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幕末ばくまつ年表ねんぴょう

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幕末ばくまつ年表ねんぴょう(ばくまつのねんぴょう)は、江戸えど時代じだい後期こうき幕末ばくまつ)にかんする年表ねんぴょう

凡例はんれい

  • 年月日ねんがっぴ旧暦きゅうれき

黒船くろふね来航らいこう以前いぜん

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黒船くろふね来航らいこう以前いぜん
年号ねんごう 内政ないせい 外交がいこう その
1792ねん寛政かんせい4ねん ロシア使節しせつアダム・ラクスマン根室ねむろ来航らいこう大黒屋だいこくや光太夫こうだゆう送還そうかんする。老中ろうじゅう松平まつだいら定信さだのぶ限定げんていてき通商つうしょう考慮こうりょし、しんぱい交付こうふ
1804ねんとおる4ねん/文化ぶんか元年がんねん しんぱいったロシア使節しせつニコライ・レザノフ長崎ながさき来航らいこうするが交渉こうしょう不成立ふせいりつ。このころから鎖国さこくほうであるとの認識にんしきまれた。
1806ねん文化ぶんか3ねん 文化ぶんか薪水しんすい給与きゅうよれい 翌年よくねんにかけて、レザノフの部下ぶかフヴォストフら、蝦夷えぞ北辺ほくへん襲撃しゅうげき文化ぶんかフヴォストフ事件じけん)。
1807ねん文化ぶんか4ねん 薪水しんすい給与きゅうよれい撤回てっかいされる。
西にし蝦夷えぞ幕府ばくふ直轄ちょっかつとする。はこかん奉行ぶぎょうはい松前まさき奉行ぶぎょうく。
1808ねん文化ぶんか5ねん フェートンごう事件じけん
1811ねん文化ぶんか8ねん ゴローニン事件じけん高田屋たかだや嘉兵衛かへえ送還そうかんする。
1816ねん文化ぶんか13ねん イギリス軍艦ぐんかんライラごう・アルセストごう琉球りゅうきゅう来航らいこう
1818ねん文化ぶんか15ねん/文政ぶんせい元年がんねん イギリスじんピーター・ゴードン、浦賀うらが来航らいこう
1824ねん文政ぶんせい7ねん イギリス捕鯨ほげいせんいん常陸ひたち大津おおつはま上陸じょうりく水戸みとはんらえられる。
イギリス捕鯨ほげい船員せんいん南西諸島なんせいしょとう宝島たからじま上陸じょうりく騒動そうどうこす。
1825ねん文政ぶんせい8ねん 異国いこくせんはらいれい
1828ねん文政ぶんせい11ねん シーボルト事件じけん
1830ねん文政ぶんせい13ねん ナサニエル・セイヴァリー白人はくじん5にん太平洋たいへいよう諸島しょとう出身しゅっしんしゃ25にん小笠原諸島おがさわらしょとう入植にゅうしょく移住いじゅうみんとなる。
1836ねん天保てんぽう7ねん 天保てんぽう騒動そうどう
1837ねん天保てんぽう8ねん 大塩おおしお平八郎へいはちろうらん
徳川とくがわ家慶いえよし江戸えど幕府ばくふだい12だい征夷大将軍せいいたいしょうぐん就任しゅうにん
モリソンごう事件じけん
1838ねん天保てんぽう9ねん 水戸みとはんおも徳川とくがわ斉昭なりあき、『弘道こうどうかん』に尊王そんのう攘夷じょういしめす(草案そうあん藤田ふじた東湖とうこ)。
1839ねん天保てんぽう10ねん 蛮社のごく
1840ねん天保てんぽう11ねん アヘン戦争せんそう(1842ねんまで)
1841ねん天保てんぽう12ねん 天保てんぽう改革かいかく
1842ねん天保てんぽう13ねん 天保てんぽう薪水しんすい給与きゅうよれい イギリスと清国きよくに南京なんきん条約じょうやく締結ていけつ
1843ねん天保てんぽう14ねん イギリス軍艦ぐんかんサマランごう八重山諸島やえやましょとう上陸じょうりく測量そくりょうおこなう。
1844ねん天保てんぽう15ねん フランス軍艦ぐんかんアルクメーヌごう琉球りゅうきゅう来航らいこうし、宣教師せんきょうしのこす。
オランダ国王こくおうウィレム2せい親書しんしょ草案そうあんはシーボルト)をおく開国かいこく勧告かんこくする。筆頭ひっとう老中ろうじゅう水野みずの忠邦ただくに開国かいこく主張しゅちょうするも、老中ろうじゅう賛同さんどうられず。
1845ねんひろし2ねん 阿部あべ正弘まさひろ老中ろうじゅう首座しゅざとなる。阿部あべにより海防かいぼうかけ常設じょうせつしょくとされた。 サマランごう長崎ながさき来航らいこう
アメリカ捕鯨ほげいせんマーケイター・クーパー船長せんちょう)、浦賀うらが来航らいこう日本人にっぽんじん漂流ひょうりゅうみん送還そうかんする。
1846ねんひろし3ねん 孝明天皇こうめいてんのう即位そくい アメリカひがしインド艦隊かんたい司令しれいかんジェームズ・ビドル浦賀うらが来航らいこう通商つうしょう条約じょうやくもとめるが、幕府ばくふ拒絶きょぜつ
1848ねんよしみひさし元年がんねん ヨーロッパ諸国しょこくしょ国民こくみんはる1848ねん革命かくめい)とばれる自由じゆう主義しゅぎ国民こくみん主義しゅぎ運動うんどうひろまった[1]
1849ねんよしみひさし2ねん アメリカ軍艦ぐんかんプレブルごうジェームス・グリン艦長かんちょう)、アメリカじん漂流ひょうりゅうみん救出きゅうしゅつのために長崎ながさき来航らいこう
イギリス軍艦ぐんかんマリナーごう浦賀うらが下田しもだ来航らいこう測量そくりょうおこなう。
1851ねんよしみなが4ねん ジョン万次郎じょんまんじろう、アメリカせん帰国きこく
1852ねんよしみなが5ねん オランダ商館しょうかんちょうヤン・ドンケル・クルティウスオランダ風説ふうせつしょにてアメリカ艦隊かんたい来航らいこう通告つうこくし、それ以前いぜんにオランダとの通商つうしょう条約じょうやくむすぶことを提案ていあんするが、幕府ばくふはこれを拒否きょひ 11月、べいひがしインド艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかんマシュー・ペリーが、米国べいこく大統領だいとうりょうミラード・フィルモア親書しんしょたずさえてバージニアしゅうノーフォーク出航しゅっこう

よしみなが7ねん/安政あんせい元年がんねん1854ねん1がつ29にち - 1855ねん2がつ16にち

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安政あんせい2ねん(1855ねん2がつ17にち - 1856ねん2がつ5にち

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安政あんせい7ねん/万延まんえん元年がんねん1860ねん1がつ23にち - 1861ねん2がつ9にち

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万延まんえん2ねん/文久ぶんきゅう元年がんねん1861ねん2がつ10日とおか - 1862ねん1がつ29にち

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文久ぶんきゅう4ねん/もと元年がんねん1864ねん2がつ8にち - 1865ねん1がつ26にち

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もと2ねん/慶応けいおう元年がんねん1865ねん1がつ27にち - 1866ねん2がつ14にち

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  • 1がつ9にち(1867ねん2がつ13にち) 明治天皇めいじてんのう即位そくい
  • 1がつ11にち(1867ねん2がつ15にち徳川とくがわ昭武あきたけパリ万博ばんぱくのため出発しゅっぱつ
  • 1がつ23にち(1867ねん2がつ27にち幕府ばくふ長州ちょうしゅう征伐せいばつ[2]
  • 2がつ6にち(1867ねん3月11にち徳川とくがわ慶喜よしのぶ大坂おおさかじょうでロッシュと会見かいけん同月どうげつ7にち20日はつかにも会見かいけん
  • 3月25にち(1867ねん4がつ29にち徳川とくがわ慶喜よしのぶ各国かっこく公使こうし謁見えっけん(~29にち)。兵庫ひょうご開港かいこう確約かくやくし、各国かっこく公使こうし信頼しんらいる。このとき、パークスのみが慶喜よしのぶ敬称けいしょうを「陛下へいか」ではなく「殿下でんか」とした
  • 4がつ14にち1867ねん5月17にち高杉たかすぎ晋作しんさく死去しきょ
  • 4がつ15にち(1867ねん5月18にち) フランスしん外相がいしょうムスティエ、600まんドル借款しゃっかん拒否きょひ。ロッシュ反論はんろんするがくつがえせず。
  • 5月4にち(1867ねん6月6にちよんこう会議かいぎ島津しまつ久光ひさみつ松平まつだいら慶永よしなが山内やまうち豊信とよしげ伊達だて宗城むねなり
  • 5月17にち(1867ねん6月19にち赤松あかまつ小三郎こさぶろう松平まつだいら慶永よしなが日本にっぽん最初さいしょ議会ぎかいせい民主みんしゅ主義しゅぎ体制たいせい建白けんぱくしょ改正かいせい一二端奉申上候口上書」を提出ていしゅつ同様どうよう建白けんぱくしょ幕府ばくふ薩摩さつまはん島津しまつ久光ひさみつにも提出ていしゅつした
  • 5月18にち(1867ねん6がつ20日はつか)京都きょうと東山ひがしやま料亭りょうていきんやすろう」で土佐とさはん板垣いたがき退助たいすけ福岡ふくおかふじ中岡なかおか慎太郎しんたろう広島ひろしまはん船越ふなこし洋之助ようのすけ会見かいけんし、武力ぶりょく討幕とうばく密談みつだん
  • 5月21にち(1867ねん6月23にち)、中岡なかおか慎太郎しんたろう仲介ちゅうかいにより、薩摩さつま小松こまつ帯刀たてわき寓居ぐうきょ御花畑おはなばたけ屋敷やしき)において小松こまつ帯刀たてわき西郷さいごう隆盛たかもり吉井よしいみゆきらと、土佐とさ板垣いたがき退助たいすけたに干城かんじょう毛利もうり恭助きょうすけ中岡なかおか慎太郎しんたろうらが武力ぶりょく討幕とうばく薩土討幕とうばく密約みつやく締結ていけつ
  • 5月22にち(1867ねん6月24にち)、板垣いたがき退助たいすけ山内やまうち容堂ようどう薩土討幕とうばく密約みつやくむすんだことを事後じご報告ほうこく容堂ようどうおどろくも、これをとがめず、武器ぶき調達ちょうたつ軍制ぐんせい改革かいかく板垣いたがき指示しじ
  • 5月24にち(1867ねん6月26にち徳川とくがわ慶喜よしのぶよんこう会議かいぎせいし、兵庫ひょうご開港かいこう勅許ちょっきょ
  • 5月25にち(1867ねん6月27にちよんこう会議かいぎ不発ふはつ薩土討幕とうばく密約みつやくけて会議かいぎひらき、薩摩さつまはん武力ぶりょく倒幕とうばく方針ほうしんかためる
  • 5月27にち(1867ねん6月29にち板垣いたがき退助たいすけ中岡なかおか慎太郎しんたろう武器ぶき調達ちょうたつ指示しじ中岡なかおかはこれをけてだいさかベルギーせいかつ罨式(かつあんしき)アルミニーじゅう英語えいごばん(Albini-Braendlin_rifle)300てい購入こうにゅう
  • 6がつ10日とおかごろ(1867ねん7がつ11にちころ坂本さかもと龍馬りょうま土佐とさはん参政さんせい後藤ごとう象二しょうじろう大政奉還たいせいほうかんふくあん提示ていじ
  • 9月3にち(1867ねん9月30にち赤松あかまつ小三郎こさぶろう薩摩さつまはん中村なかむら半次郎はんじろう田代たしろ五郎左衛門ごろうざえもん暗殺あんさつされる
  • 9月18にち(1867ねん10月15にち毛利もうりたかしおや討幕とうばく挙兵きょへいだんくだす。「きん闕奉まもるしょじつ大事だいじことにて、たまうばわれこうてはじついたかたなきこととはなはだ懸念けねん。かえすがえすも手抜てぬかりはこれはずながらべっして入念にゅうねんこうさま」。けいおや大久保おおくぼいちぞう身近みぢかまねき、ずから短刀たんとういちあたえる(大久保おおくぼいちぞう日記にっき
  • 10月3にち(1867ねん10月29にち土佐とさ藩主はんしゅ山内やまうちゆたかはん大政奉還たいせいほうかん建白けんぱくしょ徳川とくがわ慶喜よしのぶ提出ていしゅつ
  • 10月6にち(1867ねん11月2にち薩摩さつまはん大久保おおくぼ利通としみち長州ちょうしゅうはん品川しながわ弥二郎やじろう岩倉いわくら具視ともみ幕府ばくふとの戦争せんそうそなえて錦旗きんき使用しよう提案ていあん製作せいさく指示しじ
  • 10月14にち(1867ねん11月9にち岩倉いわくら具視ともみ中山なかやま忠能ただやす正親町おおぎまち三条さんじょうみのるあい中御門なかみかどけい画策かくさくして 討幕とうばく密勅みっちょく薩摩さつまはん長州ちょうしゅうはんくだ
  • 10月14にち(1867ねん11月9にち徳川とくがわ慶喜よしのぶ政権せいけん返上へんじょう明治天皇めいじてんのう上奏じょうそう大政奉還たいせいほうかん)。坂本さかもと龍馬りょうまは「将軍家しょうぐんけ今日きょう心中しんちゅうのさこそとさったてまつる。よくもだんきゅうへるものかな。ちかっておおやけため一命いちめいてん」とかたった(渋沢しぶさわ栄一えいいち徳川とくがわ慶喜よしのぶおおやけでん』)。朝廷ちょうてい、これをけて薩長さっちょう倒幕とうばく延期えんき沙汰さたしょくだす。これ以降いこう武力ぶりょく倒幕とうばく大儀たいぎうしなった薩摩さつまはん西郷さいごう隆盛たかもりは、相楽さがら総三そうぞう尊攘そんじょう浪士ろうしもちい、江戸えど辻斬つじぎり・強盗ごうとう放火ほうか強姦ごうかんなど凶悪きょうあく犯罪はんざいかえし、幕府ばくふがわから戦端せんたんひらかせようと挑発ちょうはつつづける
  • 10月24にち(1867ねん11月19にち徳川とくがわ慶喜よしのぶ征夷大将軍せいいたいしょうぐん辞職じしょくもうるが、朝廷ちょうていはこれをみとめず
  • 11月15にち(1867ねん12月10にち坂本さかもと龍馬りょうま中岡なかおか慎太郎しんたろう暗殺あんさつされる(近江おうみ事件じけん
  • 11月18にち(1867ねん12月13にち長州ちょうしゅうはん世子せいし毛利もうりひろふうじ薩摩さつま藩主はんしゅ島津しまつ茂久しげひさ西郷さいごう吉之助よしのすけ武力ぶりょく討幕とうばく挙兵きょへい計画けいかく
  • 11月22にち(1867ねん12月17にち長州ちょうしゅうはん木戸きど孝允たかよしどうはん品川しながわ弥二郎やじろう書簡しょかんに「あま(うま)くたま(ぎょく)をわがほういだまつこう千載せんざい大事だいじ」と
  • 12月7にち(1868ねん1がつ1にち) ロンドン覚書おぼえがきしたがって、兵庫ひょうご開港かいこうされる。それをいわうため、えいべいふつ艦艇かんてい17せき集結しゅうけつ各国かっこく公使こうし大坂おおさか滞在たいざい
  • 12月9にち(1868ねん1がつ3にち岩倉いわくら具視ともみ薩摩さつま土佐とさ安芸あき尾張おわり越前えちぜんはん王政おうせい復古ふっこへの協力きょうりょくもとめる。朝議ちょうぎでは長州ちょうしゅうはんあるじ毛利もうりたかしおや定広さだひろ父子ふし官位かんい復旧ふっきゅう入京にゅうきょう許可きょか岩倉いわくら具視ともみ勅勘ちょっかん堂上どうじょう公卿くぎょう赦免しゃめん三条さんじょう実美みみきょう赦免しゃめんなどがめられた
  • 12月9にち(1868ねん1がつ3にちはんへい御所ごしょきゅうもん封鎖ふうさ摂政せっしょうじょうひとしけい朝彦親王あさひこしんのうおや幕府ばくふてき朝廷ちょうてい首脳しゅのう参内さんだい禁止きんしされ、赦免しゃめんされたばかりの岩倉いわくら具視ともみらが参内さんだいして 王政おうせい復古ふっこだい号令ごうれいはっした。徳川とくがわ慶喜よしのぶ将軍しょうぐんしょく辞職じしょく勅許ちょっきょ江戸えど幕府ばくふ廃止はいし京都きょうと守護しゅごしょく京都きょうと所司代しょしだい廃止はいし摂政せっしょう関白かんぱく廃止はいしあらたに総裁そうさい議定ぎてい参与さんよさんしょくをおく
  • 12月9にち(1868ねん1がつ3にちしょう御所ごしょ最初さいしょさんしょく会議かいぎひらかれた。山内やまうち容堂ようどうらは大政奉還たいせいほうかん英断えいだんした徳川とくがわ慶喜よしのぶ出席しゅっせきもとめ、慶喜よしのぶ議長ぎちょうとする諸侯しょこう会議かいぎ政体せいたい主張しゅちょうした。しかし岩倉いわくら具視ともみらは慶喜よしのぶかん納地のうち主張しゅちょうし、会議かいぎ紛糾ふんきゅう西郷さいごう隆盛たかもりの「ただいち匕首ひしゅ(ひしゅ)あるのみ」という言葉ことば土佐とさはんつたえられ、再開さいかいされた会議かいぎでは反対はんたいするものはなく、慶喜よしのぶかん納地のうち決定けっていした。ただし松平まつだいらはるだけらの努力どりょくで400まんせき全納ぜんのうから200まんせきはんおさめになった
  • 12月10にち(1868ねん1がつ4にち長州ちょうしゅうぐん上洛じょうらく
  • 12月12にち(1868ねん1がつ6にち徳川とくがわ慶喜よしのぶ二条城にじょうじょう退去たいきょ翌日よくじつだい坂城さかき到着とうちゃく
  • 12月12にち(1868ねん1がつ6にち薩摩さつま強硬きょうこううごきに在京ざいきょうしょはん反発はんぱつひろがり、肥後ひごはん筑前ちくぜんはん阿波あわはんなどが薩摩さつまぐん御所ごしょから引揚ひきあげるよう要求ようきゅうする。薩摩さつまはん内部ないぶからも大久保おおくぼ西郷さいごう強硬きょうこう路線ろせん反発はんぱつこえがる。松平まつだいらはるだけ、「いずれも薩の大久保おおくぼいちぞう岩下いわしたひだりみぎ衛門えもん大嶋おおしま西郷さいごう吉之助よしのすけとうあくまさるものなし。何分なにぶん様相ようそうなりこうじょうからははやおおやけ議会ぎかいにいたしたくと、薩外(土佐とさ安芸あき尾張おわり越前えちぜん)はことごと骨折こっせつさるこう」。はるだけは、大久保おおくぼ西郷さいごうを「奸士」とび、はやく「おおやけ議会ぎかい」をはじめたい、薩摩さつま土佐とさ安芸あき尾張おわり越前えちぜんはんだけでは「私議しぎ」である、とべている(松平まつだいら茂昭しげあきあて書簡しょかん
  • 12月14にち(1868ねん1がつ8にち仁和寺にわじみや議定ぎてい)が岩倉いわくら大久保おおくぼ身分みぶんひくもの強硬きょうこう意見いけんおさえるべく、身分みぶんただすことをもとめる意見いけんしょ提出ていしゅつ
  • 12月16にち(1868ねん1がつ10日とおか徳川とくがわ慶喜よしのぶ、イギリス・フランス・アメリカ・オランダ・イタリア・プロシアの6カ国かこく公使こうしに「全国ぜんこく衆論しゅうろんもっくに政体せいたいじょうるまでは、条約じょうやくみ、各国かっこくやくせししょけん一々いちいちおこなえひ、始終しじゅう交際こうさいまっとうするはにんにある」と政権せいけん維持いじ宣言せんげん
  • 12月19にち(1868ねん1がつ13にち大久保おおくぼしん政権せいけんしょ外国がいこくからの承認しょうにん獲得かくとく外交がいこう継続けいぞく宣言せんげんすべく、アーネスト・サトウ英国えいこく公使館こうしかん)らと協議きょうぎし、しょ外国がいこくへの通達つうたつ詔書しょうしょあん作成さくせい。しかしそこに「列藩れっぱん会議かいぎおこし、なんじぐる」とあることから、松平まつだいらはるだけ山内やまうち容堂ようどうらは、しょう御所ごしょ会議かいぎかずはん代表だいひょうでしかなく列藩れっぱん会議かいぎとはえないとして、あらためて議論ぎろんすべきと主張しゅちょう
  • 12月19にち(1868ねん1がつ13にち慶喜よしのぶ総裁そうさい有栖川ありすがわみやに「天下てんかおおやけ輿論よろんリ」「天下てんか列藩れっぱん衆議しゅうぎつきシ、公明正大こうめいせいだい理由りゆうヲ以テせいきょゲ奸ヲ退すさク」べきとし、それができないなら王政おうせい復古ふっこだい号令ごうれい取消とりけすことを要求ようきゅう
  • 12月22にち(1868ねん1がつ19にち朝廷ちょうてい、「徳川とくがわ祖先そせん制度せいど美事びじ良法りょうほうハ其侭おけ変更へんこうこれこうあいだ」と告諭こくゆ
  • 12月24にち(1868ねん1がつ21にち徳川とくがわ納地のうちは「政府せいふ用途ようと」のためきょうするという表現ひょうげんとなり、慶喜よしのぶへの処分しょぶんてき色彩しきさいうしなわれれ、納地のうちだかも「天下てんか公論こうろんうえ」すなわち諸侯しょこう会議かいぎにおいて決定けっていするとされた
  • 12月25にち(1868ねん1がつ22にち江戸えどちゅうでの薩摩さつまはんによる度重たびかさなる挑発ちょうはつ行為こういたいして、庄内しょうないはん薩摩さつまはん江戸えど藩邸はんてい攻撃こうげき
  • 12月28にち(1868ねん1がつ25にち徳川とくがわ慶喜よしのぶかん納地のうち承認しょうにん朝廷ちょうてい慶喜よしのぶぜんうちとして議定ぎていにんじることを決定けってい朝廷ちょうてい大坂おおさかじょう慶喜よしのぶ上洛じょうらくめいず。大坂おおさかじょう薩摩さつま藩邸はんていちの経緯けいいつたわり、「薩摩さつまつべし」のこえたかまる。薩摩さつまはん西郷さいごう隆盛たかもり土佐とさはんたに干城かんじょうへ薩・ちょうげいさんはんへはすで討幕とうばく勅命ちょくめいくだったことをしめし、薩土討幕とうばく密約みつやくもとづき、板垣いたがき退助たいすけ大将たいしょうとして国元くにもと土佐とさはんへい上洛じょうらくさせ参戦さんせんすることをうながす。たに大仏だいぶつ智積ちしゃくいんしゅう本陣ほんじんもどって、執政しっせい山内やまうち隼人はやと深尾ふかおしげるのべ深尾ふかおしげるしつおとうと)に報告ほうこく

慶応けいおう4ねん/明治めいじ元年がんねん1868ねん1がつ25にち - 1869ねん2がつ10日とおか

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 旺文社おうぶんしゃ世界せかい事典じてん さんていばんしょ国民こくみんはる
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av 大正たいしょう青年せいねん帝国ていこく前途ぜんと年表ねんぴょう大正たいしょう青年せいねん帝国ていこく前途ぜんと徳富とくとみいの一郎いちろうみんともしゃ、1916, p1-10
  3. ^ 1864(元治もとはるもと)ねん天保山てんぽうざん台場だいば砲台ほうだい構築こうちく 大阪おおさか港区役所みなとくやくしょ、2016ねん2がつ15にち
  4. ^ 幕末ばくまつ外国がいこくじん襲撃しゅうげき事件じけんについては「幕末ばくまつ外国がいこくじん襲撃しゅうげき殺害さつがい事件じけん」を参照さんしょう
  5. ^ おおやけしょ こうぎしょ コトパンク

関連かんれん項目こうもく

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