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タケミカヅチ

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たけづちいのちから転送てんそう
たて雷神らいじん
江戸えど時代じだい浮世絵うきよええがかれたたて雷神らいじんたけてい春信はるのぶ葛飾かつしか廿にじゅうよんしょう』)

神祇じんぎ 天津てんしんしん
ぜん たて雷神らいじん
別名べつめい たてかみなり男神おかみたけづちしんけんぬのかみゆたかぬのかみけんかみなりいのち とう
別称べっしょう 鹿島かしましん鹿島かしま大神おおがみ鹿島かしま大明神だいみょうじん鹿島かしまさま
神階しんかい せいいち勲一等くんいっとう
神格しんかく 軍神ぐんしん雷神らいじん地震じしんかみけんかみ
ちち てん尾羽おばちょうかみ迦具しん(『古事記こじき』、『日本書紀にほんしょきいちしょ
熯速しん(『日本書紀にほんしょき本文ほんぶん
そくしん(『古語こご拾遺しゅうい』)
てんあし別命べつめい武治たけはるそくいのち
神社じんじゃ 鹿島かしま神宮じんぐう春日大社かすがたいしゃ ひとし
関連かんれん氏族しぞく ちゅうしん藤原ふじわら
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たて雷神らいじん(たけみかづち、タケミカヅチノオ)は、日本にっぽん神話しんわ登場とうじょうするかみ

概要がいよう[編集へんしゅう]

地震じしんのおかげで普請ふしんえ、大工だいくもうけてだいよろこびしている」という、地震じしんよけのうたにかこつけた風刺ふうし安政あんせい2ねん10がつ瓦版かわらばん)。ナマズをおさえるのは鹿島かしましんことタケミカヅチ[1]

古事記こじき』ではたてかみなり男神おかみ(たけみかづちのおのかみ)、たて雷神らいじん(たけみかづちのかみ)、別名べつめいけんぬのかみ(たけふつのかみ)、ゆたかぬのかみ(とよふつのかみ)としるされ、『日本書紀にほんしょき』ではたけづちしんたけ雷神らいじん表記ひょうきされる。『先代せんだいきゅうこと本紀ほんぎ』ではけんづち男神おかみたけかみなり男神おかみけんかみなりいのちなどとも表記ひょうきされる。

また、鹿島かしま神宮じんぐう茨城いばらきけん鹿嶋かしま)の主神しゅしんとしてまつられていることから鹿島かしましん(かしまのかみ)ともばれる[2]

雷神らいじん、かつけんかみとされる[3]後述こうじゅつするようにけん御名ぎょめいかたしんならんで相撲すもう元祖がんそともされるかみである。またなまずでは、よういしまう日本にっぽん地震じしんこすだいなまずぎょするはずの存在そんざいとしておおくのれいえがかれている。

古事記こじき日本書紀にほんしょきにおける記述きじゅつ[編集へんしゅう]

かみ[編集へんしゅう]

かみにおいてよこしま岐命弉諾みこと・いざなぎ)がしんよるげいそく男神おかみ(カグツチ)のくびとしたさいじゅうたばけんてん尾羽おばちょう」(アメノオハバリ)の根元ねもとについたいわってまれた三神みかみいちはしらである[4]けんのまたの伊都いと尾羽おはちょう(イツノオハバリ)という[5]。『日本書紀にほんしょき』では、このときそくしん(ミカハヤヒノカミ)というたてかみなりの租がまれたという伝承でんしょうと、たてかみなりまれたという伝承でんしょう併記へいきしている[6]

葦原よしわら中国ちゅうごく平定へいてい[編集へんしゅう]

出雲いずもくにゆずり」のだんにおいては伊都いと尾羽おばちょう(イツノオハバリ)の記述きじゅつされるが[7]前述ぜんじゅつどおり伊都いと尾羽おばちょうてん尾羽おばちょう別名べつめいである。天照大御神あまてらすおおみかみは、たて雷神らいじんかそのちち伊都いと尾羽おばちょう下界げかい平定へいてい派遣はけんしたいと所望しょもうしたが、たて雷神らいじんてんとりせん(アメノトリフネ)とともに降臨こうりんするはこびとなる[7]出雲いずも耶佐小浜おばま(いざさのおはま)にったたて雷神らいじんは、じゅうきくけん(とつかのつるぎ)をなみうえさかさにてるとそのさきうえ胡坐こざをかいて、大国たいこく主神しゅしん(オオクニヌシノカミ)にたいしてくにゆずりの談判だんぱんをおこなった。大国たいこく主神しゅしんは、くに天津てんしんしんゆずるかかをらにたくした。のひとり事代ことしろ主神しゅしんは、すんなり服従ふくじゅうした。もう一人ひとりけん御名ぎょめいかたしん(タケミナカタ)(諏訪すわ[2]諏訪すわ大社たいしゃ上社かみやしろ祭神さいじん[7])は、たて雷神らいじんちからくらべをいどむも、づかみの試合しあいをつららやけん変身へんしんさせ、ひるんだけん御名ぎょめいかたしんはそのすきいちひねりにされたため、恐懼きょうくして遁走とんそうし、こくしゅうみずうみ降伏ごうぶくした。これによってくにゆずりがなった[3]。このときのけん御名ぎょめいかたしんとのたたかいは相撲すもう起源きげんとされている[8]

日本書紀にほんしょき』の葦原よしわら中国ちゅうごく平定へいていだんではけい主神しゅしんとも下界げかいくだされている。こちらではけい主神しゅしん派遣はけんまった直後ちょくご立派りっぱおとこけいぬし殿どのいちにんしかいないわけではなかろう、わたし立派りっぱおとこでないというのか」と不満ふまんうったえたために天津てんしんしんから同行どうこうゆるされたのであり、使者ししゃなかではくまでけい主神しゅしん次位じいとしてあつかわれている(ちなみに、このたけづち鹿島かしま神社じんじゃ主神しゅしんけい主神しゅしん香取かとり神社じんじゃ主神しゅしんとなっている[2]神代かみよにおいて、関東かんとう東北とうほく平定へいていは、このだい軍神ぐんしん加護かご祈祷きとうしておこなわれたので、この地方ちほうにはこれらのかみ分社ぶんしゃおお建立こんりゅうする[2]。)。そのこのはしらがやはり出雲いずもじゅう狭小きょうしょうなぎさ(いたさのおはま)にって、じゅうにぎけん(とつかのつるぎ)をすなたてて、だいおのれかみ(おおあなむち、大国たいこく主神しゅしんのこと)にくにゆずりをせまる。タケミナカタとのちからくらべの説話せつわ欠落けつらくするが、結局けっきょくだいおのれかみ自分じぶん征服せいふく役立やくだてたこうほこ献上けんじょうして恭順きょうじゅんしめ[9]。ところが、二神にかみまえだいおのれ貴命きめいがふたたび懐疑かいぎしんしめした(翻意ほんいした?)ため、天津てんしんしんは、くに皇孫こうそんまかせる見返みかえりに、立派りっぱみやまいとしててるとしてだいおのれ貴命きめい説得せっとくした[10]

またどう箇所かしょに、二神にかみかすべく相手あいてとして天津てんしんぼしがあげられ、これをせいしたかみが、香取かとりするとかれている。ただし、すこまえのくだりによれば、このほしかみ服従ふくじゅうさせたのはたてようづちいのち(たけはづち)であった[11]

神武じんむ東征とうせい[編集へんしゅう]

さらに後世こうせい神武じんむ東征とうせいにおいては、たてかみなりけん熊野くまのこずっていた神武じんむ天皇てんのうたすけている。熊野くまのくま出現しゅつげんしたため(『古事記こじき[12])、あるいは毒気どくけ(『日本書紀にほんしょき[13])によって、神武じんむぜんぐんうしなうかちからえきってしまったが、高倉たかくら(たかくらじ)が献上けんじょうしたけんると天皇てんのうをさまし、るうまでもなくおのずと熊野くまの悪神あくじんたちをことごとくせることができた。神武じんむ事情じじょうをたずねると高倉たかくら夢枕ゆめまくらかみ々があらわれ、アマテラスタカミムスビ高木たかぎかみ)が、かつて「葦原よしわら中国ちゅうごく平定へいてい経験けいけんあるタケミカヅチにいまいちど降臨こうりんして手助てだすけせよ」とめいじるいきおいだったが、たてかみなりは「かつて使用しようした自分じぶんけんをさずければことる」とい、(高倉たかくらの)くらあなをあけてねじみ、神武じんむのところへはこんでみつがせたのだという。そのけんぬのたましい(ふつのみたま)のほか、ぬのしん(さじふつのかみ)、ぬのしん(みかふつのかみ)の別名べつめいでもばれている[12]石上いしがみ神宮じんぐうのご神体しんたいである)。

考証こうしょう[編集へんしゅう]

かみ神話しんわ(イザナキ・イザナミがんだかみ々) SVGで表示ひょうじ対応たいおうブラウザのみ)

混同こんどうされがちなけい主神しゅしんべつかみで、『日本書紀にほんしょき』では葦原よしわら中国ちゅうごく平定へいていでタケミカヅチとともにったのはけい主神しゅしんであるとしるされている。けい主神しゅしん香取かとり神宮じんぐうまつられている物部ものべかみである。

名義めいぎそくしんともまれてきたことから、名義めいぎは「(ミカ)」、「(ヅ)」、「れい(チ)」、つまり「カメの神霊しんれい」とするせつ[14]、「けん」は「勇猛ゆうもうな」、「」は「神秘しんぴてきな」、「かみなり」は「いかれいかみなり)」ので、名義めいぎは「勇猛ゆうもうな、神秘しんぴてきかみなりおとこ」とするせつがある[15]。また雷神らいじんせつ賛同さんどうしつつも、「」からぼくうらないかみ性格せいかくつとするせつがある[16]

祭祀さいしつかさどちゅうしんやまとけんいのち東国とうごく征伐せいばつとも鹿島かしまふくつねそう地方ちほう定着ていちゃくし、ふるくから鹿島かしましんことタケミカヅチを祖神そしんとして信奉しんぽうしていたことから、平城京へいじょうきょう春日大社かすがたいしゃ奈良ならけん奈良なら)がつくられると、ちゅうしん鹿島かしましん勧請かんじょうし、一族いちぞく氏神うじがみとした。

信仰しんこう[編集へんしゅう]

鹿島かしま神宮じんぐう春日大社かすがたいしゃおよび全国ぜんこく鹿島かしま神社じんじゃ春日かすが神社じんじゃまつられている。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 小向こむかい 1992, p.77 に掲載けいさいのナマズ鹿島かしまかなめせきしん同様どうようもタケミカヅチとする
  2. ^ a b c d 武田たけだ政一まさかず (Masaichi Takeda)「かしまじんじゃ」『世界せかい百科ひゃっか事典じてん(Sekai hyakka jiten)』だい4かん、Heibonsha、404ぺーじ、1969ねん原著げんちょ1968ねん)。 
  3. ^ a b 三品みしな彰英あきひで (Shōei Mishina)「たけみかづち」『世界せかい百科ひゃっか事典じてん(Sekai hyakka jiten)』だい14かん、Heibonsha、367ぺーじ、1969ねん原著げんちょ1968ねん)。 
  4. ^ 武田たけだ 1996古事記こじき』p. 27/現代げんだいやく p.213
  5. ^ 武田たけだ 1996古事記こじき』p. 28/現代げんだいやく p.214 (けんめいのくだりでかされる)
  6. ^ 宇治谷うじたに 1988日本書紀にほんしょきじょう p.26
  7. ^ a b c 武田たけだ 1996古事記こじき』p. 60/現代げんだいやく p.244
  8. ^ 彦山ひこさん光三みつぞう (Mitsuzō Hikoyama)「すもう」『世界せかい百科ひゃっか事典じてん(Sekai hyakka jiten)』だい12かん、Heibonsha、597ぺーじ、1969ねん原著げんちょ1968ねん)。 
  9. ^ 宇治谷うじたに 1988日本書紀にほんしょきじょう p.56-8
  10. ^ 宇治谷うじたに 1988日本書紀にほんしょきじょう p.64-6
  11. ^ 宇治谷うじたに 1988日本書紀にほんしょきじょう p.64, 58
  12. ^ a b 武田たけだ 1996古事記こじき』p. 77-8/現代げんだいやく p.260-1
  13. ^ 宇治谷うじたに 1988はち咫烏」のだん、p.94-5
  14. ^ 日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ
  15. ^ 西宮にしのみや一民かずたみかみめい釈義しゃくぎ」『古事記こじき 新潮しんちょう日本にっぽん古典こてん集成しゅうせい新潮社しんちょうしゃ出版しゅっぱん、2014ねん
  16. ^ たから寿男としおちゅうしん氏族しぞく遠祖えんそたけづちしん」『いにしえじゅ紀之のりゆき房間ふさま』、2007ねん

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 武田たけだ, 祐吉ゆうきち (Yūkichi Takeda) しる中村なかむらあきらしん へんしんてい古事記こじき講談社こうだんしゃ、1996ねん原著げんちょ1977ねん)、60, 62, 77, 78, 95ぺーじ 
  • 宇治谷うじたに, はじめ (Tsutomu Ujitani)日本書紀にほんしょきじょう講談社こうだんしゃ、1988ねんISBN 9780802150585 

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]