僧 そう (そう、梵 : संघ Saṃgha )は、サンガを音 おと 写 うつ した「僧 そう 伽 とぎ 」の略 りゃく で仏教 ぶっきょう の戒律 かいりつ を守 まも る男性 だんせい の出家 しゅっけ 修行 しゅぎょう 者 しゃ である「比丘 びく (びく)」と女性 じょせい の出家 しゅっけ 修行 しゅぎょう 者 しゃ である「比丘尼 びくに (びくに)」の集団 しゅうだん のこと[ 2] 。仏教 ぶっきょう の三宝 さんぽう の一 ひと つ[ 3] 。在家 ありいえ 信者 しんじゃ を含 ふく めた教団 きょうだん を僧 そう (サンガ)とは呼 よ ばず、出家 しゅっけ 者 しゃ が四 よん 人 にん 以上 いじょう 集 あつ まったとき僧 そう となる[ 2] 。男性 だんせい の出家 しゅっけ 修行 しゅぎょう 者 しゃ の集団 しゅうだん を比丘 びく 僧 そう といい、女性 じょせい の場合 ばあい は比丘尼 びくに 僧 そう という[ 2] 。衆 しゅう あるいは和合 わごう 衆 しゅ と訳 やく される[ 3] 。
「僧 そう 伽 とぎ に属 ぞく する人々 ひとびと 」の意 い である僧侶 そうりょ (そうりょ)が転 てん じて個人 こじん を僧 そう と呼 よ ぶことが多 おお くなっていったが、原義 げんぎ として僧 そう とは戒師により親 した しく具足 ぐそく 戒 (波 なみ 羅 ら 提 ひさげ 木 き 叉 また )を授 さづ けられ(=受戒 じゅかい )、これを守 まも る出家 しゅっけ 修行 しゅぎょう 者 しゃ たちの集団 しゅうだん そのものを集合 しゅうごう 的 てき に指 さ す[ 4] [ 注 ちゅう 1] 。
古代 こだい インド では、仏教 ぶっきょう に限 かぎ らず、婆羅門 ばらもん 以外 いがい の出家 しゅっけ 者 しゃ ・遊行 ゆぎょう 者 しゃ のことを、一般 いっぱん に「沙門 しゃもん 」と呼 よ ぶ。その中 なか でもこの仏教 ぶっきょう の僧 そう 伽 とぎ の正式 せいしき な構成 こうせい 員 いん は、男性 だんせい であれば比丘 びく (びく、乞食 こじき の意 い )、女性 じょせい であれば比丘尼 びくに (びくに)と呼 よ び表 あらわ される。
僧 そう 伽 とぎ (サンガ)は、一般 いっぱん に「僧団 そうだん 」と言 い いかえられてもいるが、釈迦 しゃか 当時 とうじ の時代 じだい から現代 げんだい まで上座 かみざ 部 ぶ 仏教 ぶっきょう 、大乗 だいじょう 仏教 ぶっきょう 、密教 みっきょう を問 と わず、在家 ありいえ 信者 しんじゃ を含 ふく まない純粋 じゅんすい な、出家 しゅっけ 者 しゃ たちの共同 きょうどう 体 たい である(比丘 びく 僧 そう 伽 とぎ )[ 4] 。
大 だい 迦葉 、サーリプッタ など仏弟子 ぶつでし たちは、みな釈迦 しゃか に以下 いか の願 ねが いを訴 うった え、認 みと められて子弟 してい となっている(三 さん 帰依 きえ )[ 4] 。
Esāhaṃ bhante bhagavantaṃ saraṇaṃ gacchāmi dhammañca bhikkhusaṅghañca.
Labheyyāhaṃ bhante bhagavato santike pabbajjaṃ, labheyyaṃ upasampadanti".
私 わたし は、世尊 せそん 、法 ほう 、比丘 びく 僧 そう 伽 とぎ (bhikkhusaṅghañca)へ帰依 きえ いたします。
尊者 そんじゃ よ、願 ねがい わくば世尊 せそん の許 ゆる しにて、出家 しゅっけ することを得 え 、具足 ぐそく 戒を得 え んことを。
元々 もともと の意味 いみ は集団 しゅうだん や集会 しゅうかい であり、仏教 ぶっきょう 以前 いぜん の時代 じだい の古代 こだい インドでは、自治 じち 組織 そしき をもつ同 どう 業者 ぎょうしゃ 組合 くみあい や、貴族 きぞく による共和 きょうわ 政体 せいたい などもサンガと呼 よ んだ。
比丘 びく ・比丘尼 びくに は、出家 しゅっけ 者 しゃ における男女 だんじょ の区別 くべつ によるが、いずれも具足 ぐそく 戒をうけた出家 しゅっけ 修行 しゅぎょう 者 しゃ を指 さ す[ 4] 。比丘 びく (Bhikkhu )の原義 げんぎ は「乞食 こじき 」(こつじき)を意味 いみ している。出家 しゅっけ 者 しゃ として全 まった く生産 せいさん に従事 じゅうじ しない比丘 びく ・比丘尼 びくに は、他者 たしゃ から布施 ふせ されるものによって、生活 せいかつ を維持 いじ している。衣 ころも は糞 くそ 掃衣 を着 ちゃく し、食 しょく は「托鉢 たくはつ 」によって得 え たものを食 しょく し、住 じゅう は森林 しんりん や園 えん 林 りん に生活 せいかつ したのが、これら出家 しゅっけ 者 しゃ であり、現在 げんざい でも比較的 ひかくてき これらに近 ちか い生活 せいかつ 形態 けいたい は、東南 とうなん アジアの上座 かみざ 部 ぶ 仏教 ぶっきょう 圏 けん で見 み られる。少数 しょうすう ながら大乗 だいじょう 仏教 ぶっきょう 圏 けん でも見 み られることがある。
これら比丘 びく ・比丘尼 びくに は女犯 にょぼん 戒によって結婚 けっこん はおろか接触 せっしょく もできないのが伝統 でんとう 的 てき 姿勢 しせい であるが、チベット主流 しゅりゅう であるゲルク派 は 以外 いがい の宗派 しゅうは や日本 にっぽん (当初 とうしょ は各派 かくは 「沙弥 さや 、比丘 びく のいずれにしても妻帯 さいたい は全 まった く問題 もんだい 外 がい のこと」としていたが、時代 じだい が下 くだ ると共 とも に許容 きょよう するようになる[ 6] )等 とう では妻帯 さいたい による世襲 せしゅう を行 おこな っており、タイ やミャンマー では儀礼 ぎれい として一時 いちじ 出家 しゅっけ した僧侶 そうりょ がすぐに還俗 げんぞく して子 こ を成 な すことが珍 めずら しくない[ 8] 。
僧 そう 伽 とぎ に属 ぞく してはいるが、具足 ぐそく 戒(波 なみ 羅 ら 提 ひさげ 木 き 叉 また )をまだ授 さづ けられておらず、僧 そう 伽 とぎ の正式 せいしき なメンバーとなっていない「見習 みなら い僧 そう ・小僧 こぞう 」は、男性 だんせい (少年 しょうねん )であれば「沙弥 さや 」(しゃみ)、女性 じょせい (少女 しょうじょ )であれば「沙弥 さや 尼 あま 」(しゃみに)と呼 よ ばれる。
仏教 ぶっきょう の在家 ありいえ 信徒 しんと は、「三 さん 帰依 きえ 」を誓 ちか い、通常 つうじょう は「五戒 ごかい 」、「八 はち 斎戒 さいかい 」の二 に 種類 しゅるい の戒を守 まも ることが求 もと められるが、この沙弥 さや ・沙弥 さや 尼 あま には、代 か わりに「三 さん 帰依 きえ 」を誓 ちか った後 のち 、沙弥 さや の「十戒 じっかい 」や、沙弥 さや 尼 あま の「十 じゅう 八戒 はっかい 」が授 さづ けられる。彼 かれ らは通常 つうじょう 、20歳 さい になって、具足 ぐそく 戒 (波 なみ 羅 ら 提 ひさげ 木 き 叉 また )を授 さづ けられることで、正式 せいしき な僧 そう 伽 とぎ のメンバーである「比丘 びく 」や「比丘尼 びくに 」となることができる。
しかしながら、日本 にっぽん 仏教 ぶっきょう とチベット仏教 ぶっきょう において妻帯 さいたい を認 みと めるニンマ派 は とカギュ派 は は、実態 じったい に於 お いても[ 注 ちゅう 2] 、教義 きょうぎ 上 じょう からも[ 注 ちゅう 3] 、これらの宗派 しゅうは では具足 ぐそく 戒 が完全 かんぜん に守 まも られているとは言 い えず、定義 ていぎ 上 じょう は僧 そう 伽 とぎ ではないと見 み る向 む きもある。日本 にっぽん の影響 えいきょう 下 か にある、韓国 かんこく 仏教 ぶっきょう の少数 しょうすう 派 は 太古 たこ 宗 はじめ でも同 おな じである。しかし、チベット仏教 ぶっきょう の主流 しゅりゅう 派 は であるゲルク派 は 、および韓国 かんこく 仏教 ぶっきょう の最大 さいだい 宗派 しゅうは 曹渓宗 むね は妻帯 さいたい を認 みと めていない。
日本 にっぽん やネパール におけるネワール仏教 ぶっきょう のグバジュ (Gubhaju)など、世襲 せしゅう の仏教 ぶっきょう 特権 とっけん 階級 かいきゅう から具足 ぐそく 戒を(破戒 はかい によって失 うしな われない戒体 として)形式 けいしき 的 てき にのみ受 う けるケースも見 み られるが、儀礼 ぎれい 的 てき なもので実践 じっせん されるものではない。
釈迦 しゃか の布教 ふきょう によって彼 かれ の教 おし えに帰依 きえ する出家 しゅっけ 修行 しゅぎょう 者 しゃ は増加 ぞうか していき、それぞれ5人 にん から20人 にん 程度 ていど の小 しょう 単位 たんい に分 わ かれて活動 かつどう を行 おこな うようになった。このような集団 しゅうだん を現前 げんぜん 僧 そう 伽 とぎ と呼 よ ぶ。ところが、現前 げんぜん 僧 そう 伽 とぎ の活動 かつどう が活発 かっぱつ になると、僧 そう 伽 とぎ 自身 じしん の統制 とうせい 、さらに相互 そうご の連絡 れんらく 等 とう の必要 ひつよう が生 しょう じ、やがて四方 しほう 僧 そう 伽 とぎ と呼 よ ばれるような僧 そう 伽 とぎ 全体 ぜんたい の組織 そしき が必要 ひつよう となってきた。これが今日 きょう の一般 いっぱん 的 てき な意味 いみ における僧 そう 伽 とぎ である。
釈迦 しゃか の死 し から100年 ねん 後 ご の第 だい 二 に 回 かい 結集 けっしゅう における根本 こんぽん 分裂 ぶんれつ 以降 いこう 、それぞれの考 かんが えの違 ちが いから僧 そう 伽 とぎ は分裂 ぶんれつ して行 い き、部 ぶ 派 は 仏教 ぶっきょう の時代 じだい に入 はい る。各部 かくぶ 派 は はそれぞれに独自 どくじ のアビダルマ (論 ろん 書 しょ )を著 あらわ して教義 きょうぎ を明確 めいかく 化 か して行 い き、最終 さいしゅう 的 てき に約 やく 20程度 ていど の部 ぶ 派 は が成立 せいりつ することになった。
僧 そう の構成 こうせい 員 いん はすべて律 りつ を遵守 じゅんしゅ し、インドにおいては大乗 だいじょう の出家 しゅっけ 者 しゃ でさえ在来 ざいらい の部 ぶ 派 は 仏教 ぶっきょう に所属 しょぞく し、それぞれの部 ぶ 派 は の律 りつ に従 したが っていた。純粋 じゅんすい な大乗 だいじょう の教団 きょうだん を持 も つチベットでは、在来 ざいらい の僧 そう を「声聞 しょうもん 僧 そう 伽 とぎ 」(しょうもんそうぎゃ)と呼 よ び、大乗 だいじょう の僧 そう を「菩薩 ぼさつ 僧 そう 伽 とぎ 」と呼 よ ぶようになった[ 11] 。
日本 にっぽん の仏教 ぶっきょう においては、奈良 なら 時代 じだい に至 いた り、唐 とう から律 りつ 宗 むね の鑑真 がんじん によってもたらされた法蔵 ほうぞう 部 ぶ の『四 よん 分 ふん 律 りつ 』と、それに基 もと づく戒壇 かいだん ・授戒 じゅかい 制度 せいど により、正式 せいしき な僧 そう 伽 とぎ が成立 せいりつ した。朝廷 ちょうてい も租税 そぜい ・軍役 ぐんえき 逃 のが れの私 わたし 度 ど 僧 そう を取 と り締 し まるために、それを積極 せっきょく 的 てき に活用 かつよう した。
しかし、平安 へいあん 時代 じだい に至 いた り、中国 ちゅうごく から天台宗 てんだいしゅう を移植 いしょく した日本 にっぽん 天台宗 てんだいしゅう の開祖 かいそ 最澄 さいちょう が、大乗 だいじょう 経典 きょうてん の『梵網経 けい 』の書面 しょめん と、それまで中国 ちゅうごく 天台宗 てんだいしゅう にはなかった解釈 かいしゃく に基 もと づく戒法を法華 ほっけ 三 さん 部 ぶ 経 けい に数 かぞ える『観 かん 普賢菩薩 ふげんぼさつ 行法 ぎょうほう 経 けい 』(大正 たいしょう 蔵 ぞう :№277)を基 もと にして、筆 ふで 授 により感得 かんとく して提唱 ていしょう し、時 とき の朝廷 ちょうてい に出願 しゅつがん した。最澄 さいちょう の没後 ぼつご 、弘 ひろし 仁 ひとし 13年 ねん (822年 ねん )に最澄 さいちょう への追悼 ついとう の意味 いみ から朝廷 ちょうてい も公認 こうにん し勅許 ちょっきょ を得 え て、翌年 よくねん の弘 ひろ 仁 じん 14年 ねん に延暦寺 えんりゃくじ の一 いち 乗 じょう 止観 しかん 院 いん において弟子 でし の光 ひかり 定 じょう を筆頭 ひっとう とする14名 めい の大乗 だいじょう 戒壇 かいだん による授戒 じゅかい が行 おこな われた[ 注 ちゅう 4] 。これより、比叡山 ひえいざん では旧来 きゅうらい の戒律 かいりつ である具足 ぐそく 戒 と数種類 すうしゅるい の大乗 だいじょう 戒を併用 へいよう する体系 たいけい 的 てき な戒法を無視 むし した、鳩 ばと 摩 ま 羅 ら 什訳 わけ とする『梵網経 けい 』による大乗 だいじょう 戒の「梵網戒 」(円 えん 頓 ひたぶる 戒 )のみに基 もと づく大乗 だいじょう 戒壇 かいだん による授戒 じゅかい を行 おこな うようになり、いわゆる日本 にっぽん 仏教 ぶっきょう 独自 どくじ の「具足 ぐそく 戒 」を持 も たない宗派 しゅうは が生 う まれた。
ただし、最澄 さいちょう の唱 とな えた大乗 だいじょう 戒壇 かいだん の基礎 きそ となる、大乗 だいじょう の『梵網経 けい 』には十 じゅう 重 じゅう 禁 きん 戒 として、殺生 せっしょう 戒 により生 い き物 もの を殺 ころ すことと、その原因 げんいん となる全 すべ ての行為 こうい を禁止 きんし し[ 13] 、女犯 にょぼん とその原因 げんいん となる全 すべ ての行為 こうい を禁止 きんし し[ 14] 、酒 さけ の売買 ばいばい と飲酒 いんしゅ の原因 げんいん となる全 すべ ての行為 こうい を禁止 きんし し[ 15] 、更 さら にそれらを含 ふく む十 じゅう 重 じゅう 禁 きん 戒 のどれかに違反 いはん した際 さい には、僧籍 そうせき に加 くわ えて全 すべ ての資格 しかく を失 うしな い仏教徒 ぶっきょうと ではなくなる[ 注 ちゅう 5] としている。また、かつての比叡山 ひえいざん においては、大乗 だいじょう 戒壇 かいだん で出家 しゅっけ した僧 そう は、12年 ねん に亘 わた る籠山 かごやま (ろうざん)の後 のち [ 注 ちゅう 6] 、下山 げざん する際 さい に「具足 ぐそく 戒 」を授 さず かってから、比叡山 ひえいざん を離 はな れるのが通例 つうれい となっていた。それゆえ「梵網戒 」(円 えん 頓 ひたぶる 戒)が生 い きていた時代 じだい には、女犯 にょぼん (妻帯 さいたい )や飲酒 いんしゅ 等 ひとし の行為 こうい は、大乗 だいじょう 戒壇 かいだん の僧 そう には最澄 さいちょう の直筆 ちょくひつ による『山家 やまや 学生 がくせい 式 しき 』により、あってはならない行為 こうい と規定 きてい されていた。
やがて、鎌倉 かまくら 時代 ときよ に至 いた ると、天台宗 てんだいしゅう から派生 はせい した各 かく 宗派 しゅうは (鎌倉 かまくら 仏教 ぶっきょう )が普及 ふきゅう するに従 したが って、円 えん 頓 ひたぶる 戒 などのみ受持 うけもち する僧侶 そうりょ が多 おお く現 あらわ れた。その中 なか でも日蓮 にちれん (1222-1282)は、最澄 さいちょう に仮託 かたく される『末法 まっぽう 灯 とう 明記 めいき 』[ 17] [ 注 ちゅう 7] を信 しん じ、それを典拠 てんきょ として「末法 まっぽう 無 む 戒 」を主張 しゅちょう し、いわゆる末法 まっぽう の世 よ の中 なか においてはあらゆる戒律 かいりつ を必要 ひつよう とせず、ただ題目 だいもく を唱 とな えることを主張 しゅちょう した。また、三宝 さんぼう のうちの僧 そう 伽 とぎ を伴 ともな わない[ 注 ちゅう 8] 浄土真宗 じょうどしんしゅう のような宗派 しゅうは も生 しょう じた。それに倣 なら って、本来 ほんらい は「具足 ぐそく 戒 」を守 まも るはずの宗派 しゅうは も戒律 かいりつ の形骸 けいがい 化 か が著 いちじる しく、男色 なんしょく を行 おこな い、加 くわ えて妻帯 さいたい する僧侶 そうりょ も数多 かずおお くいた[ 注 ちゅう 9] 。しかし、その一方 いっぽう で叡尊 えいぞん を祖 そ とする真言 しんごん 律 りつ 宗 むね のように、自得 じとく の戒である『自 じ 誓 ちかい 授戒 じゅかい 』による「具足 ぐそく 戒 」を復興 ふっこう しようとする動 うご きも[ 19] 一部 いちぶ ではあったが、鎌倉 かまくら 時代 ときよ 以降 いこう は戒律 かいりつ が形骸 けいがい 化 か する全体 ぜんたい の流 なが れを変 か えるまでには至 いた らなかった。
江戸 えど 時代 じだい に至 いた ると、政治 せいじ 的 てき には統制 とうせい が厳 きび しい江戸 えど 幕府 ばくふ の下 した 、僧職 そうしょく 者 しゃ の肉食 にくしょく と妻帯 さいたい (女犯 にょぼん )が国法 こくほう などでは禁 きん じられ、仏教 ぶっきょう 側 がわ からは叡尊 えいぞん 以来 いらい の戒律 かいりつ 復興 ふっこう 運動 うんどう が実 み を結 むす ぶ形 かたち で最低限 さいていげん の規律 きりつ は守 まも られるようになったが、本来 ほんらい の戒律 かいりつ (「具足 ぐそく 戒 」を基礎 きそ とする体系 たいけい 的 てき な戒法)や僧 そう 伽 とぎ を復興 ふっこう するまでには至 いた らなかったとの評価 ひょうか もある。
この時代 じだい に戒律 かいりつ 復興 ふっこう 運動 うんどう を行 おこな った人物 じんぶつ としては、禅宗 ぜんしゅう では黄檗宗 おうばくしゅう の開祖 かいそ であり、中国 ちゅうごく の皇帝 こうてい の師 し でありながら鑑真 がんじん と同様 どうよう に栄誉 えいよ を捨 す てて日本 にっぽん に渡来 とらい して、「禅 ぜん 密 みつ 双 そう 修 おさむ 」や「禅 ぜん 浄 きよし 双 そう 修 おさむ 」(念仏 ねんぶつ 禅 ぜん )等 とう の特色 とくしょく を持 も つ中国 ちゅうごく 禅 ぜん に加 くわ えて、当時 とうじ の出家 しゅっけ 戒を伝 つた えた隠元 いんげん 禅師 ぜんじ が挙 あ げられる。隠元 いんげん 禅師 ぜんじ が伝 つた えた中国 ちゅうごく 流 りゅう の「具足 ぐそく 戒」と「出家 しゅっけ 作法 さほう 」は、京都 きょうと を中心 ちゅうしん とする一帯 いったい の仏教 ぶっきょう 教派 きょうは の注目 ちゅうもく を集 あつ め、曹洞宗 そうとうしゅう や臨済宗 りんざいしゅう の復興 ふっこう に役立 やくだ っただけではなく、招来 しょうらい の文物 ぶんぶつ は書道 しょどう ・煎茶 せんちゃ 道 どう ・普茶料理 ふちゃりょうり ・隠元豆 いんげんまめ 等 ひとし 、後 ご の鉄 てつ 眼 め 和尚 おしょう の『黄檗 おうばく 版 ばん 大蔵経 だいぞうきょう 』[ 注 ちゅう 10] と共 とも に日本 にっぽん の仏教 ぶっきょう に多大 ただい な影響 えいきょう を与 あた えた。
『正 せい 法律 ほうりつ 』を提唱 ていしょう した慈雲 じうん 尊者 そんじゃ や、『如法 にょほう 真言 しんごん 律 りつ 』を提唱 ていしょう した浄 きよし 厳 いむ 覚 さとし 彦が活躍 かつやく した。
近代 きんだい (明治 めいじ 時代 じだい )に至 いた り、日本 にっぽん では明治 めいじ 政府 せいふ が明治 めいじ 5年 ねん 4月 がつ 25日 にち 公布 こうふ の太政官 だじょうかん 布告 ふこく 第 だい 133号 ごう 「僧侶 そうりょ 肉食妻帯 にくじきさいたい 蓄髪 ちくはつ 等差 とうさ 許 もと ノ事 こと 」を布告 ふこく 、僧侶 そうりょ の妻帯 さいたい (女犯 にょぼん )・肉食 にくしょく ・蓄髪 ちくはつ ・法要 ほうよう 以外 いがい での平服 へいふく 着用 ちゃくよう 等 とう を公的 こうてき に許可 きょか した。こうして僧職 そうしょく 者 しゃ に対 たい する国法 こくほう による他律 たりつ 的 てき 縛 しば りはなくなり、職業 しょくぎょう 化 か したり世襲 せしゅう 化 か した者 もの が僧侶 そうりょ として公然 こうぜん と存在 そんざい することができるようになった。
なお、戦前 せんぜん に戒律 かいりつ ・僧 そう 伽 とぎ 復興 ふっこう 運動 うんどう を行 おこな った人物 じんぶつ としては、真言宗 しんごんしゅう の釈 しゃく 雲照 うんしょう 、更 さら には、その甥 おい でスリランカ に留学 りゅうがく し、日本人 にっぽんじん 初 はつ の上座 かみざ 部 ぶ 仏教 ぶっきょう 徒 と となって日本 にっぽん で「釈尊 しゃくそん 正風 しょうふう 会 かい 」を組織 そしき した釈 しゃく 興 きょう 然 しか がいる。
近年 きんねん では、『日本 にっぽん テーラワーダ仏教 ぶっきょう 協会 きょうかい 』や『龍蔵 りゅうぞう 院 いん デプン・ゴマン学堂 がくどう 日本 にっぽん 別院 べついん 』のように、上座 かみざ 部 ぶ 仏教 ぶっきょう やチベット仏教 ぶっきょう 系 けい の僧院 そういん も輸入 ゆにゅう ・移植 いしょく され、その僧 そう 伽 とぎ の構成 こうせい 員 いん である比丘 びく や比丘尼 びくに もいる。このように、現在 げんざい は上座 かみざ 部 ぶ 仏教 ぶっきょう やチベット仏教 ぶっきょう 系 けい の僧 そう 伽 とぎ が日本 にっぽん に存在 そんざい し、それらの僧 そう の指導 しどう に基 もと づく各種 かくしゅ の正式 せいしき な戒律 かいりつ を学 まな ぶことができる。また、事実 じじつ として既成 きせい の伝統 でんとう 仏教 ぶっきょう を離 はな れ、上座 かみざ 部 ぶ 仏教 ぶっきょう やチベット仏教 ぶっきょう に基 もと づく日本人 にっぽんじん の正式 せいしき な受戒 じゅかい 者 しゃ の僧侶 そうりょ や仏教徒 ぶっきょうと が、正統 せいとう な戒律 かいりつ を新 あら たに受 う け継 つ ぎ活動 かつどう している。
一方 いっぽう で、日本 にっぽん 仏教 ぶっきょう においては、平安 へいあん 時代 じだい の最澄 さいちょう 以降 いこう 、戒律 かいりつ (具足 ぐそく 戒 :波 なみ 羅 ら 提 ひさげ 木 き 叉 また )の戒脈や、それを基 もと にした僧 そう 伽 とぎ の伝統 でんとう は、基本 きほん 的 てき に途絶 とだ えており、具足 ぐそく 戒を受持 うけもち する出家 しゅっけ 者 しゃ ・修行 しゅぎょう 者 しゃ は、他国 たこく の僧 そう 伽 とぎ で受戒 じゅかい したごく少数 しょうすう 者 しゃ を除 のぞ いて、現代 げんだい の日本 にっぽん 仏教 ぶっきょう 各 かく 宗派 しゅうは には存在 そんざい しない。
しかしながら現状 げんじょう を肯定 こうてい する新 あたら しい解釈 かいしゃく によって、職業 しょくぎょう として儀式 ぎしき のみを行 おこな い、具足 ぐそく 戒 を遵守 じゅんしゅ しない、伝統 でんとう の宗派 しゅうは におけるこれらの僧職 そうしょく 者 しゃ と檀 まゆみ 信徒 しんと のみで構成 こうせい される「在家 ありいえ 教団 きょうだん 」を僧 そう 伽 とぎ (サンガ)と見 み 做すべきであるという意見 いけん もある。だが、この場合 ばあい かつては私 わたし 度 ど 僧 そう に分類 ぶんるい されたであろう自称 じしょう 僧侶 そうりょ の宗教 しゅうきょう 家 か や祈祷 きとう 師 し 、仏教 ぶっきょう 系 けい 新 しん 宗教 しゅうきょう の出家 しゅっけ 者 しゃ や教団 きょうだん 職員 しょくいん との区別 くべつ 基準 きじゅん が既得 きとく 権益 けんえき のみである事 こと にもなりかねない。
上座 かみざ 部 ぶ 仏教 ぶっきょう において、歴史 れきし 的 てき に広 ひろ く用 もち いられてきた律 りつ である。比丘 びく は二 に 百 ひゃく 五 ご 十戒 じっかい を遵守 じゅんしゅ する。正式 せいしき な戒師が居 い ない等 ひとし の理由 りゆう で自国 じこく での授戒 じゅかい が難 むずか しい場合 ばあい 、国外 こくがい から戒師を招来 しょうらい する必要 ひつよう がある。
戒律 かいりつ の条項 じょうこう は以下 いか の通 とお りである[ 21] 。
波 なみ 羅 ら 夷 えびす 法 ほう [四 よん ヶ条 かじょう ](これを犯 おか した場合 ばあい 、全 すべ ての資格 しかく と財産 ざいさん を剥奪 はくだつ された上 うえ 、僧 そう 伽 とぎ とあらゆる仏教 ぶっきょう 教団 きょうだん から追放 ついほう され、2年間 ねんかん 一切 いっさい の宗教 しゅうきょう 活動 かつどう を禁止 きんし された上 うえ 、二度 にど と僧侶 そうりょ となることは出来 でき ないもの;「波 なみ 羅 ら 夷 えびす 罪 ざい 」ともいう)
婬 いん 戒 : いかなる性行為 せいこうい も行 おこ なってはならない。
盗 ぬすめ 戒 : 盗心 とうしん をもって与 あた えられていないものを取 と ってはならない。
殺人 さつじん 戒 : 殺人 さつじん を犯 おか してはならない。
大 だい 妄語 もうご 戒 : 未 いま だその境地 きょうち を得 え ていないのに悟 さと りを得 え たなどと嘘 うそ をついてはならない。ただし自信 じしん 過剰 かじょう による思 おも い上 あ がりの場合 ばあい は除 のぞ く。また、仏教 ぶっきょう 教団 きょうだん としての僧 そう 伽 とぎ の調和 ちょうわ を著 いちじる しく乱 みだ すようなことや、そのあり方 かた を変 か えてはならない。
僧 そう 残 ざん 法 ほう [十 じゅう 三 さん ヶ条 かじょう ]
不定 ふてい 法 ほう [二 に ヶ条 かじょう ]
尼 あま 薩耆波 は 逸 いっ 提 ひさげ 法 ほう [三 さん 十 じゅう ヶ条 かじょう ]
波 なみ 逸 いっ 提 ひさげ 法 ほう [九 きゅう 十 じゅう ヶ条 かじょう ]
波 なみ 羅 ら 提 ひさげ 提 ひさげ 舎 しゃ 尼 あま 法 ほう [四 よん ヶ条 かじょう ]
衆 しゅう 学 がく 法 ほう [百 ひゃく ヶ条 かじょう ]
滅 めつ 諍 いさかい 法 ほう [七 なな ヶ条 かじょう ]
僧侶 そうりょ の規律 きりつ として剃髪 ていはつ がある。また、剃髪 ていはつ した僧侶 そうりょ が、還俗 げんぞく して髪 かみ を伸 の ばすことは蓄髪 ちくはつ (ちくはつ)という[ 22] 。
ちなみに、『小事 しょうじ 犍度』には、螺 にし 髻 たぶさ 梵志(バラモン教 ばらもんきょう の僧侶 そうりょ )は頭髪 とうはつ を伸 の ばして、それを頭 あたま の上 うえ で輪 わ にして留 ど めていた。しかし仏教 ぶっきょう では「僧 そう は長髪 ちょうはつ を持 もた すべからず。二 に カ月 かげつ もしくは二 に 指 ゆび 間 あいだ は許 ゆる す」と伝 つた え、『四 よん 分 ふん 律 りつ 』では、「応 おう に鬚 ひげ 髪 かみ を剃 そ るべし。極 きょく 長 ちょう は長 なが さ両 りょう 指 ゆび 、もしくは二 に カ月 かげつ に一 いち 剃 そ する。これは極 きょく 長 ちょう なり」と記 しる し、『十 じゅう 誦律』は、「六 ろく 群 ぐん 比丘 びく が髪 かみ を留 と めて捲 ま かしめ、留 と めて長 なが くしていた時 とき に、髪 かみ を留 と めて長 なが からしめるべからず」と説 と いた。ただし、人気 にんき のない静 しず かな場所 ばしょ で独 どく 住 じゅう して修行 しゅぎょう する林 はやし 住 じゅう 比丘 びく [ 注 ちゅう 11] の場合 ばあい 、長 なが さ二 に 寸 すん (約 やく 6cm)までは無罪 むざい であるとする。[ 23]
大衆 たいしゅう 部 ぶ の律 りつ には、釈尊 しゃくそん は「四 よん カ月 かげつ に一 いち 度 ど 、剃髪 ていはつ をされた」[ 24] と伝承 でんしょう されている。
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^ 中井 なかい 英 えい 基 もと 「チベットにおける仏教 ぶっきょう 々団 だん 主 ぬし の相続 そうぞく 形態 けいたい 」『一 いち 橋 きょう 論叢 ろんそう 』第 だい 63巻 かん 第 だい 6号 ごう 、一橋大学 ひとつばしだいがく 一 いち 橋 きょう 学会 がっかい 一 いち 橋 きょう 論叢 ろんそう 編集 へんしゅう 所 しょ 、1970年 ねん 、82-101頁 ぺーじ 。
^ 小泉 こいずみ 康一 やすいち 「結婚 けっこん 考 こう :7.タイ―新旧 しんきゅう 結婚式 けっこんしき 比 ひ 鮫 さめ 」『ASIA 21 基礎 きそ 教材 きょうざい 編 へん 』第 だい 2巻 かん 、大東文化大学 だいとうぶんかだいがく 国際 こくさい 関係 かんけい 学部 がくぶ 現代 げんだい アジア研究所 けんきゅうじょ 広報 こうほう 出版 しゅっぱん 部会 ぶかい 、1992年 ねん 、98-102頁 ぺーじ 。
^ 僧 そう 伽 とぎ (修行 しゅぎょう 者 しゃ たちの集 あつ まり=僧 そう )の本質 ほんしつ - ニンマ派 は 高僧 こうそう トゥルシック・リンポチェによる「37の菩薩 ぼさつ の実践 じっせん 」
^ 『梵網菩薩戒 ぼさつかい 経 けい 』(四季 しき 社 しゃ )、pp.21-23。『梵網経 けい 』(大蔵 おおくら 出版 しゅっぱん )、pp.75-76。
^ 『梵網菩薩戒 ぼさつかい 経 けい 』(四季 しき 社 しゃ )、pp.25-27。『梵網経 けい 』(大蔵 おおくら 出版 しゅっぱん )、pp.88-89。
^ 『梵網菩薩戒 ぼさつかい 経 けい 』(四季 しき 社 しゃ )、pp.30-31。『梵網戒』(大蔵 おおくら 出版 しゅっぱん )、pp.99-100。
^ 『末法 まっぽう 燈 とう 明記 めいき 』(安居 あんきょ 事務所 じむしょ )、[引用 いんよう ]p9、[末法 まっぽう 燈 とう 明記 めいき 原文 げんぶん ]pp.176-205。
^ 『叡尊 えいそん 教団 きょうだん における戒律 かいりつ 復興 ふっこう 運動 うんどう 』、p21-41。
^ 戒律 かいりつ の条項 じょうこう については、真言宗 しんごんしゅう 泉涌寺 せんにゅうじ 派 は 大本山 だいほんざん 法楽寺 ほうらくじ HP [1] を参照 さんしょう した。
^ 「蓄髪 ちくはつ 」 - 精選 せいせん 版 ばん 日本 にっぽん 国語 こくご 大 だい 辞典 じてん 、小学 しょうがく 館 かん 。
^ 「仏 ふつ 在 ざい 王 おう 舎 しゃ 城 じょう 。(…)爾 なんじ 時 じ 六 ろく 群 ぐん 比丘 びく 。留 とめ 髪 かみ 令 れい 長 ちょう 。仏 ふつ 言 ごと 。不 ふ 応 おう 留 とめ 髪 かみ 令 れい 長 ちょう 。若 わか 留 とめ 者 しゃ 突吉羅 ら 。若 わか 阿 おもね 練 ねり 児 じ 比丘 びく 長 ちょう 至 いたり 二 に 寸 すん 無罪 むざい 。」(『十 じゅう 誦律』巻 まき 第 だい 三 さん 十 じゅう 七 なな )
^ 「復 ふく 次 じ 仏 ふつ 住 じゅう 舎 しゃ 衛 まもる 城 じょう 。広 こう 説 せつ 如上 じょじょう 。爾 なんじ 時 じ 世尊 せそん 四 よん 月 がつ 一 いち 剃髪 ていはつ 。世人 せじん 聞仏剃髪 ていはつ 故 こ 。送 おく 種種 しゅじゅ 供養 くよう 」(『摩 ま 訶僧祇律』十 じゅう 八 はち )
基本 きほん 教義 きょうぎ 人物 じんぶつ 世界 せかい 観 かん 重要 じゅうよう な概念 がいねん 解脱 げだつ への道 みち 信仰 しんこう 対象 たいしょう 分類 ぶんるい /宗派 しゅうは 地域 ちいき 別 べつ 仏教 ぶっきょう 聖典 せいてん 聖地 せいち 歴史 れきし 美術 びじゅつ ・音楽 おんがく