第八節 本当の気持ち
※この回は露骨ではありませんが、割と性的表現があるのでご注意下さい。が、キスもなければ服も脱ぎません。
滞在地に無事戻ってから、穏やかに時が流れた。アリスが自室のテラスから夕焼けを眺めていたときだった。
「そろそろハッキリさせようかと思うんだ」
突然エースが切り出した。それを聞いたアリスは答えの催促だと気付いた。
「最初はペーターさんのものだと聞いたから、君を奪ってやろうと思ったんだ」
いけしゃあしゃあと続ける彼に、アリスは目を丸くした。ペーターのことを話すときだけは、この男は子供のように感情を露にする。それは反対にペーターにも言えることだった。
「負けたみたいだろう? 俺、あの人にだけは負けたくないんだ。大事な相手と一緒にいつまでもいられるなんて、羨ましくって斬り捨てたくなる」
「まるでペーターを取られて悔しいって聞こえる。私に嫉妬しているみたい」
そう言うとバツが悪そうに騎士は苦笑した。
「まあ、ね。でもすぐにそれが一方通行だと分かって、見てて愉快だった。ざまあ見ろって思った」
「あんたって厭な奴ね」
「その内いつの間にか君から目が離せなくなっていた。ペーターさんよりもずっと君のことが気になってた」
何でだろうなと本気で不思議そうに彼は首を傾げている。眉根を寄せたアリスは柵に頬杖を付いた。
「ペーターに勝ってもあんまり嬉しくないわ。あなたたちの友情って銃弾が飛び交うじゃない。あなたはペーターのこと嫌いだと思ってた」
エースが瞳を閉じて、白い耳に思いを巡らせた。口角が目に見えて上がっていき、ニヤニヤといやらしい顔つきになる。
「何で? 俺、ペーターさん好きだよ? 見てると自然と笑っちゃうんだぜ?」
「腹を抱えて、ね。普段の扱いも大分酷いから、余計そう見えてた」
言葉の説得力にさすがのアリスも呆れる。馬鹿にしつつも、この男はペーターに好感を抱いている。しかも本人が明らかに嫌がるような好感の持ち方だった。
「でもね、確かにあなたはいつもペーター=ホワイトを意識してた」
エースが虚を突かれたような顔をした。そしてすぐに底意地の悪そうな表情に変わる。
「へえ……ところで気付いてたかなあ。俺、ずっと君を殺そうと思ってたんだ」
アリスは別段驚きはしなかった。いつ気が変わったとしても全然おかしくなかったのだから。現在まで一度しか剣(と愛)を向けられていない事実の方が彼女にとっては奇跡だった。それでも一緒にいたのは偏にエースを放っておけなかったからかもしれない。
「最初からそんな感じだったわね。でも出会ったときに君は殺さないと言ったわよね?」
あのとき純粋に言葉を信じた訳ではない。あまりにも真摯に向けられた瞳にアリスが逆らえなかっただけなのだ。
「ああ、出会いのときじゃないよ。君が羨ましくて、自分だけのモノにしたくて殺そうと思ったんだ。君がどんどん大事になって、俺にとって代えのきかない存在になる前に」
予想の埒外にある答えゆえに、アリスは返答に窮した。破滅的過ぎる愛である。
「ええと……意味が分からないんだけど」
宇宙人を見るような目で見る彼女にエースはくすりと笑う。
「君が生きている限り、心は移ろうだろう? 俺を好きでいてくれる内に殺してしまおうかって考えた。でも、できなかった。俺は生きている君が好きだから」
――本当に危うい男だ。アリスは心からそう思う。いつもそんな物騒なことばかり考えているくせに表面上は爽やかだ。そのギャップが空恐ろしく思える。
不意に手袋の手が細い両肩を強く掴んだ。
「もう二度と君を奪わせない」
アリスの形を確かめるようにエースは彼女を抱きしめた。そしてすん、と形の良い鼻を鳴らす。
エースは恐らく先の事件を思い出しているのだろう。切なげな声が耳を掠める。熱い息が耳にかかり、アリスは身を竦める。
「もうどこにも行かせない。ずっと隣にいて、君だけを見ていたい」
「……そんなことしたらペーターが怒り狂うわよ」
子供じみた独占宣言に微笑して、エースの頭を撫でた。本音を引き出されるようにゆるゆると騎士の口の締りがなくなる。同時に唇も首筋へ降りていく。ろくな抵抗もできず、彼女は声を飲み込むのに必死で、されるがままになっていた。
吐息交じりの掠れ声がアリスの耳を撫でる。
「ああ、彼が君の唯一の案内人で、特別な絆があることは分かってる。アリスしか見えてない、君に狂ったウサギさん。だから『愛している』と何度言おうと、それは伝わらない。アリスのこと何でも知ってて解っているくせに恋愛にはならない。まるで親とか保護者みたいだ」
大きな手がエプロンドレスを剥ぎ取りにかかったときだった――。パンと乾いた音が部屋に響き、動きを止めたエースの手に一筋の赤が描かれる。銃口をこちらに向けたペーターが扉の前に立っていた。
「ペーター……」
「エース君。あなた死にたいんですか?」
怒りを露にした形相を見ても、エースは別段驚くでもなく当たり前に答えた。
「……野暮だなあ、ペーターさんは。これからが良いところだったのに」
「良いところ……」
アリスが今さっきの事態を認識し、赤面する。
ペーターが乱入してこなければ、どうなっていたのだろう。事態には大いに困惑したが、確かに続きを期待していたことにも困惑していた。
アリスが赤くなったり青くなったりしている間にエースがしゃあしゃあとのたまう。
「アリスは嫌がっていないし、ペーターさんのことについては俺はただ思ったことを言っただけだよ」
白い毛を逆立てて、つかつかとペーターが歩み寄ってくる。
「確かに僕は本当の愛とは何かを知りません。でも誰に何と言われようとも、アリスは僕の一番大切な人です。僕にはアリスしかいません」
白ウサギが勢い良くエースの肩を掴み、ドンと突き飛ばす。そして壊れ物を扱うかのように、アリスの洋服を整えていく。それが終わると、そっと愛しい人の手を取った。
「僕はあなたの幸せを願ってやみません。あなたが幸せになりさえすれば誰を選ぼうが構いません。ただ彼だけは例外です」
エースを睨みつけながら、朱色に染まった瞳は泣きそうだった。夕日を背にした騎士は黙って彼を見つめ返していた。
「あなたの誘拐すら阻めない、非力な騎士だなんて。いくら力が強くても肝心なときに守れないなんて。……あなたを任せられる訳ないじゃないですか」
アリスがウサギの名を呼ぶと、彼は両手できゅっ、と彼女の手を握った。優しく諭すように手を解き、彼女はフワフワした白い耳を撫でる。逆立った毛を流れに沿って撫でつけていく。
「……私、ペーターが好きよ。誰よりも一番に心配して、私を裏切らないでいてくれる。誰よりも多分私のことを解ってくれる」
小さな両手が頭を包み、花弁のような唇が額に触れた。以前ペーターがしてくれたように純粋に親愛を向ける形で返した。
――あなたのことは選べない、と。
「……だから解ってくれるよね?」
口調はどこまでも優しく、けれども有無を言わさぬ響きがそこにあった。嗚咽をこらえるようにペーターが息を飲んだ。俯いた長い睫毛が震える。
「彼はいつか必ずあなたを殺してしまう。間違いなく不幸になると思います。それでも――」
これ以上見ていたら、耐えられなくとでも言うかのように固く瞼が閉じられた。
「分かりました、あの時に。エース君が撃たれた時に、本当は見捨てようかと思っていました。けれど僕は彼を助けました。僕の唯一の……あなたが望むから」
アリスは深く頷いた。白い手袋がキュ、と音を立てた。
大事なことを告白するのは、いつだって気が重くなる。だがこのタイミング以外はあり得ないと彼女も判っていた。
「この際だから、ここで答えようと思うんだけど……。その前に話したいことがあるの」
首肯するエースを横目にペーターが問いかける。
「……何の話ですか、アリス?」
「私がこの世界に留まるかどうかって話」
時間が止まったような世界で息を飲む音だけが響いた。
「前にも言ったと思うけど。私、元の世界で人を殺してしまったの」
意を決して口にしたアリスに対して、二人の反応が大分薄い。分かっていたことだが人殺しの認識が違いすぎる。
エースがあまり興味なさそうに答えた。
「そうみたいだね。死んだ人に対して、そこまで悲しめるなんて君は優しいよな」
誰か知らない人の死よりアリスの無事の方が彼らにとっては重要な問題である。
「優しくないわよ。優しくないから……きっと殺したのよ。あの人のためと誤魔化して、実際は自分のことしか考えてなかったから」
それは彼女の本心だった。大好きな人と一緒にいるのが辛かったから。
「俺なんか物心つく頃には何にも考えてなくても既に人殺しだよ。この世界じゃ全然珍しいことじゃないんだけどな」
エースがまるで子供の頃の失敗談か何かのように語る。
「何にも考えてなくて……」
それはかなり酷い。人間として色々致命的である。どちらの世界でも死はありふれているが、身近か否かの問題なのであろう。例え重要なものであっても夥しくなると気にならなくなるものだ。――恐ろしいことに。
「私は激しく後悔したの。けれども償いを済ませることなく、私はこちらの世界に連れて来られた。帰る方法もよく分からないまま、ここにいるのよ」
爪が食い込むほど拳を握り締め、アリスはエースに問いかけた。
「罪から逃げていると思う?」
――答えにはしばらくの間があった。
「君は罪を忘れたことがあるかい? 忘れられなくて後悔することは逃げてることになる?」
エースが考えをまとめながら、ぽつりぽつりと話していく。彼の経験に基づいた答えなのかもしれない。
「俺は殺した人の顔すら覚えていないけど、人殺しっていう罪は永遠に消えないと思うよ。逃げたければ逃げればいい。俺が役から逃れられないように罪からも逃れることは不可能だよ」
エースは隠しはするが無かったことにはしていない。決して見せないけれど、それは澱のようにわだかまっている。全て受け入れ、制裁を受ける刻を待っている。
だが誰も罰してくれない世界のルールは、彼の行動に対する罰を与えない代わりに許しもしないし解放もしない。
「だから結論として君は逃げてない。決して逃げられないから」
けれど、と騎士が付け加える。
「――俺が君を守るよ。君が罪に押し潰されそうになったら君を抱えて逃げてあげる」
大真面目にユーモアを飛ばすエースに、アリスは吹き出した。姫の盾となり、逃がすのではなく一緒に逃げるあたりが彼らしい。
「そこは闘ってくれる訳じゃないのね」
「肩代わりできるものでもないんだろう? できるのなら、してあげたいけどさ」
「正論ね。さすがは騎士様」
自然と彼女の頬が緩んだ。
「あなたに……最初から罪などありません。僕は全てを見ていますから」
俯いた白ウサギの頭を、アリスは撫でてやる。
どちらの現実にも不幸はあるし、幸福もある。どちらを選ぶかは自分次第。
アリスがエースに向き直る。最後のダメ押しをしてみるために――。彼に向けて、足を一歩踏み出した。
「私、この先一生ウジウジと悩み続けるわ。きっとすごく鬱陶しい。それでも良いの?」
エースの方も一歩踏み出した。
「ぜーんぜん構わないよ。鬱陶しくても良い。悩んで進歩できない方が俺は安心できる。君がどこへも行かないのなら、それで良い」
騎士が迎えるように両腕を広げた。いつか見た青空のような笑顔でのたまう。
「だってこの先一生、君を守ってあげられるだろう?」
「この鬼畜! あんたのせいで、もう帰れないんだから!」
満面の笑顔を浮かべたアリスが盛大に悪態をつきながら、エースの首に飛びついた。