あ わせ適切 てきせつ であること)に関 かん する基本 きほん 規定 きてい が制定 せいてい されたのは日本国 にっぽんこく 憲法 けんぽう が出来 でき てからのことである。
1948年 ねん (昭和 しょうわ 23年 ねん )6月19日 にち 、衆議院 しゅうぎいん で「教育 きょういく 勅語 ちょくご 等 とう の排除 はいじょ に関 かん する決議 けつぎ 」、参議院 さんぎいん で「教育 きょういく 勅語 ちょくご 等 とう の失効 しっこう 確認 かくにん に関 かん する決議 けつぎ 」がそれぞれ決議 けつぎ されて、教育 きょういく 勅語 ちょくご は学校 がっこう 教育 きょういく から排除 はいじょ あるいは失効 しっこう 確認 かくにん され、謄本 とうほん は回収 かいしゅう ・処分 しょぶん された。
1950年 ねん 11月16日 にち に行 おこな われた文教 ぶんきょう 審議 しんぎ 会 かい (委員 いいん は吉田 よしだ 茂 しげる 首相 しゅしょう ほか)では、教育 きょういく 基準 きじゅん として教育 きょういく 勅語 ちょくご に代 か わる道徳 どうとく 綱領 こうりょう の必要 ひつよう 性 せい が議論 ぎろん されたが、作 つく る必要 ひつよう はないとする意見 いけん が多数 たすう を占 し めた[21] 。
教育 きょういく 勅語 ちょくご はその後 ご 、軍人 ぐんじん の規律 きりつ を説 と く軍人 ぐんじん 勅 みことのり 諭 さとし と同列 どうれつ におくことで軍事 ぐんじ 教育 きょういく や軍国 ぐんこく 主義 しゅぎ を彷彿 ほうふつ とさせる傾向 けいこう があるとされ、戦後 せんご 日本 にっぽん においては公 おおやけ の場 ば で教育 きょういく 勅語 ちょくご を聞 き くことはほぼ皆無 かいむ となっている。時折 ときおり 、何 なん らかの形 かたち で注目 ちゅうもく されて教育 きょういく 基本 きほん 法 ほう の存在 そんざい も踏 ふ まえた議論 ぎろん が起 お こるときもある(稲田 いなだ 朋美 ともみ や西田 にしだ 昌司 しょうじ の発言 はつげん など)。
その後 ご 、当時 とうじ の文部 もんぶ 大臣 だいじん 天野 あまの 貞祐 ていゆう の教育 きょういく 勅語 ちょくご 擁護 ようご 発言 はつげん (1950年 ねん )、首相 しゅしょう 田中 たなか 角栄 かくえい の勅語 ちょくご 徳目 とくもく の普遍 ふへん 性 せい 発言 はつげん (1974年 ねん )等 とう 、教育 きょういく 勅語 ちょくご の擁護 ようご は根強 ねづよ く、憲法 けんぽう 改正 かいせい を含 ふく む戦後 せんご 天皇 てんのう 制 せい 再 さい 検討 けんとう との関連 かんれん で、一部 いちぶ 政界 せいかい 財界 ざいかい 人 ひと 、学者 がくしゃ ・文化 ぶんか 人 じん 、神社 じんじゃ 関係 かんけい 者 しゃ 等 とう で、再 さい 評価 ひょうか が続 つづ いている[1] 。
文部省 もんぶしょう ・文部 もんぶ 科学 かがく 省 しょう の中央 ちゅうおう 教育 きょういく 審議 しんぎ 会 かい 、市区 しく 町村 ちょうそん における教育 きょういく 関連 かんれん の研究 けんきゅう 会 かい ・勉強 べんきょう 会 かい などでは、教育 きょういく 勅語 ちょくご が勅 みことのり 令 れい ではなく法令 ほうれい としての性質 せいしつ を持 も たなかったこと、教育 きょういく 基本 きほん 法 ほう が教育 きょういく 勅語 ちょくご を形骸 けいがい 化 か するものとなった一方 いっぽう で法令 ほうれい であること、教育 きょういく 勅語 ちょくご が過去 かこ に国会 こっかい で排除 はいじょ ・失効 しっこう 確認 かくにん されていること、教育 きょういく 勅語 ちょくご の内容 ないよう は道徳 どうとく 的 てき な記述 きじゅつ がなされているに過 す ぎないこと、等々 とうとう をふまえ、教育 きょういく 基本 きほん 法 ほう を論 ろん じる際 さい には比較 ひかく ・参考 さんこう の資料 しりょう とすることもあり、一部 いちぶ では部分 ぶぶん 的 てき な復活 ふっかつ についての話題 わだい が出 で ることもある。「教育 きょういく 勅語 ちょくご について、排除 はいじょ ・失効 しっこう 決議 けつぎ に関係 かんけい なく、副読本 ふくどくほん や学校 がっこう 現場 げんば で活用 かつよう できると思 おも うがどうか」という質問 しつもん について、文部 もんぶ 科学 かがく 省 しょう 初等 しょとう 中等 ちゅうとう 教育 きょういく 局 きょく 長 ちょう は「教育 きょういく 勅語 ちょくご を我 わ が国 くに の教育 きょういく の唯一 ゆいいつ の根本 こんぽん 理念 りねん であるとするような指導 しどう を行 おこな うことは不適切 ふてきせつ であるというふうに考 かんが えますが、教育 きょういく 勅語 ちょくご の中 なか には今日 きょう でも通用 つうよう するような内容 ないよう も含 ふく まれておりまして、これらの点 てん に着目 ちゃくもく して学校 がっこう で活用 かつよう するということは考 かんが えられる」と答弁 とうべん している[22] 。教育 きょういく 勅語 ちょくご を教育 きょういく 理念 りねん の中 なか に取 と り入 い れ、生徒 せいと に暗唱 あんしょう させている私立 しりつ 学校 がっこう もある[23] 。
(原文 げんぶん は「―顕彰 けんしょう スルニ足 あし ラン」までと日付 ひづけ と署名 しょめい 捺印 なついん のみが分 わ けられ全 すべ てつながっている)
朕 ちん 󠄂( チン ) 惟 おもんみ ( オモ ) フニ我 わが ( ワ ) カ皇 すめらぎ ( クワウ ) 祖 ( ソ ) 皇 すめらぎ ( クワウ ) 宗 そう ( ソウ ) 國 くに ( クニ ) ヲ肇 はじめ 󠄁( ハジ ) ムルコト宏 ひろし ( クワウ ) 遠 とお 󠄁( ヱン ) ニ德 とく ( トク ) ヲ樹 き ( タ ) ツルコト深 ふか ( シン ) 厚 あつ ( コウ ) ナリ我 わが ( ワ ) カ臣 しん ( シン ) 民 みん ( ミン ) 克 かつ ( ヨ ) ク忠 ただし ( チユウ ) ニ克 かつ ( ヨ ) ク孝 こう ( カウ ) ニ億 おく ( オク ) 兆 ちょう ( テウ ) 心 しん ( コヽロ ) ヲ一 いち ( イツ ) ニシテ世 よ ( ヨ ) 世 よ ( ヨ ) 厥 ( ソ ) ノ美 よし ( ビ ) ヲ濟 すみ ( ナ ) セルハ此 ( コ ) レ我 わが ( ワ ) カ國 くに ( コク ) 體 からだ ( タイ ) ノ精 せい 󠄀( セイ ) 華 はな ( クワ ) ニシテ敎 きょう ( ケウ ) 育 いく ( イク ) ノ淵 ふち ( エン ) 源 みなもと ( ゲン ) 亦 また ( マタ ) 實 み ( ジツ ) ニ此 ( コヽ ) ニ存 そん ( ソン ) ス爾 なんじ ( ナンヂ ) 臣 しん ( シン ) 民 みん ( ミン ) 父 ちち 󠄁( フ ) 母 はは ( ボ ) ニ孝 こう ( カウ ) ニ兄 あに ( ケイ ) 弟 おとうと ( テイ ) ニ友 とも ( イウ ) ニ夫 おっと ( フウ ) 婦 ふ 󠄁( フ ) 相 そう ( アヒ ) 和 わ ( ワ ) シ朋 とも 󠄁( ホウ ) 友 とも ( イウ ) 相 そう ( アヒ ) 信 しん ( シン ) シ恭 きょう ( キヨウ ) 儉 ( ケン ) 己 おのれ ( オノ ) レヲ持 もち ( ヂ ) シ博 ひろし 󠄁( ハク ) 愛 あい ( アイ ) 衆 しゅう 󠄁( シユウ ) ニ及󠄁 ( オヨ ) ホシ學 がく ( ガク ) ヲ修 おさむ ( ヲサ ) メ業 ごう ( ゲフ ) ヲ習󠄁 ( ナラ ) ヒ以 ( モツ ) テ智 さとし ( チ ) 能 のう ( ノウ ) ヲ啓 けい 󠄁( ケイ ) 發 はつ ( ハツ ) シ德 とく ( トク ) 器 うつわ 󠄁( キ ) ヲ成 しげる 󠄁( ジヤウ ) 就 ( ジユ ) シ進 すすむ 󠄁( スヽン ) テ公 おおやけ 󠄁( コウ ) 益 えき 󠄁( エキ ) ヲ廣 ひろ ( ヒロ ) メ世 よ ( セイ ) 務 つとむ ( ム ) ヲ開 ひらく ( ヒラ ) キ常 つね ( ツネ ) ニ國 くに ( コク ) 憲 けん 󠄁( ケン ) ヲ重 おも ( オモン ) シ國 くに ( コク ) 法 ほう ( ハフ ) ニ遵󠄁 ( シタガ ) ヒ一 いち ( イツ ) 旦 だん ( タン ) 緩 なる 󠄁( クワン ) 急 きゅう 󠄁( キフ ) アレハ義 よし ( ギ ) 勇 いさむ 󠄁( ユウ ) 公 おおやけ 󠄁( コウ ) ニ奉 たてまつ ( ホウ ) シ以 ( モツ ) テ天 てん ( テン ) 壤 ( ジヤウ ) 無 む ( ム ) 窮 きゅう 󠄁( キユウ ) ノ皇 すめらぎ ( クワウ ) 運 うん 󠄁( ウン ) ヲ扶 ( フ ) 翼 つばさ 󠄂( ヨク ) スヘシ是 これ ( カク ) ノ如 ( ゴト ) キハ獨 どく ( ヒト ) リ朕 ちん 󠄂( チン ) カ忠 ただし ( チユウ ) 良 りょう ( リヤウ ) ノ臣 しん ( シン ) 民 みん ( ミン ) タルノミナラス又 また 󠄂( マタ ) 以 ( モツ ) テ爾 なんじ ( ナンヂ ) 祖 ( ソ ) 先 さき ( セン ) ノ遺 のこ 󠄁( ヰ ) 風 ふう ( フウ ) ヲ顯 あらわ ( ケン ) 彰 あきら ( シヤウ ) スルニ足 あし ( タ ) ラン斯 ( コ ) ノ道 みち 󠄁( ミチ ) ハ實 み ( ジツ ) ニ我 わが ( ワ ) カ皇 すめらぎ ( クワウ ) 祖 ( ソ ) 皇 すめらぎ ( クワウ ) 宗 そう ( ソウ ) ノ遺 のこ 󠄁( ヰ ) 訓 くん ( クン ) ニシテ子 こ ( シ ) 孫 まご ( ソン ) 臣 しん ( シン ) 民 みん ( ミン ) ノ俱 ( トモ ) ニ遵󠄁 ( ジユン ) 守 もり ( シュ ) スヘキ所 ところ 󠄁( トコロ ) 之 これ ( コレ ) ヲ古 ふる ( コ ) 今 いま ( コン ) ニ通 つう 󠄁( ツウ ) シテ謬 ( アヤマ ) ラス之 これ ( コレ ) ヲ中 なか ( チユウ ) 外 そと ( グワイ ) ニ施 ほどこせ ( ホドコ ) シテ悖 もと ( モト ) ラス朕 ちん 󠄂( チン ) 爾 なんじ ( ナンヂ ) 臣 しん ( シン ) 民 みん ( ミン ) ト俱 ( トモ ) ニ拳 こぶし 󠄁( ケン ) 拳 こぶし 󠄁( ケン ) 服 ふく 󠄁( フク ) 膺 ( ヨウ ) シテ咸 ( ミナ ) 其 ( ソノ ) 德 とく ( トク ) ヲ一 いち ( イツ ) ニセンコトヲ庶󠄂 ( コヒ ) 幾 いく ( ネガ ) フ明 あきら 󠄁治 ち 二 に 十 じゅう 三 さん 年 ねん 十 じゅう 月 がつ 󠄁三 さん 十 じゅう 日 にち 御名 ぎょめい 御璽 ぎょじ
多 おお くの訳 わけ があるが、公的 こうてき な根拠 こんきょ を持 も つ訳 わけ としては昭和 しょうわ 15年 ねん (1940年 ねん )文部省 もんぶしょう 内 ない に設置 せっち された「聖 ひじり 訓 さとし ノ述 じゅつ 義 ぎ ニ関 せき スル協議 きょうぎ 会 かい 」の報告 ほうこく で文部省 もんぶしょう 図書 としょ 局 きょく がした「教育 きょういく に関 かん する勅語 ちょくご の全 ぜん 文通 ぶんつう 釈 しゃく 」がある。研究 けんきゅう 者 しゃ の間 あいだ では「全 ぜん 文通 ぶんつう 釈 しゃく 」と呼 よ ばれる[要 よう 出典 しゅってん ] 。(仮名遣 かなづか い,ルビ,段落 だんらく など原文 げんぶん のまま。)
教育 きょういく に
関 かん する
勅語 ちょくご の
全 ぜん 文通 ぶんつう 釈 しゃく
朕 ちん がおもふに、我 わ が御 ご 祖先 そせん の方々 かたがた が国 くに をお肇 はじめ ( はじ ) めになったことは極 きわ めて広 ひろ 遠 とお であり、徳 とく をお立 だ てになったことは極 きわ めて深 ふか く厚 あつ くあらせられ、又 また 、我 わ が臣民 しんみん はよく忠 ちゅう にはげみよく孝 こう をつくし、国中 くになか のすべての者 もの が皆 みな 心 しん を一 いち にして代々 だいだい 美風 びふう をつくりあげて来 き た。これは我 わ が国柄 くにがら の精髄 せいずい であって、教育 きょういく の基 もと づくところもまた実 じつ にこゝにある。汝 なんじ 臣民 しんみん は、父母 ちちはは に孝行 こうこう をつくし、兄弟 きょうだい 姉妹 しまい 仲 なか よくし、夫婦 ふうふ 互 かたみ に睦 あつし ( むつ ) び合 あ い、朋友 ほうゆう 互 かたみ に信義 しんぎ を以って交 まじ り、へりくだって気随 きずい 気 き 儘( きずいきまま ) の振舞 ふるま いをせず、人々 ひとびと に対 たい して慈愛 じあい を及 およぼ すやうにし、学問 がくもん を修 おさ め業務 ぎょうむ を習つて知識 ちしき 才能 さいのう を養 やしなえ ひ、善良 ぜんりょう 有為 ゆうい の人物 じんぶつ となり、進 すす んで公共 こうきょう の利益 りえき を広 ひろ め世 よ のためになる仕事 しごと をおこし、常 つね に皇室 こうしつ 典範 てんぱん 並 なら びに憲法 けんぽう を始 はじ め諸々 もろもろ の法令 ほうれい を尊重 そんちょう 遵守 じゅんしゅ し、万 まん 一 いち 危急 ききゅう の大事 だいじ が起 た つたならば、大義 たいぎ に基 もと づいて勇気 ゆうき をふるひ一身 いっしん を捧 ささ げて皇室 こうしつ 国家 こっか の為 ため につくせ。かくして神 かみ 勅 みことのり のまに々々天地 てんち と共 とも に窮 きわま りなき宝祚 ほうそ ( あまつひつぎ ) の御 ご 栄 さかえ をたすけ奉 たてまつ れ。かやうにすることは、たゝに朕 ちん に対 たい して忠良 ただよし な臣民 しんみん であるばかりでなく、それがとりもなほさず、汝 なんじ らの祖先 そせん ののこした美風 びふう をはつきりあらはすことになる。
ここに
示 しめ した
道 みち は、
実 じつ に
我 わ が
御 ご 祖先 そせん のおのこしになった
御 ご 訓 くん であって、
皇祖 こうそ 皇宗 こうそう の
子孫 しそん たる
者 もの 及 およ び
臣民 しんみん たる
者 もの が
共々 ともども にしたがひ
守 まも るべきところである。この
道 みち は
古今 ここん を
貫 つらぬけ ぬいて
永久 えいきゅう に
間違 まちがえ がなく、
又 また 我 わ が
国 くに はもとより
外国 がいこく でとり
用 よう ひても
正 ただ しい
道 みち である。
朕 ちん は
汝 なんじ 臣民 しんみん と
一緒 いっしょ にこの
道 みち を
大切 たいせつ に
守 まも って、
皆 みな この
道 みち を
体得 たいとく 実践 じっせん することを
切 せつ に
望 のぞ む。
難解 なんかい であるため、解釈 かいしゃく する人 ひと によって、複数 ふくすう の解釈 かいしゃく が存在 そんざい する。公式 こうしき 解釈 かいしゃく としては、明治天皇 めいじてんのう の上覧 じょうらん を得 え た「官 かん 定 てい 解釈 かいしゃく 」と研究 けんきゅう 者 しゃ に呼 よ ばれる井上 いのうえ 哲次郎 てつじろう の『勅語 ちょくご 衍義(えんぎ)』(1891年 ねん )のほか、戦前 せんぜん の文部省 もんぶしょう が折々 おりおり の時局 じきょく に合 あ わせて布告 ふこく したもの、特 とく に明治 めいじ 末期 まっき 以降 いこう 、戦前 せんぜん の全 すべ ての小学生 しょうがくせい が学 まな んだ国定 くにさだ 修身 しゅうしん 書 しょ の解釈 かいしゃく が相当 そうとう するとされるが、それらにおいてすら解釈 かいしゃく に若干 じゃっかん のぶれが存在 そんざい する。
例 たと えば、文部省 もんぶしょう 発行 はっこう の修身 しゅうしん の国定 こくてい 教科書 きょうかしょ における「教育 きょういく 勅語 ちょくご 」の解釈 かいしゃく は、「第 だい 二 に 期 き 修身 しゅうしん 書 しょ 」(1910年 ねん -)から「第 だい 五 ご 期 き 修身 しゅうしん 書 しょ 」(-1945年 ねん )においてはどの年度 ねんど でもだいたい同 おな じだが、「第 だい 四 よん 期 き 修身 しゅうしん 書 しょ 」では「一身 いっしん をさゝげて」と解釈 かいしゃく されている「一旦 いったん 緩 なる 󠄁急 きゅう 󠄁アレハ義勇 ぎゆう 󠄁公 おおやけ 󠄁ニ奉 たてまつ シ」の部分 ぶぶん が、「第 だい 五 ご 期 き 修身 しゅうしん 書 しょ 」(『初等 しょとう 科 か 修身 しゅうしん 』)では「命 いのち をささげて」と解釈 かいしゃく されているなど、時局 じきょく によっては小学生 しょうがくせい を相手 あいて にダイレクトな表現 ひょうげん を使 つか ったりするような細 こま かい違 ちが いがある。なお、この部分 ぶぶん は『勅語 ちょくご 衍義』においては「国家 こっか の為 ため めに死 し するより愉快 ゆかい なることなかるべきなり」とさらにダイレクトに解釈 かいしゃく されている。
『尋常 じんじょう 小学 しょうがく 修身 しゅうしん 書 しょ 巻 まき 六 ろく 』による解説 かいせつ [ 編集 へんしゅう ]
国定 こくてい 教科書 きょうかしょ による解釈 かいしゃく を示 しめ すため、1939年 ねん に発行 はっこう された『尋常 じんじょう 小学 しょうがく 修身 しゅうしん 書 しょ 巻 まき 六 ろく 』の内容 ないよう を以下 いか に引用 いんよう する[24] 。本書 ほんしょ では、「臣民 しんみん 」の一人 ひとり である教科書 きょうかしょ の執筆 しっぴつ 者 しゃ が、同 おな じく「臣民 しんみん 」の一人 ひとり である小学校 しょうがっこう 6年生 ねんせい の読者 どくしゃ に語 かた り掛 か ける形式 けいしき をとり、かつて勅語 ちょくご の発布 はっぷ 時点 じてん では「皇祖 こうそ 皇宗 こうそう 」(皇室 こうしつ の祖先 そせん )の「子孫 しそん 」であるところの「天皇 てんのう 」であったが、本書 ほんしょ の発行 はっこう 時点 じてん では既 すで に崩御 ほうぎょ して「皇祖 こうそ 皇宗 こうそう 」の一 いち 柱 はしら となっている「朕 ちん 」こと明治天皇 めいじてんのう の言葉 ことば を逐語 ちくご 的 てき に解説 かいせつ している。
教育 きょういく に
関 かん する
勅語 ちょくご は、
明治 めいじ 二 に 十 じゅう 三 さん 年 ねん 十 じゅう 月 がつ 三 さん 十 じゅう 日 にち 、
明治天皇 めいじてんのう が
我 わが 等 とう 臣民 しんみん のしたがい
守 まも るべき
道徳 どうとく の
大綱 たいこう をお
示 しめ しになるために
下 くだ し
賜 たま わったものであります。
勅語 ちょくご を三 さん 段 だん に分 わ けてうかがい奉 まつ りますと、その第 だい 一 いち 段 だん には、
朕 ちん 󠄁惟 おもんみ フニ我 わが カ皇祖 こうそ 皇宗 こうそう 国 こく ヲ肇 はじめ 󠄁ムルコト宏遠 こうえん 󠄁ニ徳 とく ヲ樹 き ツルコト深厚 しんこう ナリ我 わが カ臣民 しんみん 克 かつ ク忠 ちゅう ニ克 かつ ク孝 こう ニ億 おく 兆 ちょう 心 しん ヲ一 いち ニシテ世世 せぜ 厥ノ美 び ヲ済 すみ セルハ此レ我 わが カ国体 こくたい ノ精華 せいか ニシテ教育 きょういく ノ淵源 えんげん 亦 また 実 じつ ニ此ニ存 そん ス
と仰 おお せられてあります。
この
一段 いちだん には、まず
皇室 こうしつ の
御 ご 祖先 そせん が
我 わ が
国 くに をおはじめになるにあたって、その
規模 きぼ がまことに
広大 こうだい で、かついつまでも
動 うご かないようになされたこと、
御 ご 祖先 そせん はまた
御身 おんみ をお
修 おさ めになり、
臣民 しんみん をおいつくしみになって、
万世 ばんせい に
渡 わた って
御手本 おてほん をおのこしになったことを
仰 おお せられ、
次 つぎ に、
臣民 しんみん は
君 きみ に
忠 ちゅう を
尽 つ くし
親 おや に
孝 こう を
尽 つく すことを
心掛 こころが け、
臣民 しんみん すべてが
皆 みな 心 しん を
一 ひと つにして、
代々 だいだい 忠孝 ちゅうこう の
美風 びふう を
全 まっと うして
来 き たことを
仰 おお せられてあります。
終 つい に
以上 いじょう のことが
我 わ が
国体 こくたい の
純美 じゅんび なところであり、
我 わ が
国 くに の
教育 きょういく の
基 もと づく
所 ところ もまたここにあることを
仰 おお せられてあります。
— 文部省 もんぶしょう 、尋常 じんじょう 小学 しょうがく 修身 しゅうしん 書 しょ 巻 まき 六 ろく 第 だい 二 に 十 じゅう 五 ご
勅語 ちょくご の
第 だい 二 に 段 だん には、
爾 しか 臣民 しんみん 父母 ちちはは ニ孝 こう ニ兄弟 きょうだい ニ友 とも ニ夫婦 ふうふ 󠄁相 あい 和 わ シ朋友 ほうゆう 相 しょう 信 しん シ恭倹 きょうけん 己 おのれ レヲ持 じ シ博 はく 󠄁愛 あい 衆 しゅ ニ及󠄁ホシ学 がく ヲ修 おさむ メ業 ぎょう ヲ習󠄁ヒ以テ智能 ちのう ヲ啓 けい 󠄁発 はつ シ徳 とく 器 き ヲ成就 じょうじゅ シ進 すすむ 󠄁テ公 こう 󠄁益 えき ヲ広 こう メ世 よ 務 つとむ ヲ開 ひらけ キ常 つね ニ国憲 こっけん ヲ重 じゅう シ国法 こくほう ニ遵󠄁ヒ一旦 いったん 緩 なる 󠄁急 きゅう 󠄁アレハ義勇 ぎゆう 󠄁公 おおやけ 󠄁ニ奉 たてまつ シ以テ天壤無窮 てんじょうむきゅう 󠄁ノ皇 すめらぎ 運 うん 󠄁ヲ扶翼 ふよく 󠄂スヘシ是 ぜ ノ如キハ独 どく リ朕 ちん 󠄁カ忠良 ただよし ノ臣民 しんみん タルノミナラス又 また 󠄂以テ爾 なんじ 祖先 そせん ノ遺 のこ 󠄁風 ふう ヲ顕彰 けんしょう スルニ足 あし ラン
と仰 おお せられてあります。
この一段 いちだん には、始 はじめ に天皇 てんのう が我 わが 等 とう 臣民 しんみん に対 たい して爾 しか 臣民 しんみん と親 した しくお呼 よ びかけになり、我 が 等 とう が常 つね に守 まも るべき道 みち をおさとしになって居 お ります。
その御 ご 趣旨 しゅし によると、我 わが 等 とう 臣民 しんみん たるものは父母 ちちはは に孝行 こうこう を尽 つ くし、兄弟 きょうだい 姉妹 しまい 仲 なか よくし、夫婦 ふうふ 互 かたみ に分 ぶん を守 まも ってむつまじくし、朋友 ほうゆう には信義 しんぎ をもって交 まじ わらなければならなりません。誰 だれ に対 たい しても身 み を慎 つつし んで無礼 ぶれい の挙動 きょどう なく、常 つね に自分 じぶん を引 ひ きしめて気 き ままにせず、しかも博 ひろし く世間 せけん の人 ひと に仁愛 じんあい を及 およ ぼすことが大切 たいせつ であります。また学問 がくもん を修 おさ め業務 ぎょうむ を習 なら って、知識 ちしき 才能 さいのう を進 すす め、徳 とく ある有為 ゆうい の人 ひと となり、進 すす んでこの智徳 ちとく を活用 かつよう して、公共 こうきょう の利益 りえき を増進 ぞうしん し、世間 せけん に有用 ゆうよう な業務 ぎょうむ を興 おこ すことが大切 たいせつ であります。また常 つね に皇室 こうしつ 典範 てんぱん ・大日本帝国 だいにっぽんていこく 憲法 けんぽう を重 おも んじ、その他 た の法令 ほうれい を守 まも り、もし国 くに に事変 じへん が起 お こったら、勇気 ゆうき を奮 ふる い一身 いっしん をささげて、君国 くんこく のために尽 つ くさなければならなりません。かようにして天地 てんち と共 とも に窮 きわま りない皇位 こうい の御 ご 盛運 せいうん をお助 たす け申 もう し上 あ げるのが、我 わが 等 とう 臣民 しんみん の務 つとむ であります。
なお
以上 いじょう の
道 みち をよく
実行 じっこう する
者 もの は、
陛下 へいか の
忠良 ただよし な
臣民 しんみん であるばかりでなく、
我 が 等 とう の
祖先 そせん がのこした
美風 びふう を
表 あらわ す
者 もの であることをおさとしになって
居 お ります。
— 文部省 もんぶしょう 、尋常 じんじょう 小学 しょうがく 修身 しゅうしん 書 しょ 巻 まき 六 ろく 第 だい 二 に 十 じゅう 六 ろく
勅語 ちょくご の
第 だい 三 さん 段 だん には、
斯ノ道 みち 󠄁ハ実 じつ ニ我 わが カ皇祖 こうそ 皇宗 こうそう ノ遺 のこ 󠄁訓 くん ニシテ子孫 しそん 臣民 しんみん ノ俱ニ遵󠄁守 まもり スヘキ所 しょ 󠄁之 これ ヲ古今 ここん ニ通 どおり 󠄁シテ謬ラス之 の ヲ中外 ちゅうがい ニ施 ほどこせ シテ悖 もと ラス朕 ちん 󠄁爾 しか 臣民 しんみん ト俱ニ拳 けん 󠄁々服 ふく 󠄁膺シテ咸其徳 とく ヲ一 いち ニセンコトヲ庶󠄂幾 いく 󠄁フ
と仰 おお せられてあります。
この一段 いちだん には、前 まえ の第 だい 二 に 段 だん におさとしになった道 みち は、明治天皇 めいじてんのう が新 あら たにおきめになったものではなく、実 じつ に皇祖 こうそ 皇宗 こうそう がおのこしになった御 ご 教訓 きょうくん であって、皇祖 こうそ 皇宗 こうそう の御 ご 子孫 しそん も一般 いっぱん の臣民 しんみん も共 とも に守 まも るべきものであること、またこの道 みち はいにしえも今 いま も変 かわ りがなく、かつ国 くに の内外 ないがい を問 と わずどこでも行 おこな われ得 え るものであることを仰 おお せられてあります。最後 さいご に、かしこくも天皇 てんのう は御 お みづから我 わが 等 とう 臣民 しんみん と共 とも にこの御 ご 遺訓 いくん をお守 も りになり、それを御 ご 実行 じっこう になって、皆 みな 徳 とく を同 おな じくしようと仰 おお せられてあります。
以上 いじょう は
明治天皇 めいじてんのう のお
下 おろ しになった
教育 きょういく に
関 かん する
勅語 ちょくご の
大意 たいい であります。この
勅語 ちょくご にお
示 しめ しになっている
道 みち は、
我 わが 等 とう 臣民 しんみん の
永遠 えいえん に
守 まも るべきものであります。
我 が 等 とう は
至誠 しせい を
以 もっ て、
日夜 にちや この
勅語 ちょくご の
御 ご 趣意 しゅい を
奉 たてまつ 体 たい しなければなりません。
— 文部省 もんぶしょう 、尋常 じんじょう 小学 しょうがく 修身 しゅうしん 書 しょ 巻 まき 六 ろく 第 だい 二 に 十 じゅう 七 なな
解釈 かいしゃく の歴史 れきし [ 編集 へんしゅう ]
発布 はっぷ 当時 とうじ の東京 とうきょう 高等 こうとう 師範 しはん 学校 がっこう 校長 こうちょう にして「東洋 とうよう 史 し の父 ちち 」と呼 よ ばれる高名 こうみょう な学者 がくしゃ ・那珂 なか 通世 みちよ をして「聖 ひじり 訓 さとし の懇到 こんとう なるに感泣 かんきゅう するのみ。豈 あに 敢て妄に一 いち 辞 じ を賛 さん することを得 え んや」と言 い わしめるなど[25] 、発布 はっぷ 当時 とうじ から一言 ひとこと 一 いち 句 く が神聖 しんせい 視 し された教育 きょういく 勅語 ちょくご だが、実際 じっさい 問題 もんだい として解 わか りにくい箇所 かしょ が多 おお いため、発表 はっぴょう 直後 ちょくご より学者 がくしゃ による学術 がくじゅつ 的 てき な解釈 かいしゃく 、文部省 もんぶしょう や衆参 しゅうさん 議院 ぎいん など政府 せいふ 機関 きかん による公式 こうしき ・半 はん 公式 こうしき の解説 かいせつ 書 しょ が多数 たすう 制作 せいさく されている[1] (那珂 なか 通世 みちよ 自身 じしん も、何 なん 冊 さつ か解説 かいせつ 書 しょ を出 だ している)。また「教育 きょういく 勅語 ちょくご の公式 こうしき 解釈 かいしゃく の解釈 かいしゃく 」なども制作 せいさく された。 1940(昭和 しょうわ 15)年 ねん 文部省 もんぶしょう 内 ない に設置 せっち された聖 ひじり 訓 さとし ノ述 じゅつ 義 ぎ ニ関 せき スル協議 きょうぎ 会 かい の報告 ほうこく 「聖 ひじり 訓 さとし ノ述 じゅつ 義 ぎ ニ関 せき スル協議 きょうぎ 会 かい 報告 ほうこく 」の中 なか の「附録 ふろく 一 いち ,教育 きょういく 勅語 ちょくご 衍義書 しょ 目録 もくろく 」によれば,1890(明治 めいじ 23) 年 ねん から1939(昭和 しょうわ 14)年 ねん までの間 あいだ に刊行 かんこう された「衍義書 しょ 」として306冊 さつ が挙 あ げられている。
「近代 きんだい 国家 こっか として成立 せいりつ したばかりの大日本帝国 だいにっぽんていこく 」を前提 ぜんてい に1890年 ねん に発布 はっぷ された教育 きょういく 勅語 ちょくご は、日本 にっぽん が列強 れっきょう の仲間入 なかまい りを果 は たした日 にち 清 しん 戦争 せんそう (1894年 ねん )後 ご くらいから既 すで に時代 じだい に合 あ わなくなり始 はじ めたため、第 だい 3次 じ 伊藤 いとう 内閣 ないかく (1898年 ねん -)時代 じだい の文相 ぶんしょう ・西園寺 さいおんじ 公望 きんもち によって列強 れっきょう 国 こく の国民 こくみん としての社会 しゃかい 道徳 どうとく を説 と いた『第 だい 二 に 教育 きょういく 勅語 ちょくご 』の起草 きそう が行 おこ なわれたが、教育 きょういく 勅語 ちょくご は一言 ひとこと 一 いち 句 く が神聖 しんせい 視 し されていたため、「教育 きょういく 勅語 ちょくご の改訂 かいてい 」という作業 さぎょう が行 おこな えなかった。そのため、「戊 つちのえ 申 さる 詔書 しょうしょ 」(1908年 ねん )や「青少年 せいしょうねん 学徒 がくと ニ賜 たまもの ハリタル勅語 ちょくご 」(1939年 ねん )などの新 あら たな勅語 ちょくご の発布 はっぷ で教育 きょういく 勅語 ちょくご を補 おぎな うとともに、「教育 きょういく 勅語 ちょくご の再 さい 解釈 かいしゃく で補 おぎな う」という方式 ほうしき が取 と られ、時局 じきょく に合 あ わせて教育 きょういく 勅語 ちょくご は再 さい 解釈 かいしゃく された。これらの解釈 かいしゃく は、社会 しゃかい 情勢 じょうせい や時局 じきょく の推移 すいい によってかなり違 ちが い、特 とく に太平洋戦争 たいへいようせんそう 期 き には、極 きわ めて戦時 せんじ 色 しょく の強 つよ い解釈 かいしゃく が行 おこな われている。これらはすべて廃止 はいし される1948年 ねん に至 いた るまで、教育 きょういく の基本 きほん 方針 ほうしん として使 つか い続 つづ けられた。
そのほか時代 じだい により、公的 こうてき 根拠 こんきょ や学問 がくもん 的 てき 背景 はいけい のない一般人 いっぱんじん による独自 どくじ 解釈 かいしゃく が存在 そんざい する。例 たと えば「生 い きて虜囚 りょしゅう の辱 はずかし めを受 う けず」の『戦陣 せんじん 訓 くん 』の執筆 しっぴつ 者 しゃ 、中柴 なかしば 末 まつ 純 じゅん 陸軍 りくぐん 少将 しょうしょう の『皇 すめらぎ 道 どう 世界 せかい 観 かん 』(1942年 ねん )など大戦 たいせん 中 ちゅう の狂信 きょうしん 的 てき な解釈 かいしゃく [注 ちゅう 1] 、戦後 せんご 社会 しゃかい に合致 がっち させようと独自 どくじ 解釈 かいしゃく した「国民 こくみん 道徳 どうとく 協会 きょうかい 」訳 やく [注 ちゅう 2] などがある。そしてこれらの素人 しろうと 解釈 かいしゃく でも、執筆 しっぴつ 者 しゃ の地位 ちい や発行 はっこう 母体 ぼたい によっては広 ひろ く知 し られている場合 ばあい もある。
なお、勅語 ちょくご や御製 ぎょせい などの天皇 てんのう の言葉 ことば は、いわゆる現代 げんだい 語 ご 訳 やく はおろか、何 なん らかのい換 いか えをすることすら戦前 せんぜん は不敬 ふけい とみなされかねないため、基本 きほん 的 てき に教育 きょういく 勅語 ちょくご を解説 かいせつ した書物 しょもつ は、まず勅語 ちょくご の全文 ぜんぶん を掲載 けいさい した後 のち 、勅語 ちょくご の一部分 いちぶぶん ごとに区切 くぎ って抜 ぬ き出 だ して、その意味 いみ を謹 つつし んで解釈 かいしゃく する「謹解」という形式 けいしき をとる。
勅語 ちょくご 衍義(1891年 ねん )
解説 かいせつ 書 しょ の中 なか でも、井上 いのうえ 哲次郎 てつじろう の『勅語 ちょくご 衍義(えんぎ)』(1891年 ねん 9月 がつ )は、勅語 ちょくご の起草 きそう 者 しゃ の一人 ひとり である中村 なかむら 正直 まさなお 自身 じしん がこれを閲 えっ し、また勅語 ちょくご を発布 はっぷ した文部 もんぶ 大臣 だいじん ・芳川 よしかわ 顕正 けんせい が巻頭 かんとう に賛 さん を寄稿 きこう しているため、単 たん に一人 ひとり の学者 がくしゃ による著作 ちょさく ではなく、政府 せいふ による半 はん 公式 こうしき の解釈 かいしゃく ともいうべきものであり、「官 かん 定 てい 解釈 かいしゃく 」と研究 けんきゅう 者 しゃ の間 あいだ で呼 よ ばれる。本書 ほんしょ は刊行 かんこう 後 ご に明治天皇 めいじてんのう 自身 じしん の上覧 じょうらん に供 きょう された。
1899年 ねん には増 ぞう 訂 てい 版 ばん の『増 ぞう 訂 てい 勅語 ちょくご 衍義』が刊行 かんこう されている。井上 いのうえ は1926年 ねん に不敬 ふけい 事件 じけん を起 お こして公職 こうしょく を追放 ついほう され、この時点 じてん で井上 いのうえ および『勅語 ちょくご 衍義』の解釈 かいしゃく は政治 せいじ 的 てき 影響 えいきょう 力 りょく を失 うしな った。
本書 ほんしょ の序文 じょぶん において、井上 いのうえ は、勅語 ちょくご の趣旨 しゅし を「孝悌 こうてい 忠信 ちゅうしん 、共同 きょうどう 愛国 あいこく 」すなわち「孝悌 こうてい 忠信 ちゅうしん ノ徳行 とっこう ヲ修 おさむ メ、共同 きょうどう 愛国 あいこく ノ義心 ぎしん ヲ培養 ばいよう セザルベカラザル所以 ゆえん 」を述 の べた物 もの だと端 はし 的 てき に記 しる している。
昭和 しょうわ 時代 じだい には『勅語 ちょくご 衍義』も絶版 ぜっぱん となり、教育 きょういく 勅語 ちょくご や『勅語 ちょくご 衍義』が成立 せいりつ した時代 じだい 背景 はいけい も忘 わす れられていたため、1942年 ねん (昭和 しょうわ 17年 ねん )には井上 いのうえ の米寿 べいじゅ の記念 きねん として、『勅語 ちょくご 衍義』の復刻 ふっこく 版 ばん とともに当時 とうじ の時代 じだい 背景 はいけい の解説 かいせつ などを付録 ふろく した『釈明 しゃくめい 教育 きょういく 勅語 ちょくご 衍義』が刊行 かんこう されている。井上 いのうえ 哲次郎 てつじろう は、民主 みんしゅ 主義 しゅぎ 国家 こっか としての日本 にっぽん 国 こく の成立 せいりつ を見 み ることなく、終戦 しゅうせん の数 すう か月 げつ 前 まえ に亡 な くなった。
漢 かん 英 えい 仏 ふつ 独 どく 教育 きょういく 勅語 ちょくご 訳 やく 纂(1907年 ねん )
1907年 ねん に文部省 もんぶしょう によって中国 ちゅうごく 語 ご ・英語 えいご ・フランス語 ふらんすご ・ドイツ語 ご に翻訳 ほんやく された。このうち、菊池 きくち 大麓 だいろく を中心 ちゅうしん とするメンバーによって訳 やく された英訳 えいやく 版 ばん 「The Imperial Rescript on Education」が、文語 ぶんご 体 たい の日本語 にほんご による原文 げんぶん では明確 めいかく にし得 え ていないものを明確 めいかく にしている事実 じじつ 上 じょう の公式 こうしき 解説 かいせつ として良 よ く知 し られる。
この英訳 えいやく 版 ばん では文頭 ぶんとう 部分 ぶぶん において、大日本帝国 だいにっぽんていこく における「朕 ちん 」と「臣民 しんみん 」の関係 かんけい を「Know ye, Our subjects:」という形 かたち で端 はし 的 てき に表現 ひょうげん している。
国定 くにさだ 修身 しゅうしん 書 しょ 六 ろく (1907年 ねん )
学校 がっこう 教育 きょういく では、1907年 ねん より設置 せっち された尋常 じんじょう 小学校 しょうがっこう 6年 ねん の修身 しゅうしん で教育 きょういく 勅語 ちょくご が教 おし えられていた。そのため、文部省 もんぶしょう が編纂 へんさん し1907年 ねん から使 つか われた国定 こくてい の教科書 きょうかしょ 「修身 しゅうしん 書 しょ 」の第 だい 六 ろく 巻 かん に、教育 きょういく 勅語 ちょくご の解説 かいせつ が載 の っている。
「明治天皇 めいじてんのう が我 わが 等 とう 臣民 しんみん のしたがひ守 まも るべき道徳 どうとく の大綱 たいこう をお示 しめ しになるために下 くだ し賜 たま わつたもの」であり、「我 わが 等 とう 臣民 しんみん の永遠 えいえん に守 まも るべきもの」などと解説 かいせつ されている。
「聖 ひじり 訓 さとし ノ述 じゅつ 義 ぎ ニ関 せき スル協議 きょうぎ 会 かい 報告 ほうこく 」(1940年 ねん )
1940年 ねん は教育 きょういく 勅語 ちょくご 渙發 かんぱつ 五 ご 十 じゅう 年 ねん 記念 きねん にあたるため、記念 きねん 式典 しきてん が行 おこな われた。10月 がつ 文部省 もんぶしょう 内 ない に聖 ひじり 訓 さとし ノ述 じゅつ 義 ぎ ニ関 せき スル協議 きょうぎ 会 かい が設置 せっち された。その際 さい に編纂 へんさん された文部省 もんぶしょう 図書 としょ 局 きょく 「聖 ひじり 訓 さとし ノ述 じゅつ 義 ぎ ニ関 せき スル協議 きょうぎ 会 かい 報告 ほうこく 」に、教育 きょういく 勅語 ちょくご の逐語 ちくご 訳 やく (現代 げんだい 語 ご 訳 やく )および解釈 かいしゃく が載 の っている。ここに載 の っている逐語 ちくご 訳 やく 「教育 きょういく に関 かん する勅語 ちょくご の全 ぜん 文通 ぶんつう 釈 しゃく 」が、文部省 もんぶしょう による公式 こうしき の現代 げんだい 語 ご 訳 やく であり、研究 けんきゅう 者 しゃ の間 あいだ では通称 つうしょう 「全 ぜん 文通 ぶんつう 釈 しゃく 」と呼 よ ばれる。
これは一般 いっぱん 向 む けに公開 こうかい されたものではない(逐語 ちくご 訳 やく を公開 こうかい すると不敬 ふけい 罪 ざい に問 と われる恐 おそ れがあり、文部 もんぶ 当局 とうきょく といえども「不敬 ふけい ではないか」という攻撃 こうげき を気 き にせねばならなかった)ため、当時 とうじ の一般人 いっぱんじん には知 し られていないが、数少 かずすく ない公式 こうしき の現代 げんだい 語 ご 訳 やく であり、新字 しんじ 新 しん 仮名 かめい にさえすれば2000年代 ねんだい でも割 わり と読 よ みやすいので学生 がくせい や一般人 いっぱんじん に説明 せつめい するときに便利 べんり であり、また太平洋戦争 たいへいようせんそう 期 き における教育 きょういく 勅語 ちょくご の超 ちょう 国家 こっか 主義 しゅぎ 的 てき な解釈 かいしゃく を良 よ く示 しめ すものとして、後世 こうせい の研究 けんきゅう 者 しゃ の間 あいだ では知 し られる。
初等 しょとう 科 か 修身 しゅうしん 四 よん (1941年 ねん )
文部省 もんぶしょう が編纂 へんさん し、1941年 ねん より1945年 ねん まで使 つか われた国民 こくみん 学校 がっこう 4年 ねん の修身 しゅうしん の教科書 きょうかしょ に教育 きょういく 勅語 ちょくご の解説 かいせつ が載 の っている。極 きわ めて戦時 せんじ 色 しょく が強 つよ い。終戦 しゅうせん 後 ご は進駐軍 しんちゅうぐん によって墨 ぼく 塗 ぬ りが指示 しじ され(墨 ぼく 塗 ぬ り教科書 きょうかしょ )、しばらく使 つか われた後 のち に修身 しゅうしん の授業 じゅぎょう 自体 じたい が停止 ていし され、教科書 きょうかしょ が回収 かいしゅう されて廃棄 はいき された。
小学生 しょうがくせい には解釈 かいしゃく が難 むずか しい「一旦 いったん 緩 なる 󠄁急 きゅう 󠄁アレハ義勇 ぎゆう 公 こう ニ奉 たてまつ シ」の部分 ぶぶん は、これまでの教科書 きょうかしょ では「一身 いっしん をさゝげて」などと解説 かいせつ されていたが、この版 はん では「勇氣 ゆうき をふるひおこして、命 いのち をささげ、君國 くんこく のためにつくさなければなりません」と、「命 いのち をささげる」ということを意味 いみ することが明確 めいかく に解説 かいせつ されている。
教育 きょういく 勅語 ちょくご 等 とう 排除 はいじょ に関 かん する決議 けつぎ (1948年 ねん )
1948年 ねん 6月 がつ 19日 にち に衆議院 しゅうぎいん で全会 ぜんかい 一致 いっち で決議 けつぎ されたもの。「これらの詔勅 しょうちょく の根本 こんぽん 的 てき 理念 りねん が主権 しゅけん 在 ざい 君 くん 並 なら びに神話 しんわ 的 てき 國体 こくたい 観 かん に基 もとづ いている事実 じじつ は、明 あかり かに基本 きほん 的 てき 人権 じんけん を損 そこな い、且 か つ國際 こくさい 信義 しんぎ に対 たい して疑点 ぎてん を残 のこ すもととなる」と解釈 かいしゃく され、これをもって教育 きょういく 勅語 ちょくご は日本 にっぽん 国 こく から排除 はいじょ された。
なお、あくまで1948年 ねん の時点 じてん では、GHQ の意向 いこう に逆 さか らって教育 きょういく 勅語 ちょくご を擁護 ようご すると公職 こうしょく 追放 ついほう 等 ひとし の危険 きけん があったこともあり教育 きょういく 勅語 ちょくご の排除 はいじょ は衆 しゅう ・参 まいり で全会 ぜんかい 一致 いっち を見 み たが、後 ご の時代 じだい には「教育 きょういく 勅語 ちょくご を全面 ぜんめん 的 てき に支持 しじ する」「核 かく の部分 ぶぶん は支持 しじ できる」などと公言 こうげん する議員 ぎいん も登場 とうじょう している。
文法 ぶんぽう 誤用 ごよう 説 せつ [ 編集 へんしゅう ]
教育 きょういく 勅語 ちょくご に文法 ぶんぽう の誤用 ごよう があるという説 せつ がある。すなわち、原文 げんぶん 「一旦 いったん 緩急 かんきゅう アレバ義勇 ぎゆう 公 こう ニ奉 たてまつ ジ」部分 ぶぶん の「アレバ」は、条件 じょうけん 節 ぶし を導 みちび くための仮定 かてい 条件 じょうけん でなくてはならず、和文 わぶん の古典 こてん 文法 ぶんぽう では「未然 みぜん 形 がた +バ」、つまり「アラバ」が正 ただ しく、「アレバ」は誤用 ごよう である、とする説 せつ である。
1910年代 ねんだい に中学生 ちゅうがくせい だった大宅 おおたく 壮一 そういち が国語 こくご の授業 じゅぎょう 中 ちゅう に教育 きょういく 勅語 ちょくご の誤用 ごよう 説 せつ を主張 しゅちょう したところ教師 きょうし に諭 さと された、と後 のち に回想 かいそう している[26] 。
なお、塚本 つかもと 邦雄 くにお も歌集 かしゅう 『黄金 おうごん 律 りつ 』114ページ[27] で「「アレバ」は「アラバ」の誤 あやま りなれば」として「秋風 あきかぜ が鬱 うつ の顛頂かすめたり「一旦 いったん 緩急 かんきゅう アレバ義勇 ぎゆう 公 こう ニ奉 たてまつ ジ」」の歌 うた がある。
高島 たかしま 俊男 としお は「文法 ぶんぽう のまちがいである」とした上 うえ で、「ただしこれは元田 もとだ 永 えい 孚 まこと の無学 むがく 無知 むち によるもの、とばかりも言 い い切 き れない。江戸 えど 時代 じだい 以来 いらい 、漢文 かんぶん 先生 せんせい は、国文法 こくぶんぽう には一向 いっこう に無頓着 むとんじゃく で、―そもそも彼 かれ らには漢文 かんぶん に対 たい する敬意 けいい はあるが日本語 にほんご に対 たい する敬意 けいい はないから当然 とうぜん のこととして無頓着 むとんじゃく であったのだ―」と述 の べ、元田 もとだ が前述 ぜんじゅつ の漢文 かんぶん 訓読 くんどく の慣行 かんこう に従 したが ったもの、とする見解 けんかい を示 しめ している[28] 。
現場 げんば における誤読 ごどく 問題 もんだい [ 編集 へんしゅう ]
福岡 ふくおか 県 けん の例 れい では、中等 ちゅうとう 学校 がっこう の校長 こうちょう が「世々 せぜ 」をセイセイ、「成就 じょうじゅ 」をセイシュウ、「相 あい 和 わ し」をアイクヮシと発音 はつおん 。生徒 せいと や保護 ほご 者 しゃ から抗議 こうぎ の声 こえ が上 あ がり、県庁 けんちょう に呼 よ び出 だ されて注意 ちゅうい が与 あた えられている。また、郡 ぐん 教育 きょういく 長 ちょう が「世 よ 務 つとむ 」をセム、「遵守 じゅんしゅ 」をソンシュ、「御名 ぎょめい 」をオンナと発音 はつおん 。名誉 めいよ 職 しょく を辞退 じたい するよう追 お い込 こ まれた[29] 。
^ 「祭政 さいせい 教 きょう 一致 いっち ・君臣 くんしん 一致 いっち ・忠孝 ちゅうこう 一本 いっぽん の至上 しじょう 原理 げんり を見 み る」という。同書 どうしょ p.235
^ その結果 けっか 、原文 げんぶん とはかなり乖離 かいり するものになっている。執筆 しっぴつ 者 しゃ は元 もと 自民党 じみんとう 衆議院 しゅうぎいん 議員 ぎいん の佐々木 ささき 盛雄 もりお という。かつて靖国神社 やすくにじんじゃ の遊 ゆう 就館 や明治 めいじ 神宮 じんぐう で配布 はいふ されたが、現在 げんざい ではなくなっている
出典 しゅってん は列挙 れっきょ するだけでなく、脚注 きゃくちゅう などを用 もち いてどの記述 きじゅつ の情報 じょうほう 源 げん であるかを明記 めいき してください。記事 きじ の信頼 しんらい 性 せい 向上 こうじょう にご協力 きょうりょく をお願 ねが いいたします。(2018年 ねん 10月 がつ )