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星加良司「「障害」の意味付けと障害者のアイデンティティ――「障害」の否定・肯定をめぐって」
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障害しょうがい」の意味いみけと障害しょうがいしゃのアイデンティティ

―「障害しょうがい」の否定ひてい肯定こうていをめぐって―

星加ほしか 良司りょうじ
20020915
『ソシオロゴス』26:105-120

last update: 20160125


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 障害しょうがいしゃにとって「障害しょうがい」とはなにか。通常つうじょうみずからのアイデンティティに否定ひていてき作用さようすることのおおい「障害しょうがい」にたいする態度たいどのありかたは、障害しょうがいしゃにとって重要じゅうよう問題もんだいである。そしてその態度たいど肯定こうてい否定ひていあいだうごき、ときにそれは矛盾むじゅん対立たいりつとして意識いしきされる。本稿ほんこうでは、「障害しょうがい」の位相いそう適切てきせつ分節ぶんせつすることをつうじて、障害しょうがいしゃのアイデンティティと「障害しょうがい」との関連かんれん仕方しかた把握はあくする。その結果けっか対立たいりつふくむようにえた「障害しょうがい」にたいする態度たいどが、じつ障害しょうがいしゃのアイデンティティの肯定こうていなか並存へいそんるものであったことがあきらかになるはずである。


1 はじめに

 障害しょうがいしゃは「障害しょうがい」(1)の経験けいけんふくめたみずからのせいきている。そしてその「障害しょうがい」はおおくの場面ばめんにおいて焦点しょうてんされ重要じゅうよう意味いみつというてんで、かれらのアイデンティティの主要しゅよう一部いちぶ構成こうせいするのが普通ふつうである。もちろん、障害しょうがいしゃつねに「障害しょうがい」をものとして自己じこ定義ていぎおこなっているわけではなく、障害しょうがいしゃのアイデンティティのなかめる「障害しょうがい」の位置いち個別こべつ具体ぐたいてき状況じょうきょう相関そうかんして多様たようでありるのだが、「障害しょうがい」に特別とくべつ意味いみあたえて障害しょうがいしゃ規定きていする社会しゃかいてき圧力あつりょくなかで(2)、「障害しょうがい」への態度たいど意識いしきせざるをない場面ばめんおおい。そこで「障害しょうがい」の意味いみは、かれらが肯定こうていてきにアイデンティティを形成けいせい維持いじしていくうえ重要じゅうよう問題もんだいとなる。「障害しょうがい」が克服こくふくされるべきものか、肯定こうていされるべきものかといういがてられるのも、こうした事情じじょう反映はんえいしたものである。「障害しょうがい」はないほうがよいとかんがえる立場たちばからは、「障害しょうがい」は否定ひていてきなものであり、それを消去しょうきょ克服こくふくする努力どりょく要請ようせいされる。他方たほう、「障害しょうがい」をかけがえのないアイデンティティの一部いちぶとらえる立場たちばからは、「障害しょうがい」を積極せっきょくてき肯定こうていすることがもとめられる。「克服こくふく」と「肯定こうてい」はすくなくとも表面ひょうめんてきには対立たいりつするようにえる。「障害しょうがい」の克服こくふく目指めざすことは「障害しょうがい」を肯定こうていできないことのあらわれであるとされ、また「障害しょうがい」を肯定こうていしてしまうことはその克服こくふくけての努力どりょく否定ひていすることにつながるとされる。
 この二者択一にしゃたくいつてきいにたいして、いくつかの議論ぎろんがなされている。たとえば石川いしかわは、「障害しょうがい」をめぐる当事とうじしゃ態度たいどつうじてこのいにアプローチする(石川いしかわ[1999、2000])。同化どうかによる統合とうごうもとめる社会しゃかいてき規範きはんもとで、障害しょうがいしゃ同化どうか差異さい消去しょうきょすること)を達成たっせいすることで統合とうごう実現じつげんするか、異化いか差異さい主張しゅちょうすること)を志向しこうして

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排除はいじょ状態じょうたいあまんじるか、という二者択一にしゃたくいつせまられる。しかし、実際じっさいには同化どうかによる統合とうごうという社会しゃかいてき規範きはんそのものがいつわりであって、同化どうか達成たっせいしても排除はいじょ状態じょうたい放置ほうちされることになる。したがって、このいつわりの規範きはん信頼しんらいして同化どうか異化いかかという選択せんたくにはまりこんでしまうと、社会しゃかい差別さべつ主義しゅぎてき本質ほんしつ(ディスエイブリズム)を隠蔽いんぺいすることにつながってしまう。結局けっきょく障害しょうがい」の克服こくふく肯定こうてい障害しょうがいしゃのアイデンティティ管理かんりなか戦略せんりゃくてき使つかけながら、社会しゃかいのディスエイブリズムの解体かいたい目指めざすことが重要じゅうようであるとされる(3)。
 また立岩たていわは、「障害しょうがい」を「できないこと」とえたうえで、「障害しょうがい」はないにこしたことはない、という言明げんめい仕方しかた反論はんろんする(立岩たていわ:[2001])。「できないこと」が否定ひていてきであるのは特定とくてい条件下じょうけんか成立せいりつすることにぎず、おもに「できないこと」を代行だいこうすることになる他者たしゃにとっての都合つごうであると結論けつろんされる。「できないこと」は、すくなくとも当事とうじしゃにとっては積極せっきょくてき肯定こうていされる可能かのうせいのこしているのであり、その意味いみで「障害しょうがい」はかならずしもなくすべきものだとはえないことになる。むしろ、そのように両義りょうぎてきでありるはずの「障害しょうがい」について、その肯定こうてい否定ひていか、あるいは肯定こうてい克服こくふくかといういを障害しょうがいしゃにつきつける社会しゃかい圧力あつりょくこそが問題もんだいであるとされる。
 これらの回答かいとうは、このいをめぐる問題もんだい状況じょうきょう一端いったんあきらかにしてくれる。前者ぜんしゃは、「障害しょうがい」の克服こくふく肯定こうていかという選択せんたく文字通もじどおりにとらわれると、その背後はいごにあるディスエイブリズムを隠蔽いんぺいするという「意図いとせざる結果けっか」をせてしまうことを指摘してきし、後者こうしゃはそうしたいがはっせられてしまうこと自体じたい権力けんりょくせい注意ちゅうい喚起かんきする。これらは障害しょうがいしゃおちいりがちなジレンマ状況じょうきょうを、障害しょうがいしゃ個人こじんうちとざさせるのではなく、それを社会しゃかいのありかたへといの地平ちへい移動いどうさせるというてんで、非常ひじょう重要じゅうよう指摘してきであるとおもわれる。しかし同時どうじに、なにかものたりない印象いんしょうをもあたえる。これは、いを成立せいりつさせた障害しょうがいしゃのリアリティを十分じゅうぶん反映はんえいしたものだろうか。障害しょうがいしゃが「障害しょうがい」を否定ひてい、または肯定こうていすると主張しゅちょうしてきたとき、そこには否定ひてい克服こくふくしなければならない「障害しょうがい」の経験けいけん肯定こうていすべき「障害しょうがい」の経験けいけんがあったはずである。それらの経験けいけん根拠こんきょに「克服こくふく」と「肯定こうてい」はそれぞれの主張しゅちょう展開てんかいしたのではないか。だとすれば、そうした主張しゅちょう根拠こんきょについて十分じゅうぶん検討けんとうおこなったうえで、なに対立たいりつんでいるのか、もし対立たいりつでないのだとしたら、それらが二者択一にしゃたくいつてき選択肢せんたくし構成こうせいしてしまうようないの構造こうぞうがどのようなものであるのかを、分析ぶんせきすることが必要ひつようなのではないか。
 このようにかんがえてみたうえで、あらためていにたいする従来じゅうらい回答かいとう検討けんとうすると、「障害しょうがい」というかたり多義たぎせいや、その構造こうぞうかんして十分じゅうぶん分節ぶんせつされないまま議論ぎろんされているようにおもわれる。障害しょうがいしゃが「障害しょうがい」の否定ひてい肯定こうていかたるとき、その「障害しょうがい」は文脈ぶんみゃくおうじて様々さまざま意味いみ内容ないようっている。ところが、「障害しょうがい」のゆうする意味いみについて十分じゅうぶん理論りろんてき探求たんきゅうおこなわれていない。より正確せいかくうならば、「障害しょうがい」の意味いみをめぐる種々しゅじゅ議論ぎろんは、「障害しょうがい」の多層たそうてき意味いみ内容ないよう十分じゅうぶん把握はあくしていないために、論点ろんてん曖昧あいまいにしてしまっているようにおもわれる。本稿ほんこうでは、まず、ともすればいちくくりにかたられがちな「障害しょうがい」の位相いそう問題もんだいそくして分節ぶんせつし(2せつ)、障害しょうがいしゃのアイデンティティのなかで「障害しょうがい」のそれぞれの位相いそうがどのような意味いみるのかについて、「障害しょうがい否定ひてい」と「障害しょうがい肯定こうてい」という文脈ぶんみゃくにおいて考察こうさつする(3、4せつ)。これらをつうじて、「障害しょうがい」が障害しょうがいしゃのアイデンティテ

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ィにおいてめる位置いちかんがえるさい基礎きそてき枠組わくぐみを準備じゅんびすることに貢献こうけんしたい。

2 「障害しょうがい」の位相いそう

 今日きょうにおいて「障害しょうがい」をめぐる問題もんだいきわめて社会しゃかいがくてきなテーマである。従来じゅうらい障害しょうがい」は個人こじん身体しんたいてき精神せいしんてき欠陥けっかんとしてのみとらえられ、医学いがくてき治療ちりょう対象たいしょうとされるとともに、リハビリテーションによる回復かいふくけての努力どりょく障害しょうがいしゃ不断ふだん要求ようきゅうされていた。これは「障害しょうがい医療いりょうモデル」(以下いか医療いりょうモデル」と記述きじゅつ)として、障害しょうがいしゃ運動うんどうなか批判ひはんてきとされてきた障害しょうがいかんである(4)。これにたいして、1970年代ねんだい後半こうはんのイギリスを先駆さきがけとする障害しょうがいがく(disability studies)(5)の成果せいかとしてもたらされた「障害しょうがい社会しゃかいモデル」(以下いか社会しゃかいモデル」と記述きじゅつ)は、「障害しょうがい」を社会しゃかい障害しょうがいしゃあたえる不利益ふりえきとして把握はあくすることで、「障害しょうがい」を社会しゃかいてき問題もんだいへと転化てんかさせた。これは実践じっせんてきな「障害しょうがい」についての理解りかいをめぐるパラダイム転換てんかんともぶべき画期的かっきてき変化へんかであり(6)、「障害しょうがい」にかんする社会しゃかいがくてきなアプローチを要請ようせいする変化へんかでもあった。
 この「社会しゃかいモデル」による「障害しょうがい」の把握はあく仕方しかたかならずしも一様いちようであるわけではないのだが(7)、基本きほんてきには「障害しょうがい」をインペアメント(機能きのうじょう欠陥けっかん)の側面そくめんとディスアビリティ(能力のうりょくじょう制約せいやく)の側面そくめんとに区別くべつし、「障害しょうがい」をもっぱらディスアビリティの問題もんだいとして焦点しょうてんする。たとえば、イギリスのUPIAS(Union of the Physically Impaired Against Segregation)ではつぎのような定義ていぎおこなっている(8)。

インペアメント:手足てあし一部いちぶまたは全部ぜんぶ欠損けっそん身体しんたい欠陥けっかんのある手足てあし器官きかんまたは機構きこうっていること
ディスアビリティ:身体しんたいてきなインペアメントをひとのことをまったくまたはほとんど考慮こうりょせず、したがって社会しゃかい活動かつどう主流しゅりゅうからかれらを排除はいじょしている今日きょう社会しゃかい組織そしきによってされた不利益ふりえきまたは活動かつどう制約せいやく

これは「社会しゃかいモデル」にもとづく「障害しょうがい」のひとつの典型てんけいてきとらかたしめしたものである。インペアメントとディスアビリティとの因果いんがてき関連かんれんせい切断せつだんしたうえで、すくなくとも障害しょうがいしゃにとって問題もんだいなのはディスアビリティであるとする。このように戦略せんりゃくてきにインペアメントを問題もんだいけい外部がいぶにくくりすことで、「障害しょうがい」をまさに社会しゃかい解決かいけつすべき問題もんだいとしてとらえる障害しょうがいしゃ解放かいほう理論りろんてき基礎きそ準備じゅんびしたのである。
 これにかんして、この定義ていぎではインペアメントが純粋じゅんすい生理学せいりがくてきなものとされているが、インペアメントはそれをかびがらせる社会しゃかいとの関連かんれんにおいてはじめて現出げんしゅつするのであり、アプリオリに存在そんざいするものではないという批判ひはんもなされた(9)。この批判ひはんは、「障害しょうがい」を社会しゃかいてき構築こうちくされたものとして把握はあくする立場たちば徹底てっていしていくならば、必然ひつぜんてき帰結きけつしめしている。つまり、インペアメントもそれをインペアメントとして措定そていする社会しゃかい枠組わくぐみのなか現出げんしゅつするという意味いみでディスアビリティとの関連かんれんにおいてしょうじるのであり、それに先行せんこうして、あるいはそれと独立どくりつしては存在そんざいないとされるのである。しかし、この「障害しょうがい」の把握はあく論理ろんりてき帰結きけつは、ディスアビリティを解消かいしょうするという社会しゃかいてき目標もくひょう達成たっせいがそのままインペアメントの解消かいしょうをも結果けっかすることを指示しじする。これは「障害しょうがい」をすることを目標もくひょうとするものであるが、しかしそれは「障害しょうがい」を当事とうじしゃ実感じっかんこたえるものではない。

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 つまり、外科げか手術しゅじゅつをすることも場合ばあいによっては大事だいじにはちがいないけれども、それ以上いじょうにどうやったら障害しょうがいしゃ社会しゃかいなか障害しょうがいをもったままできていけるのかをかんがえることのほう大事だいじだということになってきたのです。ぼく自身じしん現在げんざいではそのかんがえがただしいとおもいます。(二日ふつか[2001:180])

これは直接ちょくせつには、「医療いりょうモデル」からの脱却だっきゃくという文脈ぶんみゃくなかかたられた言葉ことばであるが、「障害しょうがいったままできていける」ことの重要じゅうようせい指摘してきされているてん注目ちゅうもくされたい。「障害しょうがい」を徹底的てっていてき社会しゃかいしてその解消かいしょう目指めざ立場たちばからは、「障害しょうがいのない状態じょうたいきていける」ことが目標もくひょうとなるはずである。しかし、ここでは「障害しょうがい」はそれ自体じたい否定ひていされるべきものではなく、むしろ「障害しょうがい」を個人こじんせい条件じょうけんとして前提ぜんていしたうえでそれに適合てきごうてき社会しゃかいのありかた認識にんしきしめされている。すくなくとも日常にちじょう生活せいかつにおいて「障害しょうがい」はこのような意味合いみあいで理解りかいされていることがおおい。また、みずからが障害しょうがいしゃでもある障害しょうがいがく研究けんきゅうしゃモリスは、つぎのようにう。

 しかしながら、ディスアビリティの社会しゃかいモデルには、我々われわれ身体しんたいてき差異さい身体しんたいてき制約せいやく完全かんぜん社会しゃかいによってもたらされているとし、我々われわれ身体しんたい経験けいけん否定ひていする傾向けいこうがある。環境かんきょうてき障壁しょうへき社会しゃかいてき態度たいどたしかに我々われわれのディスアビリティの経験けいけん核心かくしん部分ぶぶんにあり、我々われわれ不利益ふりえきをもたらしているが、それにきるとうったえるのは、身体しんたいてき知的ちてき制約せいやく病気びょうきおそれにかんする自分じぶん体験たいけん否定ひていすることである。(Morris [1991:10])

障害しょうがいしゃ経験けいけんなかめる身体しんたいてき制約せいやくとしての「障害しょうがい」の意味いみけっしてちいさなものではなく、それはかならずしも社会しゃかい変革へんかくによって解消かいしょうされるものではないことが指摘してきされている。そうした「自分じぶん体験たいけん」は否定ひていされるべきものではないのであり、「障害しょうがい」にふくまれるこの両義りょうぎてき性格せいかくを「社会しゃかいモデル」は十分じゅうぶん把握はあくしきれないということである。
 このように、「障害しょうがい」の概念がいねんには多様たよう要素ようそ混在こんざいしており、そのことが「障害しょうがい」をめぐるしょ言説げんせつ独特どくとく多義たぎせいあたえている。「障害しょうがい」をめぐる議論ぎろんおおくが論点ろんてん鮮明せんめいにしていないようにえるのは、この多義たぎせい起因きいんしているようにおもわれる。とりわけ、インペアメントにかんする部分ぶぶんでは、それがときに否定ひていてきなものとしてとらえられ、それをかびがらせる社会しゃかいてき価値かち問題もんだいされる一方いっぽうで、それ自体じたい否定ひていすべきものではなく受容じゅようしていくことが可能かのうであるという見方みかた存在そんざいする、という両義りょうぎせいることができる。このインペアメントのゆうする両義りょうぎせい把握はあくするために、障害しょうがいしゃにとってインペアメントがどのように経験けいけんされるのかを確認かくにんしてみよう。
 右手みぎてゆび欠損けっそんしたむすめ野辺のべ明子あきこは、むすめが「障害しょうがい」を経験けいけんしていく過程かてい記述きじゅつしている(野辺のべ明子あきこ[2000])。むすめは2さいのとき、「ママはこっちのおしゅもこっちもある、まいちゃんこっちのおない・・・」と母親ははおやげる。自分じぶんかたちづき、それが家族かぞくのものとちがうことを認識にんしきした最初さいしょ経験けいけんである。その自分じぶん工夫くふうすれば不自由ふじゆうなことはなにもない、とってごく自然しぜんみずからの身体しんたいれていった彼女かのじょだったが、中学ちゅうがくねん美術びじゅつ授業じゅぎょうさかいに、彼女かのじょはときおり自分じぶんかくすようになる。そのときのことを彼女かのじょはこう作文さくぶんつづっている。

 わたし右手みぎてをモデルにすることはいけないことでも、ずかしいことでもないとおもってい
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ます。それなのにそのときはどうしても自分じぶん気持きもちとは反対はんたいに、ずかしいとおもい、右手みぎてせませんでした。(中略ちゅうりゃくわたし苦労くろうしながら左手ひだりててはそのでまた鉛筆えんぴつち、左手ひだりてをデッサンしていると、クラスの男子だんしが、野辺のべ、どうするんだろうね、あいつずかしくて出来できねえんじゃねえのとってわらったのがこえました。わたしなみだるほどからだあつくなりました。でもどうにか自分じぶん気持きもちさえました。かんがえてみるとこういうわらいや視線しせんはそのときばかりではありません。いろいろなところでこういう気持きもちをあじわってきました。(10)

それまであたりまえであった自分じぶん右手みぎては、周囲しゅういひとの「わらいや視線しせん」によって羞恥しゅうち対象たいしょうとなったのである。これをけて、野辺のべ明子あきこつぎのようにべている。

 ひとちがかたちをした手足てあしをなじられたり、いじめられたりすることがなければ、どもたちはないことをじる必要ひつようもなく、じつ平和へいわ自己じこ受容じゅようしてきることができる。「ある」「ない」の認識にんしきそれ自体じたいにはなん差別さべつしょうじないが、「ないのはおかしい」あるいは「みんなとちがうのはへんだ」といった価値かち判断はんだんがそこにはいんでくると、いままで自由じゆうきてきたどもがたちまちにして「障害しょうがい」にされていく。(野辺のべ明子あきこ[2000:119-120])

この事例じれいまえて、本稿ほんこうではインペアメントの位相いそうを、その発生はっせい過程かてい着目ちゃくもくして区別くべつしたい。まず、個人こじん身体しんたい着目ちゃくもくするかぎり、そこには純粋じゅんすい生理学せいりがくてき同定どうてい可能かのう身体しんたいてき機能きのう形態けいたいがある。それぞれの個人こじん身体しんたいには一定いってい機能きのう形態けいたいがあり、それはその個人こじんせい条件じょうけんとなる。たとえば、ゆびがない、といった状態じょうたいがこれにたる。もちろん個体こたい注目ちゅうもくするかぎゆびが「ない」という認識にんしきすらともなわないのであるが、ここでは便宜上べんぎじょうそのように記述きじゅつしておく。ゆびがない、という機能きのう形態けいたいった身体しんたいあたえられた「障害しょうがいしゃ」は、その身体しんたいおうじて、せいいとなむことになるのである。
 さらに、この特定とくてい機能きのう形態けいたい関連かんれんして差異さい認識にんしきまれる。他者たしゃとの接触せっしょくつうじて、複数ふくすう個人こじんゆうする身体しんたいじょう機能きのう形態けいたい比較ひかくすることによって、たがいの差異さい認知にんちされることになる。当然とうぜんのことながら機能きのう形態けいたいかかわる差異さい特徴とくちょうは、個人こじん内在ないざいするのではなく、他者たしゃとの比較ひかくつうじて関係かんけいとして成立せいりつするのである。ゆびがないっていることが、ひとことなっていることを認識にんしきし、それがひと特徴とくちょうおおくの場合ばあいそれはマイナーな特徴とくちょうとしてあらわれる)であることを意識いしきしたことで、その機能きのう形態けいたい差異さいとして把握はあくされるのである。
 ここで認知にんちされた差異さいたいして社会しゃかいあたえる特定とくてい否定ひていてきなサンクションによって、「障害しょうがい」はあらわれることになる。これは社会しゃかいにおいてインペアメントが問題もんだいする水準すいじゅんであり、比較ひかくによってかびがった差異さい劣等れっとうせい異常いじょうせい付与ふよする社会しゃかいてき場面ばめんにおいて成立せいりつする。社会しゃかいはあるしゅ価値かちふくむことなしには存立そんりつず、その価値かちらして正常せいじょうなもの、のぞましいものからの逸脱いつだつなされた差異さい否定ひていてき価値かちけられる。なかでもその否定ひていてき価値かち付与ふよ強力きょうりょく固定こていしており、相互そうご作用さよう場面ばめんなかつね焦点しょうてんされるような種類しゅるい特定とくてい差異さいは、「障害しょうがいしゃ」を特別とくべつ存在そんざいとして認知にんちさせるように機能きのうすることになる。そうしてかびがってくるのがこの水準すいじゅんのインペアメントである。これをスティグマとしてのインペアメントとぶことにしよう(11)。ゆびがない、という差異さい

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かんして、せい条件じょうけんとして自然しぜんれていた状態じょうたいから、それを羞恥しゅうち対照たいしょうとしてとらえる他者たしゃ眼差まなざしにれることで、それは否定ひていせいしめ差異さいとなる。ゆびがない、という差異さいゆびがある身体しんたいとの比較ひかくにおいておとったものとしてとらえられ、正常せいじょう身体しんたいからの逸脱いつだつとして否定ひていてき意味いみあたえられる状況じょうきょうにおいて、社会しゃかいてき価値かちけられたその差異さいはスティグマを他者たしゃたいして表示ひょうじするシンボルとして機能きのうする。つまり、スティグマとしてのインペアメントは否定ひていてき社会しゃかいてき情報じょうほう表示ひょうじする機能きのうふくむがゆえに、それを他者たしゃられること自体じたい羞恥しゅうちとなるような差異さいとして経験けいけんされるのである。
 その結果けっか機能きのう形態けいたいかかわる差異さいはもはやたんなる差異さいではなくなる。それは「障害しょうがい」として社会しゃかいてき認知にんちされる差異さいであり、社会しゃかい否定ひていてき価値かち付与ふよにつながる差異さいである。障害しょうがいしゃはそれがスティグマとして社会しゃかいてき認知にんちされることをっており、そのような性格せいかくゆうする差異さい区別くべつされる特殊とくしゅ意味いみつことになる。これを差異さいとしてのインペアメントとぼう。ゆびがない、という身体しんたいてき特徴とくちょうは、「障害しょうがい」として意識いしきされるようになるのである(12)。
 これらのインペアメントの位相いそう相互そうご関連かんれんするかたちでディスアビリティは理解りかいされる。そのなかには、差異さいとしてのインペアメントに関連かんれんして、それを考慮こうりょしない、あるいは対象たいしょうがいくことによってしょうじるディスアビリティと、スティグマとしてのインペアメントに関連かんれんして、それを理由りゆう障害しょうがいしゃ意識いしきてき無意識むいしきてき排除はいじょすることによってしょうじるディスアビリティとがふくまれる(13)。これは、社会しゃかい活動かつどうかかわる能力のうりょくじょう制約せいやくあらわ概念がいねんであるから、はじめから社会しゃかいてき価値かちもとじょうされた概念がいねんである。つまり、社会しゃかい活動かつどうかんして社会しゃかい流通りゅうつうしている価値かちとインペアメントとの関係かんけいにおいて、ディスアビリティはしょうじるのである。
 以上いじょうのように「障害しょうがい」の位相いそう分析ぶんせきてき区別くべつすると、「障害しょうがい」をめぐる多義たぎてき理解りかいが、「障害しょうがい」のどの側面そくめん力点りきてんくのかという問題もんだい由来ゆらいしていることがえてくる。もちろんそれぞれの位相いそう相互そうご関連かんれんっており、「障害しょうがい」の理解りかいなかにそれらが混在こんざいしていることが一般いっぱんてきである。しかし、それぞれの位相いそうにおいて「障害しょうがい」の意味いみけのされかたことなってくるのも事実じじつだし、「障害しょうがい」の理解りかいにおいてどの側面そくめん力点りきてんくのかということが、障害しょうがいしゃのアイデンティティと「障害しょうがい」との関係かんけいのありかたにも反映はんえいすることになる。そうであるならば、「障害しょうがい」のそれぞれの位相いそうについて、その意味いみけやアイデンティティとの関連かんれんのありかた検討けんとうすることは有用ゆうようであるようにおもわれる。以下いかではその作業さぎょうおこなってみることにしたい。

3 「障害しょうがい」の否定ひてい

 障害しょうがいしゃがアイデンティティを肯定こうていてき形成けいせい維持いじしようとする過程かていなかで、「障害しょうがい」はどのように関連かんれんするのだろうか。一般いっぱんに「障害しょうがい」は否定ひていてきなものとされることがおおいのだから、その「障害しょうがい」をっている障害しょうがいしゃのアイデンティティにたいしては否定ひていてき影響えいきょうおよぼすのが普通ふつうである。この場合ばあい障害しょうがいしゃみずからのアイデンティティを肯定こうていてきなものにするために、その否定ひていてき影響えいきょう緩和かんわしようとする。そのための戦略せんりゃくとしては、つぎみっつがかんがえられる。すなわち、「障害しょうがい」を軽視けいししてその否定ひていてき影響えいきょう減少げんしょうさせるか、否定ひていてき意味付いみづけられる「障害しょうがい」を否定ひてい克服こくふくしようとするか、「障害しょうがい」を肯定こうていてき意味付いみづなおすか、のいずれかである。「障害しょうがい軽視けいし」は、「障害しょうがい」をみずからのアイデンティティのなかでとるにりないものと認識にんしきしてそれ以外いがい

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部分ぶぶんが「本当ほんとう自分じぶん」であるとかんがえること、また「障害しょうがい以外いがい部分ぶぶん肯定こうていてきなアイデンティティを確立かくりつして「障害しょうがい」のめる位置いち相対そうたいてき低下ていかさせることとうふくまれる。また、「障害しょうがい否定ひてい」は、アイデンティティに否定ひていてき作用さようする「障害しょうがい」そのものを消去しょうきょし、あるいは軽減けいげんしようとする態度たいどである。「障害しょうがい肯定こうてい」とは、「障害しょうがい」をみずからのアイデンティティの一部いちぶとして積極せっきょくてきれたうえで、その価値かち肯定こうていてきなものに反転はんてんさせていこうとすることである。本稿ほんこうでは、「障害しょうがい」そのものにたいする意味いみけのありかた注目ちゅうもくする立場たちばからのちしゃについて、じゅん考察こうさつすることにする。
 まず、「障害しょうがい否定ひてい」という戦略せんりゃくは、「障害しょうがい」のスティグマとしてのインペアメントやディスアビリティの位相いそう主題しゅだいされたときに採用さいようされる傾向けいこうがある。スティグマとしてのインペアメントにかんしては、それにともな差別さべつ体験たいけん否定ひていてき感情かんじょう誘発ゆうはつし、アイデンティティを損傷そんしょうすることにつながるのだから、それは消去しょうきょすべき対象たいしょうとなる。そこで障害しょうがいしゃは、スティグマのシンボルとして機能きのうする身体しんたいてき差異さい消去しょうきょするか、あるいは身体しんたいてき差異さいをスティグマする社会しゃかいてき価値かち改変かいへんすることで、スティグマとしてのインペアメントを克服こくふくしようとするのである。また、ディスアビリティにかんしては、社会しゃかいてき要求ようきゅうされる活動かつどうが「できない」という経験けいけんが、障害しょうがいしゃのアイデンティティを損傷そんしょうする。したがって、「できない」とされていたことが「できる」ようになるための努力どりょくをしたり、「できない」状況じょうきょうつくしてきた社会しゃかいてき障壁しょうへき除去じょきょすることで、ディスアビリティを解消かいしょうしようとすることになる。つまり、いずれにおいても「障害しょうがい」の消去しょうきょ戦略せんりゃくには個人こじんてき側面そくめん社会しゃかいてき側面そくめんふくまれることになる。
 このことをまえると、相反あいはんする障害しょうがいかん前提ぜんていとしている「医療いりょうモデル」と「社会しゃかいモデル」の双方そうほうにおいて「障害しょうがい否定ひてい」という戦略せんりゃく共有きょうゆうされていることがかる。「医療いりょうモデル」は「障害しょうがい」のスティグマとしてのインペアメントの側面そくめん照準しょうじゅんして、「障害しょうがい」はつね治療ちりょう対象たいしょうであり、リハビリテーションによって不断ふだん機能きのう回復かいふく努力どりょく要請ようせいされるものであるとする。これはスティグマとしてのインペアメントを「障害しょうがい」ととらえ、治療ちりょうやリハビリテーションという手段しゅだんもちいて個人こじん身体しんたい介入かいにゅうし、身体しんたいてき差異さい解消かいしょうすることによって、それを消去しょうきょしようとする志向しこうせいしめしている。一方いっぽうの「社会しゃかいモデル」においては、「障害しょうがい」があることが問題もんだいになるのは、個人こじんにインペアメントがあるからではなく、社会しゃかいてきにディスアビリティがされているためなのであり、そのような社会しゃかいのありかた問題もんだいであるとされる。ここで社会しゃかいのありかた、すなわち「できなくさせる社会しゃかい」(disabling society)が問題もんだいとされるのは、「できないこと」がはしてきのぞましくないという意味いみ否定ひていてきである(14)ことに根拠こんきょつ。このように「障害しょうがい」を否定ひていてき意味付いみづけるというかぎりにおいて、「医療いりょうモデル」と「社会しゃかいモデル」はおな地平ちへい共有きょうゆうしているのである。つまり、スティグマとしてのインペアメントもディスアビリティも、それが特定とくてい身体しんたいてき差異さい社会しゃかいてき価値かちとの関係かんけい問題もんだいとして成立せいりつしている、という共通きょうつうてんゆうするから、いずれも「障害しょうがい否定ひてい」の戦略せんりゃく個人こじんてき側面そくめん社会しゃかいてき側面そくめんつことになるが、そのなかで、「医療いりょうモデル」はスティグマとしてのインペアメントにかんして、個人こじんてき側面そくめん照準しょうじゅんして身体しんたいてき差異さい消去しょうきょすることで「障害しょうがい」を克服こくふくしようとし、「社会しゃかいモデル」はディスアビリティにかんして、社会しゃかいてき側面そくめん照準しょうじゅんして社会しゃかいてき価値かち改変かいへんもとめることで「障害しょうがい」を克服こくふくしようとするのである。その結果けっか、「医療いりょうモデル」

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個人こじんに「障害しょうがい」の消去しょうきょ責任せきにん帰属きぞくさせるのにたいし、「社会しゃかいモデル」がそれを社会しゃかいせめする、というコントラストがしょうじるのである。この「障害しょうがい」のかえりせめは、「障害しょうがい」を消去しょうきょするための努力どりょくだれ要求ようきゅうするのかという問題もんだいであるとともに、「障害しょうがい」を消去しょうきょしきれない場合ばあい通常つうじょう完全かんぜんには消去しょうきょしきれないわけだが)に、否定ひていせい付与ふよされる主体しゅたい名指なざ効果こうかゆうする。
 このことは、障害しょうがいしゃのアイデンティティ問題もんだい焦点しょうてんてる本稿ほんこう課題かだいにとって非常ひじょう重要じゅうようてんである。「障害しょうがい」を否定ひていてきとらえること自体じたいおなじでも、それをみずからに帰属きぞくさせるのでなければアイデンティティにたいする否定ひていてき影響えいきょう減少げんしょうする(15)。それは、不慮ふりょ事故じこ理不尽りふじん仕打しうちによっておちいったみずからののぞましくない状況じょうきょうが、みずからのアイデンティティにとってそれほどまけ影響えいきょうおよぼさないのと同様どうようである。
 以上いじょう確認かくにんしたような「障害しょうがい否定ひてい」という戦略せんりゃくは、「障害しょうがい」を当事とうじしゃ運動うんどうなかにも共有きょうゆうされている。たとえば、障害しょうがいしゃ自立じりつ生活せいかつ運動うんどう(16)においては、自立じりつ概念がいねん転換てんかんともなう「障害しょうがい」のだつスティグマと、社会しゃかいがもたらすディスアビリティの解消かいしょう目指めざ制度せいどてきアドボカシーとが平行へいこうてき推進すいしんされている。従来じゅうらい身辺しんぺん自立じりつたか価値かちみとめ、障害しょうがいしゃにもそのような意味いみで「自立じりつてき」であるための個人こじんてき努力どりょく要求ようきゅうしてきた自立じりつかん相対そうたいすることで、かれらは「障害しょうがい」にりつけられたスティグマを払拭ふっしょくしようとしてきた。それと同時どうじに、かれらの社会しゃかい参加さんかこばみ、「自立じりつ」を困難こんなんにしてきた社会しゃかいてき障壁しょうへき解体かいたいすることも、運動うんどう重要じゅうようはしらとなっている。障害しょうがいしゃ権利けんり擁護ようご活動かつどうかかわってきた長瀬ながせつぎのようにう。

 障害しょうがいしゃ文化ぶんかみとめるという価値かちかん変化へんかなしで社会しゃかい環境かんきょう変革へんかくすすめることは困難こんなんだし、ともすればぎゃく障害しょうがいしゃへの偏見へんけんつよめてしまう。障害しょうがいともきる価値かちみとめることは、社会しゃかい環境かんきょう変革へんかくたましいれる作業さぎょうである。障害しょうがいによる差異さい祝福しゅくふくとしてめられる社会しゃかい目指めざすことである。この両面りょうめんからのみをすすめることは障害しょうがい自体じたいへの見方みかたをもえるだろう。(長瀬ながせ[1996])

価値かちかん変革へんかく(スティグマの消去しょうきょ)と社会しゃかい環境かんきょう変革へんかく(ディスアビリティの解消かいしょう)とは、障害しょうがいしゃ問題もんだい解決かいけつする両輪りょうりんとして認識にんしきされている。スティグマとしてのインペアメントを消去しょうきょするために、社会しゃかいてき価値かち改変かいへん必要ひつようであるとされるのである。そして社会しゃかいてき価値かち改変かいへんされ「障害しょうがいとともにきることの価値かちみとめ」られたとき、「障害しょうがい」はもはや否定ひていてきなもの、すなわちスティグマとしてのインペアメントではなく、祝福しゅくふくされるべき差異さいとしてあらわれることになる。これは、ディスアビリティの解消かいしょうによって促進そくしんされるとともに、その実現じつげんに「たましいれる」ことなのである。
 このような「障害しょうがい否定ひてい」という戦略せんりゃくは、「ろう文化ぶんか運動うんどう」のなかにも確認かくにんすることができる。「ろう文化ぶんか」(deaf culture)(17)は、障害しょうがいしゃにとっての「障害しょうがい」の意味いみけについての解釈かいしゃく枠組わくぐみ(18)として近年きんねん注目ちゅうもくされている「障害しょうがい文化ぶんか」(disablity studies)(19)がひろ流通りゅうつうするきっかけとなったものである。聴覚ちょうかく障害しょうがいしゃによる「ろう文化ぶんか」は、ろうしゃ障害しょうがいしゃではなく言語げんごてき文化ぶんかてき少数しょうすうしゃであると宣言せんげんし、聴覚ちょうかく障害しょうがいしゃあいだひろ支持しじされている。この「ろう文化ぶんか」は障害しょうがいしゃみずからのせいのありかた文化ぶんかとして意味付いみづけた先駆せんくてきれいとして「障害しょうがい文化ぶんか」をかた論者ろんしゃげられる一方いっぽうで、かれらがみずからを「障害しょうがいしゃではない」と規定きていすることにかんして様々さまざま批判ひはん対象たいしょうともなっている(20)。ただ、そのなか

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ふくまれる論理ろんりは、上述じょうじゅつのような「障害しょうがい否定ひてい」という態度たいど同型どうけいのものをふくんでいる。スティグマとしてのインペアメントとして否定ひていせい付与ふよする社会しゃかいてき価値かち改変かいへんすることで、ろうという差異さい付与ふよされた否定ひていせい反転はんてんさせようとしたのが「ろう文化ぶんか」である。そのさい、「少数しょうすう民族みんぞく」という解釈かいしゃく枠組わくぐみを調達ちょうたつたことは、かれらにとって幸運こううんであったとえる。通常つうじょう、「障害しょうがい」を否定ひていしスティグマとしてのインペアメントとして現出げんしゅつさせる社会しゃかいてき価値かち強力きょうりょくであり、簡単かんたん相対そうたいすることはできない。そこで「障害しょうがい」をだつスティグマしようとする人々ひとびとは、そこで主題しゅだいされる差異さいあらたに肯定こうていてき価値かちなおすための言語げんごてき資源しげんにアクセスしようとする。ろうしゃ場合ばあい手話しゅわという固有こゆう言語げんご存在そんざいみとめさせることによって、一般いっぱん社会しゃかい流通りゅうつうしている「少数しょうすう民族みんぞく」という解釈かいしゃく枠組わくぐみを利用りようたということなのである。つまり、「障害しょうがい」のだつスティグマという戦略せんりゃくにおいて、「ろう文化ぶんか」は種々しゅじゅ障害しょうがいしゃ運動うんどう共通きょうつう立場たちばるのだが、それを可能かのうにする言語げんごてき資源しげんへのアクセスの容易たやすさのてん優位ゆういであったということなのである。

4 「障害しょうがい」の肯定こうてい可能かのうせい

 以上いじょう確認かくにんしたように、「障害しょうがい否定ひてい」はとく運動うんどうのレベルで一定いってい有効ゆうこうせいしめしてきた。ただし、「障害しょうがい」のスティグマとしてのインペアメントとディスアビリティの位相いそう着目ちゃくもくすることからは、「障害しょうがい」を肯定こうていてきとらえることはできない。正確せいかくえば、この水準すいじゅんにおける「障害しょうがい」は否定ひていてきであるかぎりにおいて「障害しょうがい」なのであって、その否定ひていせい払拭ふっしょくたとき「障害しょうがい」は消去しょうきょされているのである。これにたいして、差異さいとしてのインペアメントの位相いそうにおいては、「障害しょうがい」は状況じょうきょう依存いぞんして否定ひていてきにも肯定こうていてきにもなりることがかんがえられる。たしかに「障害しょうがい」を否定ひていてき意味付いみづける社会しゃかいてき圧力あつりょくもとで、「障害しょうがい」のこの位相いそうについても否定ひていてきにならざるをない場面ばめんおおい。しかし、そうではあっても差異さいとしてのインペアメントは、それがない場合ばあいかたとは別様べつようかた提供ていきょうするものなのであり、それを肯定こうていてき意味付いみづける契機けいき存在そんざいるとえるだろう。
 このことを理解りかいするために、障害しょうがいしゃにとって差異さいとしてのインペアメントがどのようなものとして経験けいけんされるのかをてみよう。ここでも、右手みぎて四肢しし欠損けっそんの「障害しょうがい」を女性じょせい事例じれいについてかんがえてみる(21)。彼女かのじょ幼少ようしょうだい火傷かしょうによってゆび欠損けっそんして以来いらい外出がいしゅつには母親ははおやんでくれた手袋てぶくろかくすようになる。彼女かのじょにとって「障害しょうがい」ははじめから否定ひていてきなものであった。そしてこの手袋てぶくろをめぐって、彼女かのじょふたつのジレンマにくるしむことになる。だいいちのジレンマは、異質いしつせいかくすための手袋てぶくろが、ぎゃく周囲しゅういたいして彼女かのじょを「異物いぶつ」として目立めだたせてしまうというものである。手袋てぶくろはずすこともけることも、彼女かのじょ異質いしつせい際立きわだたせる効果こうかつため、彼女かのじょには周囲しゅういからまもるための選択せんたく余地よちはなかった。だいのジレンマは、手袋てぶくろによってまもろうとすることが、同時どうじにそのかく必要ひつようのあるものとして否定ひていすることになる、というものである。

 実際じっさい世間せけんからまもらなければならないとかんがえたとき、そこのところで母親ははおやはみつこさんの右手みぎて世間せけんにそのままさらすことはできないネガティブなものとして拒絶きょぜつしてしまったことにならないでしょうか。世間せけんからむすめ右手みぎてまも保護ほごすることが、同時どうじにその右手みぎて拒絶きょぜつ断罪だんざいすることになってしまう。

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それはさきのそれよりも さらに深刻しんこくなジレンマです。(浜田はまだ[1997])

彼女かのじょ右手みぎてまもりつつ否定ひていしなければならないものになっているのである。ここにおいて、彼女かのじょの「障害しょうがい」はスティグマとしてのインペアメントとしてあらわれる。それは否定ひていてき社会しゃかいてき情報じょうほう表示ひょうじする差異さいとして経験けいけんされることになる。さらにここで、手袋てぶくろによってむすめまもろうとした母親ははおやが、しくももっとはやくインペアメントをスティグマする社会しゃかいてき価値かち体現たいげんする主体しゅたいとなる、という皮肉ひにく結果けっかんでいる。こうして重要じゅうよう他者たしゃによる否定ひていてき価値かち付与ふよなか社会しゃかいされた彼女かのじょは、そのような「世間せけん」を内在ないざいするようになる。そして彼女かのじょ右手みぎては、彼女かのじょ自身じしん内面ないめんした社会しゃかいてき価値かちによって「異物いぶつ」として否定ひていてき解釈かいしゃくされるようになる。このように、「障害しょうがい」をスティグマとしてとらえる社会しゃかいてき価値かち内在ないざいし、それによってみずからの「障害しょうがい」を意味付いみづけるようになった障害しょうがいしゃにとって、当該とうがい身体しんたいてき差異さい特徴とくちょうはスティグマとしてのインペアメントとして社会しゃかいてき否定ひていせい付与ふよされるものであると同時どうじに、それとおな仕方しかた自己じこ自身じしんによって否定ひていされる対象たいしょうとなるのである。
 結局けっきょくその彼女かのじょ大学だいがくはいるまで手袋てぶくろはずすことはなかった。なんはずそうとおもったことはあったが、その羞恥しゅうちめる勇気ゆうきてなかったからである。社会しゃかい福祉ふくしけい大学だいがく進学しんがくした彼女かのじょは、あるとき手袋てぶくろはずして授業じゅぎょうることを決意けついする。その決断けつだんうながしたのは、「障害しょうがい」というラベルが公認こうにんされやすい大学だいがく環境かんきょうであったという。こうして彼女かのじょは、羞恥しゅうちきずりつつも手袋てぶくろをめぐるジレンマから解放かいほうされ、みずからの「障害しょうがい」をありのままにれていく第一歩だいいっぽしたのである。この段階だんかいで、差異さいとしてのインペアメントにたいする彼女かのじょ自身じしん否定ひていてき価値かち付与ふよはかなり緩和かんわされているものとかんがえられる。他者たしゃられることにおびえ、深刻しんこくなジレンマ情況じょうきょうにもかかわらずかくつづけてきた右手みぎて露出ろしゅつすることは、すくなくともそれがみずからにとってかならずしも否定ひていてきなものではなくなっている、という変化へんか結果けっかだったのではなかろうか。またそれにさいして、「障害しょうがい」のラベルを公認こうにんされる、すなわち差異さいとしてのインペアメントをスティグマせずに承認しょうにんされる、という環境かんきょうたした役割やくわりちいさくないであろう。
 大学だいがく卒業そつぎょうしたのち彼女かのじょ知的ちてき障害しょうがいしゃ通所つうしょ授産じゅさん施設しせつ指導しどういんとして勤務きんむする。そこで彼女かのじょ入所にゅうしょしゃから「きたないやねえ」、「わあ、ちっちゃくてかわいい」などといった遠慮えんりょのない、しかし自然しぜん感想かんそうみみにする。かならずしも肯定こうていてきなものばかりではないこうした反応はんのうは、彼女かのじょにとっては「ありのままにれられる」経験けいけんであった。このとき彼女かのじょがそのようにかんじた背景はいけいには、すで差異さいとしてのインペアメントにたいするみずからによる否定ひていてき意味いみけがかなり緩和かんわされていたということもあるだろうが、それと同時どうじ入所にゅうしょしゃとのコミュニケーションが以前いぜん好奇こうきちた「世間せけん」とは質的しつてきことなったものであったことが重要じゅうようであるようにおもわれる。彼女かのじょについてかれらがくちにする感想かんそうは、それが否定ひていてきなものであった場合ばあいでも、それをスティグマとして固定こてい排除はいじょ対象たいしょうとするようなものではなく、むしろそうした身体しんたいのありかたふくめた彼女かのじょをそのまま承認しょうにんしてくれるものとしてかんじられていたのではないだろうか。このような経験けいけんとおして徐々じょじょみずからの右手みぎてをありのままにれることができるようになった彼女かのじょは、結婚けっこん出産しゅっさんつぎのようにかたったという。

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 いまでももちろんらないひと出会であったりするときには緊張きんちょうします。でも右手みぎて異物いぶつのようにかんじたあの感覚かんかくはもうありません。(浜田はまだ[1997])

ここでは、差異さいとしてのインペアメントをみずか否定ひていてき意味付いみづけていた当時とうじ感覚かんかく払拭ふっしょくされたことがかたられている。身体しんたいてき差異さいを「異物いぶつ」としてとらえていた「あの感覚かんかく」はなく、したがって以前いぜん内在ないざいしていた社会しゃかいてき価値かちによる「障害しょうがい」の意味いみ付与ふよから自由じゆうになったものとかんがえられる。当然とうぜん他者たしゃとの接触せっしょくなかで、その「障害しょうがい」がスティグマとしてあつかわれる可能かのうせいつねにあるのであり、そのことは自覚じかくされている。だからこそ、そうした他者たしゃとの接触せっしょくには「緊張きんちょう」がともなう(22)。しかし、ここでかたられているのは、そうしたスティグマを社会しゃかいてき価値かち否定ひていしようということではなく、社会しゃかいてきにはスティグマとしてあつかわれるその差異さいたいして別様べつよう意味いみあたえ、れようとする態度たいどである。これは、差異さいとしてのインペアメントを、かならずしも否定ひていてきにはとらえないという意味いみで、肯定こうていする可能かのうせいしめしているものとかんがえられる。その差異さい社会しゃかいてきにスティグマとしてとらえられる「障害しょうがい」であったとしても、そのような解釈かいしゃく枠組わくぐみを共有きょうゆうする必然ひつぜんせいはないのであり、「障害しょうがい」をってきる経験けいけんなかで、差異さいとしてのインペアメントが他者たしゃとの特定とくてい関係かんけいせいにおいて肯定こうていされる場合ばあいがあるのである。このことは、差異さいをスティグマとしてとらえる社会しゃかいてき価値かち問題もんだいにして、その差異さいが「障害しょうがい」であることそのものを否認ひにんすることとは区別くべつされる態度たいどである(23)。「障害しょうがい」がスティグマとしてとらえられる状況じょうきょうにおいて、そこで問題もんだいにされる身体しんたいてき差異さいが「障害しょうがい」ではなくたんなる差異さいであることを他者たしゃみとめさせようとする態度たいどと、自己じこ理解りかいのありかたなか別様べつよう解釈かいしゃくあたえようとする営為えいいとはべつ水準すいじゅんにあるものである。運動うんどう主張しゅちょうとして前者ぜんしゃ強調きょうちょうされることは自然しぜんなことであるが、障害しょうがいしゃ日常にちじょう生活せいかつなか後者こうしゃ重要じゅうよう意味いみっていることもたしかであろう。「障害しょうがい肯定こうてい」はこのような文脈ぶんみゃく目指めざされ、それを可能かのうにする他者たしゃとの関係かんけいせい模索もさくされているものとかんがえられるのではなかろうか。
 このように「障害しょうがい肯定こうてい」は、他者たしゃとの特定とくてい関係かんけいせいなか確実かくじつかたち成立せいりつするようなものである。しかし、差異さいとしてのインペアメントの位相いそうかんするかぎり、その「障害しょうがい肯定こうてい」が成立せいりつする可能かのうせいはあるとえるのではないか。差異さいとしてのインペアメントの位相いそうでは、スティグマとしてのインペアメントやディスアビリティの位相いそうとはべつの「障害しょうがい」にたいする意味いみけが可能かのうであり、それは「障害しょうがい」がかならずしも否定ひていてきなものではないことを意味いみするのである。

5 まとめ

 本稿ほんこう検討けんとうしてきたように、「障害しょうがい」とはいくつかの位相いそうふくふくあいてき概念がいねんであり、「障害しょうがい」をめぐる議論ぎろんにおいてはそれらの位相いそう必要ひつようおうじて区別くべつすることが重要じゅうようである。従来じゅうらい障害しょうがい」をめぐって種々しゅじゅ立場たちば矛盾むじゅん対立たいりつふくんで存在そんざいしてきたのは、この分析ぶんせきてき区別くべつ十分じゅうぶんになされていなかったことに主要しゅよう原因げんいんもとめることができるようにおもわれる。「障害しょうがい」の肯定こうてい否定ひてい、あるいは肯定こうてい克服こくふく本来ほんらい障害しょうがいしゃがアイデンティティを肯定こうていてき形成けいせい維持いじしていく過程かていなか並存へいそん態度たいどであると理解りかいされるべきである。「障害しょうがい」が肯定こうていされるべきものか克服こくふくされるべきものかといったいは、本稿ほんこう区別くべつしたがえば、「障害しょうがい」のどの位相いそうかんして問題もんだいにするのかといういに回収かいしゅうされる。スティグ

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マとしてのインペアメントやディスアビリティに照準しょうじゅんすればそれはまさに克服こくふくすべき対象たいしょうである。一方いっぽう差異さいとしてのインペアメントに照準しょうじゅんすると、「障害しょうがい」はなま特定とくてい条件じょうけん形作かたちづくるのであって、その価値かちてき評価ひょうか本来ほんらい多様たようでありる。それを肯定こうていしてれるかたも、それを否定ひていして改変かいへんしようとするかたも、障害しょうがいしゃのアイデンティティを肯定こうていてき形成けいせいしていく過程かていひとつのバリエーションでありる。スティグマとしてのインペアメントやディスアビリティを克服こくふくされるべきものであるとかんがえつつ、しかしそうではあっても現実げんじつ存在そんざいするそれらの否定ひていてき価値かち付与ふよなかで、差異さいとしてのインペアメントを肯定こうていてきとらえる別様べつよう解釈かいしゃく枠組わくぐみを具体ぐたいてき関係かんけいせいなか模索もさくすることは、十分じゅうぶんにありることなのである。
 とはいえ、「障害しょうがい」を否定ひていてき意味付いみづける社会しゃかいてき価値かち存在そんざいする状況じょうきょうにおいて、差異さいとしてのインペアメントを肯定こうていするかた追求ついきゅうすることには困難こんなんともなう。そこには差異さいとしてのインペアメントの位相いそうに、「障害しょうがい」をスティグマとしてとらえる社会しゃかいてき価値かち影響えいきょうおよぼし、それと同型どうけい自己じこ否定ひていへとせられる契機けいきつね存在そんざいする。そして、これは他者たしゃによる承認しょうにんとアイデンティティのありかたをめぐる問題もんだい(24)をも惹起じゃっきする。このてんについての本稿ほんこう検討けんとう素描そびょうとどまっており、今後こんごさらに研究けんきゅうようする課題かだいである。




(1) 本稿ほんこう主題しゅだいとする「障害しょうがい」は、基本きほんてき身体しんたいてき障害しょうがいのことである。知的ちてき障害しょうがい精神せいしん障害しょうがいについては、そのなかふくまれる位相いそう把握はあくするにたって、より詳細しょうさい科学かがくてき分析ぶんせき必要ひつようであるようにおもわれる。
(2) ベッカーは、特性とくせいくらべて圧倒的あっとうてき重視じゅうしされてされる特性とくせいを、「首位しゅいてき地位ちい特性とくせい」として概念がいねんしている(Becker[1963=1978])。「障害しょうがい」はまさにこの「首位しゅいてき地位ちい特性とくせい」として機能きのうしているとかんがえられる。
(3) 障害しょうがいしゃのアイデンティティ管理かんり戦略せんりゃくと「障害しょうがい」との関連かんれんについては、石川いしかわ[1992、1999]でくわしくろんじられている。
(4) 日本にっぽんにおいては、1970ねん前後ぜんこう開始かいしされた「障害しょうがい」を当事とうじしゃ運動うんどうなかで「医療いりょうモデル」への批判ひはんさかんになされた。それはまず施設しせつ入所にゅうしょしていた障害しょうがいしゃによる告発こくはつというかたち提起ていきされ、「だつ施設しせつ」というスローガンをむことになる。この時期じき運動うんどう展開てんかいについては立岩たていわ[1990]、また病院びょういん生活せいかつ施設しせつにおける待遇たいぐう実態じったい記述きじゅつしたものとして安積あさか[1990]、樋口ひぐち[1998]とうがある。
(5) 障害しょうがいがく先駆せんくてきかつ代表だいひょうてき論考ろんこうとしてオリバー(Oliver[1986])、フィンケルシュタイン(Finkelstein[1981])とうがある。なお、日本にっぽん障害しょうがいがく紹介しょうかいされたのはごく最近さいきんのことであるが、「障害しょうがい」を当事とうじしゃ運動うんどうにおいて「障害しょうがい学的がくてき」な問題もんだい意識いしき共有きょうゆうされており、ある意味いみではそのさきていたともえるだろう。
(6) 「障害しょうがい」のとらかた変化へんかは、福祉ふくし施策しさくのありかたにもおおきな影響えいきょうあたえた。身辺しんぺん自立じりつ職業しょくぎょうてき自活じかつたか価値かちき、障害しょうがいしゃ機能きのう回復かいふく訓練くんれん重視じゅうししてきた障害しょうがいしゃ福祉ふくしから、社会しゃかいてき資源しげん積極せっきょくてき活用かつよう前提ぜんていとした自立じりつ生活せいかつ理念りねんれた障害しょうがいしゃ福祉ふくしへの転換てんかんは、そのいちれいであるとえる。この障害しょうがいしゃ福祉ふくし基本きほんてき理念りねん転換てんかんについては、ていふじ[1993]を参照さんしょう
(7) たとえば1980ねんにWHOが発表はっぴょうした「国際こくさい障害しょうがい分類ぶんるい」(ICIDH、International Classification of Impairment,Disability and Handicap)では、「障害しょうがい」をインペアメント(機能きのう障害しょうがい)、ディスアビリティ(能力のうりょく障害しょうがい)、ハンディキャップ(社会しゃかいてき不利ふり)の

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みっつの側面そくめんゆうするものとして把握はあくしている。また、2001ねんにその「国際こくさい障害しょうがい分類ぶんるい」を改定かいていするかたち発表はっぴょうされたICF(International Classification of Functioning, Disability and Health)でも、基本きほんてきにこのみっつの側面そくめん区別くべつ前提ぜんていにしたうえで、相互そうご関係かんけいせいについてより詳細しょうさい包括ほうかつてき定義ていぎをしている。ただし、イギリスの障害しょうがいがくにおいてはインペアメントとディスアビリティのふたつの側面そくめん区別くべつする「障害しょうがい」の把握はあく一般いっぱんてきであり、本稿ほんこうでもその分析ぶんせき概念がいねん採用さいようする。
(8) このUPIASの規定きてい歴史れきしてき意義いぎやそれにたいする批判ひはんについては、佐藤さとう[1992]がくわしく紹介しょうかいしている。
(9) インペアメントの社会しゃかいてき構築こうちくせい指摘してきしたものとして、ヒューズ・パターソン[Hughes and Paterson:1997]とうがある。
(10)この文章ぶんしょう野辺のべ麻衣子まいこ[1985])は、野辺のべ明子あきこ[2000]のなか引用いんようされているものである。
(11)ゴッフマンはスティグマについての研究けんきゅう(Goffman[1963a=1970])のなかで、人々ひとびとつステレオタイプと乖離かいりしたのぞましくない属性ぞくせいのうち、それをつことによって十全じゅうぜん人間にんげんとしてあつかわれなくなるようなものをスティグマとして記述きじゅつしている。本稿ほんこうでのこのかたり使用しようは、基本きほんてきにこれに準拠じゅんきょしたものである。
(12)この段階だんかい身体しんたいてき機能きのう形態けいたいそのものがインペアメントとしてかびがってくることもかんがえられる。当事とうじしゃ経験けいけんなかには、他者たしゃとの差異さいのみならず個人こじん機能きのう形態けいたいが「障害しょうがい」とかんじられるような場合ばあいもある。この位相いそうをインペアメントとして理解りかいすべきかどうかについてはひとまず判断はんだん留保りゅうほしておくが、本稿ほんこう論点ろんてんとは直接ちょくせつ関連かんれんしないとかんがえるので、ここではその位相いそう区別くべつすることはしない。
(13)夏目なつめは、前者ぜんしゃをディスエイブルメント、後者こうしゃをディスエイブリズムとして区別くべつし、それぞれにかんして解体かいたいのためのことなるポリティクスが必要ひつようであることを指摘してきしている(夏目なつめ[2000])。
(14)立岩たていわは、「できないこと」の否定ひていせい相対そうたいを、「できること」/「できないこと」、「いこと」/「くないこと」のわせを論理ろんりてき精査せいさすることによってこころみている(立岩たていわ[2001])。しかし、そこでの議論ぎろんは、あるしゅ活動かつどう生産せいさん活動かつどうとう)が「できること」の価値かちについての相対そうたいとどまっており、「できること」の価値かち一般いっぱん相対そうたいすることには成功せいこうしていない。本稿ほんこうでは、「できること」の価値かち自体じたいはしてきみとめたうえで、特定とくてい能力のうりょく重要じゅうようするような価値かち体系たいけいや、特定とくてい差異さい不利ふりあつかうような価値かちのありかた主題しゅだいすることにしたい。
(15)否定ひていせいみずからの外部がいぶせめすることの正当せいとうせい調達ちょうたつされる場合ばあいにも、再度さいど自己じこ否定ひていへとかう契機けいきがないわけではない。「障害しょうがい」の原因げんいん社会しゃかい帰属きぞくさせることができても、その結果けっかである不利益ふりえきしょうじるのはつね障害しょうがいしゃにおいてなのであり、そのように否定ひていせいせてしまうみずからの身体しんたいふたたまけ意味いみけをしてしまう、ということは十分じゅうぶんにありることである。ここではあくまでも、否定ひていせい社会しゃかい帰属きぞくさせる枠組わくぐみが、障害しょうがいしゃのアイデンティティにもたらすまけ影響えいきょう相対そうたいてき緩和かんわさせる、ということについて言及げんきゅうしているにぎない。
(16)障害しょうがいしゃ自立じりつ生活せいかつ運動うんどうとは、地域ちいき社会しゃかいなかで「自己じこ決定けってい」をおこないながら生活せいかついとなむことを目指めざす、全身ぜんしんせい障害しょうがいしゃ運動うんどう実践じっせんのことである。日本にっぽんにおけるこの運動うんどうかんする著作ちょさくには、安積あさか[1995]、ていふじ[1993]、全国ぜんこく自立じりつ生活せいかつセンター協議きょうぎかい[2001]とうがある。
(17)日本にっぽんにおいては「ろう文化ぶんか宣言せんげん」(木村きむら市田いちだ[1995])がそのおおきな役割やくわりになった。ここで、かれらが日本にっぽん手話しゅわだいいち言語げんごとする文化ぶんかてきマイノリティであることが主張しゅちょうされた。
(18)歴史れきしてきには、「障害しょうがい」を意味付いみづける様々さまざま枠組わくぐ

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存在そんざいしている。たとえば、古代こだい中世ちゅうせいにおいて「障害しょうがい」を「けがれ」として宗教しゅうきょうてき理解りかいなか包摂ほうせつするとらかたがあった(大津留おおつる[2000])。また、「障害しょうがい」をかけがえのない個性こせいであるとする理解りかいひろ普及ふきゅうしている。
(19)この概念がいねんについては、「障害しょうがい文化ぶんか」、「障害しょうがいしゃ文化ぶんかとう類似るいじ表現ひょうげんがなされることがあるが、すくなくとも障害しょうがいがく文脈ぶんみゃくかたられるかぎり、それらは互換ごかん可能かのうであるとかんがえられるので、本稿ほんこうでは「障害しょうがい文化ぶんか」という用語ようご使用しようすることにする。なお、「障害しょうがい文化ぶんか」の系譜けいふ整理せいりしたものとして、松波まつなみ[2001]がある。
(20)ろうしゃみずからを「障害しょうがいしゃではない」と規定きていするとき、そこで前提ぜんていとされている「障害しょうがい」は病理びょうりがくてき身体しんたいてき欠陥けっかんとしてとらえられており、それは「医療いりょうモデル」への批判ひはんつうじて障害しょうがいしゃ運動うんどう否定ひていしてきた障害しょうがいかんではなかったか、という批判ひはんがある。また、その主張しゅちょう障害しょうがいしゃたいしてゆうする排他はいたせい問題もんだいとされている。
(21)本節ほんぶしあつか事例じれいは、浜田はまだ著作ちょさく浜田はまだ[1997])のなか紹介しょうかいされているものである。
(22)スティグマをひと社会しゃかいなか直面ちょくめんする様々さまざま否定ひていてき経験けいけんと、それらを回避かいひするためにられる戦略せんりゃくについては、ゴッフマン(Goffman[1963a= 1970])を参照さんしょう。また、薄井うすいはゴッフマンの一連いちれん論考ろんこう(Goffman[1963b=1980]、[1967= 1986])を援用えんようして、社会しゃかいてき位置いちをめぐって状況じょうきょうへの参加さんかしゃがせめぎあう「きょうざい」の構造こうぞうについて分析ぶんせきし、自己じこイメージの防衛ぼうえいのために他者たしゃ社会しゃかいてき位置いちおとしめようとするような場面ばめんについて記述きじゅつしている。
(23)前節ぜんせつ言及げんきゅうした「障害しょうがい否定ひてい」は、運動うんどうなか戦略せんりゃくてき主張しゅちょうされることがおおいのだが、具体ぐたいてき実践じっせん場面ばめんにおいては「障害しょうがい肯定こうてい」という側面そくめん混在こんざいさせているのが普通ふつうである。その意味いみで、ここでの区別くべつはその主張しゅちょう力点りきてんかんする分析ぶんせきてき区別くべつである。
(24)「障害しょうがい」にたいする意味いみけと承認しょうにんのありかたとは密接みっせつ関連かんれんしており、他者たしゃによる否定ひていてき承認しょうにんは、障害しょうがいしゃ自己じこ理解りかいつよ影響えいきょうすることになる。テイラーは、ゆがめられた承認しょうにん深刻しんこくなアイデンティティ問題もんだいこすことを指摘してきしている(Taylor[1994=1996])。


文献ぶんけん

安積あさか純子じゅんこ 1995「〈わたし〉へ:30ねんについて」安積あさかへん『〈増補ぞうほ改訂かいていばんせい技法ぎほういえ施設しせつらす障害しょうがいしゃ社会しゃかいがく藤原ふじわら書店しょてん:19-56.
安積あさか純子じゅんこ尾中おちゅうぶん哉・岡原おかはら正幸まさゆき立岩たていわしん也 1995『〈増補ぞうほ改訂かいていばんせい技法ぎほういえ施設しせつらす障害しょうがいしゃ社会しゃかいがく藤原ふじわら書店しょてん.
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野辺のべ明子あきこ 2000「障害しょうがいをもついのちのムーブメント」栗原くりはらへんかたり:つむぎだす』(越境えっきょうする・2)東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかい:105-129.
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薄井うすい あきら 1991「〈市民しみんてき自己じこ〉をめぐる攻防こうぼう:ゴフマンの無礼ぶれい無作法ぶさほうろん展開てんかい安川やすかわへん『ゴフマン世界せかいさい構成こうせいきょうざい技法ぎほう秩序ちつじょ世界せかい思想しそうしゃ.
安川やすかわ いち 1991『ゴフマン世界せかいさい構成こうせいきょうざい技法ぎほう秩序ちつじょ世界せかい思想しそうしゃ:157-83.
横塚よこつか晃一こういち 1981『ははよ!ころすな』すずさわ書店しょてん.
全国ぜんこく自立じりつ生活せいかつセンター協議きょうぎかい 2001『自立じりつ生活せいかつ運動うんどう障害しょうがい文化ぶんか当事とうじしゃからの福祉ふくしろん現代書館げんだいしょかん.


(ほしか りょうじ、東京大学とうきょうだいがく大学院だいがくいん、hoshi@m5.people.or.jp)


Meaning of "disability" and identity of people with disabilities

Between positivity and negativity of "disability"

HOSHIKA, Ryoji
University of Tokyo
hoshi@m5.people.or.jp

   What is "disability" for people with disabilities? It is important for people with disabilities how their attitudes should be toward "disability" that tend to influence their identity negatively. And their attitudes are tumbling between positivity and negativity,sometimes they regard it as a paradox or a conflict. In this paper,we aim to grasp how relates "disability" to identity of people with disabilities,through articulating classes of "disaility" appropriately. As a result,it becomes clear that in fact various attitudes can be taken at the same time which have seemed to include a conflict.

……以上いじょう……


 *以下いかのリンクはホームページの制作せいさくしゃによる

安積あさか純子じゅんこ 1995「〈わたし〉へ:30ねんについて」安積あさかへん『〈増補ぞうほ改訂かいていばんせい技法ぎほういえ施設しせつらす障害しょうがいしゃ社会しゃかいがく藤原ふじわら書店しょてん:19-56.
安積あさか純子じゅんこ尾中おちゅうぶん哉・岡原おかはら正幸まさゆき立岩たていわしん也 1995『〈増補ぞうほ改訂かいていばんせい技法ぎほういえ施設しせつらす障害しょうがいしゃ社会しゃかいがく藤原ふじわら書店しょてん.
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Finkelstein, Victor, 1981, "To Deny or not Deny Disability", Brechin, A., ed. Handicap in a Social World, Sevenhoaks: Hodder and Stoughton in association with the Open University Press.
二日市ふつかいちやす 2001「やれるときに、やれるだけのことを」全国ぜんこく自立じりつ生活せいかつ協議きょうぎかいへん自立じりつ生活せいかつ運動うんどう障害しょうがい文化ぶんか当事とうじしゃからの福祉ふくしろん現代書館げんだいしょかん:177-187.
Goffman,Erving, 1963a, Stigma: Notes on the Management of Spoiled Identity, Prentice-Hall,Inc..=1970 石黒いしぐろあつしやく『スティグマの社会しゃかいがく烙印らくいんをおされたアイデンティティ』せりか書房しょぼう.
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浜田はまだ寿ことぶき美男よしお 1997『ありのままをきる』岩波書店いわなみしょてん.
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木村きむら晴美はるみ市田いちだ泰広やすひろ 1995「ろう文化ぶんか宣言せんげん 言語げんごてき少数しょうすうしゃとしてのろうしゃ」 『現代げんだい思想しそう』vol.23-3:354-62.
栗原くりはらあきら小森こもり陽一よういち佐藤さとうまなぶ吉見よしみ俊哉としや 2000『かたり:つむぎだす』(越境えっきょうする・2) 東京とうきょう大学だいがく出版しゅっぱんかい.
松波まつなみめぐみ 2001「『障害しょうがい文化ぶんかろん文化ぶんか教育きょういく提起ていきするもの」大阪大学おおさかだいがく大学院だいがくいん人間にんげん科学かがく研究けんきゅう修士しゅうし論文ろんぶん.
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野辺のべ明子あきこ 2000「障害しょうがいをもついのちのムーブメント」栗原くりはらへんかたり:つむぎだす』(越境えっきょうする・2)東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかい:105-129.
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ていふじたけひろし岡本おかもと英一ひでかず北野きたの誠一せいいち へん 1993『自立じりつ生活せいかつ思想しそう展望てんぼう福祉ふくしのまちづくりとあたらしい地域ちいき福祉ふくし創造そうぞうをめざして』ミネルみねるァ書房ぁしょぼう.
佐藤さとう久夫ひさお 1992『障害しょうがい構造こうぞうろん入門にゅうもん:ハンディキャップ克服こくふくのために』青木あおき書店しょてん.
立岩たていわしん 1990「はやく・ゆっくり:自立じりつ生活せいかつ運動うんどう生成せいせい展開てんかい」・安積あさかへんなま技法ぎほう:いえ施設しせつらす障害しょうがいしゃ社会しゃかいがく藤原ふじわら書店しょてん:165-226.
―――― 1998「いちきゅうななねん」『現代げんだい思想しそう』vol.26-2:216-33.(→よわくある自由じゆうへ』
―――― 2001「ないにこしたことはない、か」障害しょうがいがく研究けんきゅうかい関東かんとう部会ぶかいだい13かい研究けんきゅうかい発表はっぴょう原稿げんこう.→障害しょうがいがく主張しゅちょう
Taylor, Charles 1994 Multiculturalism: Examining the Politics of Recognition. Princeton University Press=1996 佐々木ささきあつしつじ康夫やすお向山むかいやま恭一きょういちやく『マルチカルチュラリズム』岩波書店いわなみしょてん.
薄井うすい あきら 1991「〈市民しみんてき自己じこ〉をめぐる攻防こうぼう:ゴフマンの無礼ぶれい無作法ぶさほうろん展開てんかい安川やすかわへん『ゴフマン世界せかいさい構成こうせいきょうざい技法ぎほう秩序ちつじょ世界せかい思想しそうしゃ.
安川やすかわ いち 1991『ゴフマン世界せかいさい構成こうせいきょうざい技法ぎほう秩序ちつじょ世界せかい思想しそうしゃ:157-83.
横塚よこつか晃一こういち 1981『ははよ!ころすな』すずさわ書店しょてん.
全国ぜんこく自立じりつ生活せいかつセンター協議きょうぎかい 2001自立じりつ生活せいかつ運動うんどう障害しょうがい文化ぶんか当事とうじしゃからの福祉ふくしろん現代書館げんだいしょかん.

REV: 20160125
星加ほしか 良司りょうじ  ◇『ソシオロゴス』  ◇全文ぜんぶん掲載けいさい  ◇全文ぜんぶん掲載けいさい著者ちょしゃめい50おとじゅん
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