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阿波あわ国分寺こくぶんじ

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阿波あわ国分寺こくぶんじ
庭園
庭園ていえん
所在地しょざいち 徳島とくしまけん徳島とくしま国府町矢野こくふちょうやの718-1
位置いち 北緯ほくい343ふん20.2びょう 東経とうけい13428ふん25びょう / 北緯ほくい34.055611 東経とうけい134.47361 / 34.055611; 134.47361 (阿波あわ国分寺こくぶんじ)座標ざひょう: 北緯ほくい343ふん20.2びょう 東経とうけい13428ふん25びょう / 北緯ほくい34.055611 東経とうけい134.47361 / 34.055611; 134.47361 (阿波あわ国分寺こくぶんじ)
山号さんごう くすりおうやま
院号いんごう 金色きんいろいん
宗派しゅうは 曹洞宗そうとうしゅう
本尊ほんぞん 薬師やくし如来にょらい
創建そうけんねん 天平てんぴょうかちたから8さい(756ねん以前いぜん
開基かいきつて行基ぎょうき
正式せいしきめい くすりおうやま 金色きんいろいん 国分寺こくぶんじ
別称べっしょう 国分寺こくぶんじ
札所ふだしょとう 四国八十八箇所しこくはちじゅうはっかしょ15ばん
文化財ぶんかざい 庭園ていえんくに名勝めいしょう)、けん史跡しせき
法人ほうじん番号ばんごう 1480005000970 ウィキデータを編集
阿波国分寺の位置(徳島県内)
国分寺
国分寺こくぶんじ
地図
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山門さんもん

阿波あわ国分寺こくぶんじ(あわこくぶんじ)は、徳島とくしまけん徳島とくしま国府町矢野こくふちょうやの位置いちする曹洞宗そうとうしゅう寺院じいんくすりおうやま(やくおうさん)、金色きんいろいん(こんじきいん)とごうす。本尊ほんぞん薬師如来やくしにょらい四国八十八箇所しこくはちじゅうはっかしょだいじゅうばん札所ふだしょ札所ふだしょ寺院じいんとしてはたん国分寺こくぶんじぶのが通例つうれいである。

  • 本尊ほんぞん真言しんごん:おん ころころ せんだりまとうぎ そわか
  • 詠歌えいかうすくわけわけしょくめぬれば 流転るてん生死せいし(るてんちょうじ)のあきのもみじ(ば)

歴史れきし

天平てんぺい13ねん741ねん)、聖武天皇しょうむてんのうはっした国分寺こくぶんじ建立こんりゅうみことのりにより諸国しょこくてられた国分寺こくぶんじひとつ。てらでんでは行基ぎょうきみずか薬師如来やくしにょらいきざんで開基かいきし、聖武天皇しょうむてんのうから釈迦如来しゃかにょらいぞうだい般若はんにゃけい光明皇后こうみょうこうごう位牌いはい厨子ずしおさめられたとつたわっている。当初とうしょ法相ほうしょうむね寺院じいんとして七堂伽藍しちどうがらんゆうするだい寺院じいんであった。ひろしひとし年間ねんかん(810 – 824ねん)に空海くうかい弘法大師こうぼうだいし)が巡錫じゅんしゃくしたさい真言宗しんごんしゅう改宗かいしゅうしたとされる。

史実しじつとしては、正確せいかく成立せいりつ過程かてい不明ふめいであるが、『ぞく日本にっぽん』に天平てんぴょうかちたから8さい756ねん)、聖武天皇しょうむてんのうしゅうさいし、阿波あわこくふくむ26かこく国分寺こくぶんじ仏具ぶつぐとう下賜かししたとの記載きさいがあり、おそくともこのころには完成かんせいしていたことがわかる。

天正てんしょう年間ねんかん(1573 – 1592ねん土佐とさ長宗我部ちょうそかべ元親もとちかひきいるぐん兵火へいかによって焼失しょうしつながらく荒廃こうはいしていたが、ひろし元年がんねん1741ねん)に徳島とくしまはんあるじ蜂須賀はちすかいのちによりぐん奉行ぶぎょう速水はやみ角五郎つのごろう復興ふっこうにかかり、たけろくてらほえやまやしなえ和尚おしょう再建さいけんしたことからのべとおる3ねん(1746ねん真言宗しんごんしゅうから曹洞宗そうとうしゅうあらた宇治うじ興聖寺こうせいじ末寺まつじとなった。

伽藍がらん

  • 山門さんもん
  • 本堂ほんどう瑠璃るり殿どの):文政ぶんせい9ねん(1826)ごろ再建さいけん。2015ねんから2020ねんまつまで屋根やね修繕しゅうぜん耐震たいしん補強ほきょう工事こうじ
大師堂だいしどう

たんそう山門さんもんはいると右手みぎて手水ちょうずじょうが、左手ひだりてには地蔵堂じぞうどうななじゅうとう礎石そせき鐘楼しゅろうどうならび、正面しょうめんおく本堂ほんどうがある。本堂ほんどう手前てまえみぎ大師堂だいしどうがある。がらす瑟沙明王みょうおうどうはそのよこにある。おさめけいしょ境内けいだい右手みぎておくにあり、庭園ていえん入口いりくちおさめけいしょひだりにある。

  • 宿坊しゅくぼう:なし
  • 駐車ちゅうしゃじょう普通ふつうしゃ無料むりょうで10だい大型おおがた進入しんにゅう不可ふか

文化財ぶんかざい

くに指定してい名勝めいしょう
  • 阿波あわ国分寺こくぶんじ庭園ていえん西南せいなんかた東西とうざい43 m、南北なんぼく42 m、面積めんせき1,900 m2。「阿波あわ青石あおいし」(緑色みどりいろ結晶けっしょう片岩かたいわ)を豪快ごうかいんだ枯山水かれさんすい特徴とくちょう戦国せんごく武将ぶしょう三好みよしが16世紀せいき後半こうはん安土あづち桃山ももやま時代じだいきずかれたと推定すいていされ、一部いちぶ江戸えど後期こうき大幅おおはば改修かいしゅうされた。たかさ4.3 mあまり立石たていし(りっせき)は全国ぜんこく最大さいだいきゅう[1]昭和しょうわ41ねんじゅうもりさんれいにより実測じっそく調査ちょうさ平成へいせい12ねん3がつ30にち指定してい[2][3]
けん指定してい史跡しせき
とうこころいしずえ
  • 阿波あわ国分寺こくぶんじあと天平てんぴょう時代じだい全国ぜんこく創建そうけんされたひとつで西にしななじゅうとうはい金堂こんどう講堂こうどう直線ちょくせんじょうなら東大寺とうだいじしき伽藍がらん配置はいちゆうし、げん境内けいだいふくかた2まちやく218 m四方しほう)と推定すいていされている。昭和しょうわ28ねん7がつ21にち指定してい[4]とうこころいしずえげん境内けいだい南西なんせい水田すいでんから出土しゅつどしたもの[5]

交通こうつう案内あんない

鉄道てつどう
バス
  • 徳島とくしまバス 神山かみやません延命えんめい経由けいゆ)・てんげん西にしせん国分寺こくぶんじまえ下車げしゃ (0.4 km)
道路どうろ

周辺しゅうへん関連かんれん遺跡いせき

ふしないぜん座標ざひょうしめした地図ちず - OSM
ふしないぜん座標ざひょう出力しゅつりょく - KML
阿波あわ国分こくぶ尼寺あまでらあと
  • 阿波あわ国府こくふあと徳島とくしま国府こくふまち推定すいていされるが、いま遺跡いせきつかっていない。
阿波あわ国府こくふあと有力ゆうりょく
  • 阿波あわ総社そうしゃ後継こうけいしゃ後継こうけい神社じんじゃは、八幡はちまん総社そうじゃりょう神社じんじゃ16ばん観音寺かんのんじ境内けいだいにあり、阿波あわこく式内しきないしゃ50勧請かんじょうした総社そうじゃ国府こくふ八幡宮はちまんぐう合祀ごうししたもので安政あんせい3ねん(1856ねん再建さいけんされた。もと観音寺かんおんじ南方なんぽう500 mのところ面積めんせきさんせんつぼおよきゅう社地しゃちがあったとされ「総社そうじゃはら」の呼称こしょういまつたわる。
八幡はちまん総社そうじゃりょう神社じんじゃ
だい神社じんじゃ
てん石門せきもんべつ八倉やくらうり神社じんじゃ
徳島とくしま市立しりつ考古こうこ資料しりょうかん

前後ぜんご札所ふだしょ

四国八十八箇所しこくはちじゅうはっかしょ
14 常楽寺じょうらくじ --(0.8 km)-- 15 国分寺こくぶんじ --(1.8 km)-- 16 観音寺かんのんじ

脚注きゃくちゅう

参考さんこう文献ぶんけん

  • 四国しこくはちじゅうはちヶ所かしょ霊場れいじょうかい へん先達せんだつ教典きょうてん四国しこくはちじゅうはちヶ所かしょ霊場れいじょうかい、2006ねん 
  • 宮崎みやざき建樹たけき四国しこく遍路へんろひとりある同行どうこうにん地図ちずへんだい8はん)、へんろみち保存ほぞん協力きょうりょくかい、2007ねん 

外部がいぶリンク