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有馬斉「ケアの倫理と道徳の相対主義――感情移入の経験は道徳判断を正当化するか」
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「ケアの倫理りんり道徳どうとく相対そうたい主義しゅぎ――感情かんじょう移入いにゅう経験けいけん道徳どうとく判断はんだん正当せいとうするか」

有馬ありま ひとし 2010/02/26
立命館大学りつめいかんだいがくグローバルCOEプログラム「生存せいぞんがく創成そうせい拠点きょてん 20100226
安部あべ あきら堀田ほった 義太郎よしたろう  『ケアと/の倫理りんり
立命館大学りつめいかんだいがく生存せいぞんがく研究けんきゅうセンター,生存せいぞんがく研究けんきゅうセンター報告ほうこく11,257p. ISSN 1882-6539 pp. 226-243


W 論文ろんぶん
「ケアの倫理りんり

依頼いらい論文ろんぶん

ケアの倫理りんり道徳どうとく相対そうたい主義しゅぎ
 ──感情かんじょう移入いにゅう経験けいけん道徳どうとく判断はんだん正当せいとうするか 

有馬ありま ひとし
東京大学とうきょうだいがく大学院だいがくいん医学いがくけい研究けんきゅうとくにんじょきょう


 じょ

 わたしたちの感情かんじょうてき経験けいけんはあきらかに道徳どうとくとかかわりがある。しかしそれは具体ぐたいてきにどのようなかかわりだろうか(ちゅう1)。
 ひと行為こうい性格せいかくが、それをたり想像そうぞうしたりするわたしたちのなかつよ感情かんじょうきおこすことがある。たとえば大勢おおぜいひとがひとりのひとをいじめているのをいきどおりをおぼえたり、いの配偶はいぐうしゃひと性的せいてき交渉こうしょうをもったといて嫌悪けんおかんもよおしたりする。いきどおりや嫌悪けんおかんだけではない。ひと行為こうい性格せいかく見聞みききして、わたしたちは恐怖きょうふかなしみ、嫉妬しっとほこり、共感きょうかんなど、ほかにもじつにさまざまな感情かんじょう経験けいけんする。
 こうした感情かんじょう経験けいけん一見いっけんして、道徳どうとくなんらかの仕方しかたでかかわっていることがあきらかである。他人たにん行為こうい性格せいかくにたいしていきどおるとは一般いっぱんに、とう行為こうい性格せいかく道徳的どうとくてき非難ひなんするときの心理しんりてき態度たいどである。また嫌悪けんおかんもよおすということも、道徳どうとくじょう問題もんだいがあるとおもわれるひと行為こういけようとするときの態度たいどだといってよいだろう。そこで「ひといかりをうようなことはしないほうがよい」だとか、「ぞっとするからそういうことはしないでほしい」など、他人たにん行為こうい道徳的どうとくてき非難ひなんするひと感情かんじょうにうったえた表現ひょうげんをもちいることはすくなくない。
 さてしかし、感情かんじょうにうったえて他人たにん行為こうい性格せいかく道徳的どうとくてき非難ひなんすることは、適当てきとうなことだろうか。ひと行為こうい性格せいかくまた社会しゃかい制度せいどが、わたしたちのなかいかり、嫌悪けんおかん恐怖きょうふかなしみ、嫉妬しっと共感きょうかんほこりなど、なんらかの感情かんじょうきおこすことは、それ自体じたいとう行為こうい性格せいかく制度せいどわたしたちが道徳どうとくてき非難ひなん(あるいは称賛しょうさん)することを正当せいとうするだろうか。
 このいにこたえることの意義いぎおおきいはずである。一般いっぱんにも、具体ぐたいてき問題もんだいそくして道徳どうとくろんじるひとが、議論ぎろん理屈りくつにではなく感情かんじょうにうったえることはすくなくない。また近年きんねん学界がっかいにおいても、ヒトはい研究けんきゅう利用りようやヒトクローンの作製さくせい批判ひはんしたリオン・カス(Leon Kass)のように、応用おうよう倫理りんり緊迫きんぱくしたしょ問題もんだいにたいする特定とくていこたえを感情かんじょうにうったえて正当せいとうしようとする論者ろんしゃが、影響えいきょうりょくをもってきているからである(ちゅう2)。
 そこで本稿ほんこうでは感情かんじょう経験けいけん道徳どうとく判断はんだん正当せいとうとのあいだにあるかかわりを考察こうさつする。しかしすでにべたように、ひと行為こうい性格せいかく見聞みききしてわたしたちが経験けいけんしうる感情かんじょう種類しゅるいおおい。感情かんじょう道徳どうとくとのかかわりを一般いっぱんにあきらかにしようとすれば、さまざまな種類しゅるい感情かんじょう別個べっこ考察こうさつする必要ひつようてくるだろう。したがって、ここで上記じょうきいを一般いっぱんてきあるいは包括ほうかつてき考察こうさつすることはもとより不可能ふかのうである。
 そこで以下いかでは、感情かんじょう経験けいけんのうちでも、とくに他者たしゃいたみにたいする感情かんじょう移入いにゅうげる。感情かんじょう移入いにゅう(empathy)は、種類しゅるい感情かんじょうとくらべても、道徳どうとくとのかかわりが指摘してきされることの特別とくべつおお感情かんじょうである(ちゅう3)。他人たにんいたみに感情かんじょう移入いにゅうしたみずからの経験けいけんにうったえて、だれかの行為こうい道徳的どうとくてき非難ひなんすることは正当せいとうできるか。検討けんとうするのはこのいである。次節じせつにみるように、ネル・ノディングスらによって提唱ていしょうされたケアの倫理りんり(ethics of care)は、このいに肯定こうていてきこたえる道徳どうとく理論りろんのひとつとして理解りかいしうる。そこで本稿ほんこうではケア倫理りんり妥当だとうせい吟味ぎんみすることをとおして、道徳どうとく判断はんだん正当せいとう感情かんじょう移入いにゅうとのかかわりを検証けんしょうしてみたい。

 1 ケア(づかい)と感情かんじょう移入いにゅう

 他人たにん行為こうい性格せいかく道徳的どうとくてき非難ひなんするとき、わたしたちはしばしば感情かんじょうにうったえる。ケア倫理りんりは、わたしたちのそういった態度たいど支持しじする道徳どうとく理論りろんのひとつである。
 道徳どうとく理論りろんとしてのケア倫理りんりはじめて定式ていしきしたのはネル・ノディングス(Nel Noddings)である(ちゅう4)。ノディングスによれば、ひと行為こうい道徳どうとくてきただしいといえるのは、とう行為こうい他人たにんにたいする行為こういしゃづかい(care)のあらわれである場合ばあいにかぎられる。ここでとくに他人たにんづかうとはどういうことか。ノディングスはつぎのように説明せつめいしている。他人たにんづかうことは、他人たにんと「ともかんじること(feeling with)」をともなう(ちゅう5)。他人たにん現実げんじつかれた境遇きょうぐうみずからにとっての可能かのうせいとして理解りかいし、そのかなしみやくるしみをともかんじることである。ノディングスはこのことをして、他人たにんに「専心せんしん没頭ぼっとう(engrossment)」することであると表現ひょうげんしているが、一般いっぱんてき表現ひょうげんもちいればこれは「感情かんじょう移入いにゅう(empathy)」の経験けいけんであるといってよいだろう(ちゅう6)。
 したがって、ケア倫理りんりのいう道徳どうとくてきただしい行為こういとは、他人たにんかなしみやくるしみにたいして行為こういしゃ感情かんじょう移入いにゅうしていることのあらわれであるような行為こういである。反対はんたいに、道徳どうとくてき不正ふせい行為こういとは、他人たにんかなしみやくるしみにたいする感情かんじょうてき理解りかい行為こういしゃ欠如けつじょしていることのあらわれであるような行為こういである。ケア倫理りんりによる善悪ぜんあく定義ていぎをさしあたりこのように理解りかいしておいてつかえないだろう(ちゅう7)。
 さて以上いじょうのように定式ていしきされたケア倫理りんりにしたがえば、一見いっけんするかぎり、他人たにん行為こうい性格せいかく感情かんじょうにうったえて道徳的どうとくてき非難ひなんすることは、ときに正当せいとうされうる。以下いかにまずこのことをあきらかにしておこう。
 たとえばどもが、子猫こねこみみをひっぱってあそんでいる。子猫こねこくるしみに感情かんじょう移入いにゅうしたEが、「そんなことは(道徳どうとくてきに)してはならない」とどもを注意ちゅういする(ちゅう8)。このようにしてEどもの行為こうい道徳的どうとくてきとがめることの、正当せいとう可能かのうせいかんがえてみよう。かり第三者だいさんしゃまえどもにたいする自分じぶん言明げんめい説明せつめいしたり正当せいとうしたりする必要ひつようてきたとして、Eにはただ、「ねこくるしみがわたしにはかんじられるから、どもの行為こうい道徳どうとくてきゆるされない」とべることしかできない。この場合ばあいのEは、みずかくだした道徳どうとく判断はんだんを、理由りゆう議論ぎろんによるのではなく、ただ自分じぶん感情かんじょう移入いにゅう経験けいけんにうったえて正当せいとうしようとしている。これは妥当だとうなことだといえるだろうか。
 道徳どうとくてき善悪ぜんあくについてケア倫理りんり提出ていしゅつする定義ていぎただしいとすれば、これは妥当だとうなことだとかんがえることができるはずである。もういちどケア倫理りんり定義ていぎをくりかえせば、行為こうい道徳どうとくてき非難ひなんあたいするのは、他者たしゃくるしみに感情かんじょう移入いにゅうするちから行為こういしゃ欠如けつじょしていることがとう行為こういあらわされている場合ばあいである。しかし、みみをひっぱられるねこくるしみがかる(かんじとれる)にんなら、ねこをそんなふうにもてあそぶことはしないはずである。上記じょうきどもの行為こういは、この意味いみで、他者たしゃくるしみに感情かんじょう移入いにゅうするちから本人ほんにんけていることをあらわしている。したがって、ケア倫理りんりにしたがえば、どもの行為こうい道徳どうとくてき非難ひなんあたいする。そこで結局けっきょくのところ、E道徳どうとくてき非難ひなんした行為こういはもとより道徳どうとくてき非難ひなんあたいする行為こういだったといえる。別言べつげんすれば、Eどもをとがめたことはただしいことだったのである。
 もちろんEみずからの道徳どうとく判断はんだん擁護ようごして、ただ「ねこくるしみがわたしにはかんじられるから、どもの行為こうい道徳どうとくてきゆるされない」とべただけである。これではどもの行為こうい批判ひはんしたみずからの道徳どうとく判断はんだんただしいとかんがえるだけの理由りゆうをE自身じしん十分じゅうぶん説明せつめいできていないとおもわれるかもしれない。たとえば、ある道徳どうとく判断はんだんただしいことの理由りゆう説明せつめいしたといえるためには、まず道徳どうとくてき善悪ぜんあく一般いっぱんてき定義ていぎしたうえで、定義ていぎじょう判断はんだん対象たいしょうとなった個別こべつ行為こうい道徳どうとくてきあく(あるいはぜん)とみなしうることをいいたてる必要ひつようがあるといわれるかもしれない。そうであれば、Eべたことは十分じゅうぶん説明せつめいからだしているとはいえないかもしれない(この場合ばあい十分じゅうぶん説明せつめいができるためには、ケア倫理りんりによる道徳どうとくてき価値かちにかんする定義ていぎをEっていることが必要ひつようとなる)。
 しかし、かり説明せつめいとして十分じゅうぶんといえなくても、Eべたことは、自分じぶん道徳どうとく判断はんだん正当せいとうしたり弁護べんごしたりする仕方しかたとして、ある程度ていど妥当だとうせいゆうするはずである。だいいちに、どもの行為こうい道徳どうとくてき非難ひなんあたいするということと、自分じぶんがある感情かんじょう移入いにゅう経験けいけんをしたこととのあいだに因果いんがてきなかかわりがあることをEはいいあてている。また、とう因果いんが関係かんけい内容ないようについても、E理解りかいおおまかにではあってもただしい方向ほうこうでとらえている。そこで、ケア倫理りんりただしいとすれば、道徳どうとく判断はんだん正当せいとうするさいにEのような仕方しかた感情かんじょうにうったえることは妥当だとうなことだとみなすことができるはずである。
 さて以上いじょうは、道徳どうとく理論りろんとしてのケア倫理りんりただしいと仮定かていした場合ばあいにみちびかれる結論けつろんである。しかしでは、実際じっさいのところ、ケア倫理りんりただしいといえるだろうか。以下いか、ケア倫理りんり妥当だとうせい検討けんとうする。

 2 他人たにんづかう義務ぎむ

 道徳どうとく理論りろんとしてのケア倫理りんりかかえる弱点じゃくてんのひとつは、道徳どうとくてき義務ぎむ規範きはんせい説明せつめいすることがむずかしいということにある。道徳どうとくてきただしい行為こういは、人々ひとびとつねにそれをしたいとおもうようなものとはふつうかんがえられていない。むしろ、したいかどうかにかかわらずしなくてはならない義務ぎむとして理解りかいされているはずである。カントの用語ようごりれば、道徳どうとくてき義務ぎむ要請ようせいていげんいのち法的ほうてき(categorical)である(ちゅう9)。カントはていげんいのちほうかりげんいのちほうから区別くべつした。かりげんいのち法的ほうてき(hypothetical)な要請ようせいとは、「いえでステーキがべたければにくってこなければならない」といったタイプの要請ようせいである。ここでは、ひとなにかしなければならないとされるのは、このひとのうちに偶然ぐうぜんそなわっているなんらかの欲求よっきゅうたすためにそうすることが不可欠ふかけつであるからにすぎない。本人ほんにんとう欲求よっきゅうをそなえていなければ、もはやそれをしなければならないとはいえなくなってしまう。道徳どうとくてき義務ぎむ要請ようせいはこうしたタイプの要請ようせいから区別くべつされる。行為こういしゃなに欲求よっきゅうしているかにかかわらず、道徳どうとくてき義務ぎむたされなければならない。
 道徳どうとくてき義務ぎむには、すくなくとも一見いっけんするかぎり、いまべたような意味いみにおける規範きはんせいがそなわっている。道徳どうとく理論りろんは、善悪ぜんあく定義ていぎするにあたって、道徳どうとくてき義務ぎむがこうした特徴とくちょうゆうするということを否定ひていするようであってはならない。これは道徳どうとく理論りろん研究けんきゅうしゃ構築こうちくするさいたすべき条件じょうけんのひとつとかんがえてよいだろう(ちゅう10)。しかし、ケア倫理りんりにはこの条件じょうけんたすことがむずかしい(ちゅう11)。
 ケア倫理りんりによれば、道徳どうとくてきただしい行為こういとは、行為こういしゃ他人たにんにたいするづかい(care)のあらわれであるような行為こういである。他人たにんへのづかいから、相手あいてくるしみやかなしみをのぞこうとする行為こうい道徳どうとくてきただしいというのである。さてしかし、ひとおおくの場合ばあいこうしたづかいを自然しぜんおこなっている。たとえばおやづかったり、友人ゆうじん同士どうしづかいったりする。これは自然しぜんなことであり、こうした場面ばめんでは、相手あいてくるしんでいたりかなしんでいたりするのがかればたすけてやりたいとおもう。こうした欲求よっきゅうがおこるのがふつうである。そこで、このような親子おやこ友人ゆうじんのあいだのづかいにもとづく行為こうい道徳どうとくてきただしい行為こういなのだとすれば、道徳どうとくてき義務ぎむはそれをたすことをわたしたちが自然しぜん欲求よっきゅうするようなものでしかないということになってしまう。
 もちろん、づかいのじょうは、いつでもだれにたいしてもつね自然しぜんきおこるわけではない。たとえば相性あいしょうのよくないひとあか他人たにんにたいしては、自然しぜんづかいのじょういてはこないかもしれない。また、自分じぶんつかれていたり、他人たにんづかう行為こうい自分じぶん利益りえき衝突しょうとつするときも、相手あいてづかいたいというじょうおさえられがちである。さて問題もんだいは、他人たにんにたいするづかいのじょう自然しぜんとおこらない場合ばあい、それにもかかわらずわたしたちは他人たにんづかうべきだとかんがえることができるかどうかである。ケア倫理りんりによれば、道徳どうとくてき義務ぎむは、づかいのあらわれであるような行為こうい実践じっせんすることにある。したがって、行為こういしゃ他人たにんづかいたいと欲求よっきゅうしていないときに、それにもかかわらず他人たにんづかうべきであることがしめせなければ、道徳どうとくてき義務ぎむ要請ようせいていげんいのち法的ほうてきであることを肯定こうていできなくなってしまう。ケア倫理りんりにとっての問題もんだいは、この「づかいたいという欲求よっきゅうがおきないときにそれでも他人たにんづかうべきである」とかんがえる理由りゆうつけるのが容易よういではない、というてんにある。
 次節じせつだい3せつ)では、まずこの問題もんだいにたいするノディングス自身じしんによる解答かいとう概観がいかんし、それが不十分ふじゅうぶんであることをあきらかにする。さてしかし、ノディングスが提示ていじしたケア倫理りんり枠組わくぐみは、のちにさまざまな研究けんきゅうしゃによって修正しゅうせいくわえられてきた。本稿ほんこうだい4せつ以下いかでは、マイケル・スロートによる修正しゅうせいあん検討けんとうする。スロートによって修正しゅうせいされたケア倫理りんりが、ノディングスの失敗しっぱいをどのように克服こくふくしようとしたかをあきらかにするとともに、さらにその問題もんだいてん指摘してきする。

 3 づかいと規範きはんせい:ノディングスの解答かいとう

 自然しぜんづかいたくはならない他人たにんのことを、それでもえてづかうべきであるとかんがえることはできるか。できるとして、それはどのようにしてか。ノディングスにはひとつ解答かいとう用意よういがある。本節ほんぶしではこれを検討けんとうしよう。ノディングスによれば、自然しぜんづかってやりたくなるというのではないタイプの他人たにんのことをそれでもづかうべきなのは、わたしたちがだれしも「倫理りんりてき自己じこ(ethical self)」を理想りそうとしておもえがき、理想りそう実現じつげんしたいと欲求よっきゅうするからであるという(ちゅう12)。
 ノディングスのいう「倫理りんりてき自己じこ」とは、わたしたちがおもえが最善さいぜん自己じこぞうのことである。わたしたちには、これまでに他人たにんからづかわれ、他人たにんづかってきた経験けいけん記憶きおくがある。最善さいぜん自己じこぞうは、こうした過去かこ経験けいけん記憶きおくにもとづいて形成けいせいされる。ノディングスによれば、わたしたちには、他人たにんづかい人間にんげん関係かんけいきずくことにたいする本来ほんらいてき(innate)な欲求よっきゅうがあり(ちゅう13)、そうした人間にんげん関係かんけい不可避ふかひてき(inevitably)にいものとみなす傾向けいこうがある(ちゅう14)。そこで、他人たにんづかい人間にんげん関係かんけいなかにいる自己じこ姿すがた理想りそうとしておもえがかれるようになるというのである。「倫理りんりてき自己じこ」とはこの理想りそうてき自己じこイメージをす。さてでは、まえ他人たにんのことをづかいたいという欲求よっきゅう自然しぜんかないとき、それでもこのひとづかうべきであるとして、これはなぜか。ノディングスの解答かいとうはこうである。すなわちそれは、他人たにんのことをづかうことをめてしまえば、倫理りんりてき自己じこ達成たっせいすることもできなくなってしまうからにならない。
 しかしこの解答かいとうには問題もんだいがある。以下いか、この問題もんだいをあきらかにしよう。一見いっけんするかぎり、ノディングスの解答かいとう道徳どうとくてき価値かちにかんする相対そうたい主義しゅぎをみちびく。ノディングスは、わたしたちには、他人たにんたがいをづかい人間にんげん関係かんけいきずくことにたいする本来ほんらいてき欲求よっきゅうがあるという。ここではこうした欲求よっきゅうを(本来ほんらいてきという表現ひょうげん適当てきとうかどうかはあきらかでないにしても)ほとんどのひとがもっていることはみとめてよいだろう。しかし、理想りそうとしておもえがかれる人間にんげん関係かんけい具体ぐたいてきなイメージは、おもえがひとによってさまざまにことなるはずである。とくに、ここで関係かんけいきずくことが欲求よっきゅうされている「他人たにん」の範囲はんいは、大小だいしょうさまざまにことなりうる。すくなくとも、国籍こくせき人種じんしゅ文化ぶんかてき背景はいけいもさまざまにちがう世界中せかいじゅうすべてのひとたがいにづかいうことをわたしたちだれもが本来ほんらいてき欲求よっきゅうしているとか、そうした関係かんけいわたしたちのだれもが不可避ふかひてきいものとみなしているといった主張しゅちょうは、現実げんじつてきである(ちゅう15)。ところが、理想りそうてき関係かんけいむすぶべき他人たにん範囲はんいかおぶれがちがえば、関係かんけい要求ようきゅうするづかいの性質せいしつもまたちがってこざるをえないはずである。
 たとえば、これまでまったくえんがなくこれからもしたしい関係かんけいきず可能かのうせい見込みこめない他人たにんまえくるしんでいるとしよう。このひとたすけることはわたしにとって不可能ふかのうではないが、そのためにはおおきな負担ふたんけられない。そこでづかいのじょう自然しぜんにはいてこないとしよう。この場合ばあい、それでもあえて相手あいてづかい、たすけのべることは、理想りそうてき人間にんげん関係かんけい実現じつげんのために不可欠ふかけつだといえるだろうか。こたえは、ひとそれぞれにおもえが理想りそうてき人間にんげん関係かんけい内容ないようによってわってくるはずである。ノディングスのケア倫理りんりによれば、これが不可欠ふかけつである場合ばあいだけ、この他人たにんづかうことは道徳どうとくてきいことである。不可欠ふかけつでなければいことだとはいえない。道徳どうとくてき価値かちはこの意味いみで、各人かくじんおもえがく「倫理りんりてき自己じこ」のイメージに相対そうたいてきである。
 さてしかし、このような相対そうたい主義しゅぎは、道徳どうとくてき義務ぎむゆうする規範きはんせい相容あいいれない。なぜか。ノディングスのケア倫理りんりによれば、わたしにとってあなたをづかうことが義務ぎむであるといえるのは、わたし理想りそうとする人間にんげん関係かんけい実現じつげんにとってあなたをづかうことが不可欠ふかけつ場合ばあいである。さてしかし、わたしにとって、自分じぶん理想りそうとする人間にんげん関係かんけい実現じつげんすることは、当然とうぜんながら欲求よっきゅう対象たいしょうである。したがって、わたし合理ごうりてき人間にんげんでありさえあれば、あなたをづかうことも(理想りそう実現じつげんするための手段しゅだんとして)わたし欲求よっきゅうしているはずである。このことが意味いみするのはつぎのことである。すなわち、行為こういしゃにとって他人たにんへのづかいが義務ぎむとしてあらわれるのは、ひろ意味いみ行為こういしゃがそのひとづかいたいと欲求よっきゅうしている場合ばあいにかぎられてしまう。反対はんたいに、行為こういしゃが(このようなひろ意味いみで)他人たにんづかいたいと欲求よっきゅうしていない場合ばあい、それにもかかわらず行為こういしゃに「他人たにんづかうべきだ」と要求ようきゅうすることは、ノディングスの定式ていしきするケア倫理りんり枠組わくぐみなかでは正当せいとうできない。
 ここで最初さいしょいにもどろう。本稿ほんこう最初さいしょ提起ていきしたのは、「みずからの感情かんじょう移入いにゅう経験けいけんにうったえて道徳どうとく判断はんだん正当せいとうすることはできるか」であった。本稿ほんこうだい1せつでは、一見いっけんするかぎり、このいにたいしてケア倫理りんりからは肯定こうていてき解答かいとうられることをべた。しかし本節ほんぶしべたことは、ケア倫理りんりからられる解答かいとう妥当だとうせいうたがわしくするものである。
 子猫こねこみみをひっぱるどもをとがめてEは、「そんなことをしたらねこがかわいそうだからやめなさい」という。Eはこのとき、子猫こねこくるしみに感情かんじょう移入いにゅうした自分じぶん自身じしん経験けいけんにうったえて、みずからの道徳どうとく判断はんだん正当せいとうしようとしている。一見いっけんするかぎり、ケア倫理りんりただしければ、この正当せいとうこころみは妥当だとうとみなすことができる。子猫こねこくるしみに感情かんじょう移入いにゅうすることは、子猫こねこづかうことであり、子猫こねこをいじめることがづかいの欠如けつじょあらわれであるならば、いじめは道徳どうとくてきわる行為こういだとみなしうるからである。したがって、Eは、道徳どうとくてきわる行為こういわるいことを指摘してきしたにすぎない。E指摘してき妥当だとうである。さてしかし、以上いじょう推論すいろんはあくまでE視点してん物事ものごとをとらえた結果けっかである。とがめられたどもの立場たちばからかんがえたとき、「子猫こねこをいじめてはならない」という道徳どうとく判断はんだんは、やはりただしいものだといえるだろうか。どもには子猫こねこにたいする自然しぜんづかいのじょうがない。それにもかかわらずどもは子猫こねこづかうべきだとかんがえることは妥当だとうだろうか。本節ほんぶしべたことがただしければ、このいにたいするこたえは、どもが理想りそうとする他者たしゃ関係かんけい実現じつげんにとって子猫こねこづかうことが不可欠ふかけつであるかどうかに依存いぞんする。どもの理想りそうにとって子猫こねこへのづかいが不可欠ふかけつでない場合ばあい、「子猫こねこをいじめてはならない」という道徳どうとく判断はんだん正当せいとうできず、そのような義務ぎむどもにとって規範きはんせいゆうしない。
 ケア倫理りんりにはこの相対そうたい主義しゅぎ克服こくふくすることができるか。次節じせつではマイケル・スロートによる克服こくふくこころみを検討けんとうする。

 4 づかいと規範きはんせい:スロートの解答かいとう

 ノディングスによるケア倫理りんり定式ていしきには理論りろんてきよわいところがある。先年せんねんマイケル・スロート(Michael Slote)が発表はっぴょうした著書ちょしょ『ケアと感情かんじょう移入いにゅう倫理りんり(Ethics of Care and Empathy)』のおおきな目的もくてきのひとつは、こうしたよわさをおぎなうことにある。スロートによれば、従来じゅうらいのケア倫理りんり研究けんきゅうおも教育きょういく学者がくしゃ心理しんり学者がくしゃによってなされてきた。これらの研究けんきゅうしゃは、道徳どうとく理論りろんてるにあたって配慮はいりょしておくべき伝統でんとうてき哲学てつがくじょう問題もんだい十分じゅうぶん注意ちゅういはらっていない。そこでスロートのねらいは、ノディングスが提示ていじしたケア倫理りんり基本きほんてき枠組わくぐみ踏襲とうしゅうしつつ、これを哲学てつがくてき批判ひはんえるものとして洗練せんれんさせることにある(ちゅう16)。
 すでにてきたように、ノディングスは、道徳どうとくてき善悪ぜんあく感情かんじょう移入いにゅうという概念がいねんもちいて定義ていぎした。すなわち、道徳どうとくてきただしい行為こういとは、行為こういしゃ他人たにん感情かんじょう移入いにゅうしていること(行為こういしゃ他人たにんへのづかい)のあらわれであるような行為こういである。スロートはこの定義ていぎ基本きほんてき枠組わくぐみ踏襲とうしゅうしつつ、わずかに修正しゅうせいくわえている。修正しゅうせいくわえるにあたってスロートが参照さんしょうしたのは、感情かんじょう移入いにゅうにかんする近年きんねん実証じっしょう研究けんきゅう成果せいかである。
 心理しんり学者がくしゃのマーティン・ホフマン(Martin Hoffman)は、他者たしゃ感情かんじょう移入いにゅうするちからどものなか発達はったつ成熟せいじゅくしていく過程かていをあきらかにし、この過程かてい段階だんかいづけて提示ていじした(ちゅう17)。ホフマンの研究けんきゅう重要じゅうようである。他者たしゃ感情かんじょう移入いにゅうするひとちからには、より成熟せいじゅくした段階だんかいとそうでない段階だんかいとがあり、その実証じっしょうてきかつ客観きゃっかんてきしめしうるということをあきらかにしているからである。スロートが注目ちゅうもくしたのもこのてんである。スロートはノディングスによる道徳どうとくてき善悪ぜんあく定義ていぎに、ホフマンのいう「成熟せいじゅくした(fully developed)感情かんじょう移入いにゅうちから」の概念がいねん導入どうにゅうしたのである。そこでスロートによれば、行為こうい道徳どうとくてき不正ふせいであるのは、成熟せいじゅくした感情かんじょう移入いにゅうちから行為こういしゃのうちに欠如けつじょしていることをとう行為こういあらわしている場合ばあいであり、その場合ばあいかぎりである(ちゅう18)。
 本稿ほんこうだい3せつでは、ノディングスによるケア倫理りんり定式ていしきは、道徳どうとくてき義務ぎむゆうする規範きはんせいをうまく説明せつめいできないことをべた。わたしたちにはなぜ・どこまで他人たにんづかう義務ぎむがあるのか。ノディングスはこのいにたいして満足まんぞくのいくこたえをしめせなかった。おないにたいして、スロートによって修正しゅうせいされたケア倫理りんりは、より洗練せんれんされた解答かいとう提示ていじしうる。以下いか、スロートの議論ぎろんからみちびきうる解答かいとうをあきらかにし、検討けんとうすることにしよう。
 まず、ノディングスの解答かいとう難点なんてんをもういちど整理せいりしておこう。ケア倫理りんりにおいては、道徳どうとくてきぜんが、他人たにんにたいするづかいのあらわれと同一どういつであるとされる。そこで、他人たにんづかいたいという欲求よっきゅう行為こういしゃうち自然しぜんいてこない場合ばあい、それでもなお行為こういしゃ相手あいてを「づかうべき」であることをしめせなければ、道徳どうとくてき義務ぎむのもつ規範きはんせいがケア倫理りんり枠組わくぐみでは成立せいりつしない。道徳どうとく理論りろんとしてのケア倫理りんりむずかしさはここにあった。さてこの問題もんだいにたいするノディングス自身じしん解答かいとうは、つぎのようであった。すなわち、づかいたくなくても他人たにんづかうべきであるのは、行為こういしゃ本人ほんにん理想りそうとする人間にんげん関係かんけい実現じつげんするために、づかうことが不可欠ふかけつだからである。この解答かいとうにはふたつ難点なんてんがあった。だいいちに、ひとによって理想りそうとする人間にんげん関係かんけいのイメージがことなりうるため、関係かんけい実現じつげんするために必要ひつようとされるづかいの内容ないよう一定いっていしない。いいかえれば、縁遠えんどお他人たにんにたいしてどれだけづかうべきなのか、基準きじゅん客観きゃっかんてきしめすことができていなかった。
 まただいに、ノディングスの議論ぎろんにしたがえば、行為こういしゃ他人たにんづかうよう要請ようせいすることが有効ゆうこうなのは、本人ほんにんがその実現じつげん欲求よっきゅうしている人間にんげん関係かんけいきずくという目的もくてきのために他人たにんづかうことが不可欠ふかけつ場合ばあいだけである。そこで、結局けっきょくのところ、ひろ意味いみ本人ほんにん相手あいてづかいたいと欲求よっきゅうしていないかぎり、それ以上いじょうづかいを行為こういしゃ要請ようせいすることはできない。こうした問題もんだいがあった。
 さてスロートは、ケア倫理りんりによる道徳どうとくてき善悪ぜんあく定義ていぎ修正しゅうせいした。修正しゅうせいされた定義ていぎ一見いっけんするかぎり、ノディングスの解答かいとうかかえるふたつの難点なんてんとはどちらもえんがないようにみえる。
 だいいちに、わたしたちにはどこまで他人たにんづかう義務ぎむがあるのか。スロートによって修正しゅうせいされたケア倫理りんりは、このいにたいするこたえを経験けいけん科学かがく知見ちけんうちもとめることができる。スロートはホフマンの実証じっしょう研究けんきゅう成果せいかをふまえ、ケア倫理りんりに「成熟せいじゅくした感情かんじょう移入いにゅうちから」の概念がいねん導入どうにゅうした。スロートはこの概念がいねんにうったえてわたしたちの義務ぎむ範囲はんいつぎのようにさだめることができる。すなわち、感情かんじょう移入いにゅうちから完全かんぜん発達はったつさせた段階だんかいにいるひと他人たにんづかうのとおなじだけ、わたしたちにも他人たにんづかう義務ぎむがある。
 もちろん「完全かんぜん発達はったつした段階だんかい」という概念がいねん抽象ちゅうしょうてきである。ホフマンもそれがどのような状態じょうたいであるかを明確めいかくにしていない。そこで、現実げんじつ道徳どうとく問題もんだいまえにしてより具体ぐたいてきわたしたちにはどのようにふるまう義務ぎむがあるのかとわれれば、スロートの議論ぎろんかならずしも明確めいかくこたえをしめせないかもしれない。しかしまた、感情かんじょう移入いにゅうちから成熟せいじゅくする過程かてい客観きゃっかんてき段階だんかいづけてしめしうるというのであるかぎり、どこかの段階だんかいでそのちから完全かんぜん発達はったつげるとかんがえることや、その段階だんかいもまた段階だんかいから客観きゃっかんてき区別くべつしうるものと想定そうていすることは自然しぜんである。その意味いみで、スロートのケア倫理りんりは、わたしたちの義務ぎむ範囲はんいにかんする客観きゃっかんてき基準きじゅん存在そんざいしめすことに成功せいこうしている。
 さらにこのことはだい論点ろんてんにもかかわる。ノディングスのケア倫理りんりでは、道徳どうとくてき義務ぎむ範囲はんいは、行為こういしゃ偶然ぐうぜんそなわっている欲求よっきゅうのありようによって制限せいげんされた。行為こういしゃ本人ほんにん理想りそうとする人間にんげん関係かんけい実現じつげんするために必要ひつようである以上いじょうづかいは、義務ぎむとはいえなかったのである。これにたいしてスロートのケア倫理りんりでは、義務ぎむ範囲はんい行為こういしゃ欲求よっきゅうのありようとは無関係むかんけいさだめることができる。自分じぶんがどれだけ他人たにんづかいたいと欲求よっきゅうしているかにかかわりなく、わたしたちには、感情かんじょう移入いにゅうするちから完全かんぜん発達はったつさせた段階だんかいにいるひとがするのとおなじだけ他人たにんづかう義務ぎむがある。スロートのケア倫理りんりはこうして、道徳どうとくてき義務ぎむがもつ規範きはんせい肯定こうていすることにも成功せいこうしている。
 さてカントは、道徳どうとくてき義務ぎむ規範きはんせい合理ごうりせいむすびつけて理解りかいしていた。カントによれば、ていげんいのちほう要請ようせいにしたがうことは合理ごうりてきにふるまうことである。したがって、道徳どうとくてき義務ぎむにしたがわないひとは、非合理ひごうりてきだとして非難ひなんされるにあたいする。道徳どうとくてき義務ぎむゆうする規範きはんせいは、規範きはん沿わない行為こういにたいする非難ひなん正当せいとうするのである。ではケア倫理りんりはどうか。スロートは、ケア倫理りんりただしいとすれば、規範きはん沿わない行為こういはやはり非難ひなんあたいするが、その理由りゆうことなるという。すなわち、道徳どうとくてき義務ぎむにしたがわないひと非難ひなんあたいするのは、非合理ひごうりてきだからではなく、「しんない(heartless)」からだというのである(ちゅう19)。

 5 相対そうたい主義しゅぎ

 しかしスロートのケア倫理りんりからみちびかれる以上いじょう議論ぎろんには、問題もんだいがないだろうか。スロートのケア倫理りんりは、感情かんじょうにうったえて道徳どうとく判断はんだん正当せいとうするわたしたちの態度たいど妥当だとうであることを立証りっしょうするといえるだろうか。最後さいごに、スロートのケア倫理りんり問題もんだいてん指摘してきしておこう。
 だいいちに、実証じっしょう研究けんきゅう成果せいかと、道徳どうとくてき価値かちにかんする規範きはんてき主張しゅちょうとのかかわりについてひとことべておこう。ホフマンによって実証じっしょう研究けんきゅう成果せいかとして提示ていじされた「成熟せいじゅくした段階だんかい」を、スロートは道徳どうとくてき価値かちすぐれた状態じょうたいとして理解りかいしている。しかしここは注意ちゅうい必要ひつようである。ホフマンの研究けんきゅうしめしているのはあくまでも、生物せいぶつがくてきまた社会しゃかいてきプロセスとしてのひと成長せいちょう過程かていには「成熟せいじゅくした段階だんかい」とばれる状態じょうたいがあり、これは事実じじつとしてほか段階だんかいから客観きゃっかんてき区別くべつすることができるということにすぎない。「成熟せいじゅくした段階だんかい」に(段階だんかいよりも)道徳どうとくてきたか価値かちがあるという主張しゅちょうはあくまでスロートのものであり、これはそれ自体じたい規範きはんてき主張しゅちょうである。ホフマンの実証じっしょう研究けんきゅうはこの規範きはんてき主張しゅちょう妥当だとうせい立証りっしょうするものではない。
 もちろん、だからといってただちにスロートの議論ぎろんあやまりであるとはいえない。もとよりスロートは道徳どうとくてき議論ぎろんをしているのであり、スロートの主張しゅちょうは、その妥当だとうせい科学かがくてき実証じっしょうされることを期待きたいするべきるい主張しゅちょうではない。問題もんだいはあくまでも、「成熟せいじゅくした段階だんかい」にはたか価値かちがあるという主張しゅちょうが、道徳どうとくてきにいってただしいかどうかである。
 さて、「成熟せいじゅく」の概念がいねんにはもともと規範きはんてきひびきがある。これは否定ひていできない。わたしたちは一般いっぱんに、ひとおさないふるまいをとがめ、大人おとならしくふるまうことを推奨すいしょうする。づかいにかんしても同様どうようである。他人たにんかなしみにまったく関心かんしんしめさないひとと、いつもつとめて相手あいて立場たちばにたって物事ものごとかんじようとするひととでは、後者こうしゃのほうが道徳どうとくてきすぐれているとかんがえてもあやまりとはいえないだろう。成熟せいじゅく道徳どうとくてきぜん同一どういつするスロートの主張しゅちょうは、この意味いみで、わたしたちの道徳どうとくてき直観ちょっかんにうったえる。
 スロートの議論ぎろん問題もんだいはそのさきにある。じつ問題もんだい一部いちぶ本稿ほんこうでもすでにべてきたことのかえしである。すなわち、スロートのケア倫理りんりもまた、相対そうたい主義しゅぎ回避かいひできていないのである。以下いかにこのことをあきらかにする。
 スロートは、ひと感情かんじょう移入いにゅうするちからが「完全かんぜん発達はったつ(fully developed)」をげるという。しかし、わたしちから完全かんぜん発達はったつした状態じょうたいが、ひとちから完全かんぜん発達はったつした状態じょうたいと、つねおなじであるという保証ほしょうはどこにもない。むしろ、ふつうにかんがえればまったくおなじである可能かのうせいはほとんどないといってよいだろう。類推るいすいのためにここではまず「跳躍ちょうやくりょく」についてかんがえてみよう。わたし跳躍ちょうやくりょくはおそらく陸上りくじょう仲間なかま切磋琢磨せっさたくましていた高校こうこうさん年生ねんせいのころ完全かんぜん発達はったつげた。しかしこれは跳躍ちょうやく種目しゅもくのオリンピック選手せんしゅ最盛さいせい跳躍ちょうやくりょくとくらべてまったくおよばない。同様どうようのことがひと感情かんじょう移入いにゅうするちからについてもいえるはずである。わたしちからは、かり完全かんぜん発達はったつげることがあるとして、かならずしもひとちからどう程度ていど発達はったつをみせるとはかぎらない。
 このてんについてはスロートにも自覚じかくがあるようである。このことはスロートが「完全かんぜん発達はったつ」という言葉ことばにつけてもちいる冠詞かんしれにはしてきあらわれている。たとえば著書ちょしょちゅう、「他人たにん感情かんじょう移入いにゅうし、共感きょうかんてき関心かんしんしめすという人間にんげんてき能力のうりょく完全かんぜん発達はったつ(full development of the human capacity for empathy and empathic concern for others)」という表現ひょうげんではじまる文章ぶんしょうがある(ちゅう20)。文頭ぶんとうには、定冠詞ていかんしのTheとカッコでくくった定冠詞ていかんしのaとが併記へいきされている。スロートにも、「完全かんぜん発達はったつした状態じょうたい」がひとによってことなる可能かのうせい否定ひていすることはできないのである。
 完全かんぜん発達はったつげた状態じょうたい道徳どうとくてきぜんであるとする一方いっぽう完全かんぜん発達はったつした状態じょうたいひとによってさまざまであるという。このようにして、スロートのケア倫理りんりは、道徳どうとくてき価値かちにかんする相対そうたい主義しゅぎをみちびく(ちゅう21)。
 このことはなに意味いみするのか。もういちどさきいにもどってかんがえよう。わたしたちにはどれだけ他人たにんづかう義務ぎむがあるのか。スロートのケア倫理りんりしめした解答かいとうにしたがえば、わたしたちには、感情かんじょう移入いにゅうするちから成熟せいじゅくさせた段階だんかいひと動機どうきづけられるのとおな程度ていど他人たにんづかう義務ぎむがある。しかし本節ほんぶしであきらかにしたとおり、成熟せいじゅくしても他人たにんづかう度合どあいはひとによってさまざまにことなりうる。だとすれば、成熟せいじゅくしたひとのうち、どのひと基準きじゅんにすればよいのか。当然とうぜんこのようないがてくる。
 スロートのケア倫理りんりはこのいに適当てきとうこたえをすことができない。だいいちに、成熟せいじゅくしてさえいればだれを基準きじゅんにしてもかまわない、というこたえはあきらかに不十分ふじゅうぶんである。このことは、すこ極端きょくたんれいかんがえてみればただちに了解りょうかいされるはずである。たとえば、まれてからこれまでまったく道徳どうとく教育きょういくける機会きかいがなかったために、他人たにん感情かんじょう移入いにゅうするちから極端きょくたんとぼしいひとちゅう22)。たとえこれから訓練くんれんけてもこのひと感情かんじょう移入いにゅうするちからおおきくびることは見込みこめない。こうしたひと基準きじゅん道徳どうとくてき善悪ぜんあく定義ていぎすることはあきらかに適当てきとうである。そもそも、ちからがこれほど極端きょくたんひくひとまでふくめてだれを基準きじゅんにしてもかまわないとしてしまえば、基準きじゅんはばひろくなりすぎる。これでは「どれだけ他人たにんづかう義務ぎむがあるのか」というはじめのいにこたえたことにはならない。
 そこでだいに、成熟せいじゅくした人々ひとびとのうち、特定とくてい個人こじん集団しゅうだんをかぎり、これを基準きじゅんとして指定していするとすればどうか。しかし、そうした指定してい専断せんだんてきあるいは場当ばあたりてきであることをまぬかれえないようにおもわれる。スロート自身じしんべつ文脈ぶんみゃくで、ひとつ具体ぐたいてき基準きじゅん示唆しさしている。スロートがここで考察こうさつしているのは、自己じこ犠牲ぎせい行為こうい妥当だとうせいである。たとえば、自分じぶん生活せいかつかえりみず外国がいこくまずしい人々ひとびと財産ざいさん大半たいはん寄付きふするといった行為こうい妥当だとうせいである。わたしたちにこのような自己じこ犠牲ぎせいはら道徳どうとくてき義務ぎむはあるだろうか。このいにたいするスロートのこたえはつぎのとおりである。すなわち、こうした自己じこ犠牲ぎせい道徳どうとくてきすぐれた行為こういであることはうたがいえない。しかし、寄付きふをせずにいることが「標準ひょうじゅんてき人間にんげん成熟せいじゅくした感情かんじょう移入いにゅうちから(fully developed normal human empathy)」の欠如けつじょしめすものとはいえず、したがって道徳どうとくてき問題もんだいがあるとはみなせない(ちゅう23)(ちゅう:「標準ひょうじゅんてき」に傍点ぼうてん)(強調きょうちょう筆者ひっしゃ)。このようにべるスロートはここで道徳どうとくてきぜん基準きじゅんを「標準ひょうじゅんてき(normal)」な人間にんげんいているとみなしてよいだろう。ここで「標準ひょうじゅんてき」ということは、スロートによれば統計とうけいてき概念がいねんとして理解りかいされるべきだという(ちゅう24)。さてしかし、こうした基準きじゅん設定せってい仕方しかたは、専断せんだんてきかつ場当ばあたりてきだといわざるをえない。なぜ統計とうけいうえ標準ひょうじゅんてき人間にんげん道徳どうとく基準きじゅんであるべきなのか。たとえば、よく「大衆たいしゅう倫理りんりかんひくさ」がなげかれる。こうしたなげきがただしいとすれば、本当ほんとう基準きじゅん統計とうけいてき標準ひょうじゅんよりもすこたか位置いちになければならないのではないか。また、基準きじゅんをこのように設定せっていしてしまうと、基準きじゅん時代じだい場所ばしょによって変化へんかするようにおもわれるが、それはかまわないのか。スロート自身じしん、こうしたいにはこたえていないのである。

 結論けつろん

 そんなゾッとするようなことはするな。かわいそうだからめておけ。みんなのいかりをうようなまねはよせ。ふだんからわたしたちはさまざまな感情かんじょうにうったえてみずからの道徳どうとく判断はんだん正当せいとうする。しかし、こうした態度たいど妥当だとうとみなすことができるだろうか。
 本稿ほんこうでは、さまざまなタイプの感情かんじょう経験けいけんのうち、とくに感情かんじょう移入いにゅう注目ちゅうもくした。わたしたちはときに、他人たにんいたみに感情かんじょう移入いにゅうしたみずからの経験けいけんにうったえて、だれかの行為こうい道徳的どうとくてき非難ひなんしたり、非難ひなんしたことを正当せいとうしようとする。しかしわたしたちのこうした態度たいど妥当だとうといえるだろうか。このいにこたえることをこころみたのである。
 ネル・ノディングスが提唱ていしょうしたケアの倫理りんりは、いまべたようなわたしたちの態度たいど支持しじする道徳どうとく理論りろんのひとつとして理解りかいしうる。そこで本稿ほんこうではケア倫理りんり妥当だとうせい検証けんしょうすることをとおして、上記じょうきいを検討けんとうした。結果けっか、ケア倫理りんりはいくつかのてん妥当だとうとはいえないことがあきらかになった。とくに、ケア倫理りんりによる道徳どうとくてき善悪ぜんあく定義ていぎは、くわしく検討けんとうすると、道徳どうとくてき価値かちにかんする相対そうたい主義しゅぎをみちびくことがかった。マイケル・スロートによるケア倫理りんり修正しゅうせいあんも、相対そうたい主義しゅぎ完全かんぜんには克服こくふくしきれていない。感情かんじょう移入いにゅう経験けいけんにうったえて道徳的どうとくてき非難ひなん正当せいとうするわたしたちの態度たいど妥当だとうせいは、すくなくともケア倫理りんりによっては立証りっしょうされない。


◆註と文献ぶんけん
(1)本稿ほんこうは、2009年度ねんど科学かがく研究けんきゅう補助ほじょきん若手わかて研究けんきゅう(スタートアップ)、課題かだい番号ばんごう21820006、研究けんきゅう題名だいめい道徳どうとく判断はんだん正当せいとうにおいて感情かんじょうたす役割やくわりかんする研究けんきゅう」)による成果せいかのひとつである。
(2)Leon Kass, “‘Making Babies’ Revisited,” in G.E. Pence ed., Classic Works in Medical Ethics, McGraw Hill, 1998; “Wisdom of Repugnance,” in G. McGee ed., The Human Cloning Debate, Berkeley Hills, 1998. Kassは、ヒトはい研究けんきゅうやヒトクローン作製さくせいが、それについて想像そうぞうするひと嫌悪けんおかん(repugnance)をもよおさせることを根拠こんきょとして、これらの研究けんきゅうにたいする道徳どうとくてき非難ひなん正当せいとうこころみた。Kassの議論ぎろん検討けんとうしたこころみとしては、拙著せっちょHitoshi Arima, “Disgust and Moral Censure,” Journal of Philosophy and Ethics in Health Care and Medicine, 日本にっぽん医学いがく哲学てつがく倫理りんり学会がっかい, 2009, no.4(in press)を参照さんしょうされたい。
(3)ヒューム(David Hume, A Treatise of Human Nature, D. Norton and M. Norton eds., Oxford University Press, 2000. Book III)やアダム・スミス(Adam Smith, The Theory of Moral Sentiments, Liberty Fund, 1982)らいわゆるmoral sentimentalismにぞくする哲学てつがくしゃも、empathyとほぼ同義どうぎ概念がいねんであるsympathyを重視じゅうしした。本稿ほんこう後半こうはん検討けんとうするMichael Slote(Ethics of Care and Empathy, Routledge, 2007)によれば、ケア倫理りんりもまたmoral sentimentalismのながれを道徳どうとく理論りろんであるという。しかし本稿ほんこうではヒュームやスミスの議論ぎろん直接ちょくせつあつかわない。いずれべつ検討けんとうしたい。
(4)Nel Noddings, Caring: A Feminine Approach to Ethics and Moral Education, Second Edition, University of California Press, 1984.
(5)Ibid. p.30.
(6)Ibid.
(7)ノディングスによる道徳どうとくてき善悪ぜんあく定義ていぎにかんする本文ほんぶん解釈かいしゃくはSlote, Op. cit. pp.10-12を参考さんこうとした。
(8)本文ほんぶんれいはNoddings, Op. cit. p.90. からったものである。
(9)カント『人倫じんりん形而上学けいじじょうがく基礎きそけ』だい2しょう(『カント:世界せかい名著めいちょ32』中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ、1972ねん
(10)Christine Korsgaard, The Sources of Normativity, Cambridge University Press, 1996. Lecture 1.
(11)このことは、とくにケア倫理りんりかぎらず、道徳どうとく感情かんじょう基礎きそづけるすべての道徳どうとく理論りろんてはまるものとかんがえられていることがおおい。Cf. Jesse Prinz, The Emotional Construction of Morals, Oxford Uni-versity Press, 2007. p.128.
(12)Noddings, Op. cit. pp.49-51&79-95.
(13)Ibid. p.83.
(14)Ibid. p.49.
(15)また、もともとそうした抽象ちゅうしょうてき博愛はくあい精神せいしんは、ケア倫理りんり中核ちゅうかくにある主張しゅちょういがよくない。ノディングスをふくめ、ケア倫理りんり支持しじする研究けんきゅうしゃおおくは、身近みぢかしたしいひとにたいする義務ぎむと、縁遠えんどお他人たにんにたいする義務ぎむとがあるとすれば、前者ぜんしゃのほうが後者こうしゃよりもつよいことをみとめる(Noddings, Op. cit. p.86; このてんでより明確めいかく主張しゅちょうはSlote, Op. cit. Chapter 2)。ケア倫理りんり身近みぢかしたしいひとにたいする「依怙贔屓えこひいき」を正当せいとうすることに注目ちゅうもくして、このてんから道徳どうとく理論りろんとしてのケア倫理りんり批判ひはんてき検討けんとうした文献ぶんけんに、安部あべあきら「ケア倫理りんり批判ひはん序説じょせつ」『生存せいぞんがくVol.1』生活せいかつ書院しょいん 2009 279-292ぺーじ
(16)Slote, Op. cit. pp.3-4.
(17)Martin Hoffman, Empathy and Moral Development: Implications for Caring and Justice, Cambridge University Press, 2000. Part I&II.
(18)Slote, Op. cit. p.31
(19)Ibid. p.106.
(20)Ibid. p.116.
(21)こうしたタイプの相対そうたい主義しゅぎは、一見いっけんして、「道徳どうとく判断はんだんただしいことがありうる」というかんがかた(いわゆる意味いみろんてき道徳どうとく実在じつざいろん)そのものとさえ矛盾むじゅんするようにえる。しかし、実際じっさいのところ、このてんについて研究けんきゅうしゃ意見いけん一致いっちしていない。矛盾むじゅんするとする見方みかたはたとえばLaura Schroeter and Francois Schroeter, “Is Gibbard a Realist?,” Journal of Ethics and Social Philosophy, Vol.1, no.2 (2005) 1-18. 矛盾むじゅんしないとする見方みかたはPrinz, Op. cit. pp.164-7.
(22)Prinz, Op. cit. が思考しこう実験じっけんにもちいたマリーのれい参照さんしょうせよ(p.38)
(23)Slote, Op. cit. p.34.
(24)Ibid.



UP:20100305 REV:
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