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しょうやすし (なつ)

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しょうやすし
なつ
だい6だいみかど
王朝おうちょう なつ
都城みやこのじょう 綸(現在げんざい河南かなんしょうしょうおかおそれぐすくけん[1]
なつ邑(現在げんざい河南かなんしょうしょうおかなつ邑県[2]
はら現在げんざい河南かなんしょうすみみなもとびょうがい原城はらのじょう[3]
せいいみな なつきさきしょうやすし
生年せいねん しょう
没年ぼつねん しょう
ちち そう
はは きさき
后妃こうひ
きょくれつ

しょうやすし(しょうこう)は、なつあさだい6だいみかど

ちちみかどそうかんころされた。しょうやすしははゆう仍氏まれであるきさきしょうやすしはらんだ状態じょうたい出身しゅっしんゆう仍国げ、そこでしょうやすしまれた。しばらくはかん浞と息子むすこ政治せいじ実権じっけん掌握しょうあくされていたが、しょうやすしなつ王朝おうちょう遺臣いしんらが挙兵きょへいし、かん浞や二人ふたり息子むすこ殺害さつがいされ、政治せいじ実権じっけんなつ帝室ていしつもどった。

たけしょ紀年きねん』によると、しょうやすし元年がんねん丙午ひのえうまとし)に諸侯しょこうおそれこうが、ねんほうえびす来訪らいほうし、じゅうはちねんはらうつしたとされる。

にはなな代目だいめなつおう、鄫にふうじられたきょくれつ、『えつ春秋しゅんじゅうえつおう外伝がいでんによるとかいふうじられこしおう勾践となった「」がいる。

こしやまととの関係かんけい[編集へんしゅう]

史記しきえつおう勾践や『漢書かんしょ地理ちりこころざし粤地、『えつ春秋しゅんじゅう』によれば、しょうやすし庶子しょしであるあまりかい稽にふうぜられ、文身いれずみずみ)・断髪だんぱつしたのがえつ起源きげんであるとされる。『漢書かんしょ』によれば、文身いれずみ断髪だんぱつした理由りゆう蛟竜こうりょうがいけるためとされる。

翰苑まき30しょ引『りゃく逸文いつぶんや『こころざし倭人わじんでん』にある倭人わじん習俗しゅうぞくについての説明せつめいでは、倭人わじんずみっているのはだいさかな水鳥みずとりがいふせぐためであるとして、このしょうやすし故事こじいにされている。

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ なにこうだけなつ源流げんりゅう』(江西えにし教育きょういく出版しゅっぱんしゃ、1992ねん8がつ
  2. ^ なにこうだけなつ源流げんりゅう』(江西えにし教育きょういく出版しゅっぱんしゃ、1992ねん8がつ
  3. ^ たん其驤『简明中国ちゅうごく历史图集』(中國ちゅうごく地圖ちず出版しゅっぱんしゃ、1991ねん10がつ1にち
先代せんだい
5だいなつみかどそう
東夷あずまえびすかん
なつ帝室ていしつ
6だい
BC1860ごろ - BC1850ころ
次代じだい
7だいなつみかど
なつきさき