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美濃みの国分寺こくぶんじ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
国分寺こくぶんじ

本堂ほんどう
所在地しょざいち 岐阜ぎふけん大垣おおがき青野あおのまち419
位置いち 北緯ほくい3523ふん13.05びょう 東経とうけい13633ふん6.53びょう / 北緯ほくい35.3869583 東経とうけい136.5518139 / 35.3869583; 136.5518139 (美濃みの国分寺こくぶんじ)座標ざひょう: 北緯ほくい3523ふん13.05びょう 東経とうけい13633ふん6.53びょう / 北緯ほくい35.3869583 東経とうけい136.5518139 / 35.3869583; 136.5518139 (美濃みの国分寺こくぶんじ)
山号さんごう きむ銀山ぎんざん
宗派しゅうは 高野山こうのやま真言宗しんごんしゅう
寺格じかく じゅん別格べっかく本山ほんざん
本尊ほんぞん 薬師やくし如来にょらい
創建そうけんねんつて天平てんぺい9ねん737ねん
開基かいきつて行基ぎょうき
中興ちゅうこうねんつて元和がんわ元年がんねん1615ねん
中興ちゅうこうつて真教まさのり
正式せいしきめい きむ銀山ぎんざん 瑠璃光るりこういん 国分寺こくぶんじ
札所ふだしょとう 西にし美濃みのさんじゅうさん霊場れいじょう満願まんがん札所ふだしょ
文化財ぶんかざい 木造もくぞう薬師如来やくしにょらい坐像ざぞう重要じゅうよう文化財ぶんかざい)ほか
法人ほうじん番号ばんごう 3200005004519 ウィキデータを編集
美濃国分寺の位置(岐阜県内)
美濃国分寺
美濃みの国分寺こくぶんじ
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美濃みの国分寺こくぶんじ(みのこくぶんじ)は、岐阜ぎふけん大垣おおがき青野あおのまちにある寺院じいん高野山こうのやま真言宗しんごんしゅうじゅん別格べっかく本山ほんざん西にし美濃みのさんじゅうさん霊場れいじょう満願まんがん札所ふだしょ山号さんごうきむ銀山ぎんざん本尊ほんぞん薬師やくし如来にょらい

奈良なら時代じだい聖武天皇しょうむてんのうみことのりにより日本にっぽん各地かくち建立こんりゅうされた国分寺こくぶんじのうち、美濃みのこく国分こくぶそうてら後継こうけい寺院じいんにあたる。ほんこうではげん寺院じいんとともに、古代こだい寺院じいんあとである美濃みの国分寺こくぶんじあとくに史跡しせき)と、美濃みの国分こくぶ寺跡てらあと史跡しせき指定していなし)についても解説かいせつする。

概要がいよう[編集へんしゅう]

美濃みの国分寺こくぶんじ空中くうちゅう写真しゃしん
(1987年度ねんど
中央ちゅうおう古代こだい国分寺こくぶんじあと上方かみがた山麓さんろくげん国分寺こくぶんじ境内けいだい位置いちし、げん国分寺こくぶんじ右側みぎがわくさむらかわらかまあと位置いちする。

岐阜ぎふけん西部せいぶ大垣おおがき市街地しがいちから西方せいほう国分寺こくぶんじさん南東なんとうふもと位置いちする[1]聖武天皇しょうむてんのうみことのり創建そうけんされた国分寺こくぶんじ法燈ほうとう寺院じいんで、古代こだい国分寺こくぶんじげん国分寺こくぶんじ南側みなみがわ平坦へいたん青野原あおのはら)に位置いちし、仁和にわ3ねん887ねん)に焼失しょうしつ、その再建さいけん12世紀せいきすえごろには衰退すいたいしたとされる。そして、元和がんわ元年がんねん1615ねん)に土中どちゅうからされた薬師やくし如来にょらいぞう本尊ほんぞんとしてげん国分寺こくぶんじ再興さいこうされたという。付近ふきんでは美濃みの国分こくぶ寺跡てらあとのほか美濃みの国府こくふあと昼飯ひるめし大塚おおつか古墳こふん美濃みの最大さいだい古墳こふん)が、南方なんぽうには南宮なんぐう大社たいしゃ美濃みのこく一宮いちのみや)、西方せいほうには不破ふわせき立地りっちし、ふるくから政治せいじてき文化ぶんか的中てきちゅう心地ごこちかつ要所ようしょであったことがられる。

古代こだい国分寺こくぶんじあとについては、とう礎石そせき露出ろしゅつ遺物いぶつ出土しゅつどによりふるくから国分寺こくぶんじあとであることがられており、1916ねん大正たいしょう5ねん)にくに史跡しせき指定していされた[2]1968ねん昭和しょうわ43年度ねんど以降いこう発掘はっくつ調査ちょうさ実施じっしされて伽藍がらんだい部分ぶぶん判明はんめいし、現在げんざいでは史跡しせき整備せいびうえ美濃みの国分寺こくぶんじあと歴史れきし公園こうえんとして公開こうかいされている[3]。またげん国分寺こくぶんじでは、本尊ほんぞんとして平安へいあん時代じだいさくとされるいち木造もくぞうきょぞう薬師如来像やくしにょらいぞうくに重要じゅうよう文化財ぶんかざい)を現在げんざいつてする。

歴史れきし[編集へんしゅう]

創建そうけん[編集へんしゅう]

創建そうけんしょう天平てんぺい13ねん741ねん)の国分寺こくぶんじ建立こんりゅうみことのりころ創建そうけんされたとられる。

発掘はっくつ調査ちょうさでは、主要しゅよう堂塔どうとう750ねんだいには完成かんせいしていたと推定すいていされる[3]。また美濃みの国分寺こくぶんじ以前いぜんとなる白鳳はくほう寺院じいんあと重複じゅうふくみとめられており、その前身ぜんしん寺院じいん在地ざいち豪族ごうぞくてらか)を踏襲とうしゅうして国分寺こくぶんじ建立こんりゅうされたことが判明はんめいしている[4][5][3]同様どうよう白鳳はくほう寺院じいんとして、不破ふわぐんいきでは国分寺こくぶんじ南方なんぽうみやところ寺跡てらあと宮代みやしろ廃寺はいじみとめられている[3]

なお、後継こうけい寺院じいんであるきむ銀山ぎんざん国分寺こくぶんじてらでんでは、天平てんぴょう9ねん737ねん)に聖武天皇しょうむてんのうみことのりはいした行基ぎょうき当地とうちいたり、みずか薬師やくし如来にょらいぞうって本尊ほんぞんとするとともに七堂伽藍しちどうがらんてててらひらいたという[6]伝承でんしょう内容ないようつまびらかでなく、後述こうじゅつのように薬師如来像やくしにょらいぞうについては後世こうせい平安へいあん時代じだいころさくになるとされる。

古代こだい[編集へんしゅう]

天平てんぺい神護かんご2ねん766ねん[げん 1]には、伊勢いせこく美濃みのこくなどにめいじた内容ないようのうちに、官舎かんしゃ修理しゅうりすう奏聞そうもんさせる場合ばあいには「国分こくぶてら」もこれにじゅんじるようにとえる[1]

神護かんごけいくも4ねん770ねん[げん 2]には、美濃みのこくかたけんぐんしょうりょう国造くにのみやつこゆうまんわたしいね2まんたば国分寺こくぶんじけんじたことで昇叙しょうじょされた[1][3]。またたからひさし6ねん775ねん[げん 3]には、伊勢いせこく尾張おわりこく美濃みのこく異常いじょう風雨ふううがあり、国分寺こくぶんじしょてらとう19が倒壊とうかいするなどの被害ひがいたとえる[1][3]

仁和にわ3ねん887ねん[げん 4]には火災かさいによって全焼ぜんしょうし、その機能きのうせきぐん定額ていがく尼寺あまでらうつされた[4][1][5][3]。その再建さいけんについて文献ぶんけんじょう記述きじゅつみとめられていないが、発掘はっくつ調査ちょうさでは10世紀せいき前半ぜんはん-中頃なかごろには当地とうちでの再建さいけんみとめられる[7]

延長えんちょう5ねん927ねん成立せいりつの『延喜えんぎしき主税しゅぜいじょう規定きていでは、美濃みのこく国分寺こくぶんじりょうとしていね4まんたばがあてられている[1]

寛弘かんこう元年がんねん1004ねん)のかん宣旨せんじ[げん 5]では、美濃みのこく国分寺こくぶんじ堂塔どうとうざつしゃ破損はそんじょうきょう調しらべるために坂本さかもと忠国ただくにらの派遣はけんめいじられており、当時とうじには堂塔どうとう存在そんざいみとめられる(再建さいけん国分寺こくぶんじへの派遣はけんか)[4][1][3]。またちょうはじめ2ねん1029ねん)には、そんしょく使つかわされた[3]

なお、現在げんざい金銀きんぎんさん国分寺こくぶんじ本尊ほんぞん11世紀せいきころさくられる薬師如来像やくしにょらいぞうについてもと再建さいけん国分寺こくぶんじ本尊ほんぞんとするせつがあるほか[3]寺跡てらあといきからは11世紀せいきだいはい釉陶多数たすう検出けんしゅつされており、当時とうじてらぜい示唆しさされる[5]。しかし、その12世紀せいきすえごろまでには衰退すいたいし、国分寺こくぶんじとしての機能きのううしなったと推測すいそくされる[7]

中世ちゅうせい[編集へんしゅう]

中世ちゅうせいには、安貞やすさだ2ねん1228ねん)の文書ぶんしょこう宇多院うだいんりょうになったむねが、正和しょうわ3ねん1314ねん)の文書ぶんしょみこと親王しんのう後醍醐天皇ごだいごてんのう)から四辻よつつじ入道にゅうどう親王しんのう返還へんかんされたむねえる[1][5]。またげんとおる2ねん1322ねん)の文書ぶんしょには、山城やましろ醍醐寺だいごじはちすぞういん坊領ぼうりょうとしてえる[1][5]

貞治さだはる4ねん1365ねん)の文書ぶんしょでは、美濃みの守護しゅご土岐とき頼康よりやすたいして伊勢いせ美濃みの尾張おわりなどの国分寺こくぶんじたいする春日しゅんじつしゃづくりがえりょう賦課ふかめいじられている[1]

近世きんせい[編集へんしゅう]

江戸えど時代じだいはいり、元和がんわ元年がんねん1615ねん)に阿闍梨あじゃりきょう土中どちゅうから薬師如来像やくしにょらいぞうし、これを本尊ほんぞんとして国分寺こくぶんじ再建さいけんしたという(現在げんざい金銀きんぎんさん国分寺こくぶんじ[5]

近代きんだい以降いこう[編集へんしゅう]

近代きんだい以降いこうについてはつぎとおり。

  • 1916ねん大正たいしょう5ねん)、耕地こうち整理せいりさいして金堂こんどう基壇きだん発見はっけん[8]
  • 1921ねん大正たいしょう10ねん)3がつ3にち国分寺こくぶんじあとくに史跡しせき指定してい金堂こんどうとう周辺しゅうへん[2][7]
  • 1968-1979ねん昭和しょうわ43-54年度ねんど)、てらいき範囲はんい確認かくにん発掘はっくつ調査ちょうさ史跡しせき整備せいびともな発掘はっくつ調査ちょうさ大垣おおがき教育きょういく委員いいんかい[3]
  • 1971ねん昭和しょうわ46ねん)7がつ22にち史跡しせき範囲はんい追加ついか指定してい伽藍がらんいきだい部分ぶぶんおよびかわらかまあと[2][7]
  • 1974ねん昭和しょうわ49ねん)5がつ22にち史跡しせき範囲はんい追加ついか指定してい[2]
  • 1974-1980ねん昭和しょうわ49-55年度ねんど)、史跡しせき環境かんきょう整備せいび大垣おおがき教育きょういく委員いいんかい[3][8]
  • 1982ねん昭和しょうわ57ねん)10がつ5にち北側きたがわ隣接りんせつ大垣おおがき歴史れきし民俗みんぞく資料しりょうかん開館かいかん[8]
  • 1996ねん平成へいせい8年度ねんど以降いこう伽藍がらん南側みなみがわ隣接りんせつ発掘はっくつ調査ちょうさ大垣おおがき教育きょういく委員いいんかい[3]
  • 2007ねん平成へいせい19ねん)8がつ31にち美濃みの国分寺こくぶんじあと歴史れきし公園こうえん全面ぜんめん開園かいえん[7]
  • 2019ねんれい元年がんねん)10がつ16にち史跡しせき範囲はんい追加ついか指定してい[9]

境内けいだい[編集へんしゅう]

美濃みの国分寺こくぶんじあと[編集へんしゅう]

美濃みの国分寺こくぶんじあと 主要しゅよう伽藍がらん
みなみ門跡もんぜき位置いちから、ちゅう門跡もんぜき手前てまえ)・回廊かいろうない建物たてものあとおくひだり)・とうあとおくみぎ)・金堂こんどうあと最奥さいおう)をのぞむ。
金堂こんどうあと
とうあと
回廊かいろうない建物たてものあと

そう寺跡てらあとげん国分寺こくぶんじ南方なんぽう位置いちする(北緯ほくい3523ふん5.61びょう 東経とうけい13633ふん4.09びょう / 北緯ほくい35.3848917 東経とうけい136.5511361 / 35.3848917; 136.5511361 (美濃みの国分寺こくぶんじあと))。てらいき東西とうざい230メートル・南北なんぼく250メートルで、築地つきじへいをもって区画くかくされていた。主要しゅよう伽藍がらんとして、みなみもん中門ちゅうもん金堂こんどう講堂こうどう僧房そうぼう推定すいてい)がみなみから一直線いっちょくせんはいされていた。そして中門ちゅうもん左右さゆうからは回廊かいろう金堂こんどう左右さゆうき、その回廊かいろうかこまれた内側うちがわひがしりにとうはいされる大官大寺だいかんだいじしき伽藍がらん配置はいちになる[3][7](かつては回廊かいろう内側うちがわ西にし金堂こんどうひがしとう法起寺ほうきじしき伽藍がらん配置はいちとされていた[10])。遺構いこう詳細しょうさいつぎとおり。

金堂こんどう
本尊ほんぞんまつ建物たてもの基壇きだんは塼積基壇きだんで、東西とうざい36.5メートル・南北なんぼく22.85メートルをはかり、南北なんぼく両面りょうめん中央ちゅうおう階段かいだん[3]。また基壇きだん周囲しゅういにはいぬはしり(はば1.1メートル)が、その外側そとがわ雨落あまおちみぞみとめられる[7]基壇きだんじょう建物たてものむね東西とうざい方向ほうこうとする桁行けたゆき7あいだ×梁間はりま4あいだ建物たてもので、東西とうざい桁行けたゆき)29.4メートル(98しゃく)・南北なんぼくりょうこう)16.2メートル(54しゃく)をはかり、四囲しいひさし[3]現在げんざいどう位置いち基壇きだん復元ふくげんされている[3]
とう
経典きょうてん金光かねみつあきらさいかちおうけい)をおさめたとう国分寺こくぶんじ以外いがい場合ばあい釈迦しゃか遺骨いこつ舎利しゃり)をおさめた)。回廊かいろう内側うちがわ中門ちゅうもん金堂こんどうあいだひがしりに位置いちする[3]基壇きだんは塼積基壇きだんで、東西とうざい19.0メートル・南北なんぼく19.2メートルをはか[3]基壇きだんせきにははんちく技法ぎほうみとめられるほか、基壇きだん周囲しゅういにはあめかずらせき雨落あまおち)がめぐらされる[7]基壇きだんじょう建物たてものななじゅうとうられ、3あいだ四方しほういちへん10.8メートル(36しゃく)をはか[3]たかさは58メートルと推定すいていされる[7]基壇きだん中央ちゅうおうにおいてこころいしずえ東西とうざい1.9メートル・南北なんぼく2.1メートル)がみとめられるほか、よんてんばしらがわばしら礎石そせきみとめられている[3]現在げんざいどう位置いち基壇きだん盛土もりつちにより標示ひょうじされるとともに階段かいだん復元ふくげんされ、現物げんぶつ礎石そせき露出ろしゅつ展示てんじされている[3]
回廊かいろうない建物たてもの
用途ようと不明ふめい建物たてもの回廊かいろう内側うちがわ中門ちゅうもん金堂こんどうあいだ西にしりに位置いちする[3]基壇きだん礎石そせき検出けんしゅつされていないが、雨落あまおちみぞ検出けんしゅつにより、基壇きだん東西とうざい25.4メートル・南北なんぼく16.4メートルとされる[7]みぞないからは平安へいあん時代じだいかわら出土しゅつどしているため、仁和にわ火災かさい再建さいけん建物たてもの推測すいそくするせつがある[7]現在げんざいどう位置いち基壇きだん盛土もりつちにより標示ひょうじされている。
講堂こうどう
経典きょうてん講義こうぎきょうせつなどをおこな建物たてもの金堂こんどう北方ほっぽう位置いちする[3]基壇きだん石積いしつみ基壇きだんで、東西とうざい27メートル・南北なんぼく18メートルをはか[3]基壇きだんじょう建物たてもの礎石そせき建物たてもので、むね東西とうざい方向ほうこうとする桁行けたゆき5あいだ×梁間はりま4あいだ建物たてものであり、東西とうざい桁行けたゆき)21メートル(70しゃく)・南北なんぼくりょうこう)12.18メートル(40.6しゃく)をはかり、四囲しいひさし[3]屋根やねひのきがわ葺と推測すいそくされるほか、北側きたがわには僧房そうぼうへとつづのきろうゆうする[3]現在げんざいどう位置いち遺構いこう標示ひょうじがなされている。
僧房そうぼう
そう定員ていいん20にん)の宿舎しゅくしゃ回廊かいろう西側にしがわ遺構いこう検出けんしゅつされているほか(西にしめん僧房そうぼう)、講堂こうどう北側きたがわ回廊かいろう東側ひがしがわでもそれぞれ存在そんざい推定すいていされる(北面ほくめん僧房そうぼう東面とうめん僧房そうぼう)。
西にしめん僧房そうぼう掘立柱ほったてばしら建物たてもので、むね南北なんぼく方向ほうこうとする桁行けたゆき10あいだ以上いじょう×梁間はりま3あいだ建物たてものである[7]前身ぜんしん寺院じいん転用てんようであるほか、2建替たてかえみとめられる[7]現在げんざいどう位置いち基壇きだん盛土もりつちにより標示ひょうじされている。北面ほくめん僧房そうぼう講堂こうどうのきろう接続せつぞくするとされるが、詳細しょうさいあきらかでない[3]
経蔵きょうぞう
経典きょうてん収蔵しゅうぞうした建物たてもの回廊かいろう外側そとがわ金堂こんどう講堂こうどうあいだひがしりに位置いちすると推定すいていされ(鐘楼しゅろうとは伽藍がらん中軸ちゅうじくせんたいして左右さゆう対称たいしょう推定すいてい)、鐘楼しゅろう同等どうとう程度ていど規模きぼられるが、未検出みけんしゅつのため詳細しょうさいあきらかでない[3][7]現在げんざい推定すいてい位置いち基壇きだん盛土もりつちにより標示ひょうじされている。
鐘楼しゅろう
梵鐘ぼんしょうつるした建物たてもの回廊かいろう外側そとがわ金堂こんどう講堂こうどうあいだ西にしりに位置いちする(経蔵きょうぞうとは伽藍がらん中軸ちゅうじくせんたいして左右さゆう対称たいしょう推定すいてい[3]基壇きだんは塼積基壇きだんで、東西とうざい8.91メートル・南北なんぼく12.9メートルをはか[3]基壇きだん周囲しゅういには雨落あまおちみぞめぐらされるほか、その外側そとがわには石敷せきふみとめられる[7]基壇きだんじょう建物たてもの掘立柱ほったてばしら建物たてもので、むね南北なんぼく方向ほうこうとする3あいだ×2あいだ[3]南北なんぼく12.2メートル・東西とうざい8.6メートルをはか[7]現在げんざいどう位置いち基壇きだん復元ふくげんされている。
中門ちゅうもん
金堂こんどう南方なんぽう位置いちし、左右さゆうには回廊かいろう[3]基壇きだん東西とうざい18メートル・南北なんぼく8.2メートルをはか[3]基壇きだんじょう建物たてもの礎石そせきそぎたいらけているためつまびらかでないが、前身ぜんしん寺院じいん建物たてもの掘立柱ほったてばしらはしらすうほん検出けんしゅつされている[7]現在げんざいどう位置いち基壇きだん盛土もりつちにより標示ひょうじされている。
回廊かいろう
中門ちゅうもん金堂こんどうむす屋根やねきの廊下ろうかで、中門ちゅうもん左右さゆうから金堂こんどう左右さゆう[3]はばは6メートルで、回廊かいろう全体ぜんたいとしては東西とうざい120メートル・南北なんぼく93メートルをはか[7]基壇きだんはんちくみとめられていないほか、基壇きだん周囲しゅうい雨落あまおちみぞには塼が使用しようされる[7]みぞない検出けんしゅつされた大量たいりょうひのきがわより、回廊かいろう屋根やねひのきがわ葺と推定すいていされる[7]
みなみもん
中門ちゅうもん南方なんぽう位置いちする、国分寺こくぶんじ正面しょうめんもん基壇きだんそぎたいらされていたが、側溝そっこうから東西とうざい19.8メートル・南北なんぼく12メートルと推定すいていされる[3]基壇きだんじょう建物たてものそぎたいらのためつまびらかでないが、前身ぜんしん寺院じいん建物たてもの掘立柱ほったてばしらはしらすうほん検出けんしゅつされている[7]現在げんざいどう位置いち基壇きだん盛土もりつちにより標示ひょうじされている。
築地つきじへい
てらいき区画くかくするへいはば6.2メートル(下部かぶ)・たかさ3メートル(推定すいてい)をはか[7]みなみきた西側にしがわではへいがいはばやく3メートルのだいみぞめぐらされる[7]現在げんざいどう位置いち盛土もりつちうえ栽により標示ひょうじされている。

以上いじょうのほか、国分寺こくぶんじあと正面しょうめんでは参道さんどう・幢竿支柱しちゅう掘立柱ほったてばしら建物たてもの井戸いどみとめられている[7][3]。またてらいきからは多量たりょうかわら土器どきのほか、金属きんぞく製品せいひん瓔珞ようらくつり金具かなぐとう)・木製品もくせいひん人形にんぎょうだいときくしとう)が検出けんしゅつされており[3]、それらの一部いちぶ大垣おおがき歴史れきし民俗みんぞく資料しりょうかん展示てんじされている。

なお、国分寺こくぶんじさん山麓さんろくではかわらかまあと調査ちょうさ)がみとめられているほか(北緯ほくい3523ふん12.00びょう 東経とうけい13633ふん12.05びょう / 北緯ほくい35.3866667 東経とうけい136.5533472 / 35.3866667; 136.5533472 (かわらかまあと)[1][7]国分寺こくぶんじあと周囲しゅういではじょうさとせい地割じわりみとめられる[5][8]。また青野あおのまち鎮座ちんざする八幡やはた神社じんじゃは、国分寺こくぶんじ鎮守ちんじゅであったと推測すいそくされる[11]

美濃みの国分こくぶ寺跡てらあと[編集へんしゅう]

美濃みの国分こくぶ寺跡てらあと推定すいてい
不破ふわぐん垂井たるいまち平尾ひらお

尼寺あまでらあと不破ふわぐん垂井たるいまち平尾ひらお推定すいていされ[1][5][7]現在げんざい石碑せきひてられている(北緯ほくい3522ふん55.19びょう 東経とうけい13632ふん26.33びょう / 北緯ほくい35.3819972 東経とうけい136.5406472 / 35.3819972; 136.5406472 (美濃みの国分こくぶ寺跡てらあと))。同地どうち美濃みの国府こくふあと美濃みの国分寺こくぶんじあとあいだ位置いちし、出土しゅつどかわらには国分寺こくぶんじあとおな文様もんようみとめられている[1]2004ねん平成へいせい16ねん以降いこうには発掘はっくつ調査ちょうさ実施じっしされており、建物たてもの基壇きだん検出けんしゅつされている[12]

文化財ぶんかざい[編集へんしゅう]

重要じゅうよう文化財ぶんかざいくに指定してい[編集へんしゅう]

  • 木造もくぞう薬師如来やくしにょらい坐像ざぞう彫刻ちょうこく
    平安へいあん時代じだいさく[5][13][14]ケヤキざいいち木造もくぞうによるきょぞう[14]ぞうだか304.8センチメートル、ひざはり112.5センチメートル、ひざだか22.7センチメートルをはか[15]てらでんでは奈良なら時代じだいさくとし、行基ぎょうきみずからケヤキの大木たいぼくからって美濃みの国分寺こくぶんじ本尊ほんぞんとしたという。実際じっさい制作せいさく年代ねんだい11世紀せいきころられ、かんしょうさくとするせつがあるが[5]部分ぶぶんてきには江戸えど時代じだい後期こうき補修ほしゅうされている[14]。1914ねん大正たいしょう3ねん)8がつ25にち指定してい[13][15]

くに史跡しせき[編集へんしゅう]

  • 美濃みの国分寺こくぶんじあと
    1921ねん大正たいしょう10ねん)3がつ3にち指定してい金堂こんどうとう周辺しゅうへん[2][7]
    1971ねん昭和しょうわ46ねん)7がつ22にち史跡しせき範囲はんい追加ついか指定してい伽藍がらんいきだい部分ぶぶんおよびかわらかまあと[2][7]
    1974ねん昭和しょうわ49ねん)5がつ22にち史跡しせき範囲はんい追加ついか指定してい合計ごうけい伽藍がらんいき54,219.95平方へいほうメートル、かわらかまあと4,237.03平方へいほうメートル)[2][7]
    2019ねんれい元年がんねん)10がつ16にち史跡しせき範囲はんい追加ついか指定してい[9]

大垣おおがき指定してい文化財ぶんかざい[編集へんしゅう]

現地げんち情報じょうほう[編集へんしゅう]

所在地しょざいち
交通こうつうアクセス
関連かんれん施設しせつ
周辺しゅうへん

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

原典げんてん

  1. ^ ぞく日本にっぽん天平てんぺい神護かんご2ねん(766ねん)9がつつちのえうま(5にちじょう
  2. ^ ぞく日本にっぽん宝亀ほうき元年がんねん(770ねん)4がつ癸巳きしついたち(1にちじょう
  3. ^ ぞく日本にっぽん宝亀ほうき6ねん(775ねん)8がつみずのと(22にちじょう
  4. ^ 日本にっぽんさんだい実録じつろく仁和にわ3ねん(887ねん)6がつ5にちじょう
  5. ^ 類聚るいじゅうせんしょう所収しょしゅう 寛弘かんこう元年がんねん(1004ねんうるう9がつ13にちづけかん宣旨せんじ。 - 国史こくし大系たいけい だい12かん経済けいざい雑誌ざっししゃ国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション)649-650コマ参照さんしょう

出典しゅってん

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m 美濃みの国分寺こくぶんじあと平凡社へいぼんしゃ) & 1989ねん.
  2. ^ a b c d e f g 美濃みの国分寺こくぶんじあと - くに指定してい文化財ぶんかざいとうデータベース(文化庁ぶんかちょう
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al 美濃みの国分寺こくぶんじあとパンフレット。
  4. ^ a b c 美濃みの国分寺こくぶんじあと国史こくし.
  5. ^ a b c d e f g h i j 中世ちゅうせい諸国しょこく一宮いちのみやせい & 2000ねん, pp. 253–254.
  6. ^ きむ銀山ぎんざん国分寺こくぶんじ 説明せつめいばん
  7. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac 史跡しせき説明せつめいばん
  8. ^ a b c d 大垣おおがき歴史れきし民俗みんぞく資料しりょうかんパンフレット。
  9. ^ a b れい元年がんねん10がつ16にち文部もんぶ科学かがくしょう告示こくじだい83ごう
  10. ^ 美濃みの国分寺こくぶんじあと岐阜ぎふけんホームページ)。
  11. ^ 青野あおのむら」『日本にっぽん歴史れきし地名ちめい大系たいけい 21 岐阜ぎふけん地名ちめい平凡社へいぼんしゃ、1989ねん
  12. ^ 美濃みの国分こくぶ寺跡てらあと推定すいてい垂井たるいまち教育きょういく委員いいんかい垂井たるいまち文化財ぶんかざいアーカイブ」)。
  13. ^ a b 木造もくぞう薬師如来やくしにょらい坐像ざぞう - くに指定してい文化財ぶんかざいとうデータベース(文化庁ぶんかちょう
  14. ^ a b c 木造もくぞう薬師如来やくしにょらい坐像ざぞう説明せつめいばん
  15. ^ a b 木造もくぞう薬師如来やくしにょらい坐像ざぞう岐阜ぎふけんホームページ)。
  16. ^ a b 指定してい文化財ぶんかざい一覧いちらんひょう (PDF)大垣おおがきホームページ、2017ねん2がつ22にち更新こうしんばん)。
  17. ^ 美濃みの国分寺こくぶんじあとくに指定してい史跡しせき.

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

記事きじ執筆しっぴつ使用しようした文献ぶんけん

  • 史跡しせき説明せつめいばん大垣おおがき教育きょういく委員いいんかい設置せっち
  • 美濃みの国分寺こくぶんじあとパンフレット(大垣おおがき教育きょういく委員いいんかい
  • 大垣おおがき歴史れきし民俗みんぞく資料しりょうかんパンフレット(大垣おおがき教育きょういく委員いいんかい大垣おおがき文化ぶんか事業じぎょうだん
  • 事典じてんるい
    • 野村のむら忠夫ただお美濃みの国分寺こくぶんじあと」『国史こくしだい辞典じてん吉川弘文館よしかわこうぶんかん 
    • 日本にっぽん歴史れきし地名ちめい大系たいけい 21 岐阜ぎふけん地名ちめい平凡社へいぼんしゃ、1989ねんISBN 4582490212 
      • 美濃みの国分寺こくぶんじあと平尾ひらおむら
    • 美濃みの国分寺こくぶんじあと」『くに指定してい史跡しせきガイド』講談社こうだんしゃ  - リンクは朝日新聞社あさひしんぶんしゃ「コトバンク」。
  • その文献ぶんけん
    • 中世ちゅうせい諸国しょこく一宮いちのみやせい研究けんきゅうかいへん へん中世ちゅうせい諸国しょこく一宮いちのみやせい基礎きそてき研究けんきゅう岩田いわた書院しょいん、2000ねんISBN 978-4872941708 

関連かんれん文献ぶんけん[編集へんしゅう]

記事きじ執筆しっぴつ使用しようしていない関連かんれん文献ぶんけん

  • 美濃みの国分寺こくぶんじあと関連かんれん
    • 史跡しせき美濃みの国分寺こくぶんじあと環境かんきょう整備せいび事業じぎょう報告ほうこく -発掘はっくつ調査ちょうさ報告ほうこくしょ-』大垣おおがき教育きょういく委員いいんかい、1981ねん 
    • 史跡しせき美濃みの国分寺こくぶんじあと大垣おおがき教育きょういく委員いいんかい、2005ねん 
    • 美濃みの国分寺こくぶんじあと -国分寺こくぶんじ遺跡いせき伽藍がらん南面なんめん隣接りんせつ調査ちょうさ)-(大垣おおがき埋蔵まいぞう文化財ぶんかざい調査ちょうさ報告ほうこくしょ だい15しゅう)』大垣おおがき教育きょういく委員いいんかい、2005ねん 
  • 美濃みの国分こくぶ寺跡てらあと関連かんれん
    • 美濃みの国分こくぶ寺跡てらあと発掘はっくつ調査ちょうさ報告ほうこく -岐阜ぎふけん不破ふわぐん垂井たるいまち平尾ひらお-』垂井たるいまち教育きょういく委員いいんかい、2010ねん 
    • 「わかってきた美濃みの国分こくぶ尼寺あまでら」『垂井たるい文化財ぶんかざい だい35しゅう垂井たるいまち文化財ぶんかざい保護ほご協会きょうかい、2011ねん 

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]