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殷(いん)は、西周の初期の諸侯国。国君は子姓(中国語版)。前王朝の殷の帝辛の子の武庚が封じられた。国都は殷の首都の殷墟。管轄区域は河南省北部、河北省南部と山西省南東部の一帯。
周の武王は殷を滅ぼすと、殷の遺民を安撫するために、帝辛の子の武庚を殷に封じた。ここは旧殷都(殷墟)であった。その後、武王は殷の南西の霍・管・蔡を殷の監視のために置いた。これが「三監」である[注 1]。
武王の死後、子の太子誦が王位を継いだ(成王)。魯の周公旦が入京して輔政した。しかしこれを「三監」らは不満に思い[注 2]、武庚は「三監」や東夷と各地で反乱を起こした。これが「三監の乱」である。
三監の乱の平定後、周公は武庚を殺した。殷を二分し、西部は衛として弟の康叔封を封じ、東部は宋として微子啓[注 3]を封じて、殷の勢力を弱体化させた。
殷の君主は1人のみ。
- ^ 武庚・管の管叔鮮・蔡の蔡叔度の3人の説もある。
- ^ 管の管叔鮮は周公の兄、蔡の蔡叔度・霍の霍叔処は周公の弟。
- ^ 帝辛の異母兄。