第二節 特技は遭難、趣味は不運
今アリスはエースと共にいることを海よりも深く後悔していた。今日出会ったこと自体、既に運の尽きだとも言えよう。
腹を空かせた熊に襲われて、木の上に避難したまでは良いが、木ごとどつかれ、アリスはしっかりと掴まっていなければ振り落とされそうな状況に陥っている。だと言うのに、狙われている本人はどこ吹く風で寝そべっている。アリスは信じられないという目つきで、のんきな男を睨めつけている。
「俺って、ついてないんだ。薄幸の騎士ってやつだよ。一昨日はツキノワグマ、今日はヒグマだ」
アウトドア暦が長いせいか、動物に関するエースの知識は広い。彼は本が好きではないため、恐らくほとんどが経験から学んだものであろう。詳しく聞けば、いくらでも答えてくれそうだが、肝心な熊への正しい対処法は知らないようだ。
連れであるアニマルマニアの役立たなさに、アリスは小さく舌打ちした。
「そう。でも知ってる? あなたと一緒にいる私の方がきっと不運よ」
今度は木の上から赤いコートをバサバサ振って、エースは熊をからかい始めた。アリスは冷めた目でそれを見て、心底この怖いもの知らずを突き落としたい衝動に駆られていた。
左手が勝手に凶器を握り締め、右手がそれを辛うじて押さえて、振り下ろさないようにしている。上手い具合に今回の本は辞書並に分厚く、ハードカバー仕様である。角が当たれば相当に痛いこと請け合いだ。運が良ければ人一人くらい殴り殺せるかもしれない。
だが彼女では突き落とすどころか突き落とされる立場だということを弁えているため、実行には移さない。賢明なアリスは、あくまで考えるまでに留めている。
隣から突き刺さる視線の意図を取り違え、エースはにっこり笑いかけた。
「え、何。熊のこと、もっと聞きたいの?」
「結構よ」
役にたない知識ばかりで馬鹿馬鹿しくなるので、あえて聞かない。
アリスはよく散歩という名の壮大な旅に誘われる。アウトドアの楽しさに彼女も目覚めつつあったというのもあるが、付いて行くのが通例となっていた。
だが、この男に付いて行くと毎度毎度、本当にロクなことにならない。退屈しないと言うよりできない。いつも危険と隣り合わせであり、何もない時の方がかえって怖い。
今日は近道と称する獣道を突っ切って、アリスですら分からない森に出た。エースが空腹を満たすために木になっていた果物を取ったとき、スズメバチの巣がすぐ近くにあった。なぜその時まで気づかなかったのかは今となってはわからない。ただ無我夢中に逃げたことしかアリスは覚えていない。
スズメバチの大群を隠れてやりすごした後、エースは怪我をしたウサギを見つけて、捕らえようとした。騎士曰く助けようとしたらしいが、抜き身の剣を持って近づいて行ったので、動物の保護には全然見えなかった。
そして血の臭いを嗅ぎつけたらしい狼が現れ、仲間を呼ばれる。ちょうどお腹を空かせていたらしい狼たちは涎をたらして、人間を値踏みするような目で見た。群れに対しての食料がウサギだけでは少なすぎるため、エースとアリスは見事獲物に認定されたらしい。
それから狼たちの猛攻をいなしつつ逃げていると、エース目がけて熊が突っ込んできた。驚いた狼たちは尻尾を巻いて退散してくれたまでは良かった。
今度は熊に追われる羽目になり、アリスの体力が底を尽いたため、木の上に避難した現在に至る。
エースによれば、あの熊は馴染みの顔であるらしい。熊が人の顔を憶えてしまったことを考えると数々の食料を強奪された恨みの深さがうかがえる。つまりエースによる簒奪フィッシュの被害者、否、被害熊だ。食い物の恨みは怖い、とアリスはしみじみ感じていた。
次の仕事に間に合わない、と嘆く彼女の手にある物をエースが指摘すると、アリスは暇潰しだと答えた。例の分厚い本が握られている。
予知能力でも計画でもないが、一応予測はしていた。既に二回もこのような事態を繰り返したという学習の賜物である。学習の「が」の字も知らない騎士と才媛は違う。
猛獣が諦めて撤退するまで時間を食うため、読書に専念することにした。エースのように猛獣の傍で寝る度胸はないし、起きていれば木から落ちることもない。本を一冊読み終わる頃には辺りは平穏に戻っているという寸法である。
「君って見かけによらず豪胆だよな。避難状況で読書なんて、俺には到底真似できないぜ☆」
爽やかな皮肉で、可憐な顔にビキビキと青筋が浮かんだ。手の中の本は握り潰されそうなほど強く握られている。
神経の図太さで言うならば、エースとて負けていない。城の幹部のくせに堂々と遅刻するは、堂々と迷子宣言するは、ところ構わずキャンプするは、動物から食料強奪するは、ペーターに愛の告白紛いをするは、枚挙に暇がない。
アリスは怒りのままに早口で捲くし立てた。
「むしろあなたの方が信じられないって言うか、すごいんじゃない? 避難してるのに普通、相手をおちょくったりしないわよ。どんだけ神経図太いのよ。ザイル製? それともそれ自体無いの?」
迷惑をかけた方は連れの怒りを柳のように軽やかに流す。世の事象押し並べて「ツイてない」で済ますので、火に油を注ぐ結果にしかならない訳であるが。
仕方なくないことを「ツイてない」で済まして来たこと数知れず。他人にも自分にも、この男は寛大である。こんな男をよくも軍事責任者にしたものだと、アリスはハートの城を心配した。
エースは熊(とアリス)をおちょくるのに飽きると、今度は破れたコートの端をためつすがめつ検分している。何かに引っかかったような穴から、獣の爪跡らしき傷、更には劇薬でもかかったのか、所々に焼け焦げが付いていた。
「何でか帽子屋さんの屋敷の辺りって罠が多いんだよな。しかも悪質なのが多くて引っかかりやすい。設置の仕方が段々巧妙になってきちゃって大変だ。まるで俺の行動を予測してるみたいでさあ……」
「え? ここってブラッドの領土なの?」
確かに他の領土で罠を見かけたことはない。ここが帽子屋の領土ならば、双子の門番ディーとダムの庭のようなものである。
罠の試作品らしきものでも確実に命を刈り取る危険地帯と化している。屋敷の警備のため、というのもあるのだろうが恐らくはただの趣味だ。今は標的を迷子に絞った罠を設置しているに違いない。
それなのにエースは意にも介さず、ひらりひらりと罠を外し、もしくは壊していった。しかも何事もないような顔をして――。
平坦とは言えない人生を歩んできた彼にとっては、こんな罠など序の口なのだろう。上司と同僚から差し向けられる刺客を返り討ち続ける生活を思えば、日常の一部と化しているに違いない。
自慢の罠にも関わらず、獲物に逃げられたとあってはディーとダムも激昂ものであろう。別に同情の余地はないのだが。
あれだけの罠の見本市を駆け抜けたにも関わらず、アリスが無事なのは偏に彼女の分までエースが引っかかってくれたからだろう。こういう時だけ役に立つ彼の不運に、彼女は密かに感謝した。
「ディーとダム、あなたを歓迎してないみたいね」
「ええ? そんなことないぜ? 会う度に斧で熱烈歓迎を受けているぜ。この熊さんみたいに」
爽やかな笑顔がぶれて見えるほど幹が揺れた。か弱いアリスの頼みの綱が今、嫌な音を立てて傾いている。素早く幹にしがみ付いた彼女を横目に、緩慢な動作で騎士が立ち上がった。かなり揺れているのによたつきもしない。見事なバランス感覚の持ち主だ。
木を移ろうと促すエースに続き、アリスも立とうとするが、やはり彼ほどバランス感覚に優れていないので、すぐに体勢が崩れてしまう。
「ほら、幹なんかにしがみ付いてないで。どうせしがみ付くなら俺にしておきなよ」
軽口を叩きながら騎士が手を差し出し、アリスは手を伸ばそうとしてバランスを崩した。掴まっていたはずの幹からは手が外れ、そのまま熊の頭へ真っ逆さまに落ちていく。
彼女が恐怖のあまり目を瞑った時、力強い腕に肩を抱かれて横様に攫われた。
「あっはははは。危ないなあ。俺がいなかったらどうする気だったの?」
爽やかな笑顔が間近にあって、アリスは少し気圧されながらも礼を述べた。俗に言う、お姫様抱っこという状態で抱えられていたので、恥ずかしさのあまり彼女はまともに騎士の顔を見ていない。
彼女の本は、そのまま下へ流れていってしまった。さしものエースもアリスを助けあげるのが精一杯で、本までフォローしきれない。
騎士は姫君を抱えたまま薄く笑った。
「本当に君はか弱いんだな。俺がいないと死んでしまいそうだ」
エースの目には、からかいの色はなかった。下を向いているアリスには、しみじみと愛しげに見てくる彼の顔など見えはしない。
「……元はと言えば、あんたが諸悪の根源なのよ? 分かってる?」
クレームは熊の咆哮で、当人には聞こえないらしい。
アリスを抱えたまま、エースは移ろうとする木へ向き直る。次の太い枝までは軽く見積もっても二メートルはあるだろう。人一人抱えて、足場も悪い状態となると、一般人なら跳躍する距離としては絶望的である。
抱えられている方は邪魔になっているとは知りつつも降りるとはとてもい出せない。ここで放り出されれば、確実に地面に落ちて熊に襲われるだろう。
一緒に落ちたなら、少なくともアリスは一人ではない。熊に殺されてくれるような、生やさしい男でもない。怪我さえしていなければ守ってくれるかもしれない。熊の標的はあくまでもエースで、単なる巻き添えをくったアリスが逃げる隙くらいあるかもしれない。木から落ちても一人でさえなければ、まだ助かる望みがある。
その考えはとても卑怯で自分勝手であり、浅ましいことこの上ない。一瞬でもそんなことを考えた自分を恥じ、アリスは自己嫌悪に陥った。
そんな彼女などお構いなしに彼女を抱える腕には若干の力が篭められた。少なくとも抱えた姫君を捨てるような真似はしないのだろう。
アリスがちらりと頭上を覗き見れば、別段いつもと違う様子など見受けられない。失敗を恐れたり、恐怖に怯えてたりもしなければ、気負った風も一切見せない。失敗など気にも留めていないような、気味悪い程の自然体で笑っているだけだ。
「エースは怖くないの? ……無理して運ばなくても良いのよ?」
アリスには正直彼が何を考えているのか全く読めなかった。こんな状況で笑うなど錯乱しているのか、分かっていないのか、楽しんでいるのか、何れも正気の沙汰ではない。
しばし思案する様子を見せ、やはりエースは笑った。
「っはは。別に無理してないよ。……おかしいよな。君の命が俺に握られてるって思うと勝手に顔が笑っちゃうんだよな」
……実際にエースが危険を楽しんでいても何も不思議ではなかった。
不意に太陽に雲がかかったように騎士の笑顔に影が差す。
「ああ、でも……怖い、かな? 君が死んじゃったら怖いかもしれない」
「私のことより自分の心配をしなさいよ!」
滑稽な話である。つい先ほどまで我が身可愛さに、自分だけ助かろうと考えた人間が全く正反対の発言をした。抱えてもらっている立場の人間が自分の身を案じろと叱っている。
だが言われた方は別世界の決まりを聞かされたような、微妙な反応を返した。余所の世界のルールなぞ知ったところで意味がない。こちらでは適用されないのだから。
「俺みたいな役付きでも代わりは利くんだよ。でも君はこの世界で一人しかいない、貴重な存在だ。代わりが利かないなら大切に扱わなきゃ」
なおもい募ろうとするアリスは止められた。姿勢を低くして、跳躍の体勢に入る。
「口を閉じないと舌噛むぜ」
慌てて口を噤む姫の耳元へ、騎士はわざわざ低い声を忍ばせる。
「俺は別に噛んでくれても構わないけどな。舐めて治してあげられるからさっ」
「噛むかっっ!」
怒声と爽やかな笑い声がこだました。エースのブーツが離れた瞬間、木は一際大きく傾いて倒れた。大きな音と土煙が森を包む。人間二人を支えるのには十分な木でも、熊が体当たりし続ければさすがに折れるのだろうか。それでも木を倒したのは、きっと怒れる熊の執念であろう。
まるで重力の影響など受けていないかのようにエースは軽やかに跳んだ。ブーツの踵が太い枝に無事着地し、騎士はつま先からゆっくりと彼女を降ろしてやった。元いた位置を確かめれば、既に木は倒れている。簡単に跳んだように見えるが、不安定な足場に加えてジャンプ台もないゆえ、実際は全然簡単ではない。
彼女どころか元の世界の人々に、こんな離れ業は不可能である。今の彼女の周りには身体能能力に秀でている人が多い。運動神経の悪くないアリスが、運動音痴なのではないかと自分で疑うほどである。この世界ではその運動能力さえ珍しくもないのだろうか。
「世界新記録が軒並み更新されるわね」
この世界の住人をオリンピックに出したら、などとのん気に考えてみたりした。しかし、すぐに現実の問題に気付く。
「あ、本が」
倒木で地面はすっかり見えなくなっていた。
「せっかくブラッドに借りたのに。……弁償しないと」
大抵のことに寛大なマフィアのボスは、きっと笑って許してくれるだろう。紅茶のこと以外なら気怠い友人の心は広い。反対に紅茶のことになると見境がなくなる紅茶狂でもある。紅茶の缶を誤って、双子が引っくり返した時は微笑む悪鬼の形相でマシンガンをぶっ放していたことがあった。不幸にもその場に居合わせたことを思い出し、アリスは胃が痛くなった。
「帽子屋さんと随分仲が良いんだね」
エースの声のトーンが少し下がったが、彼女は気にしなかった。いつものことであるし、彼女は彼女で胃の辺りをさするのに集中していたからである。
アリスは本を借りたり、茶を飲む友達として、ブラッドとは付き合っている。今度はオレンジ色のお茶会を思い出して、胃がムカムカしてきた。どんなに美味しそうな料理が目の前にあっても、あの光景を思い出してしまうと条件反射で食欲が殺がれてしまう。
騎士の端正な仮面に僅かなかげりが現れた。
「あの人は敵が多いから、どうしても打算的な交流になるんだ。そして敵か味方かハッキリしない人間を友達にすることはあまりない」
エースは元々滑りの良すぎる口の持ち主だが、城の関係者以外の陰口を叩いたことはない。いつもと違う調子に初めて気付いたアリスはやや面食らった。
「……少なくとも敵にはならないでしょう。私は権力争いとは何の関係もないわ」
彼女の滞在地兼職場はハートの城であるが、余所者ゆえにハートの城に属するものではない。敵であっても友人になれるし、味方も然り。友人だから味方というのも少し違う。立場の違いである。味方にも敵にもなれない。ある意味世界で一番の半端者と言える。
「……君はそうでも周りはそう思ってないかもね。君が利用されるとも限らないし、何を頼むにも必ず、あの人は何か代償を求める。首輪を付けておかないと裏切られる世界だ」
確かにブラッド=デュプレは、無料で奉仕するようなボランティア精神など欠片も持ち合わせていないように見える。常に気紛れ、むしろ周りを振り回すような男である。
しかし身内には優しいということもアリスは知っている。彼女の知る限り、代償やら褒賞を求めるのは双子くらいなものである。
「下心があると言いたいのね。私は何かを求められたことなど一度もないわ。お茶の誘いに乗っているだけ。私が珍しいだけよ」
無論彼女は身内ではない。ブラッドがアリスに優しいのは恐らくご自慢の気紛れであると思うことにしていた。
傍に毛色の違う野良猫がやって来たら、かまってやりたくなるものだ。物珍しさから余所者を招き、特に差異がないのを確認し、飽きて見向きもしなくなるだろう。茶に誘ってくれる内はまだ花である。
「いずれ飽きられるわ」
アリスは好意を素直に受け取りはするが期待はしない。全てはその場限りの楽しい夢なのである。次はない、といつもい聞かせて、いつか覚める夢の終わりを待っているだけなのだから。
エースが腕を組み、片眉を上げた。まるで恋人の浮気を詰問するような態度である。
「……随分帽子屋さんのこと庇うんだね。あの人は君の心が欲しいんだと思うけど?」
オウムのようにアリスが心、と繰り返せば、彼は肩を竦めて肯定し、深刻な表情で告げる。
「余所者に好意を寄せているんだ。単純に言えば仲良くなりたい、好きになって欲しいって気持ち。でもね、これは警告になるけど帽子屋さんと仲良くなるのは止した方が良い」
相手の勝手ない分にはアリスもさすがに頭に血が上った。
「どうしてあんたに、そこまで言われなきゃならないの? 私が誰と仲良くしようが関係ないでしょ?!」
長い腕が伸び、アリスの背後にある木を突いた。とっさに身を竦めることもできず、ただ彼女は棒立ちになった。身の二回りはあろうかという大きな影が太陽を遮る。アリスの脳温が急激に下がり、強張った頬が紅潮する。端正な顔がゆっくりとアップになっていくにつれ、二人の距離を意識し、彼女は混乱した。背筋を冷や汗が伝う。
――顔が近い。
「あの人は危ない人なんだよ。特に二人きりになっちゃあ駄目だ。頭からパックリ食べられちゃうぜ」
脅すようにアリスに迫る。冗談めかしている彼こそ獲物をパックリ食べてしまいそうだ。
歯の根が合わない獲物は舌も上手く回らない。何とかこの場を逃れないとえらい目に遭いそうな気がして、必死に頭を回転させる。何もないのに慌てる必要などない、と自分にい聞かせる。
「あ、あの人、どう見ても相手には不自由してなさそうよ」
ブラッドは見た目若いくせに帽子屋ファミリーのボスで、しかもどんな女も見惚れるほどの美男子である。外見が良くて富も権力もあって、もてない訳がない。帽子屋は毎回違う女を連れていることをアリスは多数の知り合いから聞かされている。女遊びは派手なようだが、相手は揃って美人ばかりだったとも聞いている。
アリスは自分の顔が嫌いではないが、並の器量であると自覚している。器量良しが大勢いるのに、わざわざアリスを選ぶメリットがない。しかもお世辞にも性格が良い方ではなく、ズバリ根暗である。ある意味、粘着質なブラッドに似ていなくもないのがポイント(?)である。
「アリス、君は余所者だから特別なんだよ。あの人は常に退屈していて、面白いものがあると猫のように飛びつくんだ。それでネズミをいたぶるように散々弄んでから、最後に飽きて捨てるんだ」
「私にはあなたも同じように見えるわよ? 根本的なところが似るって、そういう残酷な部分のことかしら」
エースはブラッドの残酷さを語りたいのだろうが、アリスにとってはどの人間も大体同じである。例えば目の前にいる男も、その最たる例の一つである。
「ひっどいなあ! 俺、これでも騎士だぜ? そんな弱いもの虐めみたいなことしないよ」
「動物から食料を強奪するのは、弱いもの虐め以外の何な訳?」
かなりピンポイントで弱いもの虐め以外の何ものでもない。
アリスの横の幹へ、頭から持たれかかったエースは上手いい訳を考えているのか、かなり困った顔を作った。やがて観念したように項垂れる。
「だからー、俺も困ってたんだよ。もう少し空腹だったら熊も食べたかもしれないし」
「あんたは熊をも凌ぐ猛獣か」
風と共にベアナックルが梢を揺らす。木を移っても相変わらず振動と咆哮は収まらない。幸いこの木は、前の木に比べると幹が太くて頑丈で倒される心配もない。
気が散ったせいか、エースは腕を退かして、熊をかえりみた。下から注がれる熱視線は相変わらず騎士にロックオンされている。
「ふう。執念深い熊さんだ……」
復讐をしぶしぶ諦めた熊が消えてからも、二人はしばらく木の上にいた。時間帯は夕方になり、アリスの読書が終わるのをエースは待ちくたびれて寝てしまっている。本を閉じたアリスは見るともなく目の前の男を眺めていた。容姿だけならば目の保養にはなる。
夕陽に映える顔立ちは精悍だが、どこか柔和な印象を与える。野外生活が長い割にきめ細やかな肌、よく見れば長い睫、高い鼻梁、大きな口。美男のポイントは一通り押さえている。問題は内面であるが、寝ている分には気にしなくて良いことだ。
規則正しい寝息を聞きながら、彼女は独り言をもらした。
「私、あなたのこと理解できないわ」
「君は余所者だから理解できないだけさ」
寝息を立てていても、即座に返事を返す。瞼は未だに閉じられたままだが、周囲が見えていてもおかしくない。この男の厄介なところは、そういう素で騙すところにある。
確かにアリスは余所者である。だが、この世界の人間であっても、彼の理解者など彼女には見つけられなかった。上司に同僚、果ては親友まで、この男には手を焼かされている。エースという人間を理解できていれば、もう少し上手く操縦できているだろう。
元々裏も表もない、オープンな騎士である。裏とか表とか探ろうとするから、おかしなことになる。彼は言葉の上では隠していない。ただ仮面のような爽やかな笑顔で誤魔化すのが上手いだけである。
付き合うのが実に面倒臭い類の人間ではある。単純に気難しいものとは違い、仮面のように笑っていて、本当の感情が読みにくい。読めなくても何とか付き合えるが、深い関係になることもない。周囲の人間はそもそも理解しようという気も起こらないのだろう。もしくは途中で気力がなくなって諦めてしまうのだろう。
実際の彼の環境を鑑みて、アリスは深い溜息を吐いた。
「きっとこの世界の誰も本当にはあなたのこと理解してあげられないわね……」
目を開けたエースは不思議そうな顔を向けた。
「人が人を理解できる訳ないじゃないか。それは解った気になっているだけだよ」
あまりのい分に、さしものアリスもしばし絶句した。It's Cool. その考え方は冷めすぎである。信頼できる友人がいない人に多い意見だと彼女は思い、軽く同情した。そんなことではこの先一生、真の友人なんて得られないだろう。多分作る気もないのだろうが。
「……エースって時々、私以上に冷めてるわよね……」
「自分ですら知らない一面をみんな持っているものさ」
一理ある。あるけれども、アリスには言葉の棘が気にかかる。人の理解自体があり得ないとでも言うかのようだ。
「エースは理解されたくないの?」
夕陽に細められた双眸は同じ緋色を虚ろに映す。決して彼女の方を見ようともしない。
されたいよ、とエースの口から言葉が溢れた。
「でも無理だ。本当の心なんて、きっと誰にも解らない」
その物言いはアリスの心に棘を刺していく。それは自分自身ですら己を理解しきれない、とでも言いたいかのようだ。
アリスはそれ以上何も言えなくなってしまった。彼女でさえ自分がなぜここにいるのか、帰りたいと思うのかすら判らなくなっていたのだから。
二人が木から降りて歩き出してから、早三回時間帯が変わった。
木と木と木で森が作られることに今更ながらアリスは納得していた。大自然の中、彼女の思考は学問の空へ飛び立っている。
エースのお陰で、まともであったはずの彼女の方向感覚は現在進行形で狂わされていた。周囲には木ばかりで、遥か遠方に食玩のような家が申し訳程度に並ぶ。現在地がどこなのかもハッキリしないため、帰りようがない。
アリスの隣から能天気な声が上がる。
「あっれー? おかしいな。ハートの城が遠退いていくぜ?」
残念ながら、アリスの視力は人並みである。ゆえにハートの城を見ることなどできない。だが、いくらアフリカの先住民族並の視力があったところで、壮絶な方向感覚の前には宝の持ち腐れである。少なくとも迷子の騎士の役には立っていない。
「……エースは近道なんてしなければいいのに」
近道なんて、永遠にこの男の前には現れない。そのくせ大回りする道だけは、とにかく見つけるのが上手い。これも才能の成せる業なのだろうか。アリスにはわざとやっているようにも見える。
「やっぱりさあ、近道なんて無駄がなさすぎて、つまらないだけだよな。わき道寄り道回り道って大事だよなあ」
「なに悟ってんのよ。今は哲学やってる時じゃないのよ。現実を見なさい、現実を!」
先ほどまで現実逃避していたアリスだが、道草好きの出した結論には大いに異議を唱えた。近道できないことも確かだが、回り道を推奨する訳にもいかない。
「あっはははは。アリス、人生は焦っちゃかえって失敗するぜ。少しは俺と一緒に迷ってみるのも良い経験だと思わない?」
「迷子はあなた一人で十分よ! って言うか、私も現在進行形で迷ってるじゃない。しかも少しどころか、かなり重度に!! あなたはもうちょっと焦った方が良いわ。待ちぼうけを食う身にもなってみなさい」
お互いに仕事は待ってくれない。アリスは同僚に迷惑をかけているし、エースは兵士の稽古をつけられない。アリスはともかく仕事上の役職で、エースの代わりは他人に務まらない。
だと言うのに重役本人は全く焦る気がない。依然ニコニコして、ゆったりと歩を進めるだけで、恐らく自覚もないのだろう。
「人より多く損してても、実は得をしているんだって思うようにしてるんだ。落ちるだけ落ちたら、後は上るだけで良いんだから楽だろ? 前向きに考えれば、少しは状況も好転する気がするんだ」
ニコニコと述べられるエース的高説を、一人だけの聴衆は鼻で哂った。
「本当に好転すればいいのにね。どうしてあなたと一緒にいると前向きに後ろへ進んでいる気がするのかしら?」
「それは言い得て妙だね。気のせいじゃなくて、実際そうなってる」
先ほど付けた目印と、感動の再会をしてしまった。感動のあまり、アリスは泣けてきた。
頭を抱えた連れを、のん気な騎士は慰める。
「ここでは時間が腐るほど余っている。どこに行くにも行き着く先はいつも同じ。いくら時間をかけようとも結果に大きな違いは出ないんだよ。それって退屈だと思わない?」
「……だからあなたは退屈凌ぎをいつも探しているって訳ね?」
エースは退屈を潰すためだけに売るほどの危険をばら撒きまくっている。それは既に趣味と呼べるかもしれない。