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常滑とこなめしょう

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常滑とこなめかまから転送てんそう
愛知あいちけん常滑とこなめさかえまち窯業ようぎょう施設しせつ
常滑とこなめはい釉壺 平安へいあん時代じだい 個人こじんぞう
重要じゅうよう文化財ぶんかざい
常滑とこなめつぼ ロサンジェルス・カウンティ美術館びじゅつかんぞう
自然しぜんさんすじつぼ 平安へいあん時代じだい 12世紀せいき 東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかんぞう
自然しぜん釉壺 三重みえけん伊勢いせ二見ふたみまち溝口みぞぐち出土しゅつど 平安へいあん時代じだい 12世紀せいき 東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかんぞう

常滑とこなめしょう(とこなめやき)は、愛知あいちけん常滑とこなめ中心ちゅうしんとし、その周辺しゅうへんふく知多半島ちたはんとううちかれる炻器日本にっぽんろくかまひとつ。

2017ねん平成へいせい29ねん4がつ29にち常滑とこなめしょうは、瀬戸焼せとやき愛知あいちけん瀬戸せと)、越前えちぜんしょう福井ふくいけん越前えちぜんまち)、波立はったちくいしょう兵庫ひょうごけん丹波たんば篠山しのやま)、備前焼びぜんやき岡山おかやまけん備前びぜん)、信楽焼しがらきやき滋賀しがけん甲賀こうが)、とともに、日本にっぽんろくかまとして日本にっぽん遺産いさん認定にんていされた(日本にっぽんろくかま 公式こうしきWebサイト)。

中世ちゅうせい常滑とこなめしょう

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平安へいあん時代じだい末期まっき12世紀せいき前半ぜんはん)、猿投さなげかま南部なんぶはい釉陶かま(およびその系譜けいふつらなるやま茶碗ぢゃわんかま)の南下なんかともな形成けいせいされた知多半島ちたはんとうかまあとぐん母体ぼたいとするが、はい釉陶伝統でんとうにはない大型おおがたつぼあらたに主要しゅよううつわしゅとして創造そうぞうすることで瓷器[1]けい中世ちゅうせい陶器とうき主要しゅよう生産せいさんとなった。中世ちゅうせい常滑とこなめしょうかまあとは1,000以上いじょうすうせんおよぶとされるが、その実数じっすう不明ふめい過去かこ学説がくせつでは最高さいこう10,000というものがあるが[2]根拠こんきょ不明瞭ふめいりょうといわねばならない。

平安へいあん時代じだい末期まっき製品せいひん素朴そぼくなかにも王朝おうちょう文化ぶんか名残なごりかんじさせる優美ゆうびさをち、経塚きょうづかなどの仏教ぶっきょう遺跡いせきもちいられる事例じれいすくなからずあり、さらに奥州おうしゅう平泉ひらいずみ遺跡いせきぐん大量たいりょうにつかわれていたことが判明はんめいしている[3]

鎌倉かまくら時代ときよには素朴そぼく力強ちからづよつぼなどが生産せいさんされ鎌倉かまくらでは、おびただしいりょうつぼはち消費しょうひされていることが鎌倉かまくら遺跡いせきぐん発掘はっくつ調査ちょうさ判明はんめいしている。そして、平安へいあん時代じだい末期まっき以来いらいひろ太平洋たいへいよう沿岸えんがん中心ちゅうしんとして流通りゅうつうしていたが、鎌倉かまくら時代じだいになると、さらにその流通りゅうつうけん拡大かくだい充実じゅうじつしている。瀬戸内せとうち地方ちほう広島ひろしまけん福山ふくやま所在しょざいする草戸くさど千軒せんげんまち遺跡いせきは、備前焼びぜんやき生産せいさんちか立地りっちながら、鎌倉かまくら時代じだい常滑とこなめしょう数多かずおお出土しゅつどしており[4]、そこからも、この時期じき常滑とこなめしょう流通りゅうつうのありかたうかがわれる。

そのすうすうせんともわれる中世ちゅうせいかまは、ひろ知多半島ちたはんとう丘陵きゅうりょう傾斜けいしゃめんられた地下ちかあなぐらかま(ちかしきあながま)で、その大半たいはん平安へいあん時代じだい末期まっきから南北なんぼくあさまでの期間きかんにおさまっている。なお、中世ちゅうせい常滑とこなめしょう代表だいひょうする大型おおがた貯蔵ちょぞう生産せいさんは、常滑とこなめ地域ちいき中心ちゅうしんとする半島はんとう中部ちゅうぶかまおこなわれることがおおく、半島はんとう北部ほくぶ南部なんぶでは、はい釉陶由来ゆらいするやま茶碗ぢゃわんしょうわん小皿こざらなどを中心ちゅうしんとした生産せいさんおこなわれている。

室町むろまち時代ときよになると半島はんとう全域ぜんいきひろ分布ぶんぷしていたかまきゅう常滑とこなめまち周辺しゅうへんあつまり、しかも集落しゅうらく近接きんせつした丘陵きゅうりょう斜面しゃめんきずかれるようになる。この段階だんかいではわんさらるい生産せいさんおこなわず、つぼはち生産せいさんとくしている。また、室町むろまちのある段階だんかいはん地上ちじょうしきだいかまかま構造こうぞう転換てんかんしている。そして、そのだいかま江戸えど時代じだい常滑とこなめしょういたかまでもあり、べつ鉄砲てっぽうかまともばれた。美術びじゅつ分野ぶんやで「常滑とこなめ」とばれるものは、おおあなぐらかまかれた製品せいひんしているが、その区分くぶんはかならずしも明確めいかくではなく大窯おおがま製品せいひんをも常滑とこなめなかれる場合ばあいすくなくない[5]

きんかまれい常滑とこなめしょう

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戦国せんごく時代じだい織田おだ信長のぶなが瀬戸せと陶器とうき生産せいさん保護ほごするために天正てんしょう2ねんきんかまれい」をしたことで常滑とこなめ陶器とうき生産せいさん一旦いったん終焉しゅうえんむかえたとするせつがある。その初出しょしゅつ昭和しょうわ10年代ねんだい刊行かんこうきゅう愛知あいちけん』で、昭和しょうわ49ねんかんの『常滑とこなめ窯業ようぎょう』でも採用さいようされている。しかし、このせつたいして赤羽あかはね一郎いちろう1983ねん昭和しょうわ58ねん)の著書ちょしょ常滑とこなめ』で「きんかまれい」の根拠こんきょとされる朱印しゅいんじょう文面ぶんめんは、もの生産せいさんすべてを禁止きんししたのではなく瀬戸せとふうもの他所よそくことをきんじたと解釈かいしゃくすべきであること。常滑とこなめかまかず急減きゅうげん市街地しがいちへの集約しゅうやくは、天正てんしょうよりはるか以前いぜんこった現象げんしょうであること、そして、天正てんしょう生産せいさんされた可能かのうせいたか常滑とこなめしょうは、中世ちゅうせいじょうかんあとなどからすくなからず出土しゅつどしていること、さらには瀬戸せと競合きょうごう関係かんけいにあるのは常滑とこなめではなく、生産せいさん内容ないよう類似るいじする美濃みのしょうであるべきで、実際じっさい15世紀せいきから16世紀せいきにかけて瀬戸せと技術ぎじゅつ美濃みの流入りゅうにゅうしている現象げんしょうがあるなどの理由りゆうをあげて、その「きんかまれい」の常滑とこなめへの影響えいきょう否定ひていしている。その日本にっぽん各地かくち発掘はっくつ調査ちょうさによっても天正てんしょう初期しょき極端きょくたん生産せいさん減少げんしょうみとめることはできない。

近世きんせい常滑とこなめしょう

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江戸えど時代じだい常滑とこなめむら瀬木せぎむら北条ほうじょうむらさんそんかれるもの常滑とこなめしょう総称そうしょうした。なかでも北条ほうじょうむらもっとかまおおく、元禄げんろくななねんかまあらためで常滑とこなめ瀬木せきが2ずつであるのにたいし、北条ほうじょうは8である。その北条ほうじょうとおる年間ねんかんに10天明てんめい年間ねんかんに8、そして、江戸えど末期まっき天保てんぽう年間ねんかんに11である。常滑とこなめむら瀬木せぎむらについては、その記録きろくがないが江戸えど末期まっきに1から2増加ぞうかがあった程度ていど推測すいそくされる程度ていどである。

近世きんせい常滑とこなめしょうでは高温こうおんめたしんしょう(まやけ)もの素焼すやじょうあかぶつ(あかもの)とばれる製品せいひんぐんがある。焼物やきものつぼ中心ちゅうしんとするが、江戸えど後期こうきになると茶器ちゃきさけなどの小細工こざいくぶつばれる陶芸とうげいしな登場とうじょうする。一方いっぽうあかぶつ素焼すやきのつぼのほかだこつぼ火消ひけしつぼかまど火鉢ひばちなどが中心ちゅうしんとなるが、江戸えど末期まっきには土樋つちとい(どひ)とよばれる土管どかんあかぶつとして登場とうじょうしてくる。土管どかん下水道げすいどうつくろううとしている

尾張おわりはんほうななはちだいのころに北条ほうじょうむら渡辺わたなべ弥平やへいは、そのいのちけて茶器ちゃきさけかん花瓶かびんなどをつくって上納じょうのうしたところ、いずれも賞玩しょうがんされ、それらが無名むめいであることからもとこうときたまわり、以後いご作品さくひんもとこうとき記入きにゅうすることになったとされる。その常滑とこなめでも伊奈いな長三郎ちょうさぶろう上村うえむらしろかもめ赤井あかい陶然とうぜんなどの名工めいこう茶器ちゃきさけなどにわざるった。また、文政ぶんせい年間ねんかん稲葉いなばだかどうしょう左衛門さえもん)はとおしゅう秋葉山あきはさんまいり、そこで伝来でんらいの「足利あしかが同朋どうほうたつみ阿弥あみ秘蔵ひぞう 茶器ちゃきさんひゃくひろえいちひんこれない 茶瓶ちゃびんよんひろえさんひん」とある写本しゃほんゆずけてかえり、常滑とこなめはじめて急須きゅうすつくったとされる。また、杉江すぎえ寿ことぶきもんどう安平あびら)は、安政あんせい元年がんねん常滑とこなめ医者いしゃ急須きゅうす収集しゅうしゅうでもあった平野ひらの忠司ただし指導しどうけつつ、中国ちゅうごくちゃつぼ素材そざいちかしゅどろ創出そうしゅつすることに成功せいこうした。

常滑とこなめれんぼうしきとうかま導入どうにゅうされるのは天保てんぽう年間ねんかんのこととされる。おな天保てんぽう年間ねんかんだい伊奈いな長三ちょうぞう板山いたやまばれるしろどろしょう原料げんりょう見出みいだし、この乾燥かんそうさせたジュズモ(海藻かいそう)をいてくことでまれる火色ひいろしょう技法ぎほう)をした。れんぼうしきとうかましんしょうかまともばれかまめされたものが、すべてけになるのにたいし、従来じゅうらい大窯おおがまでは燃焼ねんしょうしつりにかれたものはけになるが、おくけむりどうよりのものは温度おんどがらずあかぶつになっていた。江戸えど末期まっきのぼかま導入どうにゅうされた背景はいけいには、常滑とこなめにおいても各種かくしゅ小細工こざいくぶつ量産りょうさんされる状況じょうきょういたったことをうかがわせる。こののぼかま導入どうにゅうおこなったのは瀬木せぎむらこいこう小三郎こさぶろうほうすくい)で、その息子むすこ伊三郎いさぶろうほう寿ひさし)も協力きょうりょくしたといわれる。しかし、年齢ねんれいかんがえると天保てんぽう年間ねんかんほう寿ひさしおおきく貢献こうけんしたとはみなしがたい。また、こい尾張おわりはん御用ごようつとめていたとされるが天保てんぽう11ねんには尾張おわりはん小納戸こなんど御用ごよう焼物やきものやく伊三郎いさぶろうほう寿ひさし)がつとめている。そして、その「焼物やきもの こいこう伊三郎いさぶろう」とめいれたつぼ煙硝えんしょうつぼとしてつてそんしている。同形どうけいのもので、梅干うめぼしつぼとされるものもあり、その仕様しよういた安政あんせいななねん掃除そうじかた役所やくしょした古文書こもんじょもあるが、梅干うめぼしつぼこいかまいた形跡けいせきがない。そして、梅干うめぼしかまいたかまとして松本まつもと久右衛門きゅうえもん松本まつもとかまられている。このかま流通りゅうつうぎょうとみ松本まつもと陶器とうき生産せいさん参入さんにゅうした結果けっかまれたものながら、その操業そうぎょうにあたって従来じゅうらい窯業ようぎょうしゃとのあいだおおきな摩擦まさつ発生はっせいしたという記録きろくがある。

2020ねんれい2ねん)、発掘はっくつ調査ちょうさによって、奈良ならけん大和郡山やまとこおりやま郡山こおりやましろ外堀そとぼりに「暗渠あんきょ」とばれる排水はいすい設備せつび設置せっちされている事実じじつ発見はっけんされた。この排水はいすい設備せつび江戸えど時代じだい(17世紀せいき前半ぜんはんごろ)につくられたと推定すいていされており、土管どかん材料ざいりょうとして常滑とこなめしょう使用しようされている可能かのうせいたかいと指摘してきされている。なお、耐久たいきゅうせい向上こうじょうさせるため、みじか土管どかん多数たすう連結れんけつした構造こうぞうとなっている。連結れんけつ部分ぶぶんには漏水ろうすい防止ぼうしのため、漆喰しっくいられている[6]やく170年間ねんかん使用しようされつづけてきたことが判明はんめいしており、現在げんざい水道すいどうかん比較ひかくしても耐久たいきゅうせいすぐれていると評価ひょうかされている[7]

近代きんだい常滑とこなめしょう

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明治めいじ時代じだいになってかぶ仲間なかまのような規制きせいがなくなると新規しんき陶器とうき生産せいさん参入さんにゅうするいええていく。そして、明治めいじ常滑とこなめでは近代きんだい土管どかんというあらたな主力しゅりょく製品せいひんがあり、その生産せいさん従来じゅうらいかまだけでは供給きょうきゅうしきれないほど大量たいりょう需要じゅようがあった。土管どかん英語えいごのEARTHENWARE PIPEの訳語やくごとされる。常滑とこなめでは江戸えど末期まっきあかぶつ土樋つちといがあり、文久ぶんきゅう年間ねんかんこいかた寿ことぶき美濃みの高須たかすこう江戸えど屋敷やしき上水道じょうすいどうようとしてもちいるしんしょう土樋つちといつくっておさめたという記録きろくがある。しかし、近代きんだい土管どかん生産せいさん土樋つちといとはことなる規格きかくされた製品せいひん明治めいじ5ねん横浜よこはましん埋立うめたて下水げすい工事こうじともな注文ちゅうもんこいこうほう寿ひさしのもとにもたらされたことにはじまる。その設計せっけいはおやと外国がいこくじんリチャード・ブラントンであった。はじめかわら材質ざいしつつくられた土管どかん強度きょうどなんがあるということで、常滑とこなめやきのようにつくることをもとめられた。この注文ちゅうもん従来じゅうらい常滑とこなめしょう技術ぎじゅつだけでは充分じゅうぶん対応たいおうできず、こい出入でいりしていた大工だいく発案はつあんした木型きがたもちいてつく方法ほうほうでブラントンのもとめた規格きかくどおりの製品せいひんおさめることができたとされる。その鉄道てつどうもう整備せいびされると灌漑かんがい用水路ようすいろ線路せんろ分断ぶんだんされるため暗渠あんきょ水路すいろ強固きょうこ素材そざいとお必要ひつようがあり、分厚ぶあつくてかたまったとくあつ土管どかん大量たいりょうもとめられた。また、都市としでの疫病えきびょうおおきな問題もんだいとなるにしたが上下水道じょうげすいどう分離ぶんりもとめられ、土管どかん需要じゅよう増大ぞうだいするいちぽうであった。こうした状況じょうきょうこいだけでは生産せいさんいつかず、こいはその技術ぎじゅつ解放かいほうして常滑とこなめをあげて土管どかん生産せいさん対応たいおうするようになっていく。

タイル中心ちゅうしんとする建築けんちく陶器とうき生産せいさん明治めいじまつねんころから開始かいしされるが、大正たいしょうフランク・ロイド・ライト設計せっけいになる帝国ていこくホテル採用さいようされたスクラッチタイルやテラコッタなどを常滑とこなめ生産せいさんして以降いこう急速きゅうそくにその生産せいさんりょう増加ぞうかしていく。帝国ていこくホテルの開館かいかんいわいがもよおされていた大正たいしょう12ねん9月1にち関東大震災かんとうだいしんさい発生はっせいしたのであった。それまでの近代きんだい建築けんちくおお煉瓦れんがみであったのにたいし、帝国ていこくホテルはコンクリートもちいており、震災しんさい影響えいきょうにはそれほどおおきくなかった。そして、その鉄筋てっきんコンクリート建築けんちく普及ふきゅうするとともに建築けんちく陶器とうき需要じゅよう急速きゅうそく増大ぞうだいしていくことになる。

幕末ばくまつから常滑とこなめしょう業界ぎょうかいのリーダーてき位置いちいたこいかた寿ことぶき明治めいじ近代きんだい土管どかん量産りょうさん軌道きどうせ、さらに輸出ゆしゅつよう陶磁器とうじき生産せいさんにもんだ。しかし、こいこうかま試作しさくひん高級こうきゅうひん志向しこうつよく、本格ほんかくてき輸出ゆしゅつされるようになったのはしゅどろ龍巻たつまき(しゅでいりゅうまき)と総称そうしょうされる製品せいひんぐんであった。明治めいじ10年代ねんだい試作しさくされ20〜30年代ねんだい本格ほんかくてき輸出ゆしゅつされたしゅどろ龍巻たつまき北米ほくべい主要しゅよう市場いちばとしていた。しゅ泥土でいどもちつぼ投入とうにゅう花瓶かびんなどをつくり、その表面ひょうめん石膏せっこうかた成型せいけいしたりゅう中心ちゅうしんとした薄板うすいたじょう文様もんようけてレリーフじょう装飾そうしょくとしたものがしゅどろ龍巻たつまきであるが、常滑とこなめから神戸こうべおくられ、そこでさらにうるし金箔きんぱくなどをもちいた加工かこうほどこされていた。明治めいじまつになるとしゅどろ龍巻たつまき急速きゅうそく商品しょうひん価値かちうしない、大正たいしょうにはあらたに素焼すやきの生地きじうるしり、様々さまざま装飾そうしょくくわえたとう漆器しっき(とうしっき)が輸出ゆしゅつひんとして生産せいさんされるようになる。

こいかた寿ことぶき業績ぎょうせきとして、明治めいじ11ねん清朝せいちょう末期まっき文人ぶんじん宜興いいしんかま茶器ちゃき製法せいほうっていたかねつねという人物じんぶつ招聘しょうへいし、常滑とこなめ陶工とうこうに、その技法ぎほう伝習でんしゅうさせたというものがある。明治めいじ常滑とこなめ煎茶せんちゃ生産せいさんは、おおくの名工めいこうによってになわれていたが、産業さんぎょうとして量産りょうさんされるような段階だんかいにはいたっていない。それは、大正たいしょう昭和しょうわせん前期ぜんきにおいても同様どうよう植木鉢うえきばち火鉢ひばちほう主要しゅよう製品せいひんであった。

近代きんだい常滑とこなめしょうは、はじれんぼうしきとうかま大窯おおがまかれていたが、明治めいじ33ねん結成けっせいされた常滑とこなめ陶器とうき同業どうぎょう組合くみあい明治めいじ34ねん事業じぎょうとしてんだたおせほのおしきいし炭窯すみがま試験しけん成功せいこうしたことで、いし炭窯すみがま急速きゅうそく普及ふきゅうし、大正たいしょう昭和しょうわ主役しゅやくとなる。しかし、町中まちなかくろけむりおおったいし炭窯すみがま昭和しょうわ45ねん改正かいせい大気たいき汚染おせん防止ぼうしほう」のころから重油じゅうゆへと燃料ねんりょう転換てんかんはかられ、さらにガスかま電気でんきかま普及ふきゅう、そして、量産りょうさんひんはトンネルかまによって焼成しょうせいされるようになり、その役割やくわりえていった。

現代げんだい常滑とこなめしょう

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平成へいせいになると、地場じば産業さんぎょう再生さいせいのためのこころみのひとつとして近在きんざい産業さんぎょうとの融合ゆうごうきょうはたらけ展開てんかいした。2001ねん平成へいせい13ねん)におこなわれた常滑とこなめしょう展示てんじ即売そくばいかいでは、名古屋なごやみどり伝統でんとう産業さんぎょうである有松ありまつ鳴海なるみしぼ模様もようほどこした陶磁器とうじきいて注目ちゅうもくされた[8]有松ありまつ鳴海なるみしぼりとのタイアップは有松ありまつ鳴海なるみしぼ組合くみあい協議きょうぎのうえ、常滑とこなめしょう作家さっか有松ありまつしぼ業者ぎょうしゃ連携れんけいはかったもので、こうした業種ぎょうしゅ連携れんけいには江戸えど時代じだい初期しょき織部おりべしょうしぼ文様もんようほどこした「鳴海なるみ織部おりべ」の前例ぜんれいがある[8]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 磁器じきと瓷器のちがいは…?”. 日本にっぽん磁器じき誕生たんじょう有田焼ありたやき創業そうぎょう400ねん事業じぎょう (2012ねん12月5にち). 2015ねん5がつ閲覧えつらん
  2. ^ 柴山しばやまかまぐん常滑とこなめ文化財ぶんかざい調査ちょうさ報告ほうこくだい4しゅう1974ねん常滑とこなめ教育きょういく委員いいんかいだいしょう常滑とこなめ市域しいきかま杉崎すぎさきあきら総数そうすう1まんという推定すいていすうしめしている。
  3. ^ 柳之やなぎの御所ごしょあと発掘はっくつ調査ちょうさ報告ほうこくしょ平泉ひらいずみバイパス・一関いちのせき遊水地ゆうすいち関連かんれん遺跡いせき発掘はっくつ調査ちょうさ―』岩手いわてけん平泉ひらいずみまち文化財ぶんかざい調査ちょうさ報告ほうこくだい38しゅう1994ねん平泉ひらいずみまち教育きょういく委員いいんかいほか平泉ひらいずみ遺跡いせきぐん発掘はっくつ調査ちょうさ報告ほうこくしょには、かならずといってもよいほど常滑とこなめしょう出土しゅつど報告ほうこくされている。
  4. ^ 草戸くさど千軒せんげんまち遺跡いせきおよびその周辺しゅうへん遺跡いせきにみる常滑とこなめしょう佐藤さとうあきら嗣・鈴木すずき康之やすゆき知多半島ちたはんとう歴史れきし現在げんざい』№4 1992ねん日本福祉大学にほんふくしだいがく知多半島ちたはんとう総合そうごう研究所けんきゅうじょ校倉あぜくら書房しょぼうくわしいが、草戸くさど千軒せんげんまち遺跡いせき報告ほうこくしょ刊行かんこうされており、常滑とこなめしょう出土しゅつど報告ほうこくされている。
  5. ^ 時代じだいべつ常滑とこなめ名品めいひん図録ずろく澤田さわだ由治よしはる編著へんちょ1974ねんこう工芸こうげいでは江戸えど時代じだいまでの作品さくひん採録さいろくされ解説かいせつされているが、常滑とこなめ範囲はんいかんする記述きじゅつみとめられない。
  6. ^ 奈良ならテレビ放送ほうそう(2020ねん11月10にち)「ぐん山城やましろ外堀そとぼり発掘はっくつ調査ちょうさ 江戸えど時代じだいるい排水はいすい設備せつびなどつかる。
  7. ^ SankeiNews(2020ねん11月10にち)「江戸えど後期こうき常滑とこなめしょう土管どかん出土しゅつど 奈良なら郡山こおりやまじょう
  8. ^ a b 平尾ひらお秀夫ひでお有松ありまつしぼ産業さんぎょう小史しょうし現況げんきょう」『東邦とうほうがくだい32かんだい2ごう、2003ねん、52ぺーじ 

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 入間いるま博物館はくぶつかん急須きゅうすのできるまで」:常滑とこなめしょう急須きゅうす製作せいさく工程こうてい図解ずかい
  • 中島なかじま誠之助せいのすけちょ鑑定かんていくち やきもの百科ひゃっかあわ交社、2009ねん12月12にち
  • 吉岡よしおかかんとおる監修かんしゅう陶磁器とうじき世界せかい 文化財ぶんかざい探訪たんぼうクラブ⑩」山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、2001ねん8がつ21にち
  • 金子かねこ賢治けんじ監修かんしゅう「やきものめぐり 東日本ひがしにっぽん(JTBキャンブックス)」JTB、2004ねん3がつ
  • 成美せいびどう出版しゅっぱん編集へんしゅう「やきものの事典じてん成美せいびどう出版しゅっぱんしゃ、2007ねん3がつ10日とおか
  • 日本にっぽんのやきもの」あわ交社、1973ねん

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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