じょしゅうしょうおう

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じょしゅうしょうおう,战国时期まえ334ねんめぐみおう齐威おうざいじょしゅうかいめい,互相承そうしょう认对かたおう

ぜん334ねんめぐみおうさんじゅうななねん),めぐみおうりつりょう韓國かんこくいち些小こくいたじょしゅう朝見ちょうけんひとしおうとうとひとしおうためおうひとしおう敢獨自稱じしょうおう,於是也これや承認しょうにんてき王位おういしょうかいじょしゅうしょうおう」。めぐみおうなみあらため此年ため元年がんねんぜん334ねん)。すわえこくすわえたけおう以來いらいそくため诸侯こくちゅうじょこしそと唯一ゆいいつしょう王者おうじゃ,此事れい其不さい壟斷ろうだん王國おうこく地位ちいすわえおうたい憤怒ふんぬやめ,「寐,しょく飽」[1]ぜん333ねんすわえおうりょう大軍たいぐんひとし赵国つばめこくじょう出兵しゅっぺいおさむひとし。齐威おうだいいかずいきさき齐国りつ军复战,すわえおう主力しゅりょくつき任命にんめい相国しょうこく和上わじょうはた担任たんにん左右さゆう马,请ずい参与さんよゆび挥,结果すわえ军仍しかだい败,すわえおうとく逃走とうそう

参考さんこう文献ぶんけん[编辑]

  1. ^ 《战国さく·しんさくよん·ある为六こく说秦おう》:郢威おう闻之,寐,しょく饱,帅天百姓ひゃくしょう,以与さる缚遇于泗すいうえ,而大败申缚。

说苑みこと齐奔すわえすわえおう郊迎いたりしゃ,问曰:“すわえまんじょうくに也,齐亦まんじょうくに也,つねよくしょう幷,为之奈何いかん?”对曰:“えきみみ,齐使さる孺将,则楚发五まんにん使つかいじょうはた军将いたり禽将军首而反みみ。齐使田居たいしょう,则楚发じゅうまんにん使つかいじょうはた军将ふん别而相去あいさり也。齐使眄子はたすわえ发四ふうこれないおうはた而忌从,相国しょうこくじょうはた军为左右さゆう马,如是にょぜ则王仅得そんみみ。”于是齐使さる孺将,すわえ发五まんにん使つかいじょうはた军至,とりこはた军首はん,于是齐王忿然,乃更使眄子はたすわえ悉发よんふうこれないおうはた从,相国しょうこくじょうはた军为左右さゆう马,えきおう车属きゅうじょう,仅得めんみみいたりしゃおう北面ほくめんせい领齐祛,问曰:“先生せんせいなん知之ともゆき也?”曰:“さる孺为じんあなど贤者而轻不肖ふしょうしゃ,贤不肖ふしょうしゃ俱不为用,以亡也;田居たい为人,みこと贤者而贱不肖ふしょうしゃ,贤者负任,不肖ふしょうしゃ退すさ以分别而相去あいさり也;眄子为人也,みこと贤者而爱不肖ふしょうしゃ,贤不肖ふしょう俱负にん以王仅得そんみみ