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武蔵坊むさしぼう弁慶べんけい

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弁慶べんけいから転送てんそう
和漢わかんえいいさみでん』より「義経よしつね 弁慶べんけい五条ごじょうはしたたかふ」(歌川うたがわ国芳くによし
五条ごじょう大橋おおはしでのたたかいをえがいた江戸えど時代じだい浮世絵うきよえ

武蔵坊むさしぼう 弁慶べんけい(むさしぼう べんけい、武藏坊むさしぼう 辨慶べんけい[注釈ちゅうしゃく 1]生年せいねんしょう - 文治ぶんじ5ねんうるう4がつ30にち1189ねん6月15にち〉?)は、平安へいあん時代じだい末期まっきそうしゅ僧兵そうへい)。源義経みなもとのよしつね郎党ろうとう

鎌倉かまくら幕府ばくふ記録きろくした「吾妻あづまきょう」に義経よしつね部下ぶかとして名前なまえ登場とうじょうする。おなじく鎌倉かまくら時代じだいかれた軍記物語ぐんきものがたり平家ひらか物語ものがたり」「源平げんぺい盛衰せいすい」においても名前なまえ記録きろくされている。しかしながら、出身しゅっしん容姿ようし性格せいかく活動かつどう内容ないよう最期さいごった詳細しょうさい情報じょうほうについては、当時とうじ資料しりょうには一切いっさい記録きろくがないことから、弁慶べんけい功績こうせき伝説でんせつとされるものは後世こうせい創作そうさくである(後述こうじゅつ)。

生涯しょうがい

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もと比叡山ひえいざんそう武術ぶじゅつこのみ、五条ごじょう大橋おおはし義経よしつね出会であって以来いらい郎党ろうとうとしてかれ最後さいごまでつかえたとされる。

義経よしつね忠義ちゅうぎくした怪力かいりき無双むそう荒法師あらほうしとして名高なだかく、怪力かいりき豪傑ごうけつ代名詞だいめいしとしてもちいられている。

後述こうじゅつのようなひろられる弁慶べんけい逸話いつわは、『義経よしつね』をはじめとした、室町むろまち時代ときよ以降いこう後世こうせい成立せいりつした創作そうさくもとにしたものである。

鎌倉かまくら時代じだい当時とうじ文献ぶんけんにおいては、『吾妻あづまきょう文治ぶんじ元年がんねん1185ねん11月3にちじょうに、

ぜん中將ちゅうじょう侍從じじゅう良成よしなり義經よしつね同母どうぼおとうと一條いちじょう大藏おおくらきょうちょう成男しげお伊豆いずみぎ衛門えもんじょうゆうつなほり弥太郎やたろうけいこう佐藤さとう四郎しろう兵衛ひょうえじょう忠信ちゅうしん伊勢いせ三郎さぶろうのうもり片岡かたおか八郎はちろうひろけい弁慶べんけい法師ほうしやめしょうしたがえ彼此ひしいきおいひゃく云々うんぬん

11月6にちじょうに、

あいしたがえしゅうやからよんにん所謂いわゆる伊豆いずみぎ衛門えもんじょうほり弥太郎やたろう武藏むさしぼう弁慶べんけい并妾おんなせい一人ひとり也。

と、義経よしつね郎党ろうとう一人ひとりとしてしるされているのみである。これは『平家ひらか物語ものがたり』においても同様どうようで、いずれも出自しゅつじ業績ぎょうせき最期さいごとうについてはまったれられていない。『源平げんぺい盛衰せいすい』では、弁慶べんけいトビのような法師ほうし形容けいようしているが、こちらでも業績ぎょうせき最期さいごについてはまったれられていない。肖像しょうぞう外見がいけん記録きろくもほとんど後世こうせいつたわっていないことから、弁慶べんけいとされる絵画かいが彫像ちょうぞうすべて、そのとき芸術げいじゅつによる想像そうぞうである。

吾妻あづまきょう』ほか『たま』によると、都落みやこおちののち周辺しゅうへん潜伏せんぷくする義経よしつね比叡山ひえいざん悪僧あくそう僧兵そうへい)らが庇護ひごしており、そのなか俊章としあき(しゅんしょう)というそうは、義経よしつね奥州おうしゅうまで案内あんないしたとされる。また文治ぶんじ5ねん(1189ねん)1がつ13にちには、義経よしつねきょうかえ意志いしいた手紙てがみった比叡山ひえいざん悪僧あくそうせんひかりぼうななろう(せんこうぼう しちろう)が、北条ほうじょうじょう時政ときまさおい)に捕縛ほばくされている。このななろうは、『吾妻あづまきょう文治ぶんじよんねん(1188ねん8がつ17にちじょうによれば、あく徒浪あだなみじんあつめて悪行あくぎょうはたらいたとがめでおたずものになっていた僧侶そうりょとされている。

これら義経よしつね庇護ひごした複数ふくすう比叡山ひえいざん悪僧あくそう所業しょぎょうあつめられ、誇張こちょうされて後述こうじゅつ武蔵坊むさしぼう弁慶べんけい伝説でんせつ構成こうせいされたとするせつがある。

創作そうさくぶつにおける弁慶べんけい

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誕生たんじょう

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熊野くまの別当べっとう(『義経よしつね』では「べんしょう」、『弁慶べんけい物語ものがたり』ではわきまえしん)が、大納言だいなごんひめ強奪ごうだつしてませたとされる。はは胎内たいないに18ヶ月かげつ(『弁慶べんけい物語ものがたり』では3ねん)いて、まれたときには2、3歳児さいじからだつきで、かみかたかくすほどび、奥歯おくば前歯まえばえそろっていたという。ちちはこれは鬼子おにごだとしてころそうとしたが、叔母おばられておにわか[注釈ちゅうしゃく 2]命名めいめいされ、きょうそだてられた。

ぎゅうわかとの出会であ

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おにわか比叡山ひえいざんれられるが勉学べんがくをせず、乱暴らんぼうぎてされてしまう。おにわかみずか剃髪ていはつして武蔵坊むさしぼう弁慶べんけい名乗なのる。その四国しこくから播磨はりまこくくが、そこでも狼藉ろうぜきかえして、播磨はりま圓教寺えんきょうじ堂塔どうとう炎上えんじょうさせてしまう。

やがて、弁慶べんけいきょうせんほん太刀たちうばおうとしんちかう。弁慶べんけい道行みちゆひとおそい、とおりかかった帯刀たいとう武者むしゃ決闘けっとうして999ほんまであつめたが、あといちほんというところで、五条ごじょう大橋おおはしふえきつつとおりすがる義経よしつね出会であう。弁慶べんけい義経よしつねこしに佩びた見事みごと太刀たちめ、太刀たちをかけていどみかかるが、欄干らんかん身軽みがる義経よしつねにかなわず、かえちにった。弁慶べんけい降参こうさんしてそれ以来いらい義経よしつね家来けらいとなった。この決闘けっとう後世こうせい創作そうさく当時とうじじょう大橋おおはしはまだなく、決闘けっとう場所ばしょも『義経よしつね』では五条ごじょう大橋おおはしではなく堀川ほりかわ小路こうじから清水しみず観音かんのんでの出来事できごととされている。また現在げんざい松原まつばらどおり当時とうじの「五条ごじょうどおり」であり、またきゅう五条ごじょうどおり西洞院にしのとういん五条ごじょうたかし神社じんじゃ存在そんざいし、そこにかるはしであったともいわれている。決闘けっとう場所ばしょ五条ごじょう大橋おおはしとするのは、明治めいじとぎばなし作家さっか巖谷いわや小波さざなみいた『日本にっぽんむかしはなし』によるもので、『尋常じんじょう小学しょうがく唱歌しょうか』の「ぎゅうわかまる」もこれにしたがっている[1]千本せんぼん太刀たちをあと一本いっぽんうばいそこねるはなし仏教ぶっきょう寓話ぐうわ同様どうようはなし存在そんざいする(アングリマーラ参照さんしょう)。

義経よしつね忠臣ちゅうしん

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その弁慶べんけい義経よしつね忠実ちゅうじつ家来けらいとして活躍かつやくし、平家ひらか討伐とうばつ功名こうみょうてる。あにみなもと頼朝よりとも対立たいりつした義経よしつね都落みやこおちするのに同行どうこう山伏やまぶし姿すがたえた苦難くなん逃避行とうひこうで、弁慶べんけい智謀ちぼう怪力かいりき義経よしつねいちぎょうたすけた。

いちぎょう加賀かがこく安宅あたかせきで、富樫とかしかいのうの『安宅あたか』では富樫とかし何某なにぼう(なにがし)、歌舞伎かぶきの『勧進かんじんちょう』では富樫とかし左衛門さえもん富樫とかしやすし比定ひていされる)にとがめられる。弁慶べんけいにせ勧進かんじんちょうげ、うたがわれた義経よしつねみずからの金剛杖こんごうづええる。富樫とかし弁慶べんけいうそ見破みやぶりつつも、その心情しんじょうおもんばかりあえてだまされたりをしてとおし、義経よしつねいちぎょう無事ぶじせきえる。

義経よしつねいちぎょうは、奥州おうしゅう平泉ひらいずみにたどりき、藤原秀衡ふじわらのひでひらのもとへせる。だがしゅう衡がぬと、藤原ふじわらやすし頼朝よりともによる再三さいさん圧力あつりょくくっちち遺言ゆいごんやぶり、義経よしつね主従しゅうじゅう衣川きぬがわかんおそった(衣川きぬがわたたか)。多数たすう敵勢てきせい相手あいて弁慶べんけいは、義経よしつねまもってどう入口いりくちって薙刀なぎなたるって孤軍こぐん奮闘ふんとうするも、あめようてき身体しんたいけてったまま絶命ぜつめいし、その最期さいごは「弁慶べんけい立往生たちおうじょう」と後世こうせいかたがれた。

なお、義経よしつね主従しゅうじゅう衣川きぬがわかんではなず、平泉ひらいずみだっして蝦夷えぞへ、あるいは西国さいこくのがれたとする、いわゆる「義経よしつねきたぎょう伝説でんせつ」にも、弁慶べんけいかんするエピソードは数多かずおお登場とうじょうする。

のう歌舞伎かぶき

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弁慶べんけい猿楽さるがくのうの『安宅あたか』やそれを歌舞伎かぶきした『勧進かんじんちょう』でも主役しゅやくっている。

花道かどうだし

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義経よしつね頼朝よりとも不仲ふなかになり、都落みやこおちして奥州おうしゅう藤原ふじわらのもとにをよせることになった。途上とじょう義経よしつねいちぎょう山伏やまぶしふんして安宅あたかせきえようとした。

勧進かんじんちょう

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ところがいちぎょう関守せきもり富樫とかしとがめられる。これを弁慶べんけいは「奈良なら東大寺とうだいじ再建さいけんのため諸国しょこくをまわり勧進かんじん寄付きふ)をつの山伏やまぶしである。」とこたえ、富樫とかしは「勧進かんじんちょうしゅっせ」とる。もとよりいちぎょうはそのようなものをっていなかった。しかし、弁慶べんけい機転きてんかせ、もともとてら修行しゅぎょう経験けいけんがあったことがさいわいして、わせの巻物まきものひろげ、朗朗ろうろうげていく。この機転きてんによって無事ぶじせきえられそうであった。

打擲ちょうちゃく

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しかし「いちぎょうなかつねかさかおおおっていて不自然ふしぜん行動こうどうをするもの義経よしつね非常ひじょうている」と富樫とかし部下ぶかがいいだしたため、なおいっそううたがわれてしまう。さら弁慶べんけい機転きてんかせ、今度こんどっていたつえで「おまえ義経よしつねているために、あらぬうたがいをかけられてしまったではないか!」とののしりながら主君しゅくんである義経よしつねなんなんなぐった。「いくらなんでもつえ主君しゅくんをぶつものはこのにいるはずがない」とせきものたちにそうおもわせることに成功せいこうし、いちぎょう無事ぶじせきえることができた。

主従しゅうじゅう述懐じゅっかい

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そして、弁慶べんけい無事ぶじせきえられたのちあるじなぐったことについて義経よしつねきながらびたというすじである。

以上いじょう内容ないようは、歌舞伎かぶき演目えんもく案内あんない[2]参照さんしょう

五条ごじょうはしでの義経よしつねとのたたかいをあつかった『はし弁慶べんけい』というのうや、義経よしつね西国さいこくちの道程どうていあつかった『ふね弁慶べんけい』という猿楽さるがくのうになっている。また、義経よしつね主人公しゅじんこうとした『義経よしつね千本せんぼんさくら』などの歌舞伎かぶきにも、主要しゅよう人物じんぶつ一人ひとりとして登場とうじょうする。

弁慶べんけいゆかりとつたえられるもの

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弁慶べんけい産屋うぶやくすのきあと(べんけいうぶやのくすのきあと)(三重みえけん紀宝きほうまち[3]
紀宝きほうまち鮒田ふなだ地区ちくには弁慶べんけいまれたとされる屋敷やしきにわにあったくすのきあと石碑せきひて、弁慶べんけい伝説でんせつつたえている。
弁慶べんけいはか岩手いわてけん平泉ひらいずみまち
中尊寺ちゅうそんじ表参道おもてさんどう入口いりくちまえ広場ひろばに、竹垣たけがきかこわれたまつえたづかがあり、その根本こんぽん弁慶べんけいはかつたわる五輪ごりんとうっている[4]かたわらには中尊寺ちゅうそんじそうとりんだ「いろかへぬ まつのあるしや 武蔵坊むさしぼう」の句碑くひ[4]。「でん弁慶べんけいはか」ので、中尊寺ちゅうそんじ境内けいだいひとつとして特別とくべつ史跡しせき指定していされている。
弁慶石べんけいいし京都きょうと京都きょうと
中京ちゅうきょう三条さんじょうどおりふすままちひがしいれ御幸みゆきまちとのあいだ)の歩道ほどうわきにあるいしおとこさわると力持ちからもちになるといういいつたえがある。このほかにも7つ、全国ぜんこくで8つ弁慶べんけいがんばれるものが存在そんざいする。すべて弁慶べんけい平泉ひらいずみわた旅路たびじにあり、弁慶べんけいはこんだ、弁慶べんけいすわった、弁慶べんけいかたなった、比叡山ひえいざんから弁慶べんけいばしたなどの伝承でんしょうがそれぞれにのこっている。
弁慶べんけいのお手玉てだませき同上どうじょう
まるみのあるいわで、お手玉てだまわりにげたとされる。
弁慶べんけいななもどり(茨城いばらきけんつくば
筑波つくばさん登山とざん道中どうちゅうにある。大岩おおいわしたをくぐって通過つうかする箇所かしょにおいて、いわちないか弁慶べんけいなん確認かくにんしたことに由来ゆらいする。
弁慶べんけいかけせき長野ながのけん佐久さく安原やすはら
弁慶べんけい背負せおったいしけたとされるあとや、なわ痕跡こんせきがある。
弁慶べんけいあぶみせき長野ながのけん佐久さく下平尾しもひらお
弁慶べんけい浅間山あさまやま平尾ひらおさんあしをかけゆみ足形あしがたとされるものがある。
弁慶べんけい腰掛こしかけまつ長野ながのけん御代田みよたまちらくてら
弁慶べんけいてら参拝さんぱいしたさいまつこしかけたという[5]
弁慶べんけいづか神奈川かながわけん茅ヶ崎ちがさき藤沢ふじさわ
茅ヶ崎ちがさきつるみね八幡宮はちまんぐう参道さんどうわき藤沢ふじさわ常光寺じょうこうじ裏手うらてにある、弁慶べんけいはかつたわるづか
弁慶べんけいあぶらこぼし(山形やまがたけん鶴岡つるおか
羽黒山はぐろさんにて、弁慶べんけいがあまりの勾配こうばい奉納ほうのうするあぶらをこぼしてしまったことによる[6]
弁慶べんけい足跡あしあと北海道ほっかいどう檜山ひやまぐん江差えさしまち
義経よしつねとも蝦夷えぞ現在げんざい北海道ほっかいどう)にび、江差えさしにいたという伝説でんせつつたわっており、江差えさしまち鴎島かもめじまにあるいわの2つのくぼみが、弁慶べんけいけた「弁慶べんけい足跡あしあと」とつたえられている[7]
弁慶べんけい力石りきいし同上どうじょう
上記じょうきの「弁慶べんけい足跡あしあと」とともに「義経よしつね伝説でんせつ」として、現在げんざい江差えさしまち鴎島かもめじま鴎島かもめじま灯台とうだい下部かぶあたりに、おな鴎島かもめじまにある瓶子へいじがんとほぼおなじ10mほどのおおきさの巨石きょせきがかつてはあり、弁慶べんけい鍛錬たんれん使つかっていたといわれていたが、昭和しょうわ9ねん1934ねん)の函館はこだて大火たいか発生はっせいした高波たかなみでさらわれたとつたえられている[7]
弁慶べんけい土俵どひょうあと北海道ほっかいどう寿都すっつぐん寿都すっつまち
同町どうちょう政泊まさどまりまちにあり、アイヌちから自慢じまん相撲すもうった場所ばしょとされ、石碑せきひ案内あんないばん設置せっちがある[8]近辺きんぺんみさきは「弁慶岬べんけいみさき」とばれ、「武蔵坊むさしぼう弁慶べんけい」の銅像どうぞうち、設置せっちされている灯台とうだいも「弁慶岬べんけいみさき灯台とうだい」と名付なづけられている[9]
弁慶べんけいかたなかけがん北海道ほっかいどう岩内いわうちぐん岩内いわうちまち
雷電らいでん海岸かいがんにある雷電岬らいでんみさきいわ一部いちぶかたなかけのようなかたちをしているもの。「義経よしつね伝説でんせつ」として、びてこの休息きゅうそくっていた弁慶べんけいが、こし太刀たち邪魔じゃまになったことからこの場所ばしょいわ一部いちぶ自慢じまんちからでひねってそこに太刀たちけていたというはなしつたえられている[10][11]現在げんざい国道こくどう229ごうの「かたなかけトンネル」 - 「カスペトンネル」のあいだ弁慶べんけいかたなかけがんのぞめるもっとちか場所ばしょとなっている[12]
弁慶べんけいたきぎせきがん同上どうじょう
上記じょうき弁慶べんけいかたなかけがん」に程近ほどちかい、国道こくどう229ごう「カスペトンネル」 - 「弁慶べんけいトンネル」あいだにあるいわ[12][13]弁慶べんけいだんるためにたおしてんでいたたきぎ化石かせきになったとつたえられている[14]

弁慶べんけいにちなんだ言葉ことば

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弁慶べんけい立往生たちおうじょうあらわしたきく人形にんぎょう

弁慶べんけいふるくから豪傑ごうけつ怪力かいりき代名詞だいめいしとしてもちいられており、それにちなんださまざまな言葉ことばがある。

弁慶べんけい立往生たちおうじょう
義経よしつね衣川きぬがわかんめられたさい弁慶べんけいてきへい次々つぎつぎたおすが、ついには無数むすうけて薙刀なぎなたつえにして仁王立におうだちのままいきえたとつたえられている。ここからいのちして主君しゅくんまもっていた忠義ちゅうぎしんあらわす。たんに「立往生たちおうじょう」としるした場合ばあい進退しんたいきわまることのたとえにもちいられる[注釈ちゅうしゃく 3]
また、かつて民家みんかもちいられた、わらなどをたばにして囲炉裏いろりはしるし、くしとおしたさかな獣肉じゅうにくしてけむり燻製くんせいつくれるようにした道具どうぐも「弁慶べんけい」とんだが、これはわらたば大量たいりょうくしさっている様子ようすを、弁慶べんけい立往生たちおうじょう見立みたてたものとされる。
弁慶べんけいどころ
弁慶べんけいほどの豪傑ごうけつでもここをてばなみだながすほどいたいとされる急所きゅうしょのこと。もっともよくられているのがずね膝頭ひざがしらしたから足首あしくびうえまで)で、皮膚ひふのすぐほね脛骨けいこつ)のすぐじょう神経しんけいかよっている。アキレス腱あきれすけん中指なかゆびだいいち関節かんせつからさき部分ぶぶんもこのようにばれる。
弁慶べんけいなな道具どうぐ
弁慶べんけいっていたとつたえられるななしゅ武器ぶき薙刀なぎなた[注釈ちゅうしゃく 4]てつ熊手くまで大槌おおつち大鋸おがとげまた突棒つくぼうそで)からてんじて、7一式いっしきのものをなな道具どうぐぶようになり、「選挙せんきょの-」、「探偵たんていの-」のような使つかわれかたをされる。
内弁慶うちべんけいそと地蔵じぞう
陰弁慶かげべんけい」「炬燵こたつ弁慶べんけい」とも。あるいは「内弁慶うちべんけいそとねずみ」や「内弁慶うちべんけい」のみでももちいられる。身内みうちなかでは強気つよきになって威張いばらすが、らない相手あいてには意気地いくじがなくおとなしい人間にんげんのこと[15]てんじて、特定とくてい場面ばめんにおいてのみ威勢いせいるさまをもって「-弁慶べんけいとうわせてもちいる。
弁慶べんけいぎなたしき
ぎなた」とも。「弁慶べんけい薙刀なぎなたってころした」というぶんを「弁慶べんけいがな、ぎなたをってさ、しさつした」と区切くぎりを間違まちがえてむこと。句読点くとうてんかた(または息継いきつぎ)をえると文章ぶんしょう意味いみわるということをしめれい。「ここではきものをぬいでください」なども同様どうよう

弁慶べんけいにちなんだ名前なまえ

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弁慶べんけいかに
うみちか河口かこういき小型こがたカニ名前なまえ由来ゆらいは、甲羅こうら模様もよう弁慶べんけいいかつい形相ぎょうそう連想れんそうさせるからといわれる。せんやぶうみしずんだたいら連想れんそうさせるヘイケガニ対比たいひさせたともいわれる。
弁慶縞べんけいじま
弁慶べんけい格子こうし(べんけいごうし)」とも。紺色こんいろ茶色ちゃいろ浅葱あさつきしょくなど、二色にしきいろいと格子こうしじょう碁盤ごばんのようにった文様もんようちゃこんのものを「ちゃ弁慶べんけい」、こん浅葱あさつきのものを「あい弁慶べんけい」という。縦横じゅうおうしま交差こうさするところはいろかさなってくなっている。
弁慶草べんけいそう
別名べつめいイキクサ。分厚ぶあつぐんをなす淡紅あわべにしょくしょうはな特色とくしょく多年草たねんそう
辨慶べんけいごう
北海道ほっかいどう官営かんえい幌内ほろない鉄道てつどう使用しようされたアメリカせいテンダーがた蒸気じょうき機関きかんしゃだい2号機ごうきけられた愛称あいしょうで、ほかにも「義経よしつね」(1号機ごうき)や「しづか」(6号機ごうき)など弁慶べんけいえんのある歴史れきしじょう人物じんぶつにちなんだ愛称あいしょうけられた。国鉄こくてつ7100かたち蒸気じょうき機関きかんしゃとして鉄道てつどう博物館はくぶつかん保存ほぞん
弁慶岬べんけいみさき
北海道ほっかいどう寿都すっつまち寿都湾すっつわん西口にしぐちにある。衣川きぬがわんだとされた弁慶べんけいきずつきながらもいのちめ、ようやくこのなが再起さいき機会きかいをうかがっていたという伝説でんせつのこる。

弁慶べんけいかいした交流こうりゅう

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和歌山わかやまけん田辺たなべは、弁慶べんけい生誕せいたんであると観光かんこう資料しりょうなどにしるしており、毎年まいとし10がつだい1金曜きんよう土曜日どようび弁慶べんけい誕生たんじょうにちなんだ「弁慶べんけいまつり」を開催かいさいしている。死没しぼつである岩手いわてけん平泉ひらいずみまち1982ねん昭和しょうわ57ねん)に姉妹しまい都市とし提携ていけい締結ていけつ近年きんねんでは世界せかい遺産いさん紀伊きい山地さんち霊場れいじょう参詣さんけいどう田辺たなべ)・平泉ひらいずみふつ国土こくど浄土じょうど)をあらわ建築けんちく庭園ていえんおよ考古学こうこがくてき遺跡いせきぐん平泉ひらいずみまち))をかかえる自治体じちたいとしての交流こうりゅうさかんになっている。

関連かんれん作品さくひん

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小説しょうせつ
漫画まんが
映画えいが
テレビドラマ
ゲーム
楽曲がっきょく
  • 弁慶べんけいわらべうた[16]
    • このうた「べんけいが」という曲名きょくめい紹介しょうかいされていることもある[17]

その

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  • かつて角界かくかいに「武蔵坊むさしぼう弁慶べんけい」の四股しこめい名乗なの力士りきしがいた。弁慶べんけいじないだけの素質そしつがあり、その才能さいのうのち横綱よこづなとなる後輩こうはい武蔵丸むさしまる光洋みつひろ以上いじょうといわれたが、角界かくかい風習ふうしゅう馴染なじめず、早々そうそう引退いんたいしてしまった。
  • 幼少ようしょう比叡山ひえいざん横川よこがわいけにいた8しゃくものこいじょ子供こどもおそうことがあったので単身たんしんでそのこいして退治たいじした逸話いつわがある。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ に「べん」「辧」「べん」などの異体いたい表記ひょうきする文献ぶんけんもある。
  2. ^ 義経よしつね』では「おにわか」、『弁慶べんけい物語ものがたり』『はし弁慶べんけい』『じぞり弁慶べんけい』では「わかいち(にゃくいち)」、『武蔵坊むさしぼう弁慶べんけい物語ものがたり』では「わかいち」の幼名ようみょうとなっている。
  3. ^ なお、この立往生たちおうじょうについては医学いがくてき見地けんちからさまざまな議論ぎろんがなされている。法医学ほういがく立場たちばからは、いちじるしい肉体にくたい疲労ひろう即死そくしのショックからくる即時そくじせい死後しご硬直こうちょくではないかと考察こうさつされているが、ありないとする意見いけんもあり、真偽しんぎさだかではない。
  4. ^ 弁慶べんけい薙刀なぎなためいは「いわとおる(いわとおし)」とつたわっており、作者さくしゃ不明ふめいだが三条さんじょうはじめちかとするせつもある。

出典しゅってん

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  1. ^ 唱歌しょうかぎゅうわかまる」のふしぎ”. 注文ちゅうもんおお山猫やまねこのき. 2008ねん10がつ2にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2013ねん5がつ14にち閲覧えつらん
  2. ^ 勧進かんじんちょう”. 歌舞伎かぶき演目えんもく案内あんない. 2020ねん7がつ19にち閲覧えつらん
  3. ^ 紀宝きほうまちホームページ https://www.town.kiho.lg.jp/tourisms/1730/
  4. ^ a b でん弁慶べんけいはか”. りょういわ地区ちく広域こういき市町村しちょうそんけん協議きょうぎかい. 2020ねん7がつ19にち閲覧えつらん
  5. ^ 佐久さく教育きょういくかい歴史れきし委員いいんかい へん佐久さく口碑こうひ伝説でんせつしゅう 北佐久きたさくへん 限定げんてい復刻ふっこくばん佐久さく教育きょういくかい、1978ねん11月15にち、123-163ぺーじ 
  6. ^ 山形やまがたけん. “羽黒山はぐろさん”. 山形やまがたけん. 2021ねん11月28にち閲覧えつらん
  7. ^ a b 江差えさしまち公式こうしきウェブサイト「弁慶べんけい力石りきいし2017ねん9がつ4にち閲覧えつらん
  8. ^ 場所ばしょおよ周辺しゅうへん画像がぞうをGoogleマップにて確認かくにん。2019ねん7がつ22にち閲覧えつらん
  9. ^ 弁慶岬べんけいみさき近辺きんぺんについては寿都すっつまち公式こうしきウェブサイト「弁慶岬べんけいみさきにて確認かくにん。2019ねん7がつ22にち閲覧えつらん
  10. ^ 岩内いわうちまち公式こうしきウェブサイト「かたなかけがん雷電らいでん夕日ゆうひ2019ねん7がつ22にち閲覧えつらん
  11. ^ 日本にっぽん奇岩きがんひゃくけい+「弁慶べんけいかたなかけがん2019ねん7がつ22にち閲覧えつらん
  12. ^ a b 場所ばしょは「スーパーマップル 北海道ほっかいどう道路どうろ地図ちず 2018ねん5はん2さつ昭文社しょうぶんしゃ かん ISBN 978-4-398-63255-5」にて確認かくにん。2019ねん7がつ22にち閲覧えつらん
  13. ^ 場所ばしょはGoogleマップにて確認かくにん。2019ねん7がつ22にち閲覧えつらん
  14. ^ 岩内いわうちまち公式こうしきウェブサイト「弁慶べんけいたきぎせきがん2019ねん7がつ22にち閲覧えつらん
  15. ^ 内弁慶うちべんけいそと地蔵じぞう”. 2020ねん7がつ19にち閲覧えつらん
  16. ^ 阿部あべ直美なおみ『0〜5歳児さいじたのしくふれあう! わらべうたあそび120』ナツメしゃ、2015ねん、122-123ぺーじISBN 978-4-8163-5787-9
  17. ^ べんけいが(作詞さくし:わらべうた/作曲さっきょく:わらべうた)/Hoick楽曲がっきょく検索けんさく童謡どうよう・こどものうたを検索けんさく!〜2018ねん6がつ20日はつか閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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